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04-32.教えてごらん。欲張りさん
やけに身体が重い。
今日は急ぎの仕事もなく、厄介なトラブルに追われたわけでもない。
抱えていた仕事は定時までに片付き、最後には少し時間を持て余したくらいだった。
体調が悪いわけでもない。
それなのに、朝から喉の奥に形のない塊がつかえたまま取れない。
「あっちぃ……」
役所を出ても、空はまだ昼間の色を残していた。
太陽は西へ傾き始めているものの、青さの方が強く、道へ落ちた影も輪郭が薄い。
暑い。暑いけど、空は気持ちが良いくらい晴れている。
仕事を手早く片づけた日は、もう少し気分が軽いはずなのに。
「………」
……昨日の夜、ナツは俺の部屋へ来なかった。
最近は用もないくせに勝手に襖を開け、勝手に布団へ寝転がり、当たり前のように俺の隣を占領する。
灯りを消せば、暗闇の中から笑みを含んだ「おやすみ」が聞こえていた。
昨夜は、それがなかった。
久しぶりに一人で使った布団は、本来の広さへ戻っただけなのに妙に広い。
寝返りを打つたび、空いた場所へ腕が触れる。
そこにあるのはナツの冷たい身体じゃなく、熱を持ったただの布団だった。
それが普通だ。正しい日常のはずなのに。
それなのに、ナツが居ないことが妙に落ち着かない。
「……ばかかよ」
呟いて、地面に足を擦る。小石が靴先に当たって、どこかに跳ねていった。
何をしても、何を考えていても、結局ナツのことにつながる。
嫌になる。
気付けば歩く速度まで落ちていて、自宅の門が見えた頃には空の青さも少しだけ薄くなっていた。
門を開け、庭を抜ける。
玄関の前まで来たところで、引き戸へ伸ばしかけた手が止まった。
「………」
俺の家だ。
帰ってきたのだから、さっさと入ればいい。
それなのに取っ手を掴む直前で、指が動かなくなった。
ナツ。
中にいるだろうか。
……いるだろうかって何だ。
ここは俺の家で、ナツの住処じゃない。
あいつがふらふらと出歩くのはそこまで珍しくもないし、家を空ける日だってたまにある。
外を歩いているナツと偶然出くわすこともあるし、今日も家の中で寝転がっているか、どこかへ散歩に出ているだけだろう。
ただ最近は、俺が帰る頃には大抵いて、当然のように「おかえり」と返してくる。
だから何だという話だけど。
「……、…何やってんだ俺は」
玄関の前で立ち尽くす成人男。
どう考えても不審者だ。自分の家の前だから通報されないだけで、やっていることはかなり怪しい。
小さく息を吐き、ようやく引き戸へ手を掛ける。
横へ引くと、ガラガラと聞き慣れた音がして、閉じ込められていた家の空気が流れてきた。
「ただいま」
習慣のように口から出た声は、薄暗い廊下の奥へ吸い込まれていく。
返事はなかった。
「………」
ほら見ろ。
ナツはいない。
期待していたわけじゃない。
扉を開ける前から、いないことだってあると分かっていた。それなのに、ナツの返事のない家は昨日までよりやけに広く感じられた。
玄関の広さも、廊下の長さも何ひとつ変わっていない。
靴を脱いで上がり框の下へ揃える。
革靴から解放された足は少し軽くなったはずなのに、身体の重さはそのままだった。
ナツはいない。
どこにいるのか分からないし、見当もつかない。
同じ家にいても、同じ布団へ寝転んでも、俺に凭れ掛かり、触れる距離で笑うようになった今でさえ、この家にいない間にどこへ行っているのか俺は知らない。
ここ以外にも、本当の住処があるのかもしれない。
「ナツ」とは別の、もっと長い名前を持っているのかもしれない。
俺以外の誰かには、面の下を見せたことがあるのかもしれない。
少し胸が苦しくなった途端、俺が知っているナツばかり頭に浮かぶ。
からかう時の弾んだ声。ぶっきらぼうな口調。
時折混ざる、耳の奥を妙に撫でる甘い響き。
偉そうに歩いて、何もないところで転ぶ姿。
でも、これは全部、俺の中だけのナツだ。
俺が知っているのは、一緒にいた時間の中にいるナツだけ。
肝心なことは、何ひとつ知らない。
……知らないから、何だ。
何だっていうんだよ。
「……ナツ」
「なんだよ」
は?
誰もいないと思っていた廊下の奥から、あまりにも普通に声が返ってきた。
思わず肩が跳ね、暗がりへ目を凝らす。
「お前さっきから何やってんの。玄関に求愛でもしてんのか」
「してるわけねえだろ」
腹の立つ言い方も、俺の反応など気にしていないような態度も、間違いなくナツだった。
いるなら最初から返事をしろ。
「………いたのかよ」
「はあ? いちゃ悪ぃのかよ」
悪いなんて誰も言っていない。
どうして「ただいま」に返事をしなかったのか。
それを聞けばいいだけなのに、口は閉じたまま動かなかった。
「………ふうん?」
何も言わない俺を面白がるように、ナツの声が僅かに跳ねた。
嫌な予感がする。
こういう時のナツは、ろくなことを言わない。
それが分かっているのに、先回りして止める言葉も思いつかなかった。
「なに。『おかえり』って言って欲しかったのかよ」
「誰が」
「ただいまって言って、でも返事がねえから俺が居ないと思って、寂しくなった?」
「誰が」
腹が立つ。
図星を指されたからではない。こいつが勝手なことを、勝手に楽しそうな声で言っているからだ。そういうことにしておきたいのに、いつもの半分も言い返せない。
廊下の暗がりから、白い面がゆっくりこちらへ近づいてくる。
足音はほとんど聞こえない。それでも、白い面だけが少しずつ大きくなり、ナツが玄関の近くまで来たことは分かった。
「おかえり」
「………」
ぐっと息が詰まる。
さっきまでのからかう調子ではない。ただ当たり前のように、帰ってきた俺を迎える声だった。
何が。
何が、おかえりだ。
簡単に言いやがって。
「………何が」
「ん?」
「何が、おかえりだよ。お前の家じゃねえんだよ」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
ナツがこの家で暮らしていることを、昨日は否定しきれなかったくせに。
帰れば返事をすることも、家の中を好きに使うことも、もうとっくに受け入れている。
訳のわからない自分に苛立つ。
ナツはわずかに面を傾けた。
怒るでもなく、こちらの続きを待っているように見える。その態度がまた腹立たしさを助長させる。
分かってる。ただの八つ当たりだ。
「はあ? お前が泣きそうだから言ってやったんだろ」
「泣いてねえし、別に言ってほしくねえし」
「嘘つけよ」
「……っ、お前の家じゃねえよ」
本当に言いたいことは違う。
分かっているのに、同じことしか言えない。
会話になっていない。ナツに何を求めているのか、自分でも掴めない。
それ以外の言葉を口にすれば、体の奥に溜めていたものまで全部こぼれそうだった。
俺は、俺と過ごす時間以外のお前を知らない。
知りたい。お前のことが、知りたい。なんで教えてくれねえんだよ。
……俺の知らないお前が居ることに、耐えられない。
次から次に頭の中で言いたくない言葉ばかり溢れていく。
「なに。昨日からそれに拘ってんの?」
「こだわってねえよ、事実だろ」
吐き捨てるように返しても、ナツは怒らなかった。
それどころか、どこか機嫌が良さそうだった。
笑みを含んだ吐息だけが静かな廊下を伝ってくる。
「本当は何聞きてえの」
「は、」
思いがけない返事に、舌が口の中で張り付く。
白い面は、見下ろせばすぐそこにあった。
目の穴の奥は何も見えないのに、俺の表情も、言えないまま飲み込んだ言葉も、全部覗かれているようだった。
「今日もまた知りたい俺が増えた?」
「……っ」
「昨日は誕生日と住所。その次は? 今日は何知りたくなってんの? まだあるだろ」
言い当てられたようで、心臓が一拍だけ遅れた。
「ほら、教えてごらん。欲張りさん」
ナツの声は笑っている。
責めているわけでも、拒んでいるわけでもない。
むしろ俺が答えるのを待ち望んでいるような、妙な甘さがあった。
「……ッそうやって、馬鹿に、」
「してねえよ。嬉しがってるだけだろ」
間延びした声だった。
子供の姿で、俺と同じように悪態をつくナツのものとは思えないほど、妙に優しく、上から宥めるような響きがある。
「まだ俺のこと分かんねえの? ……ほんとうにこまった子だな」
背筋へ薄い寒気が走る。
声はナツのものなのに、時々こうして、知らない何かが混じる。
同い年の悪友みたいに笑っていたはずのナツが、急に俺をずっと幼いものとして扱う。
そのたび、目の前にいるものが本当は何なのか分からなくなる。
「………お前それやめろ」
「ん?」
「たまに変な声でへんなこと言うだろ。やめろ」
「そこは分かるのか」
面の奥で、また笑った気配がする。
何がおかしいのか分からない。俺が気づいたことなのか、それとも気づいていないことの方なのか。
「……わざとやってんの?」
「いや? なに、お前怖がってんの」
「怖くねえよ馬鹿にしてんじゃねえ」
すぐに言い返したものの、声が少し上擦った。
眼下にある筈なのに、白い面が妙に近く感じる。
面の向こうは何も見えず、片頬の朝顔だけが薄暗い玄関の中で妙に濃く浮かんでいた。
細い吐息が耳を打った。
楽しそうに、震えている。
「かわいそうに」
「あ?」
「漸く、自覚したんだな」
「はあ? なに」
何を自覚したというのか。
問い返しても、ナツは答えなかった。
答えを待っても、続きを話す気配はない。代わりに、ふっと周囲の空気が変わる。
少し前まで玄関を満たしていた甘さが、不意に薄れる。
空気が戻ったとでも言えばいいのか、目の前にいるのはもういつものナツだった。
「お前いつまでそこにいんだよ。明日も仕事じゃねえの」
「……そうだけど」
「じゃあ早く上がれば」
それだけ告げると、白い面が視界から外れた。
廊下の方へ行ったのか、それとも別の場所へ消えたのか、目で追ったはずなのに分からない。
さっきまで間近にあった気配も、もう家の中からきれいに失せていた。
「……なんなんだよ」
返事はない。
玄関には俺一人だけが残され、開けたままだった引き戸から夕方の空気が細く入り込んでいる。
『また知りたい俺が増えた?』
『その次は? 今日は何知りたくなってんの? まだあるだろ』
聞きたくもないのに、楽しそうな声だけが頭の中で繰り返された。
「……っくそ」
誰もいない廊下へ吐き捨て、ようやく背後の引き戸を閉めた。
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