22 / 41
03-22.きずあと
朝、いつものように起きてリビングへ行ったのに姿がない。
空き部屋を覗くと、ビーズクッションの上には鮫だけが転がっていた。
いつもならナツと一緒にあちこちへ移動する鮫も、今日は部屋へ打ち上げられたままだった。
窓の向こうの縁側にも、ナツはいない。
始めは、外へ出ているのだと思った。
ナツは俺が仕事へ行っている間も、ずっと家で待っているわけではない。
山へ戻ることもあれば、どこで何をしているのか分からない日もある。
夕方になれば、勝手に帰ってくる。
そう思って家を出たのに、その日の夜ナツは帰ってこなかった。
夕飯は一人分だけ。
食器棚から茶碗を取る時、青い方へ伸びかけた手を引っ込める。
米だけはいつもの癖で二人分炊いてしまったので、残りは冷凍した。
恐ろしい程、静かだった。
一人暮らしなのだからこれが本来の状態だ。テレビを消せば時計の音が聞こえ、廊下を歩けば自分の足音だけがついてくる。
風呂から上がっても鮫は同じ場所にあり、片づけろと怒る相手もいない。
別に、何もおかしくない。
ナツが消えてから二日目、仕事から戻ると玄関で一度耳を澄ませた。
何の音もしない。
靴を脱いでリビングへ行く。空き部屋にも、縁側にも姿はなかった。
「……まだ帰ってねえのかよ」
誰に聞かせる言葉でもなかった。勝手に口をついただけ。
ナツは山へ行くと言っていたわけでもない。そもそもナツが出掛けるたび、俺へ断る義務なんてない。
俺たちは家族でもなければ、正式な同居人でもない。契約書にも住民票にも、ここで暮らす人間は俺一人しか書かれていない。
ナツがどこへ行こうと、ナツの勝手だ。
三日目から、帰宅すると家の中を一通り見るようになった。
玄関を開け、リビング、空き部屋、縁側、それから奥の俺の部屋。
いないと分かっていても、自分の部屋の扉まで開けた。押し入れの中も確認しかけ、さすがに馬鹿らしくなってやめる。
別に探しているわけではない。
あいつは人の部屋へ勝手に入るし、変な場所で寝転んでいることもある。念のため見ているだけだった。
五日目の帰り道、いつもの道を外れた。
山際へ続く細い道へ入り、古い鳥居が見えるところまで歩く。仕事用の革靴で山道へ入るつもりはなかった。ただ、近くを通っただけだ。
鳥居の向こうは暗く、木々の隙間から湿った風が流れてくる。足を止めても、白い面はどこにも見えない。
「……何してんだ、俺」
自分に呆れながら踵を返す。
家へ帰れば、今頃ナツが縁側に座っているかもしれない。
俺の顔を見るなり、「遅え」と文句を言うかもしれない。どこに行っていたのか聞けば、「その辺」としか答えないだろう。
どうせ何食わぬ顔で戻っていると思ったのに、家には誰もいなかった。
一週間を過ぎる頃には、眠りが浅くなっていた。
夜中に床板が鳴るたび目を覚ます。風で枝が窓へ当たっただけだと分かっても、しばらく耳を澄ませていた。
ナツなら、帰ってきても玄関を使わない。
縁側から入ってくるかもしれない。気づけば枕元に座って、こちらを見ているかもしれない。
朝になれば、何でもない顔で鮫を抱えているかもしれない。
そう思ったのに、朝を迎えてもナツはいなかった。
大学時代の山が、頭の中へ戻ってくる。
夏になるたび歩いた小道。呼んでも返事のなかった川。
水も石も木々も昔のまま残っているのに、ナツだけがいなかった。
まただ。
また、俺だけ置いていかれた。
そう考えかけるたび、違うと言い聞かせた。
あの時とは違う。
ナツは俺のせいで理が変わったと、意味の分からない説明をしていた。
ここへ戻ってくるとも、俺がいるなら自分もいるとも言った。
たった一週間姿が見えないだけだ。
あいつにとっては、その程度なのかもしれない。
九日目、職場で書類の日付を一日間違えた。
提出前に気づいて直したため、誰かへ迷惑をかけたわけではない。それでも、普段ならしない間違いだった。
「黒瀬くん、疲れてる?」
隣の席から声を掛けられ、訂正印を押しながら顔を上げる。
「少し寝不足かもしれません」
「慣れない仕事で疲れが出る頃だよね。無理しないでね」
「ありがとうございます」
笑って答えた。
仕事はできる。
窓口へ人が来れば対応し、電話が鳴れば取る。分からないことは確認し、頼まれた仕事は処理する。
ナツがいないくらいで、何もできなくなるほど子供ではない。
ただ、ふとした瞬間に考えてしまう。
今どこにいる。
帰るつもりはあるのか。
俺の前からいなくなることと、家を少し空けることを、ナツは本当に別のものだと思っているのか。
俺にはその違いが分からない。
休日、朝から山へ入った。
家を出る時には、散歩へ行くだけのつもりだった。天気も悪くないし、運動不足を解消するにはちょうどいい。
鳥居を抜けても、昔のようにナツの名前は呼ばない。
湿った石段を上り、石灯籠の前を通り、穴の開いた大木の横を抜ける。
子供の頃から何度も歩いた道は、大人になった今でも身体が覚えていた。
川まで行って、誰もいなければ帰る。
ただそれだけ。
……多分ナツはいない。
案の定、川辺にたどり着いた時には水は同じように流れ、飛び石の表面だけが日に照らされて白く光っている。俺が命を賭けてあいつを引きずり出した場所には、何の痕跡も残っていなかった。
「……ナツ」
呼ばないつもりだったのに、声が出た。
川辺の景色は、何一つ動かなかった。
「おい、いるなら返事しろよ」
水音に紛れ、何も聞こえない。
胸の真ん中に、昔と同じ空洞が開いていく。もう二度と味わわなくていいと思っていたものが、少しずつ形を取り戻していく。
「また何回呼ぶか見てんのか」
声が少し掠れた。
「……なあって」
俺の声だけが、その場に溶けていく。
馬鹿みたいだった。
結局、日が傾くまで山を歩いた。
昔遊んだ場所は一通り探した。見つけたところで何を言うつもりなのか、自分でも分からなかった。
怒る。
多分、怒る。
どこへ行っていたのか聞いて、勝手にいなくなるなと文句を言う。
でも、勝手にいなくなるなと言えるほど、俺たちの関係には名前がない。
本当は、俺にあいつを怒る権利なんてない。
だって俺たちは、ただの友達だ。夏の間だけだった関係が延長されただけの、それだけの、ともだち。
家族でも、何でもない。
……ましてや恋人でも夫婦でもない。
ナツが帰ってきたのは、姿を消してから二週間目の夜だった。
その日は役所で急な対応が入り、家へ着いた頃には辺りが暗くなっていた。
門を開けると、縁側の雨戸が少し開いている。
朝は閉めたはずだった。
心臓が跳ねた。走った後みたいに、鼓動が一気に速くなる。
「……ッ」
急いで玄関を開け、靴を脱ぎ散らすようにして廊下へ上がる。
リビングの灯りは消えている。暗がりへ目を凝らすと、窓から差し込む薄い光の中に、白い面が浮かんでいた。
ナツはビーズクッションへ身体を沈め、鮫のぬいぐるみを腹の上へ載せている。
ずっとそこにいたような、憎たらしい雰囲気だった。
「おかえり」
先に言われる。
その声を聞いた瞬間、安心より先に腹が立った。
「どこ行ってたんだよ」
ナツが白い面を傾ける。
「その辺」
「その辺ってどこだよ」
「山」
「二週間も、山にか?」
「そんなに経ってたか?」
「ッ経ったよ!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
ナツが黙る。
悪いことをしたと思っている様子はない。ただ、俺がなぜ怒っているのか測るようにじっとこちらを見ていた。
その態度が余計に腹立たしい。
「何で何も言わねえんだよ。出掛けるなら出掛けるって言えよ」
「なんで」
「なんでって……帰ってこねえからだろ!」
「帰ってきたじゃねえか」
「何の連絡もなしに二週間もほっつき歩いてか?」
「ずっと近くにいた」
「俺から見えなきゃ、いないのと同じなんだよ……ッ!」
言ってから、部屋が静かになった。
ナツの面が、少しだけこちらへ向き直る。
自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。喉の奥が熱い。怒っているだけだ。泣きそうなわけじゃない。
二十歳を過ぎた男が、たった二週間会えなかっただけで何を言っているんだ。
恥ずかしい。みっともない。情けない。
こんなの嫌だ。腹立つ。ムカつく。……苦しい。嬉しい。会えて嬉しい。でも苦しい。
嬉しいのに、ナツがまたいつ居なくなるか分からなくて、苦しい。
ぐちゃぐちゃで訳が分からない。
それなのに、口が止まらない。
「俺には分からねえんだよ。お前がその辺にいるとか、近くにいるとか。見えなきゃ分かんねえし、返事がなきゃ……また、いなくなったって思うだろ。毎日居ろって言ってるわけじゃない。お前を縛るつもりはねえよ。ただ、……ただ今回みたいに長く居なくなるなら、知らせて欲しいだけなんだよ」
最後の方は、声が少し小さくなった。震えそうになるのだけは、何とか堪える。
ナツはしばらく何も言わなかった。
やがて腹の上に載せていた鮫を床へ落とし、ビーズクッションから立ち上がる。まっすぐこちらへ歩いてきて、目の前で止まった。
「俺がいなくて寂しかった?」
「……違う」
「ふうん」
ナツの声が、少しだけ楽しそうに揺れた。
こいつは俺がどれだけ腹を立てているのか分かっていない。
人が十日以上どんな気持ちで待っていたと思ってんだ。
「嘘が下手くそだなお前。そんなんで社会人とやらはやってけてんの」
「うるせえ」
睨みつけても、ナツは気にした様子もなく両腕を伸ばした。
「くっついてやろうか」
「いらねえ。……おい、いらねえって」
避けようとしたのに、ナツはそのまま身体を寄せてきた。
白い面が胸元へ触れる。腕が背中へ回り、逃がさないほど強くはない力で、ゆるく抱きつかれた。
ナツの身体は冷たかった。
山の水や、木陰の石へ触れた時と同じ冷たさが、仕事帰りで火照った身体へじわりと移ってくる。
追い払おうと思えば追い払えるのに、腕が動かない。
自分のものじゃないみたいに、硬直している。
「……離れろよ」
腕の力が少し緩む。
反射的に、ナツの上着を掴んだ。
自分で掴んでから気づいた。
すぐに手を離そうとしたが、その前にナツの喉の奥から笑う気配が伝わってくる。
「ほんと下手くそ」
「……うるせえ」
「見えなくてもいなくなってねえよ」
「そんなの分からねえだろ」
「なんで分からねえんだよ。説明してやってんだろ」
「お前のは説明になってねえから」
見下ろした先の肩が揺れ、くっついたままの俺まで、つられて少し揺れた。
ナツの吐息が楽しそうに跳ねる。
謝りもしなければ、次から気をつけるとも言わない。俺がなぜ不安になったのか、完全に理解したわけでもないのだろう。
それでも、俺の背中へ回った腕はしばらく離れなかった。
その夜から数日間、ナツはやけに近くにいた。
俺が台所へ立てば横から手元を覗き込み、テレビを見ていれば同じビーズクッションへ無理やり身体を押し込んでくる。
帰宅すれば縁側ではなく玄関の近くにいて、俺が部屋を移動するたび用もないのについてきた。
「邪魔」
「仕方ねえからそばにいてやってんだよ」
「頼んでねえ」
「また嘘ついてる」
「……今度いなくなったら、鮫捨てる」
「あ?」
「出掛ける時は出掛けるって言え。さもなきゃ鮫は海に返す」
「……考えとく」
考えるだけかよ。
文句を言いながらも、少しだけ肩の力が抜けた。
ナツはまた、いつか何も言わず姿を消すのだろう。
俺が家で待っていることも、どれだけ日数を数えているかも知らないまま、本人はずっと近くにいるつもりでいる。
多分、何度聞いても、説明されても、完全には分かり合えない。
ナツにとって、見えないことと居なくなることは別のものだ。
俺にとっては、今でもほとんど同じなのに。
その違いを抱えたまま、それでも翌朝になれば台所には茶碗が二つ並ぶ。
青い方はナツのものではない。
ただの予備だ。……ただの予備だった。
思い出になるのが怖くて、ナツのものには出来ない。
ともだちにシェアしよう!

