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03-29.ばかだなあ
「なあんも、わかってない。なにもわかってない。わからないまま、私を喚んだ」
静まり返った部屋へ、甘い声がゆっくり染み込んでくる。
俺は腕で涙を拭ったまま、白い面を見返した。
ナツの声から、さっきまでの苛立ちは消えている。
代わりに滲んでいるものが何なのか、俺にはやっぱり分からなかった。
優しいようにも聞こえる。
呆れているようにも、責められているようにも感じる。
それなのに、声の底には隠しきれないほど機嫌の良い響きがあった。
長い間解けなかったものが、ナツの中でようやく繋がったような声だった。
「あの時にもう全部終わってるのに。全部始まってるのに。お前はそこが分かってねえんだな」
終わっているのに、始まっている。
相反する言葉を当然のように並べられても、意味なんて分かるわけがない。
俺が川でナツを呼んだ、あの時のことを言っているのか?
あの日から何が始まり、何が変わったのか。
何度聞いてもナツは説明しない。
ただ、自分の中では全部繋がっているみたいに話し続ける。
あの日を境に、ナツは山の外へ出るようになった。
俺がこの土地へ戻れば、当たり前のように家へ入り込み、縁側やリビングで好き勝手に過ごしている。
確かに何かは変わった。
でもその何かが、俺には分からない。
「だから今更、置いていくだのいかないだの言ってる」
白い面が、こちらを真っ直ぐ見ていた。
さっきまで俺が泣いていたことも、声を震わせて縋るようなことを言ったのも、全部見られている。
今更なんて言われても困る。
俺にとっては今も続いている。
ナツがいなくなった時から、何も片付いていない。
「もうそんな段階じゃないのに」
だから、どんな段階だよ。
ムカつく。
人の気も知らずに一人で気持ちよく話しやがって。
反論しようにも、ナツの声に混じる妙な甘さが喉へ引っかかり、すぐには言葉にならなかった。
喉が熱くて上手く声が出せない。涙を拭う手の甲と腕だけが湿っていく。
「理は成った」
静かな声が、夜の底へ沈んでいく。
理。
何度も聞かされているのに、何一つ分からない。
分からないままなのに、ナツにとってはそれが何より確かなものらしい。
俺の理解も同意も必要なく、とうに決まってしまったこととして語っている。
説明する必要すらないと思っているのかもしれない。
それほど当たり前のこととして、ナツの中ではすでに成立している気がした。
「ばかだなあ、ほんとうに」
音が反響して、空気がさらに濃くなる。
白い面の下は見えない。
それでも今のナツが、俺を見ながら笑っていることだけは分かる。
泣いている人間を前に、何がそんなに楽しいのか。
腹が立つはずなのに、声の柔らかさへ意識を奪われる。
「もう逃げられないのに、ばかだなあ」
逃げられない。
その言葉が、妙に重く胸へ落ちた。
脅されているようにも聞こえるのに、不思議と怖くはない。
むしろ、逃げなくていいと言われたような気さえしてしまう。
逃げられないなら、置いていかれないのか。
ずっと俺の隣にいてくれるのか。
今度こそ、俺の傍にいてくれるのか。
そんな都合の良い受け取り方をしている自分に気づき、余計に混乱した。
「………だから、意味分からねえんだよ」
「まあほんとに分からねえんだろうな。きっとお前はわからないまま喚ぶんだろう。何度でも、私を」
面の下で、息だけが小さく弾んだ。笑ったのだろうか。
まだ声が甘い。
甘いのに、触れれば凍りつきそうな冷たさが混じっている。
ナツが何を思っているのかは見えない。
ただ、その言葉だけが耳の奥へ残った。
俺はナツを呼ぶ。
見つからなければ、何度でも呼ぶ。
いなくなれば探しに行くし、返事がなくても名前を繰り返す。
それは昔から変わらない。
多分、これからも変わらない。
ナツが何をそんなに嬉しそうにしているのかは、やっぱり分からなかった。
「だから今更だよ、全部。全部お前のせい。昨日からずっと言ってるだろ、俺は。分からねえなりに、理解しろよ」
「……そういうのいいから、もう居なくならねえのかそうじゃねえのかだけ簡潔にシンプルに言えよ」
「ならない」
答えは、驚くほど早かった。
迷う間もなければ、考える気配もない。
ずっと前から決まっていたことをただ口に出しただけとでも言うかのように、迷いのない声だった。
あまりにもあっさり返ってきて、一瞬意味を受け取れない。
ならない。
いなくならない。
「お前の前から俺が居なくなることはねえよ」
胸の奥へ張りついていたものが、ゆっくり剥がれていく。
身体を支えていた力まで一緒に抜けていき、背中が後ろに少し沈んだ。
何度も願った言葉だった。
ずっと欲しかった言葉だった。
高校を卒業したあの夏から、ずっと聞きたかった。
山を探しても、川へ行っても、どれだけ名前を呼んでも返ってこなかった答え。
もういなくならない。
ナツの方から、はっきりそう言った。
「なら、いい。それならいい。後は全部なんでもいい」
理屈はもうどうでもいい。
理も、始まったとか終わったとかいう話も、もう何だっていい。
俺が何をしたのか。
何が変わったのか。
どうして逃げられないのか。
分からなくてもいい。
ナツがいなくならないなら、それだけでいい。
「ナツがいるなら、もういい。他になんもいらない」
「……」
ナツが黙る。
さっきまであれほど喋っていたのに、返事がない。
仕事も、じいちゃんも、この家も、ここで築いた生活もある。
本当に何もいらないわけではない。
ただ、その全部があってもナツがいなくなるなら意味がない。
逆にナツがいるなら、その他のことは全部後回しでよかった。
何かを失っても、全部が思い通りにならなくても、ナツがいるなら耐えられる。
ナツがいないまま何も失わずに生きる方が、ずっと嫌だった。
白い面は、黙ってこちらを向いている。
返事がないことに腹を立てる気力も、もう残っていない。
「はあ……泣いたから疲れた……」
壁へ預けていた背中から、そのままずるずると少し姿勢を崩す。
溜め込んでいた息を吐き出すと、身体の芯に残っていた力までほどけていく。
頭が重い。目の周りは熱く、喉も痛い。
昨日はほとんど眠れず、朝から仕事をして、帰宅したのは十一時過ぎだった。
その上、怒鳴って泣いて、何年分ものことを一度に話した。
疲れない方がおかしい。
大人になってから、こんなふうに泣いた記憶なんてほとんどない。
よりによってナツの前で。
最悪だ。
壁へ頭を預け、目を閉じる。
静寂の向こうで、一匹の鈴虫が鳴いた。
細く震える音が庭の暗がりから響き、そのあとを追うように、遠くで蝉が鳴き始める。
さっきまで生き物の気配が消えていたことなど嘘みたいに、夏の夜が家の中へ満ちていった。
ナツはまだ何も言わない。
窓辺に座ったまま、白い面をこちらへ向けている気配がする。
また見てる。
そう思って瞼を持ち上げた時、ナツが膝を崩した。
畳へ片手をつき、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
立ち上がるわけではなく、座った姿勢のまま距離を詰め、俺のすぐ目の前で止まった。
「……なに」
疲れていたせいで、返事も自然とおざなりになる。
ナツは答えなかった。
面の下から、笑みを含んだ吐息が聞こえる。
次いで伸びてきた指先が頬へ触れ、その冷たさに肩が小さく跳ねた。
逃げようと思えば逃げられる。
身体を引くことも、手を払うこともできた。
でも何となく逃げる気にならない。
……逃げたくない。
「……」
ナツの指が、頬の輪郭をなぞる。
顎の近くからゆっくり滑り、最後には掌全体で包み込むように触れてきた。
冷たい。
それなのに、嫌じゃなかった。
むしろ、そこに確かに触れられていることが心地よくて、動けなくなる。
「なに、ナツ」
問いかけても、すぐには答えが返ってこない。
親指の腹が目許へ触れ、乾ききっていなかった涙の跡をなぞっていく。
確かめるような、慈しむような触れ方だった。
ナツがこんなふうに触れる理由なんて分からない。
分からなくても、今だけはそのままでいたかった。
「……欲張りだなあ」
また笑ったような気配がした。
声は相変わらず甘く、さっきよりさらに機嫌が良さそうだった。
「何が」
「他になにも要らないけど、俺のことは欲しい? つまり、俺のことは全部欲しい?」
「……っ」
言葉が喉へ詰まる。
そんな意味で言ったわけではない。
ナツがいればいいと言っただけだ。
他に何もいらないというのも、今までいなくなられることばかり怖がっていたからで。
全部欲しいなんて、そこまでは言っていない。
言っていないはずなのに、否定の言葉がすぐに出てこなかった。
「あげようか? 欲張りさん」
「~~~~~~~ッ」
耐えきれず、頬へ触れていた手を勢いよく振り払う。
ナツの腕が離れ、冷たさだけが皮膚に残った。
声を聞くだけで分かるほど、ナツは機嫌が良かった。
「うるせえ触んな!」
「触ってほしそうにしてたのに」
「してねえよ」
「してた」
「してねえよ!」
ナツが首を傾げる。
さっきまでの不穏な気配は、もうどこにもない。
俺をからかう時の、いつものナツだ。
「じゃあいらねえの」
「そういう話してねえ」
「してるだろ」
「してねえ!」
「お前が言ったじゃねえか。俺がいればいいって」
「言ったけど!」
「ならそういうことじゃねえの」
「なんでそうなる? 俺はただ、」
「触れるし、触っていいぞ」
「触るなって言ってんだろ!」
「嫌ならもっと嫌そうにすれば」
言い返そうとして、口が止まる。
さっき俺は、ナツの手から逃げなかった。
嫌ならもっと早く身体を引けたし、頬を包まれた時点で払い落とすこともできた。
それをしなかったことまで、こいつには全部見透かされているらしい。
ナツはずっと笑っている。
白い面の下なんて見えないのに、楽しそうなのが腹立たしいほど伝わってくる。
「ああ、今日はいい日だな」
満足そうな声だった。
こっちは泣かされて、散々恥ずかしいことを口にして、最後にはからかわれている。
何がいい日だ。
「うるせえもう寝る!」
壁へついていた手へ力を込め、立ち上がる。
泣いたあとの身体は重かったが、これ以上ここにいたら、また余計なことを言わされそうだった。
壁際に置いた鞄は明日の朝片付ければいい。
窓は開けたままでも、今夜なら少しくらい構わない。
網戸越しの虫の声を背中に聞きながら、部屋を出ようとする。
「俺も寝る」
「なんでついてくんだよ!?」
後ろから聞こえた声に振り返る。
ナツも立ち上がり、当然のようにこちらへ歩いてきていた。
「一緒に寝てやろうかと思って」
「いらねえわ!!」
声を張り上げても、ナツは止まらない。
白い面をこちらへ向けたまま、楽しそうについてくる。
さっきまで泣いていたせいで頭は痛いし、身体も重い。
それでも、廊下へ重なる二人分の足音を聞いているともう追い払う気にはなれなかった。
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