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04-31. 知りたい、知らない、知りたい
「お願いします」
カウンター越しに差し出された婚姻届は真新しく、折り目ひとつついていない。
紙の端を揃えて手元へ引き寄せると、隣り合って立つ二人が少し緊張した顔でこちらを見た。
翌日の昼前に持ち込まれたそれは、いつも通り、何の代わり映えもない業務の一つだった。
氏名、生年月日、住所、本籍。
記入欄を上から順に追い、空白や書き損じがないか確かめる。
隣に立つ女性が僅かに身を寄せ、男性の方も俺の手元を覗き込んでいた。
「こちら、戸籍の確認に少しお時間をいただきます。記載内容については問題ありません」
そう伝えると、女性の表情が目に見えて緩んだ。
男性も安心したように息を吐き、二人で短く顔を見合わせる。
顔がある。名前がある。生まれた日があり、住んでいる場所がある。
書類へ書けるものを持っている人たち。
当たり前のことを考えた瞬間、昨夜の白い面が頭に浮かんだ。
『知りてえの?』
何度も見た白い面が、紙の上へ重なるように浮かんでくる。
……知りたくないわけがない。
先日ナツと話し合うまでは、そこまで考える余裕があまりなかった。
いつナツがまた居なくなるかいつも不安で、いつかまたナツの姿が見えなくなるじゃないかと叫びだしそうな気持ちをずっと抱えていた。
その反動なのだろうか。
もう置いていかれないと分かった途端に、どんどん妙な気持ちが積もっていく。
知りたい。
ナツがなんなのか、誰なのか、知りたい。
『欲張りさん』
……うるせえ。
反射的に思い出した楽しそうな声に舌打ちしそうになるのを堪える。
危ない。今は仕事中だ。
待つ場所を案内し、受け取った婚姻届を所定の手順へ回してから、一息つく。
「黒瀬くん、そろそろ交代するね~」
「あ、はい。ありがとうございます」
岩美さんと窓口を交代し、自分の机へ戻る。
古い椅子は座り心地が少し悪くて、腰を掛けた途端に軋むような音を立てた。
「………」
事務仕事を片付けている間も、頭の中で巡るのはナツのことだ。
ナツは人間ではない。
人間のために作られた書類へ当てはまらないのは、考えるまでもないのに。
最近は勝手に鮫を転がして、寝そべってだらけている。
冷蔵庫を開けては「今日は喉がある」と相変わらずの物言いをして、夜には俺の布団へ入り込んできて、朝には縁側で涼んだり俺の顔を無言で覗き込んだりしている。
一度は、目覚めてすぐに白い面が視界いっぱいに広がって驚いて布団から転がり落ちたこともあった。
ナツはいる。ちゃんといるのに。
その事実を誰にも証明できない。
生活の一番深いところへ当然のように居座っているくせに、書類上はこの町のどこにもいない。
この世界のどこにも、ナツを証明できるものがなにもない。
仕事中だ。
手元の書類はいつも通りに処理できている。入力も確認も間違えてはいない。
それなのに頭の片隅には白い面が貼りついたまま離れなくて、蝉の声以上に煩わしかった。
◇
帰宅して門を開けると、夕方の熱を吸った庭から草と乾いた土の匂いが立ち上っていた。
玄関で靴を脱ぎ、廊下へ上がる。
左手にある空き部屋の襖は閉じたままで、縁側側から物音も聞こえない。
そのまま廊下を進んでリビングの扉を開けると、ナツは奥の大きな窓のそばにいた。
窓は少し開いている。生温い風にカーテンの裾が揺れ、その下でナツは絨毯へ寝転がっていた。
腹の上にはもはやナツの相棒と化し始めている鮫が乗っていて、片手で開いた本を支えている。
「ただいま」
「おかえり」
本から顔を上げることもなく返ってきた。せめてこっちを見て言え。
鞄を椅子へ置き、上着を脱いで背もたれへ掛ける。
台所へ回って冷蔵庫から麦茶を取り出し、自分の分をコップへ注いで喉を潤してからまたリビングへ移動する。
ナツは相変わらず同じ姿勢のまま頁を眺めているようだった。
昨夜から仕事中もずっと考え続けていたことが、また白い面を見た途端に浮かんできた。
わざわざ聞くようなことでもない。分かる。分かってる。
分かってるのに、口が勝手に動く。
「ナツ」
「なに」
「お前、誕生日とかあるの」
「知らねえ」
間を置くこともなく返ってきた。
予想していた答えではある。
それでも本当に知らないと言われると、もやもやとした何とも言い切れない引っかかりが腹の底に沈んでいく。
「自分のだろ、覚えてねえの」
「知らねえって言ってんだろ」
ナツは本から目を離し、白い面をこちらへ向けた。
腹の上にいた鮫が少しずれたが、直そうとはしない。
「普通、自分が生まれた日くらい知ってるもんじゃねえの」
「普通」
「普通は忘れねえんだよ」
「お前の普通なんか知らねえけど。俺に何求めてんの」
面の表情は変わらないのに、呆れてるような声なのは分かった。
まるで理不尽な因縁を付けられるかのよう。……いつもお前の方がよっぽど理不尽なことしてるだろうが。
少し苛つきながらコップへ口をつける。
冷えた麦茶が喉を通っても、昼間から残っている違和感までは流れていかなかった。
「住所は」
「ここ」
「勝手に住民になるんじゃねえよ」
「はあ? 住んでるだろ」
また呆れた声。当然のことを聞かれて答えただけのような、軽い調子だ。
書類上では俺の一人暮らしだ。
近所の人間も、役所の同僚も、ここにナツがいることを知らない。
見かけたことがある人もいるかもしれないが、誰もあいつをこの家の住人だとは認識していない。
「……書類上は俺の一人暮らしなんだよ」
それでも違うとは言い切れず、何だか濁したような言い方になってしまう。
ナツは確かにここで暮らしている。
空き部屋にしている和室にはあいつの物ばかりが増えているし、リビングにはお気に入りの鮫とビーズクッションが転がっている。
帰れば「おかえり」と言う。
何より、ナツが家にいなければ俺は探してしまう。
「書類が間違ってるんじゃねえの」
「役所職員の前で正規の書類にいちゃもんつけんな」
ナツの喉から、楽しそうな笑いが漏れた。
こいつにとっては、誰かに認められることも、どこかへ記録されることも必要ないのだろう。
自分がここにいる。
それだけで十分で、それ以上の説明を求める俺の方が妙なのかもしれない。
ナツという二文字以外、俺は何ひとつ欄を埋められない。
そんな相手と一緒にいる。
ナツと一緒にいたいと願って、一緒にいると決めて、ナツからも言質を取って。
『ナツがいるなら、もういい。他になんもいらない』
それだけでいいと言った。思った。確かにあの時は本気だった。
それなのに、何も知らないことが今になって気に食わない。
「何だよ」
黙って見ていたせいか、ナツが面を僅かに傾けた。
「また俺のことが知りたくなった?」
「……悪ぃのかよ」
「ふうん?」
ナツの声に、甘さが混じる。
欲張りさん、と続けられる前に、コップへ残っていた麦茶を飲み干した。
空になったそれを持って台所へ戻ると、背後から笑う気配が追ってきた。
◇
風呂から上がり、洗面台の前で濡れた髪をタオルに挟む。
鏡の中には、見慣れた自分の顔があった。
風呂上がりの熱で頬が少し赤い。前髪から落ちた水滴がこめかみを伝い、顎の先から洗面台へ落ちた。
黒瀬透。
名前も、生年月日も、住所も、本籍もある。
役所の端末で検索すれば記録が出て、身分証明書を見せれば顔写真と目の前の人間が同じだと確認してもらえる。
首へタオルを掛け直した時、背後で洗面所の扉が小さく鳴った。
鏡の端へ白いものが映り込む。
肩が跳ねた。
扉を開けたナツが、廊下から洗面所の中を覗いている。
薄暗い廊下を背にして立つ身体は輪郭がぼやけて見えるのに、顔を覆う面だけが妙にはっきりと鏡へ映っていた。
少し黄ばんだ白。
片頬に絡む藍色の蔓と、朝顔の花。
目の穴の奥は、鏡越しでも何も見えない。
「何びびってんだよ」
ナツの声に笑いが混じる。
普段なら、急に扉を開けるなと文句を言うところだった。
それなのに声が出ず、鏡の中の白い面を見返してしまう。
俺の顔は映っている。
ナツの顔は、今日も見えない。
「……おい?」
「……びびってねえよ」
ようやくそれだけ返し、洗面台の脇に置いていたドライヤーを手に取る。
洗面所の入口に立つナツへ目を向けると、何も言わないまま廊下側へ身体を引いた。
横を通って洗面所を出る瞬間、ひんやりした気配が風呂上がりの腕を撫でていく。
廊下を進み、部屋の襖を開ける。
中へ入ってから襖は閉めず、そのまま鏡台の前へ腰を下ろした。
コンセントへプラグを差し込みドライヤーのスイッチを入れると、狭い和室へ大きな音が広がる。
温い風が前髪を持ち上げ、耳の近くで低い唸りとなって響いた。
『俺の顔が見たいの』
笑みを含んだナツの声が、頭の中でぐるぐると回る。
そばにいてくれるなら、それでよかった。
もう置いていかれないなら、ナツが何者だろうと、顔が見えなかろうと、それだけでいいと思っていた。
――思って『いた』。
浮かんだ考えを振り払うように、ドライヤーを持つ手を動かす。
同じ場所へ当てすぎた頭皮がじりじりする。風向きを変えながら髪を掻き上げても、考えだけは止まらなくて気持ちが悪い。
ドライヤーの風だけが同じ場所へ当たり続け、髪の一部をばたばたと揺らしている。
何を知りたい。
顔を。
本当の名前を。
何者なのかを。
どこから来て、俺と会うより前に何を見てきたのかを。
……ナツが俺をどんな目で見ているのかを。
次々と浮かぶくせに、どれが一番なのかは分からない。
どれかひとつを知れば満足できるとも思えなかった。
スイッチを切る。
突然音が消え、部屋の静けさが耳の奥へ押し寄せてきた。
庭から聞こえる虫の声と、遠くを走る車の音が急にはっきりする。
「乾いた?」
開けたままの襖の向こう、廊下から声がしてぎょっとする。
ナツだ。
いつからそこにいたのかは分からない。
廊下に立っているのか、襖の脇へ座っているのか、鏡台の前からでは姿が見えなかった。
「……乾いた」
「ふうん」
短い返事のあとも、立ち去る気配はない。
「覗くなよ」
「覗いてねえ」
少し間があいた。
「見えてるだけ」
昨夜と同じ言葉だった。
見えてる。
『見えてるよ。お前がどんな顔してるかくらい』
ナツには何が、どこまで見えているのだろう。
俺の表情だけなのか。
気持ちを持て余して苛ついてることも、ナツの不在に怖がっていることも、知りたいと思い始めたことまで、全部見えているのか。
俺には、お前のことは何も見えないのに。
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