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04-35.わからねえ

「………」 沈黙が続いた。 俺をからかう時の楽しげな息も、こちらの反応を待つ甘ったるい沈黙もない。 言葉を探しているような、困ったような、俺の知っているナツらしくない間が落ちている。 見たことのないナツ。 顔なんて見えないのに、ちゃんと分かる。 だって俺は、俺といる時のナツだけは知ってる。 それだけは、誰よりも分かる。 「ナツ」 名を呼ぶ。 ナツ。 俺が付けた名前。 何度も呼んで、山の中でも、川辺でも、この家でも呼んできた名前。 呼べば返事があるものだと思っていた名前。 返事がなければ、苛ついて、不安になって、それでもまた呼んでしまう名前。 ずっとそばにいた、俺のナツ。 ふ、と足元まで満ちていた圧がほどけた。 遠ざかっていた虫の声が、少しずつ戻ってくる。窓の外の庭で、何か小さな生き物が草を揺らした音がした。 さっきまでナツだけが濃かった世界に、家の音が戻ってくる。 「………俺に、何て言わせようとしてんの?」 ようやく聞こえた声は、いつもより少し低かった。怒っているのか、困っているのか、分からない。 少なくとも、さっきみたいに笑ってはいなかった。 「何も。聞きたいだけ」 随分勝手なことを言っている。 他人事のようにぼんやりとそう思って、でも撤回する気はなかった。 聞きたいだけ。 その言葉の中には、たぶん全部入っている。 見せたいのか。 欲しいのか。 苦しんでいるのは、悩んでるのは、俺だけなのか。 お前はどうなんだよ。 「………」 面の奥の目は見えない。 いつもみたいに一言で切り捨てるでもなく、俺を茶化すでもなく、ただ何かを考えるように黙っている。 その沈黙を見ていたら、喉の奥に残っていた熱が別の形で膨らんだ。 「見合い」 「……は?」 ナツの声が、素に戻る。 その反応に少し笑う。途端にナツがむくれたように黙り込んだのが分かった。 すぐからかう。そのくせ、何でもないことにすぐ拗ねる。 俺の知っている、俺だけのナツ。 「見合い受けて、喧嘩したろ」 「……今する話か?」 ナツがまだ戸惑っている気配がする。場違いに、何だか妙に楽しくなってくる。 少しだけ、昨日までのナツの気持ちが分かった。 困らせるのは、楽しい。 「ナツがなんも喋んねえから、代わりに話してる」 「………」 不貞腐れてるのか、まだ意味が分かってないのか、或いはその両方か。 黙り込むナツを見ながら、考える。 見合い。そう、多分そこからだった。 俺がナツに何を求めているのか自分で分からなくなって、でもナツが怒ったことだけがまだ胸の中に残ってる。 あの時から、自分の中にあるものを見ないふりできなくなっていた。 手の力を抜こうとして、うまくいかない。 指先が少し冷たい。 さっきまでの妙な楽しさと裏腹に、胸の奥が冷えている。 「ナツが俺に意味分かんねえってキレて。でも俺は、お前が怒ったのが嬉しかった。……いや、ムカついてた気持ちの方が強かったけど。でも、嬉しかった。お前ずっと何も言わねえしふらっとどっか行ったら2週間くらい音沙汰ない時もあったし、……俺のことどうでもよくなったのかとも思ってたから。いきなりキレられて正直意味わかんねえって言いたいのは俺の方だったけど、無関心じゃねえのはそれで分かったし」 言い終える頃には、息が少し乱れていた。 一気に喋りすぎた。 それでも止まらなかった。止めたら、またいつもの軽口に戻される。 ナツが何か分かったような顔で、顔は見えないけど多分そういう顔で、俺を「分かってない」と笑う前に、全部言ってしまいたかった。 「お前はほんとに何も分かってねえのな」 ほら見ろ。やっぱり言った。 ナツの声は呆れていた。いつものようにこちらを転がすための呆れ方ではなかった。 もっと奥の方で、どうしてそうなる、と本気で思っているような声。 一度冷え込んだ胸の中心が、また熱くなる。 「分かんねえよ。だってナツが何も言わないから」 「……言ってんだろ」 「言ってねえ」 「言ってる」 「言ってねえ」 声が重なる。子供みたいな言い合いだった。 今まで何度もしてきたくだらない口喧嘩と同じ形なのに、今回は全然くだらなくなかった。 ナツは一歩も近付かない。 俺も座ったまま動けない。 リビングの入口とテーブルの間にある数歩分の距離が、やけに長く見えた。 「言わねえだろ、いつも。……いつも、言わない。お前は言ったつもりなのかもしれないけど、俺には伝わってない」 口にした瞬間、自分の声が思ったより冷えていることに気づいた。 怒っている。 多分、ずっと怒っていた。 ナツが勝手に分かったようなことを言うたび。 意味の分からない理屈で俺を置いていった時も、戻ってきた後に当然の顔で家にいる時も、俺の前からいなくなることはないと言っておきながら、ふらっと姿を消す時も。 言っているつもり。 見せているつもり。 分からない俺が悪いみたいに笑う。 それが、ずっと悔しかった。 「……『もう来るな』」 「まだ言ってんの、それ」 「ずっと言うわ、俺の傷舐めてんじゃねえよ。……あの時だってそうだった」 言った瞬間、空気が少しだけ揺れた気がした。 見合いの日の夜と、今のリビングと、昔の山が重なり始めて、ぐちゃぐちゃに混ざり合い始める。 白い面。 夏の木漏れ日。 『早いなぁ』 少し眩しそうに笑った声。 『お前だよ。お前があの時、全部覆した。全部、台無しにした。折角私がお前の為を思って舗装した道を砕いて潰して壊した』 あの夜、そう言って怒ったナツ。 「多分お前は俺のためにそう言ってくれて、だからなんか俺のために道舗装しただの何だの意味分かんねえこと言ってたんだろうけど」 「分かるだろ、意味はよ」 「分かんねえんだよ俺には。置いていかれたことしか分からなかった。……お前が、」 息が途切れた。喉の奥が詰まる。 言葉が引っかかって、胸の内側を爪で引っ掻かれているみたいだった。 思い出す。 『もう来るな』 俺の言葉は何も聞いていなかった。 最初から受け付けていない。話し合う気なんてなかった。 結論があって、それを揺るがす気のない声。 俺が怒っても、噛みついても、泣いても、ナツの中ではもう決まっていた。 どうして。 どうしてナツ。 俺のこと嫌いになったの。何が悪かったの。 どうすればお前の傍に居続けられたの。 何でもする。何だってする。何でも差し出す。 お前の傍にいるための条件なら、なんだってきく。 もう一度会えるなら、なんだってする。 だから、なあ。 なあ、お願いだ。 聞いてくれよ。 俺の、俺の意思を、俺の気持ちを聞いてくれよ。 「お前が、俺を嫌になったんだと思った」 声にした途端、何かが崩れた。 リビングの灯りがぼやける。面の白も、朝顔の藍も、滲んで揺れた。 何もかもぼやけていく。 あの夏の俺と、今の俺の境目が、わからなくなる。 ナツ。 ナツ、どうして。 「……なんで俺のこと嫌いになったんだよ、ナツ。どうして、」 ナツは何も言わない。 違うと言えばいいのに。 いつもみたいに、馬鹿じゃねえの、と笑えばいいのに。 「どうして、俺の話聞いてくれなかったの」 一度こぼれたら、止まらなかった。 自分でも、こんなことを言うつもりじゃなかった。 今聞きたかったのはナツの欲だったはずなのに、口から出てくるのは、何年も前に山の中へ置き去りにしたままの言葉ばかりだった。 「どうして、お前のことをこんなに好きになるまで、俺のそばにいたんだよ」 言ってから、少しだけ息が止まった。 好き。 そう、俺はナツが好きだ。 今自分で言った。 ずっと好きだった。 ずっとそばにあったのに、当たり前すぎて、それに気付けなかった。 息がうまくできない。唇がからい。頬を伝ったものが口元へ届いて、塩っぽい味がした。 泣いている。 分かって、腹が立つ。 ここで泣くのかよ俺は。今さら。また。 大人になって、役所で働いて、人に書類の説明をして、見合いまで断って、そのくせまだあの夏の山で置いていかれた子供みたいに、また泣くのかよ。 見合いを断ったあの夜もそうだった。最近、涙腺が緩くなってる。 片腕で顔を拭う。 涙はうまく拭えなかった。手の甲へ濡れた跡だけが残る。 「………なんだそれ」 呆然とした声が耳に届く。 その声があまりにも本気で分かっていなさそうで、少し笑いそうになった。 笑えなかったけど。 「なんだもなにもねえんだよ。俺は、ずっとそう思ってた。……いや、好きだの何だのはあの時は気付いてなかったけど。いま気付いた。今っつーか多分昨日」 昨日。 布団の中で、ナツの声だけが頭から離れなくて、知らないところが痛くて、何を知っても足りないと分かってしまった夜。 ナツが欲しい。 そう思った夜。 「多分」 言いかけて、止める。 多分。 そうやって逃げるのは、違う気がした。 「……多分じゃなくて。俺は、お前が好きなんだと思う」 言い直す。 言葉にすると、思ったより頼りなかった。 好き。 そんな短い言葉で済むようなものではない。 腹が煮えくり返って、悔しくて、欲しくて、知りたくて、置いていかれたことをまだ許せなくて、それでもそばにいてほしくて、俺を欲しがってほしくて。 そんなものを全部まとめて、好きと言っていいのか分からなかった。 「……思うっつーか」 どう言えばナツに伝わるだろう。 恋だの愛だの、そういう言葉をナツがどう受け取るのか分からない。 前に自分で説明した言葉が、頭の中に浮かぶ。 『……要するに、特別同士が特別な関係を築くことが付き合う! で、更にそこから進んでずっと一緒にいる約束をして、一緒に生活して、一緒に生きてくのが結婚!』 あの時は、説明しているつもりだった。 ナツに人間の流儀を教えているつもりだった。 今になって、その言葉が自分の首へ戻ってくる。 「……ナツはずっと俺の特別だったし、今もそう。ずっと一緒にいたい、特別」 ナツは動かなかった。 面の奥で何を考えているのかは分からない。 どう受け止めているのか、そもそも受け止めてくれるのかすら分からなくて、少し緊張する。 俺はもう一度、息を吸った。 「お前が、好きだよ」 口にすると、喉の奥が焼けるみたいだった。 さっきまで泣いていたせいかもしれない。 ずっと言わずにいたものを外へ出したせいかもしれない。 「誰よりも、何よりも、ナツが好きだ」 リビングの中に、その言葉だけが残った。 虫の声も、家の軋む音も聞こえているはずなのに、しばらく何も耳へ入ってこなかった。 ナツは黙っている。 「………」 何かを言おうとして、でも止めて、逡巡しているような気配がする。 気配だけ。見えないから実際には分からない。 もう俺も何も言えない。 これ以上、言葉が見つからない。 喉が乾いて、息が苦しくて、頭がぼんやりする。 「聞いてねえ」 小さな声だった。 ナツらしくない、ぽつりと落とすような声。 「言ってねえし」 「……聞いてない。なんだ好きって。欲しい、じゃなくて? 好き……?」 俺は一瞬、涙の止まらない顔のまま固まった。 『漸く、自覚したんだな』だの何だの言っておいて、そこは分かっていなかったのか。 俺がお前を好きなことに気付いて言ってたんじゃねえのかよ。何を自覚したって言ってたんだよ。 とことん俺達は認識がずれてる。 喉の奥が熱いまま、変な笑いが込み上げそうになった。 笑える状況じゃないのに。 泣いているし、告白みたいなことまでしたし、ナツはナツで聞いていないと呆然としている。 普通ならもっと空気が変わるはずなのに、俺達の間に残ったのは、やっぱりどうしようもないくらいの「わからねえ」だった。

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