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03-28.どこにも行かないで
革靴を脱いで向きを揃え、土間に置いた鞄を拾い上げる。
ナツは上がり框へ座ったまま、俺が家へ上がるのを黙って見ていた。
さっきまで帰りの遅さを責めていたくせに、立ち上がって先へ行く様子もない。
「………」
ナツは何も言わない。ただ、白い面が変わらず俺の方に向けられている。
まるで逃さないとでも言いたげに、白い面は少しも俺から逸れない。
……話をするために帰ってきたんだから、逃げる訳ねえだろうが。
少しは待つ側の気持ちを思い知ったか。
鞄を持って空き部屋へ入り、壁際へ置く。締め切られていた窓を開ける。
夜の空気が網戸越しに流れ込み、昼間の熱が籠もっていた室内をゆっくり撫でていった。
涼しいとは言えない。
湿った草と土の匂いが混じり、外から聞こえる蝉の声まで一緒に入り込んでくる。
もう日付も変わりそうな時間帯だというのに、まだ鳴き残っている。
昼ほどの勢いはないものの、何匹もの声が重なって途切れそうになりながら続いていた。
その間を縫うように、細く高い鈴虫の音が響いている。
夏の中へ、少しずつ違う季節が混ざり始めていた。
ナツは俺の後ろからついてきて、畳の上へ腰を下ろす。
ビーズクッションも鮫も使わず、開いた窓の近くで膝を立てていた。
白い面は外へ向いている。俺も少し離れたところへ座り、壁へ背中を預けた。
話したいと言ったのは俺だ。
それなのに、何から話せばいいのか分からない。
昨夜の喧嘩を蒸し返すのか。
見合いを断ったと伝えるのか。
ナツが何を考えていたのか聞くのか。
どれも必要なはずなのに、口を開こうとすると言葉が喉の奥へ引っかかった。
沈黙を埋めるように、窓の外から蝉の声が降り続いている。
「夏だなあ」
考えていたこととは何の関係もない言葉が、先に口から出た。
ナツは何も答えない。
外へ向けていた白い面が、少しだけこちらへ傾いた。
無視されたわけではないらしい。
それだけ確認すると、張り詰めていた肩から少し力が抜けた。
「暑いのは嫌いだけど、蝉の声もこの季節もなんか好きなんだよな」
「ふうん」
聞いているのかいないのか分からない返事だった。
俺がこれだけ話し出すきっかけを探しているのに、こいつはいつもと変わらない。
相槌くらい、もう少しまともに打てねえのか。
「興味ねえならリアクションすんな」
「はあ? 興味なくねえよ。聞いてやってんだろ」
「お前その上から目線直せ」
ナツの肩がわずかに揺れた。笑ったのかもしれない。
昨日あれだけ怒っていたくせに、今は俺の悪態を聞いて少し機嫌を直している。
何を考えているのか分からないところまで、やっぱりいつものナツだった。
それきり会話は途切れ、虫の声だけが部屋へ満ちていく。
蝉は遠く、鈴虫は近い。
同じ夜の中で鳴いているはずなのに、距離がまるで違って聞こえた。
夏はまだここにいる。それでも、少しずつ遠ざかっている。
ナツと過ごした夏も、いつもそうだった。来たと思ったら、すぐに時間が過ぎる。
次も会えると勝手に思って、毎年同じように山へ入り、名前を呼んだ。
それがずっと続くものだと、どこかで信じていた。
高校を卒業する、あの年までは。
「……ナツ」
「なに」
いつもの、ぶっきらぼうな声だった。
それでも呼べば、律儀に返事をする。
いつもそうだ。
呼べば振り向く。
名前をつけた最初の日から、ナツは俺が呼ぶたびに返事をしてきた。
返事をしなくなったあの数年間だけを除いて。
「ナツ」
「だから、なに」
二度目の呼びかけに、少し苛立った声が返ってくる。
聞こえていることは分かっている。それでも、もう一度呼びたかった。
目の前にいる。ちゃんといる。
「お前さ」
「……なんだよ」
何を聞こうとしているのか自分でもまだ整理できていなくて、続きが出てこない。
見合いは断った。
ナツではない誰かと関係を続ける気にはなれなかった。
その結論を伝えれば、話は簡単に済むのかもしれない。
でも俺が知りたいのは、聞かせたいのは、そんなことじゃない。
「なに」
ナツがささくれだった声で、続きを促す。
なあ、ナツ。
分からねえんだよ。
お前が見合いを嫌がったのか。
俺が別の誰かを選ぶことが許せなかったのか。
それとも、自分が川で呼ばれた責任を俺へ取らせたいだけなのか。
お前が俺のことをどう感じて、どう思ってるのか。
この先も、一緒にいるつもりでいてくれてるのか。
それともまた、一時的なものなのか。
俺には何も分からない。
「俺が結婚するって言ったらどうすんの」
「はあ?」
空気がざわりと動いた。
窓から風が入ったわけではない。
それなのに、網戸の向こうの草木が一斉に揺れたような気配がする。
昨夜と同じだった。
目には見えない何かが、暗い家の周囲でゆっくり身を起こす。
ナツが怒っている。また怒ってる。
俺が別の誰かと結婚する話を出しただけで、昨日と同じように怒っている。
……怒ってくれた。
少なくとも、俺に無関心ではないことが分かる。
その事実がたまらなく嬉しくて、みじめだ。
馬鹿みたいだ。
俺一人で落ち込んで、俺一人で喜んで、俺一人でナツの言葉を噛み締めてる。
「お前」
低くなった声が、途中で切れる。
俺は逃げずに白い面を見返した。
「なあ、どうすんの」
ナツの指先が、立てていた膝の上で僅かに動くのが見えた。
白い面に表情はない。
笑っているようにも怒っているようにも見えるはずなのに、今は怒っているようにしか見えなかった。
「お前ほんとに、何の学習もしねえな」
窓の外から差し込んでいた薄い月明かりが、急に翳ったように感じる。
部屋の隅へ溜まった影が濃さを増し、壁と床の境目が曖昧になっていった。
蝉の声が一匹ずつ遠ざかり、鈴虫の細い音まで途切れていく。
生き物の気配が薄くなる代わりに、肌へ冷たくまとわりつくものが満ちてくる。
「してるから聞いてる」
「……してる? どこが? 誰が? 昨日の今日でこれか?」
ナツの声には呆れと怒りが混じっていた。
昨日責められたことなら覚えている。
俺がナツを呼び、ナツ曰く『理を変えた』。
ここへ戻ってきたのも、ナツには同じ理を理解した結果に見えていた。
それが何なのか俺には分からない。
ナツにはきっと大事なことで、今怒っているのも俺がその理に反しているからなのかもしれない。
それでも俺はそんなもの知らない。
俺の知りたいことへの答えにはなっていない。
「お前、あまり俺を舐めるなよ。俺はガキのお守りをする気の良いお兄さんじゃねえんだよ」
「ちびっこだろ。口の悪いちびっこ」
「…………」
白い面が、すっと真正面を向いた。
多分、今のナツは相当怒っている。
分かる。分かっているけど、止める気にはなれなかった。
だって、お前だけずるいだろ。
何も説明しないくせに、全部分かっているみたいな顔をする。
俺の顔は面越しに見えているくせに、自分の顔は見せない。
怒っている時も、平気な時も、悲しんでる時も、笑ってる時だって、本当にそうなのか俺には何も分からない。
気配や声や仕草から、何となく察することはできる。でもそれだけ。
お前の表情を、俺は知らない。見たことがない。
きっとお前は見せてくれない。
見せてくれないまま、いつも勝手に姿を消す。
「俺が誰かと」
一度、言葉が止まる。
口にするだけで、胸の内側がざらついた。
さっきまで電話で話していた女性の顔を思い出そうとしても、浮かんでくるのは白い面ばかりだった。
「ナツ以外の誰かと暮らすことにしたら、どうすんの」
ナツは答えない。
濃くなった影の中で、白い面だけが浮かんで見える。
言いたかったのは、これじゃない。
結婚を止めてほしかったわけでも、俺を選べと言ってほしかったわけでもない。
俺が誰かと暮らすことを決めたら、お前はどうする。
怒るのか。
止めるのか。
それとも。
「また居なくなるの、ナツ」
声に出した瞬間、やっと自分が何を聞きたかったのか分かった。
ナツは何も言わない。
面の下から、じっと見られている気配だけがある。
怒りも呆れも消えたように、ただ黙って俺を見ていた。
「……言っている意味が分からない」
「なんで。シンプルだろ」
何が分からねえんだよ。
俺が誰かを選べば、ナツはまた俺を置いていくのか。
それとも、それでも傍にいてくれるのか。
俺が誰も選ばなければ、ナツはずっと一緒にいてくれるのか。
それだけ。
たったそれだけのことを、今までずっと聞けなかった。
「居なくなるの? ならねえの? もう、」
喉が詰まり、言葉が途切れる。
続きを言いたくない。
口にしたら、本当に自分がずっと怖がっていたことを認めることになる。
それでも、今聞かなければいけない。
「もう、どこにも行かないのかよ。それとも条件次第でどっかいくの。また、」
握り締めた手へ力が入り、爪が掌へ食い込んでいく。
顔を上げていられなくなり、膝の上へ落とした視線の先で、指先が白くなっていた。
「また俺を置いてくの」
声が震えた。
最悪だ。みっともない。
ナツにこんな声を聞かせたくなかった。
怖がっていることも、今でもあの時から抜け出せていないことも、知られたくなかった。
喉が狭くなって、息だけが薄く抜けた。
飲み込むものなんてないのに、何度も喉が動く。
いつも怖い。
何をしていても、どこかでずっと怖かった。
『もう来るな』
『ほんとうに、早いなぁ』
優しかった声が、今も耳の奥に残っている。
忘れたいのに、忘れられない。忘れたいのに、ずっと覚えてる。
何が悪かったんだよ。
俺の何が悪かったの。
どうして急にそんなことを言ったんだよ。
それまで一度だって、もう会わないなんて素振りは見せなかったくせに。
毎年隣にいることを許して、呼べば振り向いて、『また来るの』ってそう繰り返し確かめたのはお前の方だったくせに。
なのに、どうして今更。
どうして、あの時だったんだよ。
こんなにお前でいっぱいになる前に、どうして。
お前以外見れなくなるまで、どうして俺のことを傍に置いたの。
手放すくらいなら、なんでもっと早く、捨ててくれなかった。
「だから、意味が分からねえ」
頭上から落ちてきた声は、本当に分からないと言っていた。
苛立ちではなく、困惑に近い。
それが余計に腹立たしい。
「なんで分からねえんだよ」
「お前こそなんで分からねえんだよ」
「いつもそうやって勝手に言葉を省略する。意味分かんねえのお前だわ」
ナツの言葉はいつも足りない。
自分の中では全部繋がっているのかもしれないけど、俺には見えない。
見えないものを分かれと言われても、分かるわけがない。
「……お前ほんとに何も分かってねえの? 馬鹿か」
「バカ!? 馬鹿って言った奴が馬鹿」
反射的に顔を上げる。
こんな時に何を言っているんだと思うのに、口が勝手に動いた。
子供の頃から何度も繰り返してきた、くだらない言い合いだった。
「今言ってんだろ馬鹿」
「お前が言い出したんだろ馬鹿」
「お前が馬鹿」
「お前こそ馬鹿」
「…………」
「…………」
互いに黙り込み、再び睨み合う。
白い面のせいで、実際に睨まれているかは分からない。それでも、今は間違いなく睨まれている。
ナツが僅かに首を傾けた。
「おい馬鹿」
「なんだよ馬鹿」
「何で俺がお前を置いていく話になってんの」
「……っ」
息を呑む。
何でって。
お前が、言うのか。どの口で、言ってんだよ。
俺を置いていったお前が、それを言うのか?
「……ッな、つが置いてったんだろ! 勝手に!」
声がひっくり返った。
もう格好をつける余裕なんて残っていない。
「はあ?」
「あの時! いやだって言ったのにッ! 何度も言ったのに! ずっと会いに行ったのに探したのに会いたいって言ったのにナツはいなかった! ずっと、ずっとだ! ずっと居なかった……っ!」
言葉が一気に溢れ出す。
息を継ぐ場所も分からない。何年も押し込めていたものが、喉を擦りながら外へ出てくる。
「……今更言ってんの?」
「は、はあ~~~?」
顔を上げると、ナツはまだ同じ場所に座っていた。
白い面が少し傾いている。
本当に不思議そうな声だった。
「今更って何だよ……ッ」
何が今更だ。
一度でも消えたことがなくなるわけではない。
俺が何年も探したことも、毎年夏が来るたび山へ入ったことも、全部まだここに残っている。
「何キレてんの」
「~~~っ今更じゃねえよ! 今もだよ! 今も怖えんだよッ!」
言った瞬間、喉が焼けるように熱くなった。
ナツが黙る。
家の中を満たしていた薄ら寒い気配も、ざわついていた影も、ぴたりと動きを止めた。
「お前が玄関にいないだけで、また消えたと思う。家にいないだけで、今度はどこ行ったんだって思う。夏が来るたび、まだ少し怖い。蝉の声がすると、一人で山の中を歩いてた時のことを思い出す」
言葉へするたびに、視界が滲んでいく。
泣くつもりなんてなかった。
昨夜も堪えた。
今だって怒っているだけのはずなのに、目の奥へ溜まった熱が勝手に形を変えて頬へ落ちた。
拭う気にもなれない。
一度落ちれば、そのあとも止まらなかった。
唇がしおからい。
「今更? 今更なわけねえだろ。俺の中じゃ、ずっとあの時のままなんだよ」
声が掠れる。
言い切ったあと、身体から力が抜けていった。
俯いたまま、荒くなった呼吸を整えようとする。部屋の中は静かだった。
蝉も鈴虫も鳴いていない。
聞こえるのは自分の息だけで、ナツがそこにいるのかさえ、一瞬分からなくなる。
「…………」
返事はない。
それでも視線だけは感じていた。
ナツはまだいる。
逃げていない。
何かを考えているような、長い沈黙だった。
「ああ、そっか」
ようやく落ちてきた声は、妙に静かだった。
「お前なんも分かってねえんだ、ほんとに」
何を納得した。
こっちは全部話したのに、またナツだけが勝手に何かを理解している。
涙が勝手に流れ落ちる。乱暴に腕で拭っても、なかなか止まらない。鬱陶しい。最悪だ。
「………なにを」
「ばかだなあ」
また馬鹿と言った。
それなのに、さっきまでの刺々しさはどこにもない。
声が柔らかい。
柔らかいのに、背筋へ冷たいものが這い上がってきた。
甘ったるい何かが、固い殻を割って溢れ出したような声だった。
場違いに、焼き菓子を思い出す。
フォークを入れると、中から溶けたチョコレートがどろりと流れ出すやつ。
名前は何だったか。
考えても出てこない。
ナツの甘い声だけが、静まり返った夜の中で鼓膜を揺らしていた。
「もう、遅いのに」
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