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04-34.お前はどうなんだ
次の日も、仕事は普通に過ぎていった。
窓口へ来る住民に書類の説明をして、端末へ必要事項を入力し、押印漏れを見つけて差し戻す。
電話を取り、岩美さんや先輩たちに確認し、昼休みには自分で持ってきた弁当を食べた。
特別なことは何もなかったのに、ふと手が止まる瞬間が何度もあった。
そのたびに、昨夜の自分の考えがどこからかせり上がってくる。
ナツが欲しい。
俺の知っているところも、知らないところも。
全部、欲しい。
ナツの全部が欲しい。
思い出すだけで腹の底が熱くなって、何かが体の中から飛び出していきそうになる。
知りたい。
でも知りたいだけじゃない。
欲しい。
でも多分、それもそれだけじゃない。
『欲張りさん』
そう言って楽しそうに笑うナツ。わかってねえ、とうそぶくナツ。
ああ、そうだよ。
俺は多分、お前が言う通り欲張りなんだろう。
お前の言う通り、わかっていないことだって沢山あるんだろう。
でも、お前が思ってるよりも、もっと欲深い。
お前が思ってるよりも、俺は分かってる。
だって、今ちゃんとムカついてる。悔しいくらい、腹が立ってる。
知らないこと以上に、俺だけが欲しがっているようで、癪に障る。
……俺だけ。俺だけなのか。
『欲張りさん』
なあ、「欲張りさん」なのは、俺だけ?
知りたいのも欲しいのも、俺だけなのかよ。
お前はいつもそうやって俺をからかうけど、それだけなのかよ。
定時になる頃には、頭の中がぼんやりしていた。
仕事は片づいた。挨拶をして、鞄を持って役所を出る。
空は昨日より少し曇っていた。
雲の隙間から薄い夕日が落ちていて、道端の草の先だけが鈍く光っている。
風の底には少しだけ乾いた匂いが混じっていた。
夏がまだ居座っている。でも、もう夏だけではなくなっている。
歩き慣れた道を進み、家の門が見えてきて、足が少し鈍った。
昨日みたいに玄関の前で立ち尽くすつもりはなかった。
あんなのを毎日やっていたら、自分の家へ帰るたびに不審者になる。
門を開け、庭を抜ける。縁側の方へ目を向けても、白い面は見えなかった。
空き部屋の窓も閉じたままで、中の様子までは分からない。
玄関の引き戸を開ける。
「ただいま」
返事はない。
昨日と違って、それに動揺することはなかった。
靴を脱いで揃え、廊下へ上がる。薄暗い奥へ目を凝らしても、ナツの気配はなかった。
「……いねえの」
独り言だけが廊下へ落ちる。
部屋へ鞄を置き、着替えを済ませてからリビングへ入った。
作りすぎたおかずと味噌汁を温め、茶碗も椀も一つだけ出す。
食べ終わっても、食器を洗っても、ナツは戻らなかった。
夜が近づくにつれ、家の中の音が増える。
風呂を早々に済ませて、しばらくリビングのテーブルの前に座っていた。
窓の外は暗い。庭の奥で虫が鳴いている。
蝉の声はもうほとんど聞こえないのに、ときどき思い出したように短く鳴いた。
「………」
向かい側には誰もいない。
白い面も、膝を抱える細い身体も、勝手に俺の皿へ手を伸ばしてくる指もない。
そうやって、居ないものばかり確認している自分に一番腹が立つ。
探しているみたいだ。
待っているみたいだ。
……みたい、じゃなくて。多分探してる。
待ってる。
きっとずっとそうだった。
あいつの言う通り分かってなかっただけで。
でももう分かった。
分かってしまった。
何となく手持ち無沙汰になって、椅子から立ち上がろうとした時だった。
リビングの扉が、音もなく少し開いた。
廊下の暗がりから白い面が覗く。
いつからそこにいたのか分からない。
昨日と同じように、気づいた時にはもう家の中へ戻ってきている。
「……ナツ」
「なに」
悪びれない声。いつものナツ。
「どこ行ってたんだよ」
思ったより低い声が出た。
ナツは扉の隙間からするりと中へ入ってきた。濃い影の中でも、白い面だけがやけにはっきり見える。
片頬の朝顔が、リビングの灯りを受けて藍色に沈んでいた。
「散歩」
こちらの苛立ちを分かった上で、わざと何でもないように答えている。そんな気配がする。
「どこを」
ナツはリビングの入口に立ったまま、首を少し傾けた。
俺が居るテーブルの辺りまでは、まだ数歩ある。
近づこうと思えばすぐ近づけるのに、あえてそこで止まっているように見えた。
「その辺」
「その辺ってどこだよ」
口にした瞬間、昨日からずっと胸の中に絡まっていたものが、またぎゅっと締まった。
地名を聞けば満足するわけでもない。
ただ、ナツがこちらの生活へ当たり前みたいに戻ってきたその足で、どこから来たのかを何でもないことみたいに濁すのが嫌だった。
知りたい。
教えてほしい。
わからねえのってからかうくらいなら、何で答えてくれない。
ナツの肩がわずかに揺れる。
笑っている。
昨日と同じだ。俺が苛立つほど、こいつは機嫌よくなる。
問い詰めているはずなのに、ナツの方がこちらを待っているような顔をする。
「また知りてえの?」
甘さを含んだ声が、リビングの空気に落ちた。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
馬鹿にされていると思えば楽だった。でも、違う。違うことだけは、分かる。
ナツは楽しんでいるだけではない。俺が逃げずに言うかどうかを見ている。
いつものように否定すればいい。
誰が。知りたくねえよ。
そう言って話を切れば、今まで通りの軽口に戻ることはできる。
それなのに、喉の奥まで上がってきた言葉は、もうそこで止まらなかった。
だって、俺はもう知ってる。分かってる。
自分の中でずっと沈殿していた感情に、名前をつけてしまった。
もう、戻れない。
気付かなかった頃には、もう戻らない。
「知りたいよ」
リビングの中が、少しだけ静かになる。
外で鳴いていた虫の声が遠ざかったのか、自分の耳が勝手に拾うのをやめたのか、分からない。
ナツの面だけが、さっきより近く感じた。
「どこから?」
嬉しそうだった。
声の奥が弾んでいる。
プレゼントの箱を開ける前の子供みたいで、同時に、その箱の中身を最初から知っているようでもあった。
どこから。
そんなふうに聞かれるほど、俺の中にはもう積み上がっているのだとナツは分かっている。
分かっていて、待っている。
テーブルへついていた手に力を入れた。木の縁が指の腹へ食い込む。
言いたいことならあった。
昨日どこにいたのか。なぜ部屋に来なかったのか。俺のことを何だと思っているのか。
どうして嬉しそうに笑うのか。どうして分かっているくせに、何も教えてくれないのか。
からかってるのか、それとも。
「……、」
一番奥でずっと引っかかっているものは決まっていた。
子供の頃から、ずっと。
山の中で初めて会った時から、冗談みたいに言われ続けてきた言葉の向こう側。
「顔」
ナツが笑った。吐息が跳ねる。
さっきまでの甘い調子とは少し違った。
リビングの空気が、急に薄くなる。
「見たら死ぬぞ」
声は笑っていたのに、どこか冷え切っている。
首筋へ、川の水を浴びせられたみたいな怖気が走る。
テーブルの上に伸びていた俺の影が、灯りの加減とは違う形で揺れた気がした。
窓の外の虫の声が引いていく。
リビングの壁も、天井も、台所の方に置いた食器の気配も遠くなる。
目の前にいるナツだけが濃くなっていった。
白い面。
片頬の朝顔。
細い手足。
子供の姿をしたまま、そこにいるものの輪郭だけが、急に底の見えないものになる。
夏が部屋の中へ沈んでくる。
もう夜で、外には秋の気配さえ混じり始めているのに、ナツの周りだけが真夏の山の奥みたいだった。
湿った土と、濃い葉と、耳を塞ぎたくなるほどの蝉の声が、記憶の中から一度に戻ってくる。
息が詰まった。
「………っ」
怖い。
それは間違いなかった。
子供の頃なら、嘘つけ、と言えた。
どうせ見せる気もないくせに、脅し文句ばかり覚えやがってと、無理やり笑うこともできた。
今は笑えない。
ナツの声が嘘ではないことを、身体のどこかが分かってしまっている。
見たら死ぬ。
その言葉の意味を俺は知らない。知らないまま、何年も聞き流してきた。
日常の中で雑に扱い、何でもないふりをしてきた。
それでも、今ここで退いたら、多分またナツだけが見えている場所へ戻る。
俺は面の向こうにあるものを見られないまま、ナツにだけ見られ続ける。
また俺だけお前に焦がれて。お前はそれを面白がって笑う。
いつまでたっても、俺だけお前に届かない。
「……ナツは」
声が掠れた。
ナツは動かなかった。
リビングの入口に立ったまま、白い面だけをこちらへ向けている。
「なに」
いつもの短い返事。
それなのに、その奥にあるものが、じっと息を潜めている気がした。
「俺に見て欲しいと、思わねえの」
言葉にした瞬間、自分でも少し驚いた。
俺が聞きたかったのは、それなのか。
見せろ、と責めたいのではなく。
どうして隠すんだと怒りたいのでもなく。
お前は俺に見られたいと思ったことがないのかと、そう聞きたかったのか。
「………」
ナツは何も言わなかった。
さっきまで部屋を満たしていた圧が、ほんの少しだけ形を変える。
刺すようだった空気が揺れ、面の朝顔の藍が濃く沈んだように見えた。
俺は座ったまま、ナツから目を逸らさなかった。
怖い。でも、もう退きたくない。
だって。
だってお前ばっかり、ずるいだろ。
「お前、出会った時からずっと『見たら死ぬぞ』ってそればっか言うけど。お前はどうなの」
喉が乾いている。
声が少し震えた気がして、奥歯を噛む。
ナツの面は動かない。
それでも、さっきまで俺をからかっていた息の弾みが消えているのは分かった。
ナツが黙っている。いつものように笑って誤魔化さない。
「俺に見せたいと思ったこと、ねえのかよ」
言い切ると、リビングの中に俺の声だけが残った。
窓の向こうで、遠くの虫が一匹鳴き始める。
それでもナツは何も言わない。
俺ばっかり。
俺ばかり、お前を求めてる。お前を欲しがってる。お前を知りたがってる。
なら、お前は?
お前はどうなんだ。
俺が欲しがるように、お前は俺を欲しがってはくれてねえのかよ。
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