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03-23.いるよ

夏が過ぎると、ナツの輪郭は少しずつ淡くなった。 最初に気づいたのは、十月に入ってからだ。 仕事から帰ると、ナツはいつものようにリビングのビーズクッションへ沈み、鮫のぬいぐるみを抱えていた。窓の外はすでに暗く、室内には夕方の冷えた空気が残っている。 「電気くらいつけろよ」 壁のスイッチを押す。 明るくなった部屋の中で、そこにいるはずの身体だけが、光を通しているように見えた。 服の端は薄暗がりへ溶け、指先も少し透けている。白い面だけは相変わらずはっきりしていて、片頬の朝顔も変わらなかった。 目を擦ってから、もう一度見る。 やっぱり少し薄い。 「……お前、薄くねえ?」 ナツは鮫の背中へ顎を載せたまま白い面を向けた。 「誰の影が薄いって?」 「そういう意味じゃねえよ。なんか、全体的にぼやけてる」 「気のせいだろ」 「いや、絶対薄い。透けてねえかそれ。なんか、濃度が薄いっつーか……」 「酒じゃねえんだよ俺は」 ナツはそれ以上相手にせず、鮫を抱え直して白い面を伏せた。 眠っているのか、ただ話すのが面倒になったのかは分からない。 近付いてみれば、ちゃんと身体はある。 肩にも腕にも触れられるし、呼べば返事もする。それでも夏の頃より輪郭は淡く、床へ落ちる影も頼りなく見えた。 その時は夕方の薄暗さがそう見せているだけだと思うことにしたけど、十一月になる頃には誤魔化せなくなった。 眠っている時間が増える。朝、俺が家を出る時にも起きてこない。 帰宅しても同じ場所で毛布に包まり、鮫と一緒にビーズクッションへ埋もれている。 食事もほとんど取らなくなった。 「今日は食わねえの」 鍋から味噌汁をよそいながら聞くと、ナツは毛布の中から面だけを出した。 「いらねえ」 「腹は」 「ない」 「またかよ。最近ずっとねえじゃん。……食わなくて大丈夫なのかよ」 「平気。そういう時期なだけ」 「なんだよそれ。お前の説明いつも意味がわからねえんだよ」 「はあ? 時期は時期だろ。これ以上何が知りてえの」 そう言われると、腹が立つのに言い返しにくい。 昔は、ナツが何者なのか分からなくても構わなかった。 山に行けばいて、呼べば振り向いて、夏が来ればまた会えた。 今は同じ家で暮らしている。 食べる日と食べない日があり、濃い季節と薄い季節がある。 昨日まで触れられたものが、明日も同じようにそこにいるとは限らない。 知らなくていいと思うには、あまりにも生活の中へ入り込みすぎている。 十二月に入り、朝晩の冷え込みが強くなった。 古い平屋は隙間風が多く、暖房をつけても廊下や台所まではなかなか暖まらない。 朝起きるたび、吐く息がわずかに白くなる。 ナツはさらに薄くなった。 夏にははっきり見えていた黒い髪も、生成り色の上着も、今は淡い霧を重ねたように頼りない。 白い面だけが、周囲より少し鮮明に浮かんで見える。 初めてその姿を朝の薄暗い部屋で見た時、胸の奥が縮んだ。 「ナツ」 少し強めに呼ぶと、毛布の中で白い面が動いた。 「なに」 返事を聞いて、息を吐く。 「……いや。起きてんのかと思って」 「今起こされた」 「悪かったな」 それだけ言って台所へ向かった。 次の日も、その次の日も、目を覚ますと最初にリビングを覗いた。 ビーズクッション。毛布。鮫の腹の下。 空き部屋、その窓の向こうの縁側。 ナツがいる場所は毎日違ったが、姿を見つけるまで何だか落ち着かなくて朝の支度へ取りかかれなかった。 確認したいわけではない。 単に、暖房をつける場所を決めるためだ。 こいつがどこで寝ているか分からないと、うっかり冷えた部屋へ放置することになる。 別に気にしてるわけじゃない。 ある朝、リビングにも空き部屋にもナツがいなかった。 縁側の雨戸は閉まっている。玄関の鍵も昨日のまま。 胸が一瞬で冷え、寝起きの頭が急に冴える。 「ナツ?」 返事はない。 台所、風呂場、自分の部屋。家の中を一通り見ても、白い面はどこにもなかった。 また何も言わずに出ていったのか。 冬になって輪郭まで薄くなっているくせに、今度はどこへ行った。 そんな状態で外に出て危なくねえのか。 ……山に溶けたり、しないよな。 苛立ちと不安が同時に込み上げたところで、空き部屋の押し入れの奥から小さく声がした。 「うるせえ」 襖を開ける。 積んでいた布団の隙間に、ナツが横向きで挟まっていた。毛布へ包まり、鮫の尾だけを外へ出している。 「……何してんだよ」 「寒ぃ」 「だからって押し入れに入るなよ」 「ここ暖けえ」 「見つかんねえだろうが」 声が少し強くなった。 ナツはしばらく黙ったあと、布団の間から白い面をこちらへ向ける。 「ふうん」 また例の、語尾が上がる言い方。 声が少し笑っていた。 「……なんだよ」 「俺が見つからなくて、家中探し回った?」 「………っ」 腹が立ったので、押し入れから毛布ごと引きずり出す。ナツは抵抗せず、床へ落ちた鮫だけを拾い上げた。 「押し入れで寝るなら、せめて一言言え」 「お前寝てただろ」 「寝てても起こせ」 「なんだそれ」 「……起こせよ。聞くから」 ナツは納得していないようだったが、その日から押し入れで寝る時は少しだけ襖を開けるようになった。 冬のナツは静かだった。 起きている時間が短くなり、以前のように俺の後ろをついて回ることも減った。夕飯を作っていても邪魔をせず、テレビをつけても途中で毛布へ潜り込む。 家の中は夏よりずっと静かだ。 時々毛布の中から寝返りを打つ音がする。鮫が床へ落ちれば鈍い音が響き、名前を呼べば少し遅れて返事がくる。 いる。 身体が少し透けていても、眠っていても、ちゃんとここにいる。 それでも朝になるたび、俺はナツの姿を探した。 消えるなよ。 喉までせり上がってきて、それでもその言葉だけは言えない。 言葉にしてしまえば、自分がどれほど怖がっているのか認めることになる。 ナツが本当に消える可能性を、口にした瞬間だけ現実へ近づけてしまう気もした。 だから何も言わず、毎朝部屋を覗き、毛布の膨らみを見て、白い面が動くのを確認する。 ナツは多分、全部知っていた。 ある朝、空き部屋のビーズクッションへ沈んだまま、俺が部屋を覗くより先に声がした。 「いるよ」 足が止まった。 「……何が」 「知らねえ」 「寝ぼけてんの?」 「お前こそ」 ナツはそれ以上何も言わず、鮫へ顔を埋めた。 白い面が見えなくなり、薄い背中だけが毛布の中へ沈んでいく。 それでも声は聞こえた。 『いるよ』 その一言だけで、朝の冷たい空気が少しだけ緩んだ気がした。

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