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03-22.きずあと

朝、いつものように起きてリビングへ行ったのに姿がない。 空き部屋を覗くと、ビーズクッションの上には鮫だけが転がっていた。 いつもならナツと一緒にあちこちへ移動する鮫も、今日は部屋へ打ち上げられたままだった。 窓の向こうの縁側にも、ナツはいない。 始めは、外へ出ているのだと思った。 ナツは俺が仕事へ行っている間も、ずっと家で待っているわけではない。 山へ戻ることもあれば、どこで何をしているのか分からない日もある。 夕方になれば、勝手に帰ってくる。 そう思って家を出たのに、その日の夜ナツは帰ってこなかった。 夕飯は一人分だけ。 食器棚から茶碗を取る時、青い方へ伸びかけた手を引っ込める。 米だけはいつもの癖で二人分炊いてしまったので、残りは冷凍した。 恐ろしい程、静かだった。 一人暮らしなのだからこれが本来の状態だ。テレビを消せば時計の音が聞こえ、廊下を歩けば自分の足音だけがついてくる。 風呂から上がっても鮫は同じ場所にあり、片づけろと怒る相手もいない。 別に、何もおかしくない。 ナツが消えてから二日目、仕事から戻ると玄関で一度耳を澄ませた。 何の音もしない。 靴を脱いでリビングへ行く。空き部屋にも、縁側にも姿はなかった。 「……まだ帰ってねえのかよ」 誰に聞かせる言葉でもなかった。勝手に口をついただけ。 ナツは山へ行くと言っていたわけでもない。そもそもナツが出掛けるたび、俺へ断る義務なんてない。 俺たちは家族でもなければ、正式な同居人でもない。契約書にも住民票にも、ここで暮らす人間は俺一人しか書かれていない。 ナツがどこへ行こうと、ナツの勝手だ。 三日目から、帰宅すると家の中を一通り見るようになった。 玄関を開け、リビング、空き部屋、縁側、それから奥の俺の部屋。 いないと分かっていても、自分の部屋の扉まで開けた。押し入れの中も確認しかけ、さすがに馬鹿らしくなってやめる。 別に探しているわけではない。 あいつは人の部屋へ勝手に入るし、変な場所で寝転んでいることもある。念のため見ているだけだった。 五日目の帰り道、いつもの道を外れた。 山際へ続く細い道へ入り、古い鳥居が見えるところまで歩く。仕事用の革靴で山道へ入るつもりはなかった。ただ、近くを通っただけだ。 鳥居の向こうは暗く、木々の隙間から湿った風が流れてくる。足を止めても、白い面はどこにも見えない。 「……何してんだ、俺」 自分に呆れながら踵を返す。 家へ帰れば、今頃ナツが縁側に座っているかもしれない。 俺の顔を見るなり、「遅え」と文句を言うかもしれない。どこに行っていたのか聞けば、「その辺」としか答えないだろう。 どうせ何食わぬ顔で戻っていると思ったのに、家には誰もいなかった。 一週間を過ぎる頃には、眠りが浅くなっていた。 夜中に床板が鳴るたび目を覚ます。風で枝が窓へ当たっただけだと分かっても、しばらく耳を澄ませていた。 ナツなら、帰ってきても玄関を使わない。 縁側から入ってくるかもしれない。気づけば枕元に座って、こちらを見ているかもしれない。 朝になれば、何でもない顔で鮫を抱えているかもしれない。 そう思ったのに、朝を迎えてもナツはいなかった。 大学時代の山が、頭の中へ戻ってくる。 夏になるたび歩いた小道。呼んでも返事のなかった川。 水も石も木々も昔のまま残っているのに、ナツだけがいなかった。 まただ。 また、俺だけ置いていかれた。 そう考えかけるたび、違うと言い聞かせた。 あの時とは違う。 ナツは俺のせいで理が変わったと、意味の分からない説明をしていた。 ここへ戻ってくるとも、俺がいるなら自分もいるとも言った。 たった一週間姿が見えないだけだ。 あいつにとっては、その程度なのかもしれない。 九日目、職場で書類の日付を一日間違えた。 提出前に気づいて直したため、誰かへ迷惑をかけたわけではない。それでも、普段ならしない間違いだった。 「黒瀬くん、疲れてる?」 隣の席から声を掛けられ、訂正印を押しながら顔を上げる。 「少し寝不足かもしれません」 「慣れない仕事で疲れが出る頃だよね。無理しないでね」 「ありがとうございます」 笑って答えた。 仕事はできる。 窓口へ人が来れば対応し、電話が鳴れば取る。分からないことは確認し、頼まれた仕事は処理する。 ナツがいないくらいで、何もできなくなるほど子供ではない。 ただ、ふとした瞬間に考えてしまう。 今どこにいる。 帰るつもりはあるのか。 俺の前からいなくなることと、家を少し空けることを、ナツは本当に別のものだと思っているのか。 俺にはその違いが分からない。 休日、朝から山へ入った。 家を出る時には、散歩へ行くだけのつもりだった。天気も悪くないし、運動不足を解消するにはちょうどいい。 鳥居を抜けても、昔のようにナツの名前は呼ばない。 湿った石段を上り、石灯籠の前を通り、穴の開いた大木の横を抜ける。 子供の頃から何度も歩いた道は、大人になった今でも身体が覚えていた。 川まで行って、誰もいなければ帰る。 ただそれだけ。 ……多分ナツはいない。 案の定、川辺にたどり着いた時には水は同じように流れ、飛び石の表面だけが日に照らされて白く光っている。俺が命を賭けてあいつを引きずり出した場所には、何の痕跡も残っていなかった。 「……ナツ」 呼ばないつもりだったのに、声が出た。 川辺の景色は、何一つ動かなかった。 「おい、いるなら返事しろよ」 水音に紛れ、何も聞こえない。 胸の真ん中に、昔と同じ空洞が開いていく。もう二度と味わわなくていいと思っていたものが、少しずつ形を取り戻していく。 「また何回呼ぶか見てんのか」 声が少し掠れた。 「……なあって」 俺の声だけが、その場に溶けていく。 馬鹿みたいだった。 結局、日が傾くまで山を歩いた。 昔遊んだ場所は一通り探した。見つけたところで何を言うつもりなのか、自分でも分からなかった。 怒る。 多分、怒る。 どこへ行っていたのか聞いて、勝手にいなくなるなと文句を言う。 でも、勝手にいなくなるなと言えるほど、俺たちの関係には名前がない。 本当は、俺にあいつを怒る権利なんてない。 だって俺たちは、ただの友達だ。夏の間だけだった関係が延長されただけの、それだけの、ともだち。 家族でも、何でもない。 ……ましてや恋人でも夫婦でもない。 ナツが帰ってきたのは、姿を消してから二週間目の夜だった。 その日は役所で急な対応が入り、家へ着いた頃には辺りが暗くなっていた。 門を開けると、縁側の雨戸が少し開いている。 朝は閉めたはずだった。 心臓が跳ねた。走った後みたいに、鼓動が一気に速くなる。 「……ッ」 急いで玄関を開け、靴を脱ぎ散らすようにして廊下へ上がる。 リビングの灯りは消えている。暗がりへ目を凝らすと、窓から差し込む薄い光の中に、白い面が浮かんでいた。 ナツはビーズクッションへ身体を沈め、鮫のぬいぐるみを腹の上へ載せている。 ずっとそこにいたような、憎たらしい雰囲気だった。 「おかえり」 先に言われる。 その声を聞いた瞬間、安心より先に腹が立った。 「どこ行ってたんだよ」 ナツが白い面を傾ける。 「その辺」 「その辺ってどこだよ」 「山」 「二週間も、山にか?」 「そんなに経ってたか?」 「ッ経ったよ!」 自分でも驚くくらい大きな声が出た。 ナツが黙る。 悪いことをしたと思っている様子はない。ただ、俺がなぜ怒っているのか測るようにじっとこちらを見ていた。 その態度が余計に腹立たしい。 「何で何も言わねえんだよ。出掛けるなら出掛けるって言えよ」 「なんで」 「なんでって……帰ってこねえからだろ!」 「帰ってきたじゃねえか」 「何の連絡もなしに二週間もほっつき歩いてか?」 「ずっと近くにいた」 「俺から見えなきゃ、いないのと同じなんだよ……ッ!」 言ってから、部屋が静かになった。 ナツの面が、少しだけこちらへ向き直る。 自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。喉の奥が熱い。怒っているだけだ。泣きそうなわけじゃない。 二十歳を過ぎた男が、たった二週間会えなかっただけで何を言っているんだ。 恥ずかしい。みっともない。情けない。 こんなの嫌だ。腹立つ。ムカつく。……苦しい。嬉しい。会えて嬉しい。でも苦しい。 嬉しいのに、ナツがまたいつ居なくなるか分からなくて、苦しい。 ぐちゃぐちゃで訳が分からない。 それなのに、口が止まらない。 「俺には分からねえんだよ。お前がその辺にいるとか、近くにいるとか。見えなきゃ分かんねえし、返事がなきゃ……また、いなくなったって思うだろ。毎日居ろって言ってるわけじゃない。お前を縛るつもりはねえよ。ただ、……ただ今回みたいに長く居なくなるなら、知らせて欲しいだけなんだよ」 最後の方は、声が少し小さくなった。震えそうになるのだけは、何とか堪える。 ナツはしばらく何も言わなかった。 やがて腹の上に載せていた鮫を床へ落とし、ビーズクッションから立ち上がる。まっすぐこちらへ歩いてきて、目の前で止まった。 「俺がいなくて寂しかった?」 「……違う」 「ふうん」 ナツの声が、少しだけ楽しそうに揺れた。 こいつは俺がどれだけ腹を立てているのか分かっていない。 人が十日以上どんな気持ちで待っていたと思ってんだ。 「嘘が下手くそだなお前。そんなんで社会人とやらはやってけてんの」 「うるせえ」 睨みつけても、ナツは気にした様子もなく両腕を伸ばした。 「くっついてやろうか」 「いらねえ。……おい、いらねえって」 避けようとしたのに、ナツはそのまま身体を寄せてきた。 白い面が胸元へ触れる。腕が背中へ回り、逃がさないほど強くはない力で、ゆるく抱きつかれた。 ナツの身体は冷たかった。 山の水や、木陰の石へ触れた時と同じ冷たさが、仕事帰りで火照った身体へじわりと移ってくる。 追い払おうと思えば追い払えるのに、腕が動かない。 自分のものじゃないみたいに、硬直している。 「……離れろよ」 腕の力が少し緩む。 反射的に、ナツの上着を掴んだ。 自分で掴んでから気づいた。 すぐに手を離そうとしたが、その前にナツの喉の奥から笑う気配が伝わってくる。 「ほんと下手くそ」 「……うるせえ」 「見えなくてもいなくなってねえよ」 「そんなの分からねえだろ」 「なんで分からねえんだよ。説明してやってんだろ」 「お前のは説明になってねえから」 見下ろした先の肩が揺れ、くっついたままの俺まで、つられて少し揺れた。 ナツの吐息が楽しそうに跳ねる。 謝りもしなければ、次から気をつけるとも言わない。俺がなぜ不安になったのか、完全に理解したわけでもないのだろう。 それでも、俺の背中へ回った腕はしばらく離れなかった。 その夜から数日間、ナツはやけに近くにいた。 俺が台所へ立てば横から手元を覗き込み、テレビを見ていれば同じビーズクッションへ無理やり身体を押し込んでくる。 帰宅すれば縁側ではなく玄関の近くにいて、俺が部屋を移動するたび用もないのについてきた。 「邪魔」 「仕方ねえからそばにいてやってんだよ」 「頼んでねえ」 「また嘘ついてる」 「……今度いなくなったら、鮫捨てる」 「あ?」 「出掛ける時は出掛けるって言え。さもなきゃ鮫は海に返す」 「……考えとく」 考えるだけかよ。 文句を言いながらも、少しだけ肩の力が抜けた。 ナツはまた、いつか何も言わず姿を消すのだろう。 俺が家で待っていることも、どれだけ日数を数えているかも知らないまま、本人はずっと近くにいるつもりでいる。 多分、何度聞いても、説明されても、完全には分かり合えない。 ナツにとって、見えないことと居なくなることは別のものだ。 俺にとっては、今でもほとんど同じなのに。 その違いを抱えたまま、それでも翌朝になれば台所には茶碗が二つ並ぶ。 青い方はナツのものではない。 ただの予備だ。……ただの予備だった。 思い出になるのが怖くて、ナツのものには出来ない。

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