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04-40.欲しいもの、ぜんぶ

「寝んの?」 「布団に入ってるんだから寝るだろ。色々あって疲れたし、眠い」 「………」 布団の横にいる気配は動かない。いつもなら勝手に入ってくるか、横へ寝転がるか、俺の返事なんか聞かずに好きにする。 それなのに、今夜のナツは俺を見下ろしたままだった。 呆れているのでも、怒っているのでもない。 見ている。 俺の顔を、声を、身体の向きまで見ている。 面があった時から見られていたはずなのに、今はその視線が皮膚へ直接触れているようだった。 背中が落ち着かない。 「足りてんの」 「は? なに……」 何が、と聞く前に、目に入った表情に声が途切れる。 「面の下だけで、足りる?」 声は聞いたことがある。見合いを断った夜から、何度か聞いたやけに甘ったるい声だった。 からかっているのに、ただのからかいではなく、突き放しているわけではない。 むしろ、近づいてくる声。息が詰まる程甘い。 声は知っていた。だから、知っているはずだったのに。 ナツは笑っていた。 口元にはからかうような弧がある。 笑っているのに、満ち足りた顔ではなかった。 眦は甘く下がっているのに、藍の混じる目の奥だけが、まだ足りないと訴えるように暗く濡れている。 頬の朝顔の蔓がゆっくり濃くなるたび、奥に沈んだ欲まで見えてしまう気がした。 逃げるな、と責める顔ではない。早く欲しがれ、と急かす顔でもない。 ただ、俺がもう足りなくなっていることを知っていて、そのことが嬉しくて仕方ないみたいに、それでも足りないかのように、笑っている。 誘っている。甘えている。甘やかしてもいる。なのに、少しも逃がす気がない。 なんだよ、その顔。 お前、なに。そんな顔、してたの。 面の下で、ずっと? 俺より飢えているように見えるのに、俺に欲しいと言わせたいような。 希うような、それでいて、暴くような。 そう思った瞬間、カッと頭の奥が熱くなる。喉が、急に乾いてくる。 なんだ。なんだこれ。 「俺の顔を見て、名前を呼ばれて、……それでほんとうに満足できた?」 できているわけがない。 あれっぽっちで足りてるわけがない。 ナツの瞳から目が離せない。釣られるように俺の目まで潤んでくる気がして慌てて下を向く。 布団についた指先が、妙に熱い。 何かが変なのは分かるのに。それが何かが分からない。 「他に欲しいものねえの、透」 「……っ」 名前を呼ばれるたびに、身体の奥が跳ねる。 言いたくない。認めたくない。面を外すだけでも、俺はあれだけ怖かった。 死ぬぞと警告されて、それでも手を伸ばした。そこまでして見たものを、もう足りないと思っているなんて、あまりにも欲深い。 それなのに、ナツの目が俺を見ている。 面がないから、逃げ場がない。 俺が黙っていても、ナツには何か見えているのだろう。 さっきからずっと、俺の言葉にならないものを、先に拾って差し出してくる。 そのくせ、言葉と裏腹に、表情では俺を欲している。 ……他に欲しいもの。 顔の奥。 声の奥。 知っている笑い方の、その先。 ナツが俺をどう見ているのか。俺をどうしたいのか。 欲しいものなんて、ないわけがなかった。 ないわけがないのに、言葉にしたらもう戻れない。 「なあ、ねえの?」 「……、……」 ナツが近付いた。 いつの間にか、布団のすぐ脇に膝をついている。 顔が上げられない。見えないのに、部屋の薄い灯りの中でナツの視線が俺だけに向けられているのを感じる。 逃げたいわけではない。 それなのに、逃げ場を探してしまう。 畳。布団。襖。壁。薄いカーテンの向こうの夜。どこを見ても、もうナツの気配がある。 いつもの部屋なのに、ナツが近いだけで、山の奥へ引き込まれていくみたいだった。 「とおる」 甘えるように、愛おしむように、呼ばれた気がした。 黒瀬透ではなく、書類に書く名前でもなく、職員証の文字でもなく、ただナツが呼ぶためだけの音として。 まるで愛の告白でもされたかのような錯覚を覚えて、胸の奥がどうしようもなく震える。 俺はずっと、ナツを呼んできた。 子供の頃から、山でも、川でも、家でも。返事がなくても呼んだ。 いなくても呼んだ。 会いたくて、聞こえているなら出てこいと言って、どうしてももう一度会いたくて、呼び続けた。 今は、ナツが俺を呼んでいる。 そのことに、頭がおかしくなりそうだった。 「……なつ」 「なに」 さっきまで面のない顔で俺を追い詰めていたくせに、呼べば当たり前みたいに返す。 そのあまりの近さに、くらくらと目眩がする。 欲しいもの。 言わなければ、多分ナツはくれない。 いや、違う。くれないのではなく、言わせようとしている。 俺が望んだと、俺が選んだと、俺が手を伸ばしたのだと、逃げ道を一つずつ畳むために。 分かってる。 分かってるのに、言わずにはいられない。 だって、もう、分からない。 お前が欲しいこと以外、何も分からない。 「何くれんだよ」 「全部」 あまりにも迷いなく返ってきて、息が止まった。 全部。 その短い言葉が、部屋の中を満たす。顔も、名前も、声も、俺が知らなかった時間も、見えなかった表情も、その奥にあるものも。 ナツの言う全部が、どこまでを指すのか分からない。 分からないのに、その言葉で身体中が熱を持つ。 息が苦しい。 喉が、かわく。 「透が欲しいもの、全部」 「……ッ」 欲しいものを、全部。 ぜんぶ。 ごく、と喉が鳴った。 ああ、ああ、クソ。みっともない。 ださい。ありえねえ。恥ずかしい。見苦しい。見られたくない。 それなのに、なかったことにできない。したくない。 いつの間にか握りしめていた布団が皺になっているのが見える。 でも俺の方が、布団なんかよりもっとぐちゃぐちゃだった。 「お前がちょうだいってちゃんと言えるなら」 「くれよ」 「………」 ほとんど、反射だった。 言葉が飛び出てくるのと同時に顔を上げてしまったことに気付いたのは、目を丸くしたナツの顔が目に入ったからだ。 お前、聞いておいて何だその顔。 驚いてんじゃねえよ。 状況が理解出来ていないみたいに、目を瞬かせてる。やっぱり睫毛が長い。 笑える。いや、笑えない。笑えるかもしれない。わからない。 多分ナツは、俺が素直に答えると思っていなかった。 聞いたくせに。あんな顔してたくせに。 俺が欲しくて、俺にも欲しがって欲しくて、足りなくて仕方なくて、俺が足りていないことが嬉しくて、それなのに全然満足していないような、そんな顔してたくせに。 俺のこと舐めすぎなんじゃないかこいつ。 腹立たしいのか、恋しいのか、欲しいのか、奪いたいのか、与えたいのか、貰いたいのか、それすらぐちゃぐちゃだ。 どういう表情をすれば良いかまったくわからない。 やけになっているのかもしれない。 でもそれだけじゃない。 「ナツが欲しい。……くれよ」 「………」 布団から手を離して、ナツの手首を掴む。 頬から伸びた朝顔の蔓がナツの首筋でゆらり、と揺れる。 どういう感情の表し方なんだよ、それ。蔓、伸びてんじゃねえかよ。 少し笑ってしまうと、ナツの切れ長の目が少し細まった。瞳の奥で藍色がちらついている。 頬からこめかみにかけて、さっきより多く朝顔が咲いている。淡く光ったかと思えば、また色を濃くする。 ナツが欲しい。 俺はナツが欲しい。 分からねえの。なあ。 いつもお前が言うじゃねえかよ。分からねえの、って。 お前こそ、分からねえの。 俺がお前をこんなに欲しがってること、分からねえの。ナツ。 「全部、くれ」 最後に残った声は、ほとんど息に近かった。 ナツは何も言わない。 一拍、二拍。 長い沈黙のあと、ナツの口元がゆっくり綻んだ。 朝顔の蔓が、頬の上で淡く脈打つ。 「いいよ」 その声は、泣きたくなるくらい優しかった。 優しいのに、どこかどろりとした甘さが底に沈んでいる。 瞳は変わらず濡れていて、口元は柔くゆるんでいるのに、眉だけが少し苦しそうに寄っていた。 ああ、お前も。 お前も欲しいんじゃねえかよ。ばあか。何が、いいよ、だ。 「あげる、欲張りさん」 いつものからかうような口調なのに、ナツの声は少し揺れていた。

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