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03-27.会いたいのはお前だけ
翌朝、目を覚ました時には、身体のあちこちが重かった。
眠った気がしない。
昨夜はナツが廊下の奥へ引っ込み、俺もそれ以上追いかけなかった。
自室へ入り着替えて布団へ横になったものの、眠りへ落ちるまで何度も寝返りを打った。
頭の中では、同じ言葉が何度も繰り返されていた。最悪だ。
『全部お前だ』
何が全部俺だよ。こっちの台詞だろうが。
何度考えても癪に障る。俺を責める前に、自分が何年いなくなっていたのか思い出せ。
理だか何だか知らないが、説明しなければ他人に伝わるわけがない。
腹が立っているのに、朝になって最初に確かめたのはナツの姿だった。
リビングにも、縁側にも、空き部屋にもいない。
ビーズクッションの横には鮫だけが転がっていた。白い面はどこにも見当たらない。
やっぱり逃げやがった。
頭を冷やせと言っておきながら、自分はまた何も言わずにいなくなるらしい。
苛立ちながら朝飯を済ませ、仕事へ行く支度を整えた。
時間が迫っていたので、家の中をもう一度探すような真似はしない。
……探したところで、ナツが姿を見せる気がなければ見つからない。
ワイシャツの袖を直し、鞄を持って玄関へ向かう。
革靴を履き、引き戸を開けると、朝の日差しが暗い土間へ差し込んだ。
外へ出ようとして、足が止まる。
ナツは玄関脇の壁へ背を預けて立っていた。
家の中では姿を見せなかったくせに、白い面をこちらへ向け、最初から俺が出てくるのを待っていたような姿勢だった。
昨日とは反対だ。
昨夜は家の中に立って俺を待ち、今日は外に立っている。
何なんだ、こいつは。
「お前、昨日から何やってんの」
ナツは答えなかった。
白い面だけをこちらへ向けている。
表情なんて見えないのに、不機嫌そうに睨まれている気がした。
朝から言い争うつもりはなかったが、黙って見られていると余計に気が立つ。
「睨むな。なんか言え」
ナツの肩がわずかに動いた。
「俺が睨んでるかどうかなんてわかんねえだろうが」
「分かるだろ、何年一緒にいたと思ってんだよ」
言い返してから、自分の言葉が少しだけ引っかかる。
何年一緒にいたと思っている。
ナツも昨夜、同じことを思っていたのかもしれない。
俺が何も分かっていないことが、あいつには理解できなかった。
だからといって、説明不足まで許すつもりはない。
ナツはまた黙り込んだ。白い面は相変わらず俺へ向けられている。
「だから睨むな」
窘めながら、腕時計へ視線を落とす。そろそろ家を出なければ遅れそうだった。
昨日の話を蒸し返すには時間が足りないし、俺もまだ感情を整理できていない。
鞄の持ち手を握り直す。
「……仕事行ってくる」
「あそ」
ぶっきらぼうな返事だった。
普段なら苛立ち紛れに、そのまま歩き出していたと思う。
でも今日は、ここで何も聞かずに出ていけば帰宅した時にナツがいるか分からない。
昨日の喧嘩が解決していないから話したい。
それだけだ。
別に、家にいてほしいから確認するわけではない。
「今日は家にいんの」
「しらねえ」
「お前のことだろうがよ。……帰ってくるなら、話したい。どっかいくなら、また今度でいい」
ナツは答えなかった。
朝の風が家と塀の間を抜け、白い面の横に掛かった黒い髪をわずかに揺らす。
近くの木では蝉が鳴き始めていて、遠くから軽トラックの走る音が聞こえた。
しばらく待ったけど、ナツが口を開く様子はない。
これ以上待てば、本当に仕事へ遅れる。
「じゃあ、いってくる」
返事を待たずに歩き出した。
門へ向かい、道路へ出る。家を振り返りはしなかった。
数歩進んだところで、背後から小さな声が聞こえた。
「………今日はいる」
立ち止まりかけた足を、そのまま前へ出す。
最初からそう言え。
ムカつく。
それなのに、さっきまで頭の中で引っかかっていたものが少しだけ軽くなった。
役所へ着いてからは、普段通りに仕事をした。
窓口へ来た人から申請書を受け取り、本人確認書類と記載内容を照らし合わせる。
不備があれば書き直す場所を案内し、分からないことがあれば担当へ確認を取る。
午前中には、高齢の女性が住民票の申請へ来た。
記入欄を一つずつ指しながら説明すると、女性は何度も頷き、震える手でゆっくり文字を書いた。
途中で同じ質問を二度されたが、そのたびに最初から説明した。
いつも通りだ。何も変わらない。
昨日ナツと喧嘩したからといって、住民への対応を疎かにする理由にはならない。
それでも、書類へ目を落としている間も頭の端には朝の声が残っていた。
『今日はいる』
……ナツがいれば話ができる。
喧嘩の続きをすることになるかもしれないし、また意味の分からない理屈を聞かされるかもしれない。
それでも、いないよりはずっといい。
いつもなら、家へ着いて玄関を開けるまで、ナツがいるかどうか分からなかった。
「黒瀬くん、今日ぼーっとしてない?」
隣から声を掛けられ、手元の書類から顔を上げる。
岩美さんが椅子へ座ったまま、少し心配そうにこちらを見ていた。
「……そうですか?」
「そうだよ。君にしては珍しいね。さっきからずっと同じところ見てたよ」
言われて手元を見る。
さっきから同じ書類を持ったままだ。本来なら、もう確認を終えている。
……暑さで少し動作が鈍ってるだけ。
いつも通りだ。いつも通り。ナツなんかに振り回されてねえ。
「すみません。暑くてちょっとぼんやりしてんのかも。気を付けます」
「ああ、たしかに。今日は特に暑いもんねえ。クーラーも故障したままだし。参っちゃうよねえ。水分取って、休憩もしっかりね」
「はい、ありがとうございます」
返事をして、書類の確認へ戻る。
何をしていても意識の一部が家へ向いている。これはだめだ。首を振って、一度思考からナツを追い出す。
追い出したはずなのに、気が付けば白い面ばかり頭に浮かんでそのたびに苛ついた。
うるせえ。いてもいなくてもうるせえ。
昼休みにスマホを確認すると、見合い相手から連絡が届いていた。
昨日会えたことへの礼と、楽しかったという言葉が書かれている。
迷惑でなければ、また食事へ行きたいとも添えられていた。
画面を見たまま、しばらく指が動かなかった。
結婚がどういうものなのか、恋愛がどういうものなのか、俺にはまだ分からない。
ナツとの関係へ、どんな名前をつければいいのかも分からない。
それでも、今日帰って話したい相手はナツだった。
朝からずっと、家にいると言ったナツのことばかり考えている。
その事実が頭にくる。苛つく。それなのに、もう誤魔化せなかった。
昨日はありがとうございました、とだけ入力した文章を一度消し、スマホを伏せる。
本人へ返事をする前に、紹介してくれた岩美さんへ話を通した方がいい。
午後の業務が少し落ち着いたところで、岩美さんへ声を掛けた。
「少しいいですか」
「うん。どうしたの?」
「この前紹介してもらった方のことで」
岩美さんはすぐに察したようだった。
嬉しそうな顔をするでもなく、急かすこともなく、俺の返事を待っている。
「申し訳ないんですけど、今回はお断りしようと思います」
「そっか」
短い返事だった。
責めるような響きはなかった。
「何か合わなかった?」
「いえ。本当に良い方でした。向こうには何も問題なくて、俺の方の都合です」
「そっかあ。それなら仕方ないね。相性だってあるし」
「紹介していただいたのに、すみません」
「謝らなくていいよ。会ってみないと分からないこともあるし、そもそも僕が無理やり行かせたようなもんだしね。こっちこそごめんね」
「それは……確かに勧めてはいただきましたけど、最終的に俺が決めたので。岩美さんは何も悪くねえです」
言うと、岩美さんが少し笑う。
「真面目だねえ。あ、向こうへの連絡はどうする?」
「俺から直接話したいんですけど、問題ないですか。先に坂田さんや相手のご家族へ伝えてもらった方がいいなら、待ちます」
「なら、そっちは僕から簡単に話しておくよ。そのあと本人へ連絡してもらえれば大丈夫だと思う」
「ありがとうございます」
岩美さんはそれ以上理由を聞かなかった。
俺が断ることを残念には思っているかもしれない。
それでも無理に勧めず、連絡の順序だけを確認してくれた。
余計に申し訳なくなる。
それでも、ここで曖昧にすれば、もっと失礼になる。
仕事を終えたあとも、祭りの準備が残っていた。
会場で使う備品の確認と、役所へ戻した道具の整理。
連絡事項をまとめ、足りないものを確認しているうちに、外はすっかり暗くなっていた。
祭りまでもう日がない。急な確認や作業が増えたことも原因かもしれない。
役所の裏手へ回り、人の声が聞こえない場所まで歩く。
スマホの画面を開き、何度か呼吸を整えてから発信ボタンを押した。
数回の呼出音のあと、穏やかな声が返ってくる。
昨日と同じ、優しい声だった。
会ってくれたことへの礼を伝え、これ以上関係を進めることはできないと話した。
自分の気持ちが定まっていないまま会い続けるのは失礼だと、できる限り正直に伝える。
彼女は俺を責めなかった。
少し残念そうな間があったあと、正直に話してくれてありがとうと返ってくる。
気にしないでほしい。
こちらこそ、急な話を受けてくれてありがとう。
最後まで、彼女の方が俺を気遣っていた。
通話が切れても、しばらくスマホを耳から離せない。
付き合う約束をしたわけでもないし、断ること自体が悪いわけでもない。
それでも、俺の都合で相手を巻き込んだことに変わりはない。
……最低だ。
気が付けばかなり時間が経っていて、役所を出る頃には、とっくに十時を回っていた。
歩いて帰れば、家へ着くのは十一時近くになる。
朝、話したいと言ったのは俺で、今日はいると言ってくれたのはナツだ。
それなのに、帰りが遅くなることを連絡する方法はない。
電話もなければ、メッセージも送れない。
早足で山際の道を進みながら、何度も時間を確認した。
「………ただいま」
門を開けた時には、辺りはすっかり静かになっていた。
家の中に灯りはない。
それでも、今日はいる。
朝の言葉を思い出しながら玄関の引き戸を開ける。
ナツがいた。
上がり框へ腰を下ろし、白い面をこちらへ向けている。
足元には何もなく、鮫も持っていない。ただ、灯りもつけずに玄関で待っていたらしい。
「……お前昨日から何なの?」
「お前が何なんだ。何時だと思ってる」
「じゅういちじ……」
腕時計へ目を落とす。
十一時を少し過ぎていた。
ナツは何も言わない。
白い面の奥から、無言の圧だけが返ってくる。
「ごめんて」
朝は話したいと言って出ていき、夜中まで帰らなかった。
これは俺が悪い。怒られても仕方がなかった。
とはいえ、仕事と見合い相手への連絡があったのだから、遊んでいたわけではない。
遊んでいたわけではないけど、ナツにはそんなこと関係ないのも分かる。
それでも待っててくれた。
……遅くなっても、待っててくれた。
靴を脱ぐ前に、鞄を肩から下ろす。
「待たせたのは悪かったけど」
「待ってねえ」
即座に返された。
嘘つけよ。
玄関で灯りもつけずに座っていた奴が言う台詞ではない。
「……まあそれでいいよ。で、悪かったけど、」
「謝罪する側の態度じゃねえ」
「悪かったっつってんだろ」
「それが謝罪か?」
こいつ……。
お前こそ、いつも俺を何日も待たせているだろうが。
言葉が喉まで出かかり、何とか飲み込む。
ここでそれを言えば、また昨夜と同じ喧嘩になる。
話すために帰ってきたのに、玄関先で怒鳴り合うのは避けたい。
我慢だ、我慢。できる。俺ならいける。大人になれ、透。
一度息を吐き、ナツへ向き直る。
「ナツ、待たせてごめん。悪かった。待っててくれてありがと」
ナツは黙っている。
礼を言われると思っていなかったのか、白い面がわずかに傾いた。
「……で?」
「今度は何だよ。次から次に王様かよ」
「で?」
「だから何だよ」
ナツは答えない。また言葉が足りない。
昨日から、こいつは同じことばかり繰り返している。
自分の中では全部繋がっているつもりなのだろうが、俺には分からない。
「ナツ?」
呼ぶと、白い面が正面からこちらへ向いた。
「悪かった『けど』? なに?」
そこでようやく、ナツが何を待っているのか分かった。
朝、帰ったら話したいと言った。
俺は今、「待たせたのは悪かったけど」と言いかけたまま、肝心の続きを話していない。
こいつは、それを待っていたらしい。
「……とりあえず、中入る」
鞄を持ち直し、革靴へ手を掛ける。
話すなら、玄関ではなく家の中がいい。
今度こそ逃げずに、ちゃんと話し合わなきゃいけない。
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