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03-24.知らない関係
社会人二年目の夏、去年より少しだけ仕事を任されるようになった。
窓口業務にも慣れ、住民の顔と名前も頭の中で少しずつ一致している。
うちの役所は人が少ない。普段は窓口にいる職員でも、地域行事の時期になれば設営や連絡に駆り出される。去年は上司の後ろをついて回っていた地域の仕事も、今年は一人で連絡を取ったり、必要なものを確認したりすることが増えていた。
夏祭りの準備もその一つ。
役所の裏口には、朝から折り畳み机やパイプ椅子、看板、延長コードが積み上げられていた。
古い倉庫から出したものばかりで、どれも薄く埃を被っている。
「黒瀬くん、それ終わったらテントの数も見てもらっていい?」
「分かりました。去年一つ脚曲がってましたよね。あれ直ってます?」
「えー、どうだったかなあ……?」
「先に確認しときます。直ってなかったら当日使えませんし、代わりになるものがないか自治会と他部署にも声掛けてみます。なければ発注かけたいですけど……予算いけますかね」
「どうかねえ。後で確認しよう」
「はい」
去年の記憶を頼りに倉庫の奥へ入り、畳まれたテントを一つずつ引っ張り出す。
問題の一本は修理されていたが、代わりに別の支柱が錆びて動かなくなっていた。
結局、使えるものと使えないものを分け、足りない分は自治会へ連絡することになった。
それでも駄目そうなら、他部署にも声を掛ける予定だ。出来ればあまり予算を使いたくない。
こうして関わるようになるまでは、祭りの準備なんて提灯を飾って机を並べれば済むものだと思っていた。
実際には、会場の配置確認、備品の貸し出し、電源の確保、ゴミ箱の設置、交通整理の担当決めまで、細かい作業がいくらでも出てくる。
祭り当日に人が何となく歩き、何となく屋台を見て、何となく花火を眺められるのは、その前に誰かが面倒な確認を済ませているからだった。
子供の頃は、そんなことを考えたこともない。
屋台へ行けば綿あめがあり、水ヨーヨーが浮いていて、時間になれば勝手に花火が上がると思っていた。
それを山へ持っていって、何も知らないナツへ偉そうに教えていたのだから、我ながら随分気楽だった。
少しだけ、自分も大人になったんだと実感する。
午後からは会場となる神社前の広場へ移動した。日差しは強く、立っているだけで首筋へ汗が浮く。
自治会の人たちと一緒に机を運び、倉庫から出した看板を道路沿いへ立てる。
「黒瀬くん、そっちもう少し右だよ」
「この辺ですか?」
「もうちょい。そうそう、そこ」
看板の脚を固定してから手を離す。
少し離れて傾いていないか確認していると、後ろから声を掛けられた。
「透ちゃん、こっちの机もお願いしていい?」
振り返ると、近所のばあさんが手招きしていた。
役所では黒瀬くんと呼ばれることが多いが、昔の俺を知っているじいさんばあさんからはいまだに透ちゃんと呼ばれる。
二十歳を過ぎた男を捕まえてどうなんだと思うが、訂正したところで聞くような人たちでもない。
「川上のばあちゃん。それ一人で持とうとするなよ。腰痛めるぞ」
「まだそんな歳じゃないわよ」
「去年も同じこと言って、そのあと湿布貼ってたじゃねえか」
「よく覚えてるわねえ」
「役所に相談しに来たろ」
ばあちゃんの手から机を受け取り、指定された場所まで運ぶ。
戻ると、今度は冷えた麦茶の入った紙コップを渡された。
「はい。働き者のお兄さんに」
「どうも」
「去年よりずいぶん慣れたねえ。最初はもっと怖い顔してたのに」
「顔は変わってねえよ」
「愛想の話よ」
「それは……努力してます」
答えると、近くにいた自治会の人たちが笑った。
笑われるほどのことを言ったつもりはない。こっちは一応、本気で改善しようとしている。
不貞腐れるような気持ちで少し離れた木陰へ目を向けると、白い面が見えた。
ナツが太い木の根元へ座り、こちらを見ている。
いつからいたのかは分からない。夏になってから輪郭はすっかり濃くなり、遠目でも白い面と生成り色の服がはっきり見えた。
俺と目が合うと、片手をひらひら振ってくる。
何をしに来たんだ、あいつ。
家で待っていればいいのに、最近は俺が外で仕事をしていると時々こうして近くまで来る。
近所の人間がナツへ気づく様子はない。
視界には入っているはずなのに、わざわざ意識を向けるほどの存在として認識されていない。
木陰に誰かがいる。
その程度にしか思われていないのかもしれなかった。
「黒瀬くん、今見てたの誰?」
隣から急に聞かれ、紙コップを持つ手が止まる。
「……誰って?」
「木の方。知り合いでもいた?」
もう一度目を向けた時には、ナツの姿は消えていた。
「いえ。何でもないです」
「そう?」
「暑くてぼんやりしてて」
「熱中症にでもなったら大変よお。ほら水分取って」
「はい」
適当にごまかし、麦茶を飲む。
よく冷えていて、乾いた喉に気持ちよかった。
休憩を挟んだあと、提灯を吊るす位置を確認していると自治会の人が脚立の下から声を掛けてきた。
「黒瀬くん、こういう仕事も随分慣れたねえ」
「去年もやりましたから」
「役所の仕事も真面目だって評判だし、頼もしくなったもんだ」
「まだ教わってばかりですよ」
「謙遜しなくていいって。若いのにしっかりしてるし、年寄りの話もちゃんと聞いてくれるし」
脚立から下りると、今度は隣で提灯の紐をほどいていた女の人が笑った。
確か、名前は坂田さんだ。
「それで、黒瀬くんはいい人いないの?」
「何の話ですか、急に」
「だって仕事も慣れてきたでしょう。そろそろそういう話があってもいいじゃない」
「仕事に慣れるのと結婚に何の関係があるんですか」
「安定したってことよ。役所勤めなら安心だし」
確かに公務員は安定しているように見える。その理屈は分かるけど、居心地が悪い。
周囲の人間は面白そうにこちらを見ている。
逃げようにも、途中まで解いた提灯の紐を放り出すわけにはいかない。
「いませんよ、そういう人は」
「じゃあ、うちの親戚の子どう?」
「またそれですか」
「またって何よ。今初めて話したじゃないの」
「似たようなことをよく言われるんで」
「それだけ人気があるってことでしょう」
「世話を焼きたいだけじゃないですか」
「それもあるわねえ」
否定しないのか。
坂田さんは笑いながら団扇を動かし、隣の岩美さんまで面白そうに話へ加わってきた。
「会うだけ会ってみたら? 黒瀬くん、休日も家にいるんでしょう」
「なんで俺の休日知ってるんですか」
「この辺、誰がどこで何してるか大体分かるから」
「怖いこと言わないでくださいよ」
「冗談冗談。で、どうなの」
「どうって言われても、今は考えてないです」
「いい子よ。落ち着いてるし、この辺で仕事もしてるし、黒瀬くんと年も近いし」
「もう具体的じゃないですか」
「写真見る?」
「見ませんよ」
紐の端を渡すと、坂田さんは「照れてるの?」と楽しそうに笑った。
照れているわけではない。
こういう話は、去年から何度かされたことがある。町の若い独身男というだけで、親戚や知り合いを紹介したがる人間は一定数いるらしい。いつも通りの世話焼きだ。
本気で困らせようとしているわけではなく、からかい半分、親切半分なのだろう。
強く拒むほどのことではないと思い、適当に受け流す。
「準備してください。まだ看板も残ってるでしょう」
「あ、仕事の話に逃げた」
「逃げてません」
「も~、黒瀬くん今度ちゃんと話しましょうね」
「話しませんって」
作業が一段落する頃には、空が少し赤くなっていた。
使わなかった道具を役所へ戻し、最後に会場を一周してから帰る。
提灯はまだ灯っていないが、吊るされた赤と白の列だけで、普段の広場とは少し違って見えた。
木陰を見ても、もうナツはいなかった。
先に家へ帰ったのか、また山へ入ったのかもしれない。
帰り道を歩きながら、さっきの会話を思い出す。
親戚の子。歳が近く、この土地で働いている女の人。
顔も名前も知らない相手。
別に結婚しないと決めているわけではないけど、今まで真剣に考えたこともない。
仕事を覚えることで精一杯だったし、家へ帰ればナツがいる。
夕飯を作れば横から覗き込み、鮫を廊下へ放置し、気が向けば帰り道まで迎えに来る、……俺だけが知ってるナツ。
それで生活は足りているはずなのに、何故か少し息が詰まる。
ナツとの関係にも、そんな風に何か名前があればもう俺の前から姿を消すこともなくなるのだろうか。
居なくなる時は、俺に話してくれるようになるだろうか。
ただの友達じゃなくて、もっと、……もっと?
俺とナツは定義するような関係じゃない。できるようなものじゃない。
それなのに、関係を示す名前が羨ましくなった。
家へ着くと、縁側にナツが座っていた。
昼間と同じ白い面をこちらへ向け、片膝を立てている。
「……ただいま」
「おかえり」
もう習慣になっている挨拶を交わす。
何となくそれ以上話しかける気にもなれなくて玄関の方へ向かおうとすると、ナツが不意に口を開いた。
「いい人ってなに」
足が止まった。
「……何の話?」
「昼間言われてただろ。いい人いねえのって」
聞いていたらしい。
振り返るとナツは白い面をこちらへ向けたまま、続きを待っている。
「付き合ってる相手とか、結婚を考えてる相手とか。そういう意味だよ」
「付き合う。結婚?」
「……あー」
何と説明すれば良いか分からず、少し言葉に詰まる。
そもそもナツは、人間社会をどこまで理解しているかも不明だ。
「お互いに好意がある奴らが、言葉とか態度とかで……なんかこう、示す」
「示す?」
「特別な好きを持った二人が、こう、……なんかこう、一緒にいる」
「特別な好き?」
「人間としてのかなり特別な愛情表現っつーか愛っつーか、……恋愛的な……」
「愛情? 恋愛?」
言わせんなよこんなこと。
なんで俺が恥ずかしくならなきゃいけねえんだ。何の拷問だこれ。
「……要するに、特別同士が特別な関係を築くことが付き合う! で、更にそこから進んでずっと一緒にいる約束をして、一緒に生活して、一緒に生きてくのが結婚!」
やけっぱちになって少し大きな声になる。
言い切っても、白い面はぴたりと動かなかった。
「お前さ」
「何だよ」
「分かってねえの?」
「何が」
「……」
気のせいか、馬鹿にするようにこちらを見ている気がする。
そういう気配がする。いや、わからねえけど。
ナツはそれ以上何も言わず、縁側から庭へ視線を戻した。
俺も深く考えずナツに背を向けて、再び玄関へ向かう。
昼間の話なんて所詮、いつもの世話焼きから出たただの雑談だ。
誰かを紹介するという話も、結婚の話も、ナツにとっては理解できない人間の決まりの一つにすぎないのだろう。
気にする必要なんてない。ないのに、それが少し寂しかった。
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