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04-36.言った
「好きは好きだろ」
「聞いてねえ」
「だから言ってねえんだって」
「聞いてない」
同じ言葉が何度も行き来する。
リビングの中に戻っていた虫の声が、今度は妙に間の抜けた音に聞こえた。
さっきまで泣いていたせいで、鼻の奥が痛い。手の甲で拭った頬はまだ濡れていて、少し冷えている。
ナツは近づいても来ない。逃げもしない。ただ白い面をこちらへ向けたまま、まるでそれしか言えなくなったみたいに「聞いてない」と繰り返している。
その様子があまりにもナツらしくなくて、棘のような痛みを持て余したまま別の苛立ちがじわじわ上がってきた。
しつけえな。
「うるせえな、だから今言ったんだよ。その前に聞いてる訳ねえだろ!」
「もっと前に言えよ」
本当に、何を言ってるんだこいつは。
こっちは今ようやく気付いて、口にしたばかりなのに。
涙まで出て、喉の奥は焼けて、頭の中もぐちゃぐちゃで、それでもどうにか言ったのに。
もっと前。
その言葉で、置いていかれたあの夏が体の中心へ刺さる。
「お前がその前に居なくなったんだろうが。仮に俺がもっと前に……お前が消える前に気付いて言ったところで、お前俺のそばにいたのかよ。どうせ『もう来るな』って言っただろ」
「………それは」
ナツの声が詰まった。
ほんの少しだけ、面が下がったように見えた。実際に俯いたのか、灯りの角度で朝顔の藍が濃くなっただけなのかは分からない。
ただ、言い淀んだ。
ナツが言い淀むところなんて、あまり見たことがない。
いつだってこいつは、意味の分からない理屈でも自信満々に言い切って笑っていた。
それが今は、言葉を止めている。
「お前は人間だから」
「そうだな。お前はなんだよ」
「………俺は」
ナツの言葉がそこで切れた。
空気がまた少しだけ重くなる。さっきみたいに押し潰されるほどではない。
それでも、畳んだままの夏の夜が、入口のあたりにじっと溜まっているような重さだった。
お前は人間だから。
それならお前は何だ。
ずっと聞きたかったはずのことだった。顔も、家も、名前の先も、何者なのかも。全部知りたかった。
知らないことがあるたびに痛くて、ナツが見せないもの全部をこじ開けたくなった。
なのに、いま目の前でナツが答えようとしているのを見た瞬間、胸の奥がひやりとした。
聞きたい。
でも、その答えでナツが遠くなるのは嫌だった。
人間じゃない何かだと分かっていた。
とっくに分かっていたはずなのに、ナツ自身の口からそれを言われるのが、急に怖くなった。
「ナツ」
名前を呼ぶと、白い面がこちらを向く。
お前が何であろうと、俺が呼べるものとして、俺が勝手に渡した名前。
「俺にとって、ナツはナツだよ。なんでもいいんだよ。……いや、よくはねえけど。教えてくれるなら知りたいけど、今はいい。……ナツがいてくれるならいい」
随分めちゃくちゃなことを言っている。
なんでもいいわけがない。知りたいことなら、いくらでもある。
それでも今、ナツが口を開く前に、どうしても伝えておきたかった。
俺は、何かを知ったからナツが欲しいわけじゃない。何も知らないままでも、ずっとナツの方へ戻ってきた。
山の中でも、川辺でも、この家でも。
「俺はお前がいればいい。他にはなにもいらねえ。……見合い断った日も言ったけど、ずっとそうだよ」
肌に纏わりつく暑さの中ナツと話した、あの夜のことを思い出す。
泣き疲れて、考えるのも面倒になって、ナツがいるならもういいと思った。あの時は、それが何なのか分かっていなかった。
でも、ずっと同じだったのかもしれない。
ナツがいるならいい。
ナツじゃないなら違う。
ただ、それだけのことを、随分遠回りしてようやく言葉にしている。
「……なってねえ」
「はあ?」
聞き返すと、ナツは少し間を置いた。
面の奥で、どんな顔をしているのかは分からない。
その声はさっきよりずっと低くて、最近の妙な甘ったるさもからかう時の軽い調子もどこにもなかった。
「嫌いになんてなったことねえよ」
息が止まる。
今さら。本当に今さらだ。
言うのが遅すぎる。何年分だと思っているんだ。
山を探して、川へ行って、いないことを毎年確かめて、嫌われたのかと何度も考えた。
それなのに、何年越しかの今、こうして容易く覆してくる。
あまりにも遅い。
……遅いのに。
それでも、聞きたかった。
ずっと、聞きたかった。
「そうかよ」
「なるはずがない」
「……うん」
短い返事しかできなかった。
喉の奥がまた詰まる。
もう泣きたくない。これ以上泣いたら、さすがに惨めすぎる。
嫌なのに、涙が勝手に盛り上がってくる。視界がゆらゆら揺れて、ナツの面すらぼやける。
「……言った」
「うん、聞いた」
「理解したか」
「した。嫌いになったことねえんだろ。分かった」
分かった、と口にすると、変な感覚があった。
ナツの声が身体の底の方へ落ちて、そこに長く刺さっていた棘へ触れる。
抜けるわけではない。傷がなかったことになるわけでもない。
それでも、刺さっていたものの名前が、少し変わる。
嫌われたわけじゃなかった。
置いていかれたことは変わらない。話を聞いてもらえなかったことも変わらない。
俺が何年もナツを探したことも、川で馬鹿みたいな賭けをしたことも、何一つ消えない。
でも、俺のことが嫌になったわけじゃなかった。
その事実だけで、少しだけ息を吸うのが楽になる。
「……そうか、『わかった』のか」
声が、ふいに遠くなった。
距離は変わっていないはずなのに、入口に立つ白い面の向こうで、俺の知らない深い場所が動いたような気がした。
ナツは俺を見ている。
面越しでも見えていると、そう言っていた。
今も、多分、俺の泣いた顔も、ぼろぼろの声も、分かったと言った瞬間の呼吸も、全部見ている。
「……そうか。そう、だから」
ナツが、ぽつりぽつりと言葉を落とす。
その声はもう、俺といつも喧嘩しているナツのものだけではなかった。
古い木の根の下から染み出してくる水みたいに、静かで、少し冷たい。
「だから、『わからなかった』のか」
すぐには答えられなかった。
ナツが何に辿り着いたのか、正直よく分からない。
ただ、ナツの中で何かの向きが変わったことだけは分かった。
俺の言葉を聞いている。
俺がずっと「分からなかった」ことを、ようやく少しだけ見ようとしている。
「よく分からねえけど、多分そう」
「よく分かんねえのか」
「言われてねえから、分かんねえ」
「そうか。……そういうものか」
何だか、今までずっと閉まっていた戸が、内側から少しだけ開いたような、そんな気配がする。
向こうに何があるのかはまだ見えない。
それでも、ナツが初めて、俺の分からなさを「理解力不足」だけで片づけずに見ている。
それが分かっただけで、さっきまでの涙とは違うものが込み上げる。
「私はお前のことがずっと理解力のないうつけだと思っていたんだが」
「おい」
反射で突っ込んだ。
今いい感じだっただろうが。
体の中が痛みでまだぐずぐずしているのに、その一言で変な力が抜ける。
うつけって何だ。馬鹿ってことか。言い方変えりゃいいってもんじゃねえんだよ。
ナツは本当に、こういうところで全部台無しにする。
それでも、いつもの悪態を混ぜながら、その奥で何かをちゃんと受け止めようとしているのが分かった。
「……そうか。私も、示し方が足りなかったのだな」
示し方が足りなかった。
ナツの口から出たその言葉が、やけに重く残って、息を飲む。
謝罪ではない。
多分、ナツは謝っていない。自分が悪かったと言っているわけでもない。
俺を置いていったことを、後悔している声でもない。
ただ、こちらへ届く形で、何かを置こうとしている。
ナツ自身が自分の中へ深く降りていくような気配がした。
俺は濡れた手の甲を膝の上で握りしめた。
多分ナツが初めて、俺に伝えるための言葉を探している。
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