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04-33.欲しがるということ

家の中まで、くぐもった蝉の声が響いている。 昼間の熱も廊下に残っていて、立っているだけで背中に薄く汗が滲んだ。 「……勝手な奴」 仕事鞄を持ったまま廊下の奥へ目を向ける。 ナツが今どこに行ったのか、俺は見当もつかない。 俺の生活には勝手に入り込んでくるくせに、自分のことは何も見せない。 『ほら、教えてごらん。欲張りさん』 何が、欲張りさん、だ。 お前が何も教えてくれねえから、だから、俺だけこんな。 ……俺だけ。俺ばかり、お前を気にしてる。 「……ナツ」 耳の奥で、吐息が跳ねるような声が返った気がしたのに、聞こえるのは蝉の声だけだった。 鞄を自分の部屋へ置き、着替えを持って洗面所へ入る。汗の染みたワイシャツを脱ぎ、顔と腕を水で流してから、部屋着のTシャツと短パンに着替えた。 冷たい水に触れれば多少は頭も冷えると思ったのに、鏡を見ると眉間にはまだ皺が寄っている。 ナツにからかわれたことが腹立たしいだけだ。 勝手に人の考えていることを言い当てて、勝手に嬉しがって、説明もしないまま消えやがって。 ……くそ。 むしゃくしゃする気持ちを持て余しながら洗面所を出て、廊下からリビングへ向かった。 扉を開けても、やっぱりナツはいない。 大きな窓の向こうには、夕方の明るさがまだ庭へ残っていた。 傾いた日差しが葉の端へ引っかかり、風が通るたび細かな光が揺れている。 絨毯の上には鮫のぬいぐるみが転がっていた。 朝に見た時はビーズクッションの横にあったはずなのに、今は窓の近くで腹を上に向けている。 ナツが動かしたのか、本人の言う通り鮫が勝手に泳いだのかは知らない。 拾い上げる気にもならず、そのまま台所へ入った。 冷蔵庫を開ける。 冷気が顔へ触れ、ようやく身体にまとわりついていた暑さが少し引いた。 中には豚肉と、半分残った玉ねぎ、茄子、味噌汁に使えそうな豆腐がある。 一人なら適当に済ませてもよかった。 米は朝に炊いた分が残っているし、作り置きを温めるだけでも十分だ。 それなのに豚肉を取り出し、野菜室から茄子も出した。 玉ねぎを切り、茄子は少し大きめに切って、豚肉と一緒にフライパンへ入れる。 味噌汁の鍋にも、水を少し多めに入れた。 豆腐を切りながら、手が止まる。 一人分なら、こんなに要らない。 フライパンの中にも、明日の朝食だけでは余るくらいの量がある。 味噌汁だって、一杯飲むだけなら鍋の底が隠れる程度で足りた。 「……多すぎるだろ」 誰もいない台所で呟く。 ナツが食べるかもしれないと思った。 思ってしまった。 あいつは食べる日もあれば、食べない日もある。昨日まで普通に菓子を食っていたくせに、今日は口がないなどと意味の分からないことを言う時もある。 そもそも今どこにいるのかも分からない。 家の中にいるのか、外へ出たのか。 食事ができる頃に戻るかどうかも知らない相手の分を、俺は何の迷いもなく作っていた。 味噌汁の量だけ、二人分が染みついている。 「……別に、多めに作った方が楽だし」 冷蔵庫へ入れておけば明日も食べられる。 一度にまとめて作った方が効率もいい。豚肉だって中途半端に残すより、全部使った方が傷まない。 誰に説明するでもなく頭の中で並べた理由は、どれも間違ってはいなかった。 間違っていないはずなのに、妙に苦しい。 鍋の中で味噌を溶き、火を止める。 フライパンの方も皿へ移し、冷蔵庫から朝の残りの米を出して電子レンジへ入れた。 いつもの流れで食器棚を開く。 茶碗を一つ取り出し、その隣へ手を伸ばしたところで指が止まった。 「…………」 出してどうする。 手を引く。 次に汁椀を取ろうとして、また二つ重なった椀へ目が行った。 いつから二つずつ置くようになったのだろう。 引っ越したばかりの頃は、食器なんて一人分しかなかった。来客用が必要だと思って増やしたわけでもない。 ナツが使う日があるから、一つ増えた。 箸も、茶碗も、汁椀も、麦茶を飲むコップも。 予備だと言い張れば、それで済む程度のものばかりだ。 それでも全部、ナツがいることを前提に、この家へ増えていった。 俺はあいつの顔も、本当の名前も、どこで暮らしてきたのかも知らない。 なのに、どの茶碗を使うかは知っている。 少し小さめの薄い青色の茶碗。 初めて出した時、ナツはどことなく楽しそうに触っていた。 それからずっと同じものを使っていて、食べる前に必ず一度茶碗を撫でる。 知ってる。 そういうことばかり、知ってる。 味の濃いものを好むこと。魚は骨を取るのが面倒だと文句を言うこと。 熱いものは平気なくせに、冷たい豆腐を妙に気に入っていること。 どうでもいいことばかり知っていて、肝心なことは何も知らない。 「……なんだよ」 落ちた声は、妙に寒々しくその場に響く。 茶碗も汁椀も一つ。箸も一膳。 それだけを盆へ乗せて、リビングのテーブルまで運んだ。 『本当は何聞きてえの』 食べている間も、ナツの声が何度も耳の奥へ蘇る。 「……うるせえな」 声に出しても、本人はいない。 本当に、いてもいなくてもうるさい。迷惑なちび。 腹が立つ。腹が立つことに、さらに腹が立つ。 知りたいことなら、いくらでもある。あるに決まってる。ばかじゃねえの。 『まだ俺のことわかんねえの? ……ほんとうにこまった子だな』 お前こそわからねえのかよ。 俺がお前のことを知りたがってるの、わかってるんだろ。 なのになんで教えてくれねえの。なんでわかってくれねえの。 ナツはすぐ俺に「分かってない」と言う。 俺から言わせれば逆だ。お前だ。分かってないのは、お前だろ。 お前のことを知りたくないなら、なんでこんなに苦しいんだよ。 そんなこともわからねえの。 問い詰めても、当の本人は俺を見て笑う。欲張りさん、と。何が嬉しいのか声を弾ませる。 俺が悩んでるのを、まるで喜ぶみたいに。 「…………さいあく」 夕食を済ませて、流しで食器を洗う。 水の音へ紛らせるように呟いても、腹の底に淀んだものは少しも流れていかなかった。 ◇ 風呂を済ませ、自分の部屋へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。 襖を閉め、布団を敷く。 昨夜と同じように、ナツは来なかった。 廊下から足音も聞こえず、襖の向こうに気配もない。空き部屋やリビングにいるのかもしれないが、確かめに行く気にはなれなかった。 探したと思われるのは癪だ。来たいなら、勝手に来ればいい。 灯りを消し、布団へ横になる。 暗闇に目が慣れると、天井の木目がぼんやり見えてきた。 窓の外では虫が鳴き、時折、まだ生き残っている蝉の声も混ざる。 昨夜は、空いた布団の熱が気になった。 今日は違う。 暑さよりも、ナツの言葉が頭から離れない。 寝返りを打って壁側を向いても、声だけが追いかけてくる。 『まだあるだろ』 うるさい。うるせえ。だから、あるって言ってんだろ。 そんなもん、いくらでもある。 どうして最初に俺を助けたのか。 どうしてもう来るなと言って、それでも川では戻ってきたのか。 どうして見合いの話で怒って、今は俺を欲張りだと嬉しそうに笑うのか。 どうして俺にすぐくっついて、妙に甘ったるい声でからかうのか。 面の奥から、何を見ているのか。 俺のことを、何だと思っているのか。 一つ浮かぶたび、次が続く。 知りたいことが多すぎる。 昔は、呼べば返事をしてくれるだけでよかった。 会えなくなってからは、何者でもいいから戻ってきてほしかった。 それなのに今は、戻ってきただけでは足りない。 知らないことが一つ見つかるたび、そこへ指を入れてこじ開けたくなる。 一つでいいはずがない。 どれかを知れば、その奥まで欲しくなる。 面の下も、名前の先も、俺のいない時間も。 ナツが隠しているものを、全部。 「………」 寝返りを打つ。 目を閉じても、白い面が浮かんだ。 あの面の向こうに何があるのか。 ナツはどんな顔で俺を見ているのか。 泣いた時も、怒った時も、名前を呼んだ時も。 川で俺を助けた時も、もう来るなと言った時も、もういなくならないと告げた時も。 俺は一度も、ナツの顔を見たことがない。 それなのに、ナツはずっと俺を見ていた。 俺だけが見られている。 俺だけが何も知らない。 「……ずるいだろ」 小さく呟いても、返事はない。 しばらく耳を澄ませた。 襖の外にも、廊下にも、ナツの気配はなかった。 呼べば返事をするだろうか。 「……、……っ」 名前を口にしかけて、やめる。 今呼んでナツが来たら、俺は何を聞く。 何を聞けば、何を知れば、俺は満足できる。 「………ちがう」 何を聞いても、この苦しさが、痛みが収まることなんてない。 多分、知りたかったのは最初から、そんなものじゃない。 顔が分かればいいわけでも、名前を聞ければいいわけでもない。 何か一つを教えられたところで、足りるはずがない。 俺はただ、ナツが欲しい。 ナツが欲しいから、いつまで経っても満足出来ない。 ナツが欲しいから、知らないことがただただ苦しい。 「………は、……」 欲しい。何が。誰が。 俺が、ナツを? 「…………っ」 その考えへ辿り着いた途端、身体の奥が熱くなった。 俺の知らないナツがいることが嫌で、そこへ俺以外の何かが触れていたかもしれないと考えるだけで、息が苦しくなる。 俺の知らない場所を残さないくらい、全部。 ナツが欲しいから、知らないところがあるたびに痛い。 夏の夜のせいではない。 布団へ顔を押しつけても、耳の奥ではナツの楽しそうな声がいつまでも消えなかった。

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