26 / 41

03-26.見合いのあと

見合いを終えて店を出ると、まだ空には昼間の明るさが残っていた。 傾き始めた日差しが道路の端を照らし、建物の影だけが細長く伸びている。 昼間より風は少しだけ涼しくなっていたが、首元へ張りつくシャツの内側にはまだ熱が残っていた。 駅まで送ると言われたけど、歩いて帰れる距離だからと断る。 一人になりたかった。 相手の女性は、ただただ良い人だった。 話し上手で、それ以上に人の話を聞くのが上手い。 俺が役所の仕事について話せば興味を持って質問を返し、分からない話題には分かったふりをせず、穏やかな声で笑っていた。 笑った顔も優しそうだった。 写真から受けた印象と、大きく違ってはいない。 今後もこの土地で暮らして仕事も続けたいと言っていたし、家族との関係も円満そうだ。 きっと良い奥さんになる。 子供ができれば、良い母親にもなるのだろう。 休日には家族で出掛け、夕方には同じ家へ帰り、当たり前のように食卓を囲む。 そういう未来を、無理なく想像できる人だった。 相手も多分、俺に悪い印象は持っていなかったと思う。 また会えたら嬉しいと、別れ際に言われた。 社交辞令だった可能性もある。 ただ、その場を早く切り上げようとしているようには見えなかったし、少なくとも嫌われてはいないように思えた。 それなのに、店にいた間ずっと何かが足りなくて、違和感ばかり積み上がっていく。 声を聞いても、笑った顔を見ても、会話が途切れず続いても、その感覚だけは消えない。 白い面。 片頬に描かれた、藍色の蔓と花。 人の話を聞かず、説明は下手で、腹がある日とない日があり、勝手にいなくなっては何でもない顔で帰ってくる。 笑っているのか怒っているのかさえ、面の向こうに隠れていて分からない。 ナツ。 ……あの人はナツじゃない。 当たり前だ。 ナツであるはずがない。人間同士の見合いへ来た。ナツがいてたまるもんか。 目の前にいたのは、名前も仕事も家族もある普通の女性だ。 そんなことは会う前から分かっていたはずなのに、それでも「違う」と叫ぶ声がずっと頭の奥で反響していた。 歩道の端へ溜まった砂を革靴の先で踏む。 乾いた音がして、少しだけ砂埃が上がった。 「………」 最近、ナツは家にいないことが多い。 春を過ぎた頃から山へ戻る時間が増え、夏になって輪郭が濃くなってからは以前より遠くまでふらふら歩き回っているらしい。 どこへ行っているのか聞いても、「その辺」としか答えない。 そのくせ家にいる時は、何をするでもなくこちらを見ている気配がした。 俺がスマホを開けば黙る。 見合い相手から来た連絡へ返信している時は、特にそうだった。 白い面をこちらへ向け、何も聞かず、何も言わない。 何を考えているのか分からなかった。 怒っているのか、気にも留めていないのか。 それとも、人間のやることを珍しがって観察していただけなのか。 人間の見合いというもの自体を理解していないのかもしれない。 理解した上で何とも思っていないのかもしれない。 そもそも俺が見合いに行くことを知っているのかすら分からない。 ナツが何をしたいのかも分からない。何も考えていない可能性だってある。 それ以上に、俺がナツをどうしたいのか分からなかった。 山際の道へ入る頃には、空の端が薄く赤くなっていた。 昼間に熱を吸った田畑から、草と土の匂いが立ち上っている。 電線には小さな鳥が数羽並び、俺が下を通る間だけ、揃ってこちらへ首を向けた。 何となく見返す。 鳥たちはすぐに飛び立ち、山の方へ消えていった。 ナツは今日も家にいないだろう。 ここ数日、朝に姿を見かけても、帰宅した頃にはいなくなっていることが多かった。 どうせ今日も、どこかでふらふらしている。 家へ帰っても、縁側もリビングも空いていて、鮫だけが廊下か空き部屋に転がっている。 別にいい。一人になって、今日のことを考える時間があった方がいい。 そう思いながら門を開け、玄関の前まで歩いた。 扉に手を掛ける。鍵は閉めたはずなのに、引き戸は抵抗なく開いた。 またナツが鍵を掛けずにいたのかもしれない。 帰っているなら一言くらい言えと文句を言うつもりで、暗い玄関へ足を踏み入れた。 ナツが立っていた。 上がり框のすぐ向こう、廊下へ続く場所に、白い面をこちらへ向けている。 灯りもつけず、ただ立っていた。 いつからそこにいたのか分からない。 出迎えに来たようにも見えなければ、偶然通りかかったようにも見えなかった。 俺が扉を開けることを知っていて、ずっと待っていたみたいだった。 思わず足が止まる。 玄関の外へ片足を残したまま、身体がわずかに後ろへ引けた。 「な、なにしてんだお前……」 ナツは動かなかった。 白い面が夕方の薄暗がりに浮かび、片頬の藍色だけが妙にはっきり見える。 「お前こそ何してんだ」 「はあ?」 何を言われているのか分からず、眉を寄せる。 俺が帰ってくることくらい、見れば分かるだろう。 いつもなら遅いだの腹が減っただの勝手なことを言うくせに、今日は声に普段の軽さがなかった。 「何してんだよ」 一度目より低い声だった。 問いかけというより、答えを要求されているように聞こえる。 「いや、家に帰ってきたんだけど」 「そうじゃねえよ」 「どういうことだよ、お前いつも分かんねえんだよ言葉足らずで」 「……分からない?」 ナツの声から、温度が消えた。 外ではまだ蝉が鳴いている。 遠くの田んぼからは蛙の声もしていたはずなのに、その一言を境に周囲の音が急に遠くなった。 玄関の奥に溜まっていた影が、ゆっくり濃くなる。 電気をつけていないから暗いだけだ。夕方になれば家の中が暗くなるのは当たり前だ。 そう思うのに、廊下の向こうから何か巨大なものが身を起こしたような気配がする。 空気が震えたわけでも、床が揺れたわけでもない。 それでも、ぞわりと腕に鳥肌が立つ。 ナツが怒っている。 面の向こうの表情なんて見えない。 それでも、今まで一度も見たことがないほど怒っていることだけは分かった。 「本気で?」 すぐ目の前にいるはずなのに、声が遠くから響いてくるように聞こえた。 喉が小さく鳴る。 「なに」 「本気で、分からない? 分からねえの」 「ナツ、なにを」 何を聞かれているのか、分からない。 白い面が、ほんの少し傾いた。 俺の返事を聞いて確かめるような動きだった。 次に口を開いた時、ナツの声には苛立ちよりも困惑が混じっていた。 「お前、……お前ほんとになんも分かってねえの。分かってるんじゃなかったのかよ。だから村に生活拠点を移した。違うのか? 違わない筈だ」 何の話をしてる。 俺がここへ戻ってきたことか。 役所へ就職し、じいちゃんの近くに家を借りたこと。 それがどうして、今日俺が何をしていたのかという話へ繋がる。 口を挟もうとしても、言葉が出てこなかった。 ナツは一歩も動いていない。それなのに、いつの間にか逃げ道を塞がれているような圧迫感があった。 玄関の外はまだ明るい。 振り向けばすぐに出られる距離なのに、足が動かなかった。 「お前だよ。お前があの時、全部覆した。全部、台無しにした。折角私がお前の為を思って舗装した道を砕いて潰して壊した」 声が変わった。 いつも使う「俺」ではなく、冷たい響きを含んだ「私」が落ちてくる。 何のことか分からないはずなのに、刃を突き立てられたように胸が痛んだ。 川の水音が頭の中へ蘇る。 足元から石が滑り、身体が流れへ傾いた瞬間。腕を掴まれ、強い力で引き戻された時の冷たさ。 あの日、ナツは怒っていた。 『わからない? ほんとうに?』 俺が何をしたのか、分かっているのかと聞かれた。 「私を喚んだ。お前が理を変えた」 白い面の奥から、真っ直ぐ見られている。 息が詰まる。 引っ越してきた日に言われた言葉が、遅れて頭の中へ戻ってきた。 『分かってねえのかと思ってた』 『分かってたのか、お前』 あの時も、ナツは勝手に納得していた。 俺がこの土地へ戻ったことを、自分と同じ何かを理解した結果だと思っていたのか? でも俺は、何も知らない。 理が何なのかも、俺がどう変えたのかも、ナツが何を失い、何を得たのかも聞かされていない。 「お前だよ。お前だ。全部お前だ。それなのにわからないのか? ほんとうに?」 目を見開く。 頭の中で、いくつものナツが重なった。 初めて川で会った時の、短く不愛想な声。 俺を間抜けだとからかい、得意げに山を歩いていた背中。 勝手に名前をつけても怒らず、呼べば振り向いた白い面。 ラムネの瓶を割ろうとして、俺に怒鳴られたナツ。 虫を見つけて俺に似ていると笑ったナツ。 ヨーヨーを壊して石に責任を擦り付けるナツ。 花火が映った、白い面。 拗ねた声。怒った声。笑う時に揺れる肩。俺の前を歩きながら、時々振り返る姿。 ちょっと抜けてて、すぐ人をからかって、ぶっきらぼうな口調で、でも優しいナツ。 ……勝手にいなくなったナツ。 高校を卒業した夏に、早いなあと笑った。 もう来るなと言った。 次の年から、何度呼んでも姿を見せなかった。 夏も、秋も、冬も、春も。 俺が怒っても、泣いても、どこにもいなかった。 どこにもいない。 確かにいたはずなのに、もう手が届かない。 何度呼んでも、返ってこない。 いない。 いなかったくせに。 そう思った途端、頭の裏側がカッと熱くなった。 目の前が一瞬赤く染まる。 ナツの言っていることは、相変わらず分からない。 それでも、自分だけが責められていることは分かった。 『全部お前』だ? 何が、何が。 「……にが、」 「あ?」 声がうまく出ない。 ナツは全部俺のせいだと言う。 俺が覆した。俺が壊した。俺が呼んだ。 まるで自分だけが被害を受けたみたいに、俺だけが何も分かっていない馬鹿みたいに責めてくる。 ふざけんな。ふざけるなよ。 「ッ何が、『全部お前だ』だよ! はー? 一丁前にまあ何をキレてんだか知らねえけどさあっ! お前だろ! お前だよッ! お前! ぜーんぶお前っ! ナツ!! お前!!!」 「は、はあ?」 今度はナツが僅かに身を引いた。 さっきまで俺を圧していた気配が一瞬だけ揺らぐ。でも、そんなことに構っていられなかった。 靴も脱がないまま、さらに一歩踏み込んでナツを睨みつける。 昔は同じくらいだった白い面が、今は俺の目線よりずっと低い。 それでも、あの頃の傷だけは少しも小さくなっていなかった。 「お前が勝手にいなくなったんだろッ! もう来るなって言ったのもお前! 何年も出てこなかったのもお前! 俺が泣いても怒っても、どこにもいなかったのもお前っ!」 言葉にするほど、あの頃の感情が生々しく戻ってくる。 夏が来るたび山へ入った。 川まで歩き、名前を呼び、返事のない場所を探した。 何度行ってもナツはいなくて、それでも次の休みにはまた同じ道を歩いた。 それなのに居なかった。 ずっと居なかったくせに。 どんなに俺が呼んでも、応えてくれなかったくせに。 視界がぼやけて、息が浅くなる。 いつだって、そうだ。 思い出すだけで、こんなに苦しい。俺だけ、いつまで経ってもこんなにくるしい。 全部、ナツがいなくなったせいだ。 「今その話は関係ねえだろ」 「はあ!? おまえ……っ、お前俺が何年、お前を探したと思ってんだよ……ッ! 関係? あるに決まってるだろ!」 声が掠れる。 怒鳴っているだけなのに、喉の奥が熱くなった。泣くつもりなんてない。 今泣いたら、またこいつに面白がられる。 「意味が分からねえ。論理が通ってない」 「論理とかそういう話してねえだろ!」 「してねえよ。だからお前が筋の通らねえ話の飛び方させてんのが意味わかんねえって言ってんだよ」 「はあ~~!?」 何なんだこいつは。 人がこれだけ怒っているのに、何で理屈の話をしている。 そもそも説明を全部飛ばして勝手に話を進めたのはナツの方だ。 怒りで頭が熱くなる。 ナツの言っていることも分からない。 自分が何を言いたいのかも、半分くらい分からなくなっていた。 「……もういい」 ナツの声が低く落ちた。 同時に、遠のいていた虫の声が一斉に耳へ戻る。 白い面が僅かに俺から逸れた。 身体も廊下の奥へ向こうとしている。 その動きを見た瞬間、身体の中心だけ、すとんと温度を失った。 「……逃げんのかよ」 「頭を冷やせ」 「お前がな!」

ともだちにシェアしよう!