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■4章「面の下と夏の残骸」 04-30.見たら死ぬぞ

祭りが済んで一週間が経っても、役所の隅にはまだ夏の名残が積み上がっていた。 折り畳まれたパイプ椅子。土のついた延長コード。会場の案内に使った立て看板。 回収された提灯は赤と白の紙を潰さないよう箱へ収められ、倉庫へ戻す順番を待っている。 午前中、別の部署へ書類を届けに行った帰りには、裏口で自治会の人がテントの支柱を数えていた。 一本足りないらしく、去年もなかっただの、誰かが別の倉庫へ入れただのと話している。 俺も呼び止められ、保管表と照らし合わせるのを少し手伝った。 祭りはとっくに済んでいるのに、後片付けの残滓だけが町のあちこちへ残っていた。 通勤途中の道端には、黒く焦げた花火の燃えかすが落ちている。 神社前の広場から提灯は外され、夜になっても祭囃子は聞こえない。 花火も、もう上がらない。 それでも蝉だけは、まだ鳴いている。 昼を過ぎても、役所の外から途切れかけた声が何度も聞こえてくる。真夏の頃ほど厚くはない。 数も減ったはずなのに、弱った声を無理に引き延ばすような鳴き方が、妙に耳へ残った。 直ったばかりの古い空調が、天井近くで低く唸っている。 以前よりは涼しくなったものの、窓口の近くには自動ドアが開くたび外の熱が入り込んできた。 冷えた空気と乾いた熱が混ざり、座っているだけで首筋へ薄く汗が浮く。 夏も終わりかけだというのに、暑さだけはいつまでもまとわりついてくる。 「それでねえ、本当に断っちゃったの?」 住民票の写しを封筒へ入れカウンター越しに差し出したところで、向かいの女性が声をひそめるように言った。 ひそめてはいたけど、別に小さくはない。 隣の窓口にいる岩美さんが、書類へ顔を落としたまま僅かに肩を揺らした。 聞こえている。恐らく、少し笑っている。 「断りました」 何でもないことのように答え、相手が封筒を受け取ったことを確認する。 女性は住民票より俺の顔の方を熱心に見た。 「まあ、もったいない。いい子だったでしょう」 「いい方でしたよ」 「なら、どうして」 「まだ、そういう気になれなくて」 何度目か分からない言葉を、口の中から取り出す。 角が立たず、嘘にもなりきらない。便利な言葉だった。 まだそういう気になれない。 いつかはなるのか。 相手が違えば、そういう気になったのか。 聞かれれば、答えに詰まる。 「あんた、昔から変なところ頑固ねえ」 「昔からって、俺ここで働き始めたの最近ですけど」 「働き始めたのは最近でも、昔から来てたでしょう。夏になると山の方ばっかり歩いてたじゃない」 「……それ、関係あります?」 なんで知ってるんだよ。……いや、知ってるか。 この辺じゃ、誰がどこへ行っただの、いつ帰ってきただの、その気がなくても大体誰かに見られている。 毎年夏になると同じ山へ向かっていた子供なんて、そりゃ覚えられていてもおかしくない。 女性は楽しそうに笑い、封筒を鞄へしまった。 「あるかもしれないじゃない。山で好きな子とでも会ってたのかと思って」 「そんな相手、いませんよ」 ほとんど考える間もなく、口が勝手に動いた。 脳裏へ浮かんだのは、人の顔ではない。 少し黄ばんだ白い面。片頬へ絡みつく、藍色の蔓と花。 角度によって笑っているようにも怒っているようにも見える、見慣れた面。 「まあ。それなら山以外には誰かいるのね? 都会から来たんだもの、そっちにいた彼女かしら?」 「いません」 「即答が怪しいわあ」 「仕事中ですよ」 「役所のお兄さんは真面目ねえ」 からからと笑う。 帰り際にも「本当にいい子だったのに」ともう一度言い残し、自動ドアの向こうへ出ていく。 扉が開いた瞬間、蝉の声が一段大きくなった。 外から入り込んだ熱気に、乾いた草の匂いが混じっているのが分かる。 隣から小さく息を吐く音がした。 「大変だねえ、黒瀬くん」 「聞いてたんですか」 「聞こえちゃっただけ。声、大きかったから」 「聞こえてても聞こえないふりしてくださいよ」 「してたよ。今までは」 岩美さんは笑いながら、手元の書類へ視線を戻した。 今までは。 岩美さんの言葉に、今日まで掛けられ続けた見合いを惜しむ声を思い出す。 ……断ってから、何人に理由を聞かれたか分からない。覚えていられない程なのは確かだ。 紹介してくれた岩美さんや坂田さんだけではない。 祭りの準備中に話を聞いていた人。見合い相手の親戚と顔見知りの人。 どこから知ったのか分からない近所の人。 責められているわけではなかった。 誰もが残念そうにしながらも、最後には「まあ、仕方ないね」と引き下がる。 相手の女性に問題がなかったことも、皆知っている。だから余計に、どうして断ったのか不思議なのだろう。 見合い相手の女性の顔を思い出す。 名前も、生まれた土地も、今の仕事も、家族構成も、これからどこで暮らしたいかも聞いた。 一度会っただけの相手なのに、彼女とならどんな暮らしになるのか容易に想像できた。 ただ、彼女はナツじゃない。 それだけで彼女とのその先を考える気になれなかった。悪いのは、どう考えても俺の方だ。 視線を窓口の端へ落とす。 透明な仕切りへ、自分の顔が薄く映っていた。仕事用に整えた髪と、少し疲れた目元。 自分の顔を見ているうちに、見慣れた白い面が浮かんだ。 『お前の前から俺が居なくなることはねえよ』 耳に残って離れない、ナツの声。 声は知っている。何年も聞いてきた。でも、あの時どんな顔でそう言ったのかは知らない。 それなのに、ナツ以外には手を伸ばそうとすら思えない。 ナツと付き合う約束をしたわけではない。恋人だと確認したこともない。 これからどうするのかを話したことだってない。 そもそも、あいつにそんな概念が存在するかも怪しい。 一度「恋人」と「結婚」について教えたことはあるけど、理解しているのかも分からない。 見合いをきっかけにナツとは話をした。 したけど、結局俺たちの関係が何なのか、未だに俺は何も分かっていない。 分かっているのは、ナツが傍にいてくれると言ってくれたことだけ。 きっと、もう置いていかれない。その事実だけを、心の中でずっと噛み締めてる。 ……いや、噛み締めてるってなんだよ。 なんで俺が有り難がらなきゃいけねえんだ。そもそも勝手にいなくなったのはあいつだろ。 「黒瀬くん、次の方お願いしていい?」 「あ、はい」 声を掛けられ、顔を上げる。 ナツのことを考えている場合ではない。 カウンターの前へ立った男性から申請書を受け取り、記入内容を確認する。 本人確認書類を預かり、顔写真と目の前の顔を見比べる。 いつも通りの仕事だった。 それなのに、窓口越しに誰かの顔を見るたびに白い面が浮かぶ。 名前を読むたびに、俺がつけた二文字を思い出す。 最後まで、頭の片隅からナツは消えなかった。 帰宅すると、ナツはリビングにいた。 絨毯の上へ置いたビーズクッションに半分沈み、鮫を腹の上へ載せている。 人が汗水垂らして働いてきたっつーのに、何だこいつ。 完全にだらけている姿勢のナツを見て、なんだか脱力してしまう。 「……ただいま」 「おかえり」 見合いを断った夜から、ナツは家にいる時間が増えた。 以前なら、朝に姿を見ても帰宅した頃にはいなくなっていることが珍しくなかった。 数日ふらふらすることもあれば、そのまま二週間近く戻らないこともある。 最近は、家へ帰ると大抵いる。 俺が何か言ったわけではない。 あの日もういなくならないと聞いたあとは、好きにすればいいと思っていた。 それでも玄関を開け、返事があると少し安心する。 認めるのは癪だけど。 「………」 ナツの白い面に、知らず目が吸い寄せられる。 古びた骨みたいな色の頬に、藍色の朝顔が咲いていた。 昼間から頭に浮かび続けていたものが目の前にある。 「なんだ、そんなに見詰めて」 「……見詰めてねえけど」 目を逸らしながら答える。 ナツの喉から、息が小さく弾んだ。笑ったらしい。 あの夜から、ナツはずっと機嫌が良い。 こうして笑うことも増えたし、距離も妙に近くなった。 夕飯を済ませ風呂から上がったあとも、ナツは当然のように、リビングで本を読んでいる俺に凭れ掛かってくる。 いつからこうなったのか分からない。 以前も隣へ座ったり、同じビーズクッションを奪い合ったりはしていた。 でも最近は、わざわざ身体が触れる位置へ来る。 追い払おうと思えば追い払える。 でもナツの身体はひんやりしていて、まだ暑さの残る今の季節は少し気持ち良い。 だから何となく拒めないでいる。 ……ひんやりして気持ちいいからで、他意はない。 活字へ目を落とす。文字を追っているつもりなのに、内容が頭へ入ってこない。 背中へ触れる冷たさと、その向こうにある白い面ばかりが気になった。 「なあ」 「……なんだよ、今読書してんだから邪魔すんな」 「嘘つけ。さっきから頁が進んでねえだろ」 「はあ? お前、後ろ向いてんのに何で分かるんだよ」 「分かるだろ。何年一緒にいたと思ってんだよ」 「それこの間俺が言ったやつだろうが。人の台詞取るのやめろ」 背中越しに、喉の奥で笑う振動が僅かに伝わってきた。 人間みたいな振動だ。 凭れている身体は相変わらず冷たい。 「お前、最近よく笑うな」 「わりぃの」 「悪くはねえけど」 「じゃあ何で聞いてくんだよ」 「……何がそんなに楽しいのかと思って。前はそこまでじゃなかっただろ」 「ふうん?」 語尾が、楽しげに持ち上がる。 「俺のこと知りてえの? 欲張りさん」 「~~~~っ」 欲張りさん。 あの日からナツはよくそうからかうようになった。 決まって、俺がナツに何かを聞いた時や、ナツに何かを求める時。 声に何か甘ったるい響きが混じる。 その正体は分からない。分かりたくない。 分かってしまったら、何かが変わってしまう気がする。 「そんなんじゃねえけど」 「そんなんだろ、お前」 「そんなんじゃねえよ。……っ」 不意に、背骨の上を指先が滑った。 肩が跳ねる。本を落としそうになって慌てて持ち直した。 背中へ掛かっていた重みが僅かに離れ、ナツが身体を捩った気配がする。 「……ッ、ナツ!」 「なんだよ」 「やめろよ、そういうの」 「触ってほしそうだった」 「ほしくねえんだよ。何を根拠にやってんだよ、それ」 さっきまで俺を背もたれにしていただけだったのに、今度は背中をなぞって遊び始めたらしい。 指先が服越しにゆっくり動く。 見合いを断った夜から、こういう意味の分からない接触も増えた。 何が楽しいのか知らないが、俺が反応するたびにナツはますます機嫌を良くする。 「……ナツはさ」 多分、やめろと言ってもやめない。 ある程度好きにさせておけば、そのうち飽きる。それまで放置するのが一番労力が少ない。 そう、労力が少ない。無駄に疲れたくないだけだ。……何の言い訳だ、これ。 気持ちを切り替えるように話題を変える。 ナツの指は、今度は脇腹の近くを撫でていた。 「なに」 「俺の顔、見えてんの」 「顔? 見えてる」 「今も?」 「今は背中しか見えてねえ」 「そういうことじゃなくて」 「ああ、面の話してんの?」 指の動きが一瞬止まった。 「見えてるよ。お前がどんな顔してるかくらい」 とても優しい声だった。 それなのに、ぞわりと背中へ怖気が走る。 いつの間にか、外で鳴いていた虫の音が止んでいた。 「……」 「見えてる」 念を押すように、ナツが繰り返す。 すぐに、庭の暗がりからリーリーと高い音が戻ってきた。 気のせいだったのかもしれない。 ナツも、いつも通りのナツだ。 「……不公平じゃねえの」 「何が?」 「ナツは、面越しでも見えるんだろ」 「まあな」 「……ナツだけ、見えてる」 「ん?」 「俺は見えないのに、ナツだけ見えてる。ずるい」 言ってから、急に恥ずかしくなった。 なんだ、ずるいって。子供か。 でも本心に違いないから、訂正もできなかった。 名前は俺がつけた。他に名前があるのかも分からない。 顔も、俺と出会う前にどこでどう過ごしてきたのかも知らない。 そんな相手に、俺の方だけが最初から最後まで見られている。 「ナツだけ俺のこと知ってて、俺はお前のこと全然知らない。ずるい」 「……」 背中を撫でていた手が止まる。 飽きたのかもしれない。 少しくすぐったかったから、止まって良かった。 ……良かったついでに、俺の発言もスルーしてくれないだろうか。 「知りてえの?」 まあ、するはずがない。 だってナツだ。 知ってる。 「俺の顔が見たいの」 「……知りたくねえのに、ずるいとか言う奴いんの」 「まあ、多分いねえな。……ふうん。そっか」 ナツの声が楽しそうに跳ねた。 嫌な予感がする。 だって、俺はこの流れを知ってる。 「欲張りさん」 「~~~~~~ッ」 何も言い返せない俺を見て、ナツが笑う気配がした。 「まあ、俺はいいけど」 何でもないことのように続ける。 指先が再び背骨をなぞった。ぞわぞわする。 くるり、と円を描くように指の腹が背を撫でる。 「見たら死ぬぞ」 からかうような声だった。 いつもなら、嘘つくなよと返す。 子供の頃から何度も聞かされ、今では日常の冗談みたいになっていた言葉だ。 それなのに、その夜は何故か笑えなかった。 背中越しに伝わるナツの冷たさだけが、やけに近かった。

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