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03-25.知りたい関係
祭りの準備中に出た見合い話は、その場限りの冗談だと思っていた。
自治会の人たちは若い独身者を見つけると、親戚や知り合いを紹介したがる。
仕事中にそういう話を受けることもあったし、仕事の後の打ち上げの際に雑談めいて振られることもあった。
以前にも似たようなことを何度か言われていてそのたび曖昧に笑って流して話が終わっていたものだから、俺自身も深刻に受け留めていなかった。
「黒瀬くん、ちょっといい?」
だから仕事を終えて帰ろうとしたところで岩美さんに呼び止められても、最初は別件だと思って軽く返事をした。
「はい。何かありました?」
「仕事の話じゃないんだけど」
その前置きで、嫌な予感がした。
岩美さんは周囲を少し見てから、机の引き出しを開ける。中から薄い封筒を取り出し、俺の前へ差し出した。
「ほら、この前さ。祭りの準備中に出たでしょう。親戚の子を紹介したいって話」
「……本気で?」
声に困惑が混じる。
岩美さんも少し困ったように笑って、封筒をひらひらとはためかせた。
「冗談半分で話したのは本当だけどね。あのあと向こうへ少し話が伝わって、本人も是非って」
「もう相手の方に話を通してるんですか」
雑談の中で出ただけの話じゃなかったのか。
周囲が面白がって騒ぎ、俺が適当に受け流して、それで済んだものだと考えていた。
「詳しくは話してないよ。若い役所勤めの良い子がいて、どうかなって程度。嫌なら断っていいから」
「出来れば最初から聞いて欲しかったです」
「それはごめん。でも無理に進めるつもりはないし、本当に嫌なら僕から断るよ。その、もうほぼ決まっちゃったようなものだから受けて欲しいけど……」
ほぼ決まったようなもの。岩美さんもきっと断り切れずに預かったんだろう。
それを俺が断ってもいいのか?
誰にも悪意がないことは分かっていた。
祭りの準備中に話していた坂田さんも、本気で俺を困らせようとしたわけではない。岩美さんだってそうだ。
若い独身の知り合い同士を会わせてみたいという、田舎ではよくある世話焼きなのだろう。
それでも、自分の知らないところで話が進んでいたことには少し戸惑った。
「これ、写真と簡単な経歴。見るだけ見てくれないかな」
差し出された封筒を、しばらく見つめる。
話が通っているならそれを拒否するのは難しいかもしれない。どうしても角が立つ。
それでも、受け取らずに断ることもできた。
今はそういう気がない。仕事も忙しい。紹介されても困る。理由ならいくらでもある。
それなのに、口が動かなかった。
『特別同士が特別な関係を築くことが付き合う!』
数日前、自分で口にした言葉が頭へ浮かぶ。
ずっと一緒にいる約束をして、同じ場所で暮らし、同じ時間を生きる。
ナツへ説明した時は、何とか意味を伝えようとしただけだった。
それなのに、言葉にしてしまってから、その形が頭のどこかへ残っている。
俺とナツには、そういう約束がない。
家に帰ればいる。夕飯を食べる日もあり、俺が仕事へ行く道の途中まで迎えに来る日もある。
それなのに、次の朝もナツがいるとは限らない。
何日家を空けるのか、どこへ行くのか、いつ戻るのか。ナツは何一つ約束せず、俺へ伝える必要もないと思っている。
俺たちには、何もない。
ナツを引き止める名前が、俺たちの関係には何もない。
そう考えた途端、急に足元から冷えていく。
「黒瀬くん?」
呼ばれて我に返る。
「すみません」
「無理しなくていいよ。ごめんね。急に」
岩美さんはそう言いながらも、封筒を引っ込めなかった。
強く勧めるつもりはないのだろう。
それでも、いい人だから一度くらい会ってみてもいいんじゃないか。
そんな風に思っていそうな顔だった。
「相手の方はどんな人なんですか」
聞いた自分に、少し驚く。……聞いてどうするんだよ。
受けるのか。受けないのか。
自分でもよく分からない。それなのに口が勝手に動いていた。
岩美さんは表情を明るくし、封筒を机へ置く。
「役所から車で十分くらいのところに住んでる。歳は黒瀬くんの一つ下だったかな。今は病院の受付をしてるって」
「この辺の方なんですか」
「生まれはこっち。学校で一度外に出たけど、就職で戻ってきたらしいよ。落ち着いた子だって聞いてる」
この土地で働き、これからもここで暮らすつもりの人。
家族もいて、仕事もあり、名前も住所もある。周囲へ紹介すれば、誰もが同じ人間を思い浮かべられる。
一緒に歩けば、翌日になっても覚えてもらえる。
当たり前のことなのに、ナツと比べると何もかもが違った。
「おじいさんも安心するんじゃない?」
岩美さんが何気なく続ける。
じいちゃんが俺へ結婚を急かしたことは一度もない。
好きなように生きればいいと、それだけを言う人だった。
だから、じいちゃんのために会うという理由は違う。
違うけど、もしかしたらじいちゃんも言わないだけで心の中では望んでいたりするんだろうか。
結婚とか、孫とか、……そういうものを。
俺が誰かと暮らし、普通に家庭を作れば、少しくらい安心するのかもしれない。
それでも、じいちゃんがそれを俺に強要するはずがないのも分かっていた。
「……多分、じいちゃんはそういうの気にしないと思います。聞いてないんで、分かりませんけど」
「ああ、ごめん。そうだよね。ただ、黒瀬くんが一人でいるよりは、誰かいた方が安心かなって」
一人。
『おかえり』
一人じゃない。出迎えてくれる声がある。
家には、ナツがいる。
そう言いかけて、口を閉じる。
それを説明してどうなる。
名前は俺がつけた。
年齢も本当の姿も分からず、戸籍も住所もない。
誰かに見せたところで、しばらくすれば忘れられる。
同居人だと言うには曖昧で、家族と呼ぶには何かが足りない。
友達という言葉では近すぎるのに、では何かと聞かれれば答えられない。
俺一人の中にしか存在しない関係だった。
俺だけの、ナツ。俺以外の記憶に残っていない、ナツ。
……本当に居るのかも分からない、ナツ。
「写真、見てもいいですか」
結局、そう言った。
机に置かれた封筒を手に取り、中から一枚の写真を取り出す。
柔らかく笑う女の人が写っていた。肩より少し長い髪で、落ち着いた印象の清楚な服を着ている。
写真用に作った笑顔ではなく、誰かと話している途中を切り取ったような自然な表情だった。
感じの良さそうな人だ。
それ以上の感想は浮かばなかった。
「どう?」
「写真だけじゃ分かりませんよ」
「まあ、それはそうだね」
「相手の方は俺のこと、何て聞いてるんですか」
「真面目で、少し無愛想だけど優しい役所のお兄さん」
「誰ですかそれ。俺別に優しくないですよ。盛ってませんか」
「ええ? そうかなあ」
岩美さんが笑う。
無愛想はともかく、優しいと言われると居心地が悪い。そう言われるような行動を取った覚えはない。
……ここ一年、色んな人に愛想がないと言われ過ぎたから、俺なりにそこだけは気をつけるようにはしてるけど。
写真を封筒へ戻しながら、もう一度考える。
見合い。
ナツが知ったら、何て言うだろう。
「………」
「黒瀬くん?」
違う。
これは俺のことだ。
誰と会うか、誰と付き合うか、結婚するのかしないのか。全部、自分で考えて決めるべきことだった。
……会うだけだ。
付き合うと決めるわけでもなければ、結婚の約束をするわけでもない。
相手がどんな人か知り、自分がどう感じるのか確かめるだけだ。
もしかすると、会えば何か分かるかもしれない。
関係に名前をつけ、約束をして、一緒に暮らしていくということが、どんなものなのか。
それを知れば、ナツとの関係についても少しは考えられるかもしれなかった。
そんな理由をつけた時点ですでに相手へ失礼な気がして、後ろめたくなる。
それでも、断る言葉は出てこなかった。
「会うだけなら」
口にすると、岩美さんが目を丸くした。
「本当に?」
「そんな驚きます?」
「絶対断られると思ったよお~。よかった。じゃあ、向こうと日程を合わせるね」
「はい。お願いします」
「そんな固くならなくていいよ。ただ食事するだけだから」
「はい」
岩美さんは嬉しそうに頷く。相手側へ確認してくれるらしい。
封筒を返そうとしたが、持って帰ってゆっくり見ればいいと押し戻される。
きっと写真を何度見ても感想は変わらない。
いい人そうで、優しそうな女性。普通の、……本当に普通の女性。俺と同じ人間の。
「………」
何だか胸が詰まって、封筒を鞄の中へ入れた。
役所を出る足取りが、いつもより少し重くなる。
断れなかったわけではない。
相手にも岩美さんにも強制されていない。会うだけならと決めたのは自分だ。
だからこそ、妙に落ち着かなかった。
山際の道へ差しかかる。
いつもなら、石垣や木陰に白い面がないか無意識に探す場所だった。
その日は何となく顔を上げられず、足元ばかり見て歩いた。
鞄の中には、知らない女の人の写真が入っている。
別に悪いことをしているわけではない。
俺とナツは付き合っていない。何かを約束したこともない。
ナツだって、人間の結婚や恋愛を理解しているか怪しい。
それでも、ナツには知られたくない。
知られて困る理由なんてないはずなのに。
家へ着くと、ナツはリビングの床へ寝転がっていた。
鮫の腹を枕にし、本を顔の上へ載せている。読んでいるのか寝ているのか分からない。
「ただいま」
「おかえり」
冊子の下から返事が来る。
いつも通りだった。
鞄を持ったまま自室へ向かう。封筒をどこへ置くか迷い、結局仕事関係の書類を入れている引き出しへ押し込んだ。
隠したわけではない。
机の上に置いておく必要がないだけだ。
「今日、遅かったな」
背後からナツの声がする。
振り返ると、いつの間にか部屋の入口に立っていた。
「職場の先輩と話してた」
「何の話」
「仕事」
嘘ではない。
職場でされた話なのだから、広い意味では仕事のうちに入る。
ナツはしばらくこちらを見ていた。
白い面の奥がどんな目をしているのかは分からない。
それでも、何かを探られているような気がして落ち着かない。
「何だよ」
「べつに」
「……見るなよ」
「見てねえよ」
明らかに見ていたくせに、ナツはそれ以上聞かなかった。
すぐに部屋から離れ、またリビングへ戻っていく。
その背中を見送りながら、小さな引っかかりが残った。
夕飯を食べている間も、ナツは普段と変わらなかった。
俺の皿から勝手に肉を取り、味が薄いと文句を言い、食後には鮫を抱えて縁側へ移動した。
見合いの話をしようと思えばいつでもできたけど、言わなかった。
正式に日程が決まってから話せばいい。
会うだけなのだから、わざわざ報告するほどのことでもない。
そもそもナツだって、こんな話題興味ないはずだ。
そうやって理由を並べている時点で、言いたくないのだと分かっていた。
ナツとの関係には名前がない。
だから、俺が誰と会おうと何の問題もない。
何の問題もないはずなのに、机の中にある写真の存在だけがいつまでも妙に重かった。
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