39 / 41
04-39.「透」
その後のことは、ところどころ妙にぼやけている。
夕飯は食べた。多分、食べた。
台所に立って、鍋を火にかけて、茶碗を出して、いつもより少し多い量をテーブルへ並べた記憶はある。
向かいに座るナツの顔を見ないようにして、結局見て、見たことに腹が立って、また目を逸らした。
面はテーブルの端に置いた。
さっきまでナツの顔を隠していた白い面が、今はただそこにある。片頬の朝顔は、部屋の灯りの下でも静かな藍色をしていた。
見慣れているはずのものなのに、外された状態で見ると、知らないものみたいだ。
ナツは、面がなくてもナツだった。
飯を食う時の仕草も、箸を持つ指も、俺の皿へ当然みたいに手を伸ばすところも、いつもと変わらない。
変わらないくせに、面がないことで表情がよく分かる。
味噌汁に口をつける時、眉が少し寄る。魚の骨を嫌そうに避ける時、口元がわずかに歪む。
俺と目が合うと切れ長の瞳が少し丸くなって、それから眦が柔らかく下がる。まるで、俺に見られることが嬉しいみたいに。
そんな細かいところが、いちいち見えてしまう。
ずっと鼓動がうるさい。
透、とほどけるように落ちてきた声まで、耳の奥で何度も勝手に再生される。
お前俺の名前、知ってたのかよ。……今更呼んでんじゃねえよ。
食器を洗って、風呂へ入り、髪を乾かして、布団を敷く。身体が動いている間も、頭の中がずっと騒がしい。
全部いつも通りの手順だった。それなのに、家の中の影の濃さまで少し変わったように見える。
廊下の暗がりも、襖の隙間も、台所の方から漂う湿った熱も、全部がさっきまでとは違う顔をしていた。
「………」
ひどく疲れた。
それなのに、意識だけが尖って妙に冴えている。
部屋の襖は、少しだけ開いていた。最近のナツは、勝手に入ってくる。面を外す前だってそうだった。
俺が何か言ったわけでもないのに、いつの間にか布団の横へ来て、当然みたいにそこへ寝転がる。
来ない夜の方が、かえって落ち着かなかった。
だから今夜も、来る気がしていた。
来るだろうと思っていたのに、襖の向こうに気配が立った瞬間、息が変に詰まる。
入ってきたのは、見慣れないナツだった。
俺と同い年くらいの男の形をしたナツが、いつもと同じように襖の向こうから姿を見せる。
さっき見た顔が、今度は俺の部屋の薄暗がりの中にある。
リビングの灯りの下で見た時より、髪の藍が深く見えた。頬の朝顔の蔓は、部屋の暗さの中でもうっすらと濃淡を変えている。
目が合う。
面越しではない。藍のちらつく黒い瞳が、まっすぐ俺を見ている。
ナツは長い睫毛をゆっくりと上下させた後、首を傾げる。
見慣れた仕草。それなのに、はじめて見る表情。
「なに、透」
「……っ」
面を外した声は、薄い灯りの中で余計に低く聞こえた。
名前を呼ばれただけで、体の内側が妙に揺れる。体中を撫でられたようで落ち着かない。
二度目だから慣れるなんてことはまったくなかった。
布団の上から起き上がる動きが少し遅れる。
「お前」
「なんだよ」
「……その名前呼び、何なんだよ」
漸く出した声は思ったより低く掠れていた。
怒っているのか、照れているのか、自分でも分からない。分からないことばかりでいい加減うんざりする。
ナツは一歩、部屋の中へ入ってくる。
襖の向こうの廊下から、夜の湿った気配が一緒に流れ込む。
今のナツは、以前より部屋の天井に近い。
背が伸びたというより、部屋の中に置かれた影の量が変わったみたいだった。
「呼んじゃいけねえのかよ」
「今まで呼ばなかっただろ」
「………」
沈黙も、面がないと妙に表情を持つ。
眉の動き、視線の置き方、唇の端に残るわずかな笑み、少し細められた目。
その全部が、俺の言葉を面倒くさがっているようにも、不貞腐れているようにも、ともすれば呆れているようにも見えた。
見える。
それだけで、肋骨の裏側が甘く締め付けられる。
「面の下見たんだから、もう呼んでもいいだろ」
「どういう理屈だよ」
「お前また分かんねえの? ……ああ、そうか。『言う』必要があるのか」
声が少し変わった。ほんの少しだけ考えるように視線を落としたことで睫毛に影が出来る。
ムカつくくらい整った顔だ。表情が見られることは嬉しいのに、何だか腹が立つ。
腹が立つのに、言葉を選ぶように逡巡するナツの姿にやわらかな何かが指先までじんわりと伝わっていく。
それが何だか癪で、少しだけ唇を引き結んだ。
『……そうか。私も、示し方が足りなかったのだな』
……多分、歩み寄ってくれようとしている。
「黒瀬透が死んだ」
ほんの少し温まった身体が、いきなり出た言葉にその熱を失う。まるで冷水を浴びせられたような心地に、ぎくりとかたまった。でもすぐに思い直す。
いや、死んでねえけど。
黒瀬透。
俺が俺として生活するために、どこにでも書いてきた名前。呼ばれてきた名前。
それが死んだと言われても、やっぱり意味が分からなかった。
死んでいたら、そもそも目の前の男にこんなに感情を揺さぶられることもない。名前を呼ばれて動揺することもない。……いや動揺はしてねえけど一例として。
「透との理が成った。だから呼べる」
「……?」
どういう意味だ。
ナツなりに以前より噛み砕いて説明してくれようとしているのは感じるけど、やっぱり意味が分からない。
理だの死んだだの、言葉ばかりが大きくて、詳しい内容が分からない。
黒瀬透が死んだ。
透との理が成った。
だから呼べる。
何がどう繋がってるんだよ。説明下手くそか。
「……お前の理何個あんの」
「理は数えるものじゃねえだろ、何言ってんだお前」
常識外の突拍子のないことを言い出した子供に呆れるような表情だった。
多分、馬鹿にしている。なんで俺がお前にそんな顔されなきゃいけねえんだよ。
原因は、お前だよ。お前の説明不足だよ。
顔が見えると腹立たしさが妙に具体的になる。
「………」
「今度はなに」
黙って見てしまっていたことに、言われてから気付いた。
言いながら、ナツが部屋の中へさらに入ってくる。
畳の上を歩く音はほとんどしない。
ちびだった時も、こいつはいつも足音が薄かった。気配だけ急に近くなるから、何度も驚かされた。
布団の脇に立たれると、見上げる形になる。
視線が勝手にナツの顔へ行っている。
頬に走る朝顔の蔓。髪の影。目の色。口元。
面の下にあったものを、俺はまだ見慣れていない。
「なんででかくなってんのお前」
その顔を見上げているうちに、気になっていたことが口から出た。
顔の衝撃と、名前を呼ばれたことと、死んだだの何だののせいで、後回しになっていただけだ。
さっきまでのナツは、少なくとも見慣れたちいさいナツの形をしていた。今目の前にいるのは違う。
どこからどう見ても、大人の男だ。
さっき見た時よりも、近いせいで余計に分かる。
肩の位置も、腕の長さも、首筋の影も、俺の知っているナツではない。
「……それも分かんねえの?」
「分かるわけねえだろ」
反射で返した。分かるわけがない。
どういう仕組みで成長したのかも、そもそもこれを成長と呼んでいいのかも分からない。面を外したら大きくなるなんて、そんな説明は一度も聞いていない。
聞いていたとしても信じたかどうか怪しい。
ナツは俺を見て、少しだけ口元を緩めた。
「透が望んだから」
「はあ?」
「お前のせい」
「………はあ?」
お前のせい。
またそれか。
ナツはすぐ俺のせいだの何だののたまう。俺のせいシリーズでも集めようとしてんのか。コンプリートさせねえぞ。
こっちはまるで身に覚えがない。いや、まったくないわけではない。
顔を見たいと言った。ナツが欲しいと言った。
さっきまで十三歳くらいだったナツの姿ではなく、今、目の前にいる男の形へ、俺の欲が何かを引っ張ったのだとしたら。
そこまで考えて、頭の中で勝手に何かが熱を持つ。
いや、違う。
違うということにしたい。
ナツは、眉を寄せる俺を見ている。
楽しそうに。
嬉しそうに。
面がないせいで、その厄介な機嫌の良さまで見えてしまう。
「どういうことだよ」
「そういうことだよ」
何一つ説明になっていなかったけど、それ以上聞いても多分ろくな答えは返ってこない。
ナツの言う「そういうこと」は、ナツの中では全部繋がっているのだろう。
お前が望んだ。お前のせい。だからこうなった。それで十分だとでも言いたげな顔をしている。
歩み寄ろうとしてくれてると感じた途端にこれだ。結局、さっきの話し合いでナツが変わったのか変わってないのか何も分からない。
布団の端を見た。
畳。敷いたばかりの布団。枕。畳の目に落ちる灯りの影。そういうものを見ていないと、またナツの顔を見てしまう。
「わっかんねえ。いいわ、もう寝る」
色んなものが限界で、脳みそがパンクしそうだ。
このまま考え続けても、どうせ何も分からない。
布団へ身体を戻そうとすると、ナツの気配が少し揺れた。
ともだちにシェアしよう!

