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第一章 悪霊退散依頼 3
「これが井戸な」
浅野に案内された場所は入り口からそう遠くない場所にあった。周囲をコンクリートで固め、蓋の上にポンプと蛇口が設置されている。なんというか九条が想像していた井戸とかなり趣が違った。中から誰かが這い出してくるようには見えない整然とした井戸だ。
「これって飲めるんですか?」
「飲むんはええないな、工業用やから。今は掃除とかに使ってるけど目的は防火井戸」
「防火?」
「ここら道狭いやろ。火出たらまずこれで初期消火すんねん。ここらの店の組合で決めてるけどほかのとこにもいくつかあるで」
九条はこの場所からまだ見えている入り口に目を向けた。濡れた女は動かずにさっきの場所にいる。井戸は正解だと思ったがここではないのかもしれない。きょろきょろしている早坂が、まだ続く工場の奥に興味を示した。
「なあケンちゃん、ここっておじいちゃんの工場やったんやろ? 奥は何があんの」
「なんか裏の川向いて続いてたレールがあったんやって。俺がちっさいときはまだあったらしいけど覚えてはないねん」
「こっから直接行けたってこと?」
「なんやったら行ってみる?」
気の良い浅野は裏のシャッターの鍵を手にふたりを促してくれる。
「もし裏通りでボヤ出たときはな、一応そこから奥に向かってホース出せるようにしとんねん」
「裏通り? ここの裏にも道あるん?」
「そう。昔はそこがメインストリートやったんやって。ここより大きい工場いっぱいあったけど……今残ってる建物は全部廃虚やな」
入り組んだ下町の造りは複雑だ。川をメインとするなら昔はそこに面した道が一番発展していたのだろう。
「そこは食べ物の屋台とかやってないんですか」
「ないなあ。ほとんど元の持ち主がわからんねん」
いつでもホースを出せるように、という言葉どおりシャッターは軽く上に上がる。目の前の光景に九条は目を見張った。
浅野が言うとおり、今来たストリートの半分ほどの道幅の向こうに工場跡が並んでいる。廃虚群だ。数は多くないが一軒一軒がストリートの工場より大きくて迫力があった。真っ暗でよく見えないのが余計に恐怖を煽る。早坂さん、怖ない? と問うが早坂はよくわからない表情をしていた。暗いな、とごく当たり前の感想を伝えられる。
そして、なんか寒なってきたし暗いしライトつけるな、と戻る浅野をなんとなく目で追いかけて見てしまった。濡れた女がシャッターの真下にいるのを。
来たな。
ということはこの廃虚のどこかに用があるわけだ。置いて帰りたいがそう簡単にはいかないはず、投光器みたいな大きなライトが点灯してすぐ九条は早坂を自分の傍に誘導した。
「早坂さん。女。近くにおる」
「どこにおる」
「浅野さんの近く。……今後退りしたな。早坂さんおるから来れんのやと思う」
「……なんっの気配もせんねんけどなあ……」
戻ってきた浅野は寒い寒いと言いながら、廃虚群の隙間を指さす。
「あっちが川あったとこな。今はなんもない埋め立て地やけど」
特に川があったとは思えない空き地を見た。広い川だったらしい。川だった場所の堤防の向こうはビル群で、この暗い場所とは真逆の明るい光に輝いていた。堤防沿いのいちばん大きなビルの窓にはまだ点々とあかりがついている。擦りガラスみたいなエレベーターが下っていくのをぼんやり眺めていた九条はあれっとひらめいてしまった。
「あのビルって……俺昨日初めて行った会社や」
そして初めて濡れた女に遭遇した曰くつきの場所でもあった。
この話を信じるなら濡れた女はこの辺りを彷徨っていて、向かいに見えるビルのエレベーターに乗っていた九条を見初めたことになる。だとしたらこの女はここに謂れがあるに違いない。女はすぐ近くにいるらしいし、見えていないだろう浅野まで寒さを訴えている。
しかし早坂はいまいち手応えを感じない。もうそろそろ転職も視野に入れて、と思い詰めながら工場跡をのぞきつつ前に進んだ。たしかにここを廃虚のままおいておくのは治安的に不安だろう。浅野の店のライトがそろそろ届かなくなるくらい進んだところで、早坂の横を歩いていた九条が抜かされた、とつぶやいた。女が先頭に立ったらしい。行き先を示せと促すと九条は素直に腕を上げた。正面、そしてシャッターが半分下りた工場跡に腕の方向を変える。
「そこ?」
「うん。入ってった」
他人にはよくわからないだろう会話に浅野が首をかしげたがすぐにああ、と声を上げた。
「そこでっかい井戸あんねん。持ち主はもうおらんのやけどな。じいちゃんがちょっと知ってるらしいから使わせてもらいたいなって思ってるとこ」
「ケンちゃんとこみたいに防火井戸にする感じなん?」
「そう。ここらへん高いからできたら避難所みたいにしたいねん。防災井戸の登録もさせてもらいたいし……自分らなんかここに用ある感じなん?」
「そうなるかな……なんていうか……昔ここで事故とかあった?」
「や、俺は知らんけど……じいちゃんやったらなんか知ってるかもやし聞いてこよか。まだ起きてるやろからちょっと待っといてもらえたら」
申し訳ないと面倒見のいい友人に礼を言うと、くりくりした目玉が面白そうに早坂を見つめた。
「聞くくらいええで。なんかふうちゃん先生お坊さんっぽい仕事してんの初めて見たかも」
浅野にも僧職かどうかを疑われていたらしい早坂は内心憤っていた。何がそんなに胡散臭い? いっそ髪を全剃りするとか……。
スマホのライトだけの頼りないあかりを頼りに暗い廃工場を進む。まっすぐ前を見る九条の目の前には例の濡れた女が歩いているに違いなかった。
化け物を見たいと昔から思っているが、今この状況でその女の姿が見えたとして平静でいられるかはよくわからない。九条は昔からよく見える、と言っていたが、昨日助けたときより落ち着いていそうで安心した。霊の気配をまったく感じない僧侶でも共にいて心強く感じてもらえるなら嬉しいことだ。
コツン、と音がして慌ててライトで前方を照らした先には古い井戸があった。浅野のところのものとはまったく違う古いものだ。セメントのようなもので適当に固められた上には錆びたトタンが被せられ、朽ちた材木で蓋をしてあった。濡れた女が這い出てくるには格好のロケーションだ。
女はその井戸の周りをぐるぐる歩いているらしい。
ここに何かあるのは決定的だが、これは自分たちがこの上のものを除けなくてはならないのだろうか。蓋がなくなった途端に九条を道連れに井戸にダイブされたらどうしよう。
「おい、お化け!」
見えないがお祓いの能力はあるらしいから、一応凄んでおく。
「九条さんをどうこうしよう思うなよ! なんかあったら俺は今すぐおまえをしばけるらしいから!」
「ちょっと早坂さん、だいぶ怯えてるみたいやから」
「そんならヨシ! なんかするときは俺に許可を取りなさい! ……九条さん経由で」
「俺もいっこもコミュニケーションは取れてへんねんけど」
そう九条はちょっと場違いなくらい楽しげに笑った。
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