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04-37.「見たら死ぬ」
「逆に何をどう示してたつもりだったんだよ」
涙の熱を押し込めながら、そう言った。
問い詰めるつもりだったのか、ただ間を埋めたかっただけなのか、自分でもよく分からない。
ナツの口から「示し方が足りなかった」なんて言葉が出た以上、聞かずにはいられなかった。
白い面が、少しだけ傾く。
その仕草はいつものナツに見えるのに、声の底だけがまだ沈んでいた。
「お前の家に居ただろ」
「寝そべってただけな」
「お前のことを待ってた」
「……それはしらねえ」
「俺を選んだくせに俺以外に目を向ける馬鹿を叱ってやった」
「上から目線やめろって言ってんだろ」
「欲張りさんに触ってやった」
「頼んでねえけど?」
どれも、俺にはただ好き勝手にやってるだけにしか見えていなかった。
それを全部、「示してた」つもりだったのか。
分かるかよ、そんなの。
「………お前の」
ナツの言葉が途切れる。
さっきまで混ざっていた軽口が、そこで急に消えた。
リビングの空気が急に湿度を増す。
窓の向こうでは虫が鳴いているはずなのに、その音が少しずつ薄くなっていく。
ナツの気配だけが、また濃くなる。
入口の暗がりに立つ姿だけが、妙にはっきり見えた。
「お前の声に応えた。……お前が私を喚んだ声に、応えざるを得なかった」
耳の奥が、急に水の中へ沈んだみたいになる。
ザアッと、川の音がした気がした。
実際にはリビングにいる。俺はテーブルの前に座っていて、ナツは入口に立っている。
足元に水なんてないし、服も濡れていない。
それでも、冷たい水の匂いが鼻の奥をかすめた。
あの川。
大学四年の夏。
俺が溺れかけた、あの夏の川。
「理が成った。お前が私を喚ぶ声で、私はナツになった」
意味が分からない。
分からないのに、体の芯が冷える。
理。
ナツが何度も口にしてきた言葉。
意味が分からなくて、適当に誤魔化すための言葉みたいに聞こえていた。
ずっとそう聞こえていたのに、何かが起きたのだと分かってしまう。
俺が知らない場所で、俺の声が、ナツの中の何かを変えた。
「お前が私をナツに定義した。固定した。切り離した。もう戻れない、戻せない」
「………」
息がうまくできない。
定義した。
固定した。
切り離した。
一つ一つの言葉が重い。
役所で扱う書類の言葉とは全然違うのに、どこか似ていた。
名前を書く。登録する。誰が誰であるかを決める。
そこに存在しているものへ、社会の中で通じる形を与える。
俺はナツに、そんなことをしたのか。
子供の頃、適当に呼んだ名前で。川で、半分やけになって呼んだ声で。
「もはや、戻りたいとも思わない」
ナツの声は、ひどく凪いでいた。
後悔しているようには聞こえなかった。責めているのとも、少し違う。
ただ事実を並べているようで、そのくせそこに触れたら火傷しそうな熱がある。
心臓が、握り潰されたように強く痛んだ。
ナツが俺のせいで何かに成って、もう戻れなくて、それでも戻りたくないと言う。
分からない。
そんなことを、俺はどう受け止めればいい。
分からないくせに、今ここにナツがいることが嬉しい。
分からないくせに、悔いる気持ちが一つも湧かない。
「………既に成った。もう遅い。戻れない。逃げられない。お前は私のもので、私も、」
そこで、ナツが止まった。言葉が切れる。
白い面の向こうで、何かを飲み込んだように黙っていた。
「……いや。喋りすぎた」
ぽつりと落ちた声は、さっきより少しだけいつものナツに近かった。
それでも、戻りきってはいない。
喋りすぎた、で済む話なのか。
私も、……その先は何だ。
聞きたい。
怖い。それなのに、妙な高揚がある。
多分、今ナツは、ナツの内側にあるものを俺に渡しかけた。
「………ナツ」
名前を呼ぶと、白い面がこちらを向いた。
お前が何を言ったのか、俺にはまだほとんど分からない。
それでも、呼べる。
今のナツも、分からないことだらけのナツも、俺の言葉で変わったらしいナツも、戻りたくないと言ったナツも。
全部、俺がナツと呼んだ。名付けた。
俺が呼んだ。
今も呼んでる。
「うん」
声に、お前が反応して、応える。
それだけは、ずっと変わらない。
「………」
返された声の柔らかさに、何だか泣きそうになる。
泣き止んだばかりなのに。
何を言えば良いか分からなくて、声にならない。
ナツはそれ以上何も言わない。
多分、俺の言葉を待っている。
「………俺、ただナツに会いたかっただけなんだけど」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
でも本当に、それだけだ。ただ、会いたかった。
どうしても会いたかった。
もう一度、山の中で白い面を見たかった。悪態を聞きたかった。
川辺で足を水に入れて、ラムネの瓶だの虫の名前だの、どうでもいい話をしたかった。
夏が来れば会えるものだと思っていたあの時間へ、もう一度戻りたかった。
それだけだった。
それだけでは、本当は足りていなかった。
「そうだな。ただ会いたくて、命まで懸ける」
ナツの声に、少しだけ笑みが戻った。
そのくせ、呆れと、責める声と、どうしようもなく甘いものが、同じところに沈んでいる。
『何をしているッ!!』
あの夏の怒鳴り声が、頭の奥で蘇る。
『ああ、……っやっとだ。やっと触れた』
冷たい川の水。震えた指先。濡れた服。ナツに掴まれた腕。怒られて、それでも笑ってしまった自分。
ざあまみろ、と言った時、確かに怖かった。
でも、嬉しかった。
もう触れられないと思ったナツの体温を感じられることが、うれしかった。
「お前はほんとうにばかだなあ」
息が詰まる。
その声は、あまりにも甘かった。
馬鹿にされているのに、ただの罵倒ではない。
可哀想だと撫でられているようで、同時に逃げ道を塞がれているようでもある。
俺の選択を責めながら、その選択ごと抱え込まれているような声。
泣きすぎた喉が熱くなって、残っていた痛みが違う形で震えた。
「……で?」
「は?」
思わず間抜けな声が出た。
「どうする」
「何が」
聞き返しながら、もう分かっていた。
多分、ナツはさっきの問いに戻っている。
俺が聞いたこと。
俺に見て欲しいと、思わないのか。
見せたいと思ったことはないのか。
面。
ずっと見えなかったもの。
ずっと見たいと思っていたもの。
喉が鳴った。
「見たら、死ぬぞ」
ナツが笑う。
いつものようにからかっているみたいで、そのくせどこか甘いナツの声。
何度も聞いた言葉だった。
子供の頃から、ずっと。
――見たら死ぬぞ。
昔は、そんなわけあるかと思っていた。面の下を見られたくない子供の脅しだと思っていた。
今だって、どこかではまだそう思いたがっている。
さっきナツが言ったことが、まだ体中で渦を巻いている。
理が成った。
俺の声でナツになった。
戻れない、戻せない。
意味は分からない。分からないのに、今この言葉だけは、いつもの冗談として片づけられなかった。
「……ナツは」
「見せたい」
答えは、ほとんど重なるように返ってきた。
あまりにも迷いがなかった。
俺が最後まで聞く前に、ナツは言った。まるで、その答えだけはずっと決まっていたみたいに。
白い面の向こうは何も見えない。
それなのに今、どうしてか、ナツがまっすぐ俺を見ているのだけは分かった。
「見せたくなかった時なんて、なかったよ」
なにかが、ぐしゃりと潰れた。
もう散々泣いたのに、また涙腺が緩む。
見せたかった。
ずっと。
その言葉だけで、今まで見てきた全てが色を変える。
面のことを尋ねるたびに言われた「見たら死ぬぞ」。
子供の頃、怖くて目を閉じたこと。
大人になっても、冗談みたいに扱ってきたこと。
俺だけが見えないと思っていた不公平。
その裏に、ナツの「見せたい」があったのなら。
俺は、ナツのことをどれだけ分かっていなかったんだろう。
ああ、見たい。
ナツが今どんな顔をしているのか、見たい。
面の奥で、どんな目をしているのか。
さっき「嫌いになんてなったことねえよ」と言った時、どんな顔だったのか。
俺を馬鹿だと言って甘く息を弾ませる時、本当に笑っているのか。
知りたい。
欲しい。
見たい。
全部が一つになって、身体の奥からせり上がってくる。
テーブルに置いていた手を離した。
足に力を入れると、膝が少し頼りない。座りっぱなしだったせいか、泣いたせいか、それとも別の理由なのかは分からない。
立ち上がる時、縁へ指先がかすった。木の感触が妙に現実的なのに、頭はずっとくらくらして、夢の中にいるみたいだ。
廊下の暗がりを背にした白い面は、部屋の灯りを受けて少し黄ばんで見える。
片頬の朝顔の藍だけが、静かに沈んでいた。
ゆっくりと歩み寄る。もう一歩近付いて、手を伸ばした。床板が小さく鳴る。
指先が面に滑る。思っていたより、冷たかった。
陶器とも木とも違う。骨のような白と言えばそうかもしれない。本当に骨なのか、焼き物なのか、何か別のものなのかは分からない。
表面はなめらかなのに、どこか古い。
朝顔の描かれた頬のそばへ指が触れると、細い蔓の線だけがわずかに凹んでいるような気がした。
ナツは何も言わない。
逃げない。
止めない。
ただ、俺の指の下で、白い面だけが静かに在る。
指が震える。喉の奥があつい。首の裏が熱をもって、目眩がする。
ここまで来たのに、怖い。
怖いに決まっている。
――見たら死ぬぞ。
何度も聞いてきた言葉が、今になって重さを持って戻ってくる。
死ぬって何だ。どうなる。ナツは何を知っている。俺は何を選ぼうとしている。
分からない。
分からないのに、指は離れない。
「……、……ッ」
声にならなかった。
面の端を探す指先が、うまく動かない。紐も留め具も見当たらない。
ただ顔に貼りついているみたいな面の輪郭を、爪の先がたどる。
ナツはまだ黙っている。
白い面越しに、見られている。
「死ぬぞ」
また、ナツが言う。
脅しではない。からかいでもない。
俺を止めようとしているのか、選ばせようとしているのか、その境目は分からない。
ただ、その声にはさっきよりずっと人間くさい揺れが混じっていた。
ナツが困っている。
今までずっと、困らされていたのは俺の方だった。分からないことを言われて、見えないものを見られて、知らないまま置いていかれて、好きだと気付くまで何年もかかった。
それなのに今、ナツも言葉を探している。
俺が手を伸ばしているから。
俺の行動に、ナツが揺さぶられている。
その事実に頭の奥が熱くなる。
怖いのに、それ以上に、酩酊するような昂ぶりがあった。
「見ると、死ぬ。……言った。聞いたな?」
「聞いた」
「理解したか」
「した」
嘘かもしれない。
いや、嘘ではない。
本当に理解しているのかと聞かれたら、多分、していない。
死ぬの意味も、理の意味も、ナツが何を隠しているのかも、何一つちゃんとは分かっていない。
それでも、聞いた。
聞いた上で、ここにいる。
今度は、知らないまま置いていかれるのではなく、知らないままでも自分で手を伸ばしている。
ナツが黙る。
面に触れた指先の下で、ほんの少しだけ空気が震えた気がした。
俺の呼吸なのか、ナツの気配なのか、もうよく分からない。
目の前には、ナツだけがいる。
「……ああ」
ナツの声が、深く甘く沈む。
「こまった子だ、ほんとうに」
その言葉に、息が震えた。
困っているのはこっちだ。そう言い返したかった。言い返すべきだった。いつもの俺なら、絶対に何か言っていたと思う。
今は、言葉が出てこない。
ナツの声が耳の奥へ絡みついて、指先が熱すぎて、面の下にあるものを前にして、喉がうまく動かなかった。
「ばかだなあ」
言葉と裏腹に、ナツの声はとてもやわらかかった。
甘くて、怖くて、やさしくて、逃がさない声だった。
その声を聞きながら、俺はもう一度、面の端へ指をかけた。
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