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第四章 けものあやかし⑦

「噛まれたと思ったのになんもなってへんかったってこと?」 「はい。いつもの夢やとも思ったんですけど、めっちゃリアルで」  九条は、早坂と話す柊真の肩を見た。傷はないが、昨日までは見えなかった淡い影のようなものがたしかにある。生霊かと問われるとよくわからないが、北見は早坂の前には姿を見せなかったからまったく別物の可能性が高い。そしてこれは柊真から離れなかった。早坂が近づくとそろそろと後ずさるが、離れればまた戻ってきて取り囲む。  この寺に入れている時点で害のあるものではないはずだ。なによりチロが警戒しない。  この影は柊真に危害を及ぼすものではないと思った。守っているのか、伝えたいことがあるのかのどちらかだろう。しかし目的はなんだろうか、姿かたちが曖昧すぎて人か動物かすらわからない。    顎に手を当てて考え込む早坂に目線で合図する。気づいて口をパクパクさせているがなんと言っているのかまったく見当がつかない。自分たちには言葉なくても以心伝心、なんていうものは存在しないらしい。仕方なく近づいて耳元に口を寄せた。絶妙な身長差があるから首がつらいのだが、早坂は絶対に背伸びをしてくれない。   「リク見えた?」 「もやもやしたものが見えてる。けどなんのためにおるんかわからんな」 「危ないやつ?」    それは、と少しだけ躊躇した。そうではないと思うが断言できないというのが正直なところだ。話せないほど脆弱なものか、元から人の言葉を話さないなにか、それか動物……。 「こっちはもうちょっと放っておいてええかも」  九条が今まで見てきたどの怪異とも、少し性質が違う気がしていた。悪意に満ちているわけでも、単に彷徨っているだけでもない。何かを伝えようと、あるいは知らせようと必死にもがいているような気配がする。  柊真から離れたもやはチロに向かっていく。それにじゃれつき、コロンと転がってみせた。      翌朝ひとりで門崎と合流した九条は、今までの顛末をすべて打ち明けた。  柊真には内緒だがほかのふたりに許可は取っている。早坂の「心配かけたったらええねん」を受けたからなのだが、案の定門崎はがっくり肩を落とした。 「ふうちゃん先生の言うとおりや。心配させてほしかった……」  俺はそんな頼りないかな、とへこむ門崎の背中を叩く。そうではないと柊真も言っていたが、冷凍カレーの話を蒸し返すのも申し訳ないような気がした。けれど弟にとってのいい思い出のひとつなのだアレは。あんなとんちんかんで優しい兄が傷つくのは見たくない、という気持ちはわかる。  少し離れた柊真の自宅に向かっている最中だ。駅の売店に『かみがたにゃんこまんじゅう』が売っていた。この辺りの名物らしいから帰りに買っていこうかと思う。  駅からさほど遠くないアパートは閑静な住宅街、といった場所にあった。夜中こそこそしていたら目立つだろうが、人通りが少ないからまず見つかる心配がなさそうだ。今はまだ昼間だから人目を気にしながら周囲を確認する。柊真に送りつけられた写真と動画、門崎に見せると部屋のドアは間違いなく自宅のドアらしい。かろうじて侵入されていないだけで、向こうは何もかも知っているということだ。門崎はそのドアを確認しに行っている。  九条は外からベランダを見上げた。二階の角部屋で、目の前にある太い雨樋は足場にもってこいだ。継ぎ手部分に足をかけて、そこから手を伸ばせば柊真の部屋のベランダの柵に指が届くだろう。  防犯上問題ありじゃないかとうしろに一歩下がったところで、そのベランダから何かが滑り落ちてきた。   「なに? え……猫?」    ほとんど落ちる勢いで地面におりた大きな黒猫が、一瞬だけ九条を振り返ると、道の向こうへよろよろ歩いて姿を消した。  まさか柊真の言う「母猫」とやらが仔猫を捜しているのだろうか。しかし保護してから四か月ほどがたっているがどうなのか。それなら柊真に連絡してみるかとスマホを構えたところでさっきの黒猫がこちらに戻ってくるのが見えて、九条は慌てて動画に切り替えた。    まだよろよろと歩いている黒猫は、よく見たら口元になにかを咥えている。さっきはなにもなかったはずと少しばかり近づいてみた。黒猫は逃げる素振りも見せずに進んでいる。咥えられた汚れた布のようなものが微かに身じろぎした。  仔猫だ。灰色で、首から下の胴あたりまでが茶色に染まって毛が固まっている。  思わず手を差し出したが、その手を無視した黒猫は雨樋に前足をかけて勢いをつけ、二階に飛び上がりベランダの向こうに姿を消してしまった。柊真の部屋のベランダだ。  門崎、猫が、と中に向かって呼びかけようとしてすぐに気がついた。    さっきの黒猫がほとんど落ちる勢いで地面におり、一瞬だけ九条を振り返ると、道の向こうへよろよろ歩いて姿を消した。仔猫は咥えておらず、一匹で去って行くのを見送る。  おそらく仔猫がベランダにいる。さっき自分で確認したとおりに雨樋の継ぎ手に足をかけてみた。うまく覗けたら置いていかれた仔猫が確認できるかもしれない。  だがまた黒猫が歩いてきたのに気づいてしまった。仔猫を咥えて。 「……また上行くん?」  黒猫は返事をせずにベランダに飛び乗り、再び落ちるようにおりたあとは、一匹だけで元来た道をよろよろと戻って行く。  それを延々と繰り返していた。  九条には、覚えのある光景だった。死んだ者が、生前の行為を延々となぞり続ける。終わらないまま永遠に繰り返されるそれをこれまで何度も見てきた。獣の霊は初めて見たが、猫もそうなのだ。 「おまえ……もう死んでるんかな」  黒猫は答えない。一匹でベランダからおりたところでまた話しかけた。 「あの仔猫守ろうとしてる? 前にこうやって助けたんやな……大丈夫、あの子はちゃんとええ人に世話されてるから」  黒猫は初めて座って、九条を振り返った。 「もしかして知ってたかな……助けてくれた人のこと。おまえもしかして、あの人……柊真くんになんか言いたいことある感じ?」  そうだ、と答えるように黒猫が立ち上がる。  悲しい結末だった。  と同時に、この魂の声さえ聞こえればきっとちゃんと終わらせてやれる。九条はそう感じていた。

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