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04-38.知らない、知ってるおとこ
何かが剥がれる感触はなかった。硬いものを持ち上げる重さも、紐が解ける頼りなさもない。
それなのに、白い面の輪郭が一瞬だけぶれて、朝顔の藍が水面に落ちた絵の具みたいに揺れた。
虫の声も、台所の暗がりも、背中側にあるテーブルも、一度全部、薄い膜の向こうへ沈んでいく。
手の中に何かが残った気がしたけど、見下ろす余裕はなかった。
指先から冷たさが抜けていくのと同時に、目の前の白が消えて、その奥にいたものがゆっくりこちらを向いた。
「………ッ」
見たことがない筈なのに、何故かすぐにナツだと分かった。
さっきまで確かに、いつものナツだったのに。
今、目の前にいる男の輪郭は、少なくとも見慣れた「十三歳くらいの」ナツではなかった。
俺より少し上か、或いは同い年くらい。
俺の目の前にいたのは、夕立ちのあとに山の奥へ残る、濡れた暗がりを人の形にしたような男だった。
整いすぎていて、どこか温度が読めない顔立ちなのに、ほころんだ口元でナツだと分かる。
俺と同じように見える黒い瞳は、よく見れば藍色がちらついている。
襟足が少し首にかかっている髪も一見黒く見えるのに、角度によって藍色にも深い緑にも見えた。
夜の川底みたいな色だと思った瞬間、あの夏の水の冷たさが足元から蘇りそうになる。
顎からこめかみにかけて、朝顔の蔓の模様がある。
ナツの面に描かれていたものと同じ朝顔だ。
肌に蔓が滲んで、時々脈打っては濃淡に瞬いている。蔦を縫うように、うっすらと花が咲いているのが見て取れた。描かれているのではなく、そこに咲いているみたいだった。
綺麗だと思った。
思った後に、心臓がぎゅっと絞られたように痛む。
何だこれ。
こんな顔をしていたのか。こんな顔で、ずっと白い面の向こうから俺を見ていたのか。
俺だけ何も見えないまま、ナツだけ俺の顔を見て、俺が泣きそうなところも、怒っているところも、欲しがっているところも、全部見ていたのか。
目を逸らせない。
「………死なねえじゃねえか」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ナツの口元が更に綻ぶ。
朝顔の蔓がほどけるみたいだった。
面越しには分からなかった笑い方が、今は目の前で形になっている。
見慣れない顔なのに、その笑い方だけは知っている。
「もう死んだよ」
その声はさっきまでよりも、低く、艶やかだった。
遮るものがなくなったせいか、声の輪郭が直接肌へ触れてくる。
耳で聞いているはずなのに、頬や喉の内側まで撫でられたような感覚があった。
もう死んだ。
言葉だけが、白々しく浮いている。
俺は立っている。息もしている。手には外した面の感触が残っている。
心臓だって、さっきからうるさいくらい鳴っている。
「はあ?」
間抜けな声が、また出た。
死んだという言葉だけが、このリビングの中で不釣り合いに響く。
それなのに、ナツは当たり前のことを教えるみたいに笑っていた。
「死んだ」
さっきまで白い面があった場所に、ナツの顔がある。
自分の手を見る。指も動く。膝も、少し頼りないけど崩れてはいない。
「死んでねえけど」
言い返す声が少し掠れた。
泣きすぎたせいか、怖かったせいか、それとも目の前の顔にまだ慣れていないせいか、自分でも分からない。分からないことばかりだ。
ナツは、その分からなさまで見えているみたいな顔で笑う。
「そのうちわかる」
分かるわけねえだろ、と言い返したかったのに、すぐには声が出なかった。
言葉の意味は掴めない。
それでも、さっき面が外れた瞬間、何かがずれたことだけは分かる。
リビングの灯りも、家の匂いも、足元の床板も、全部今まで通りなのに、どこかに薄い隙間が開いたような感覚がある。
俺は何かを見た。
見てしまった。
そしてナツは、それを「死んだ」と言っている。
意味は、やっぱりよく分からない。
喉が乾く。
怖いはずなのに、怖いだけでは済まなかった。目の前にいるナツの顔から、どうしても視線が離れない。
「私のかわいい、透」
ぞわりと背筋が震えた。
名前。
ナツが、俺の名前を呼んだ。
今まで、ずっと呼ばなかった名前。俺が何度ナツを呼んでも、こいつは俺の名を呼ばなかった。
お前だの、馬鹿だの、欲張りさんだの、そういう言葉ばかり投げてきて、俺の名前だけは避けるみたいに言わなかった。
それなのに今、面のない顔で、当然みたいに呼んだ。
透。
俺の名前が、ナツの声の中でほどける。
音が、耳の奥から体の内側へ落ちてくる。ナツの口から出た瞬間、知らないものみたいに聞こえた。
途端に、顔に熱が集まる。
「は、はあ……!?」
泣いたせいだけじゃない。怖いせいだけでもない。ナツの顔を見て、名前を呼ばれて、それだけで自分の中のどこかが変なふうに揺れている。
最悪だ。
こんな時に、こんなことで動揺している場合じゃない。
そう思うのに、目の前の男は楽しそうに息を弾ませた。
「ふ」
ナツの吐息が弾む。
聞き慣れた音だった。聞き慣れた笑みの気配。
それなのに、見慣れない笑み。
面の下に隠れていた顔で笑われると、いつものナツのはずなのに知らない男にからかわれているみたいで、酷く落ち着かない。体中がざわざわする。
知らない。
でも知っている。
その矛盾が、ずっと目の前に立っている。
ムカつく。
動揺しているのが自分でも分かるから、余計に苛立つ。
だいたい何だ、その呼び方は。私の、って何だ。かわいいって何だ。
俺の名前を今まで一度も呼ばなかったくせに、面を外した途端、そんな当然みたいな顔で呼ぶな。
言いたいことが一気に湧いて、どれも喉で詰まる。
その間にも、ナツは楽しそうに俺を見ていた。
「間抜け面」
「あ?」
とんでもなく綺麗な顔で、とんでもなく失礼なことを言われた気がする。
言われた気がするというか、言われている。
朝顔の蔓が、頬の上でゆるく脈打つ。
笑ったせいなのか、灯りの揺れなのか、それとも俺の目がおかしいのかは分からない。
こっちは面が外れて、見たら死ぬだのもう死んだだの訳の分からないことを言われて、名前まで呼ばれて、頭の中がぐちゃぐちゃなのに。
その妙にお綺麗な顔で。
その妙に低く響く良い声で。
出てきた言葉が、それ。
あまりにもナツ。
「……お前が間抜け面」
「あ? お前だろ」
「お前だろうが間抜けの自乗」
「お前だトンマ」
「古くせえんだよ言葉がよ」
「自乗ってなんだ」
「………今度教えるわ」
言い返しながら、変な力が抜けた。
何をしているんだろう、俺は。
面を外した。ナツを見た。見たら死ぬと言われて、本当に死んだと言われた。
今も意味は分からない。怖い。
怖いのに、目の前のナツが知っているナツすぎて、いつもの調子で口喧嘩をしてしまう。
ナツは、知らない言葉に引っかかって、少しだけ不満そうに目を細めている。
その表情が分かる。
面がないから。
顔が見えるから。
今までなら声の調子や身体の向きで勝手に想像するしかなかったものが、目の前にそのままある。
呆れているのか、面白がっているのか、少し拗ねているのか。全部が分かるわけではない。
それでも、前よりずっと見える。
見える。
ナツが見える。
その事実が、遅れて胸の底へ落ちてきた。
不意に、視線が合う。一瞬だけ見つめ合った後、ナツの目元がゆるんだ。
ナツは面のない顔で笑っていた。
知らない顔で。
俺の知ってる笑い方で。
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