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03-21.おかえり
四月から始まった役所勤めは、想像していたより覚えることが多かった。
住民票や戸籍関係の証明書、印鑑登録、税金、福祉、町内会から持ち込まれる相談。小さな役所だからこそ担当同士の境目は緩く、窓口で話を聞いた人間がそのまま奥へ確認に走り、別の部署へ繋ぎ、時には先輩方について現地まで出向くこともある。
初めのうちは、聞いたことのない制度や書類の名前が一日に何度も出てきた。分からないことはメモを取り、その日のうちに調べ、それでも判断できなければ先輩に聞く。知ったふりをして間違えるよりは、分からないと認める方がまだましだった。
仕事中はなるべく丁寧に話した。
相手が何度同じことを聞いてきても、噛み砕いて都度説明する。耳の遠いじいさんばあさんには少し声を大きくし、書類へ何を書けばいいのか分からない人には、記入欄を指しながら一つずつ説明する。
初対面の住民にまで普段の口調で話すほど、俺は常識がない男じゃない。ナツと違って。
そう、あまりにも自由すぎるナツと違って。……今頃何してんだろ、あいつ。
「黒瀬くん、若いのに落ち着いてるねえ」
働き始めて二週間ほど経った頃、先輩の岩美さんにそう言われた。
その日は午前中から窓口が混み、昼休憩へ入れたのは一時をかなり過ぎてからだった。
弁当の蓋を開けながら、少し考える。
「そうですか?」
「もっと緊張するかと思ってた。住民の人にもちゃんと説明できてるし」
「内心は結構焦ってますよ」
「見えないねえ」
「そう見えたなら良かったです。あまり取り繕うの得意じゃないんで」
「そこはそうだね。愛想はないもんねえ。でも君面倒見が良いでしょう。ほら、井上さん。印鑑登録の時に若いお兄ちゃんが優しく話を聞いてくれたってにこにこしてたよ。君真面目だし、僕としては助かってるよ」
別に褒められるほどのことじゃない。分からないなりに、失敗しないよう必死なだけだ。
仕事なのだからできる限りきちんとやりたいし、出来れば来る人にも不便ないように案内したい。
……ついでにもう少し愛嬌もありゃよかった。愛想良くってどうやるんだよ。
仕事内容よりそっちの方がよっぽど難題だ。
少しずつ出来ることが増える度に、また新しく知らない業務が下りてくる。
家へ帰る頃には毎日それなりに疲れていた。
役所から家までは歩いて三十分ほどで、ほぼ毎日徒歩で通っている。
自転車ならもっと早いけど、朝から急いでいる日や荷物の多い日以外はほとんど使わなかった。
理由は単純に、運動になるし、意外と歩くのも楽しかったから。
道は緩いけど坂も多くて、役所を離れるにつれて家や店が減っていく。
田畑の間を抜け、山の裾へ沿うように歩けば、やがて古い平屋の屋根が見えてくる。
そういった景色も、意外と悪くないもんだ。
距離も大したことはないし、道だって混んでいない。東京にいた頃の通学と比べれば、電車に押し込まれないだけずっと楽だ。……それだけ。
山際の道を選べば、鳥居へ続く脇道が遠くに見える。風が吹くたび木々の匂いも濃くなる。
だからといって、何かを期待してそちらを歩いているわけではなかった。ない。
単に、景観を楽しんでるだけ。大人になって田舎の景色に目覚めただけ。
家の前まで来ると、縁側に白い面が見えた。
ナツは柱へ背を預け、片膝を立てて座っている。
こちらへ面を向けているくせに、俺が門を入っても声を掛けようとはしなかった。
「ただいま」
何となく言ってから、足を止める。
ナツは少し間を置いて、白い面を傾けた。
「それ、俺に言ってんの?」
「他に誰がいるんだよ」
「知らねえ。家に言ってんのかと思った」
「家が返事するわけねえだろ」
「俺だって返事してねえけど」
「うるせえな、挨拶だから良いんだよ」
靴を脱いで縁側から上がると、背後から床板の鳴る音がついてきた。
ナツも当然のように俺の後ろを歩いている。
「おかえり」
「……遅えよ」
「返事いらねえんじゃなかったの」
「いらないとは言ってねえだろ」
「面倒くせえな、お前」
誰のせいで面倒なことになっていると思っているのか。言い返そうとして、疲れていたのでやめた。
リビングを抜けて台所へ入ると、流しの横に空のコップが置かれていた。
朝にはなかったものだ。
「麦茶飲んだ?」
「飲んだけど、なに」
「昨日は味噌汁いらねえって言ってただろ。今日は飲めんの?」
「昨日はいらなかっただけだろ。昨日と今日は違う」
「……腹減ってなかったってこと?」
「腹はねえ」
「どういうことだよ」
「ねえもんはねえよ。昨日もないし今もねえ。でも明日はあるかもしれない」
「どういう仕組みだよ」
冷蔵庫を開けながら尋ねても、ナツはもう答えなかった。
俺の隣から庫内を覗き込み、冷気を浴びるように白い面を近づけている。
「おい、ちけえんだよ。邪魔」
「何作んの」
「親子丼」
「俺も食う」
「……腹ねえとか言ってなかったか」
「今できた」
「随分便利な身体だなオイ」
「だろ」
得意げに答えることではない。
鶏肉と玉葱を取り出し、冷蔵庫を閉める。米は朝のうちに炊飯器へ予約を入れてある。
二人分なら少し足りないかもしれないと思ってから、そもそも朝の時点ではナツが食べるかどうか分からなかったことを思い出した。
少し前まで、米は一度に二合も炊かなかった。
食器棚には同じ大きさの茶碗が二つある。箸も二膳。コップも、いつの間にか似たようなものが増えていた。
どれも予備だ。
一つ割れた時に困るし、二個組の方が安かった。ナツのために揃えたわけではない。
たまたま余っているものを、こいつが勝手に使っているだけだ。
「これ、俺のだよな?」
ナツが食器棚から茶碗を取り出した。
薄い青色で、俺が使っているものより一回り小さい。
「ちげえよ。ただの予備」
「俺しか使ってねえだろ」
「……割った時のための予備なんだよ。お前の器がねえから代わりに今出してるだけ」
「なおさら俺のじゃねえか」
「お前のじゃねえって言ってんだろ。家のものですー」
「俺もこの家に住んでる」
「勝手に居着いてる奴が偉そうに言うな」
「でも追い出さねえのはお前だろ」
玉葱を切っていた包丁が、まな板の上で一瞬止まった。
お前が目の届く範囲にいてくれてるのに、俺が追い出せるはずがねえだろ。
反射的にそう返しかけて、でも言えなかった。
口にするのは、何となく嫌だ。
「追い出しても勝手に入ってくるじゃねえか。労力の無駄」
「ふうん」
ナツの語尾が跳ねる。何故か機嫌が良さそうだ。
「なんだよ」
「言い訳しねえと、自分を保てねえの?」
「はあ?」
「お前も大変だな」
「はあ!? おいどういう意味だそれ。勝手に納得すんなっていつも言ってんだろ!」
ナツは俺の文句を無視して、青い茶碗を食卓へ置いた。
そんなやり取りが、少しずつ日常になっていった。
朝起きると、ナツが縁側にいる。リビングの絨毯へ寝転がっている。
六畳の空き部屋で、ナツに買ってやったわけではないビーズクッションに身体を沈めている。
仕事から帰っても、いる。
俺が夕飯を作る横で邪魔をし、テレビを見ている途中でどうでもいい質問をしてきて、風呂から上がれば廊下に鮫のぬいぐるみが落ちている。
「ナツ、これ片づけろ」
鮫の尾を掴んで持ち上げると、リビングの床へ寝転んでいたナツが面だけをこちらへ向けた。
「俺じゃねえよ、因縁つけてくんな」
「お前以外に誰が動かすんだよ」
「鮫が泳いだんだろ」
「……廊下を?」
「海だと思ったんじゃねえの。仕方ねえな、故郷が恋しかったんだから」
こいつ……。
鮫を空き部屋へ戻し、ついでに床へ散らばっていた小説とパズルの箱も片づけた。空き部屋には少しずつナツの使うものが増えているのに、本人はほとんどそこに籠もらない。
結局リビングか縁側にいて、俺がどこかへ移動すればいつの間にか近くへ来ている。
それを不自然だと思わなくなるまで、そう時間はかからなかった。
六月に入った頃から、ナツが帰り道へ現れることが増えた。
決まった場所で待っているわけではない。山際の曲がり道を抜けたところで石垣へ座っていたり、田んぼの脇を歩いていると後ろから声を掛けてきたりする。
「遅えよ」
「仕事なんだから仕方ねえだろ」
「もう暗くなるぞ」
「まだ明るいだろ」
「腹減った」
「今日は腹あんの?」
「ある日だな」
「都合良すぎんだろ」
並んで歩いていても、通りすがる人はナツをあまり気にしなかった。
たまに近所の人とすれ違い、「親戚の子?」と聞かれることはある。俺が曖昧に笑ってごまかすと、相手もそれ以上は追及しない。
翌日には、その人がナツを見たこと自体忘れているようだった。
不気味だと思うべきなのかもしれない。
それでも俺にとっては、ずっと昔から変わらないことだった。ナツは誰の記憶にも残らない。
山にいた頃も、俺以外にあいつを探す人間はいなかった。
俺が覚えていれば、それでいい。
そんな風に曖昧に考えていたのが悪かったのか。
ナツの姿が突然消えた。梅雨が明ける少し前だった。
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