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第8話 空から来た船
港へ入った途端、オルヴァンが立ち止まった。
「アデ、あれ」
「どれ?」
「全部です」
アデマールも足を止めた。
目の前には、これまで見てきた港よりずっと大きな市場が広がっている。
石造りの倉庫が何棟も並び、その間を荷車が走る。
埠頭には大型帆船が何隻も横づけされ、帆柱が森のように空へ伸びていた。
香辛料。
染め布。
陶器。
茶葉。
乾燥果実。
見慣れない木工品。
人族も獣人もエルフもドワーフも行き交い、商人たちの呼び声が幾重にも重なっている。
オルヴァンの目が明らかに輝いていた。
アデマールが笑う。
「今日は長くなりそうだな」
「まだ何も言ってませんよ」
「顔に出てる」
「では、ゆっくり見ましょう」
二人は宿へ馬と荷物を預け、肩掛けバッグだけ持って市場へ戻った。
最初に足を止めたのは菓子の並ぶ通りだった。
薄い生地を何層にも重ね、木の実と蜜を挟んだ焼き菓子。
砂糖をまぶした柑橘の皮。
香辛料を効かせた丸い揚げ菓子。
色の濃い果実を煮詰めた飴。
オルヴァンが一軒の露店へ吸い寄せられる。
「これ、何が入っていますか?」
「胡桃と杏仁だよ。蜜は南の花から採ったものだ」
店主が四角い焼き菓子を示した。
「一つください」
「俺も」
横から別の声が重なった。
オルヴァンが振り向く。
日に焼けた若い男が、同じ菓子を指していた。
旅慣れた革の上着。
背中には帳面や小袋を詰め込んだ鞄。
男も二人を見る。
「悪い。最後の一個だったか?」
「まだあるよ」
店主が笑った。
「朝から三回焼いてる」
「なんだ」
男は安心したように二個買った。
アデマールとオルヴァンも一つずつ受け取る。
オルヴァンが一口食べた。
「おいしいです」
「甘いな」
「胡桃が香ばしいですね」
隣で食べていた男が頷く。
「日持ちもする。内陸へ持っていくなら悪くない」
オルヴァンが見る。
「商人なんですか?」
「ああ。ヨリス」
男は焼き菓子を割って断面を見る。
「今は荷車一台で町から町へ売り歩いてる。ここは船が多いから、他じゃ見ない物を少しずつ仕入れられるんだ」
「何を買うんです?」
「香辛料、乾燥果物、茶葉。それと、こういう菓子も少し」
アデマールが言う。
「自分で食いたいだけじゃない?」
「商品研究だ」
「便利だな、商人」
「お前らだって観光しながら食ってるだろ」
「俺たちは純粋に食ってる」
「そっちの方が潔いな」
オルヴァンが笑った。
ヨリスは二人を見比べる。
自然に近い距離。
アデマールの腕がオルヴァンの肩へ触れている。
「夫夫?」
「そう」
「はい」
返事がほとんど同時だった。
ヨリスが笑う。
「仲いいな」
「すごく」
「そこも即答か」
帳面を閉じる。
「俺はまだ仕入れを見るけど、菓子なら東の区画も面白いぞ。赤い倉庫の裏だ」
「ありがとうございます」
オルヴァンの返事が早い。
アデマールが言う。
「いい情報もらったな」
「はい」
「もう行く顔してる」
「行きましょう」
ヨリスが手を上げた。
「じゃあ、またな」
三人はいったん別れた。
****
昼前には、二人の肩掛けバッグの中身が増えていた。
香辛料を使った焼き菓子。
干した杏。
塩をまぶした木の実。
小瓶に入った果実の糖蜜。
細く切った茶葉。
アデマールが中を覗く。
「食い物ばっかりだな」
「旅の途中で食べられます」
「俺も食うから文句はない」
「でしょう?」
港の中央広場へ戻ると、人々が同じ方向を見上げていた。
子どもが指をさしている。
荷運び人まで立ち止まっている。
オルヴァンも空を見る。
そして、その場で足が止まった。
大きな影がゆっくり近づいてくる。
帆船に似た細長い船体。
その上には巨大な気嚢。
左右には、小さな帆にも見える翼。
アデマールも見上げた。
「……あれか」
「飛行船です」
オルヴァンの声が少し弾む。
アデマールが横を見る。
「嬉しそう」
「本物を見るのは初めてです」
「俺も」
飛行船は港の上を大きく旋回した。
珍しいものらしく、あちこちから歓声が上がる。
近くの父親が子どもを肩車した。
「今日は空船が来る日なんだ。見とけ」
港の端には、飛行船用の高い係留塔が建っていた。
地上では港湾員たちが準備を進めている。
太い索。
大きな巻き上げ機。
石造りの係留柱。
濃紺の上着を着た大柄な男が、広場全体を見ながら声を飛ばしていた。
「西側、荷車を下げろ! 東は通路を空けろ! 船へ待機旗!」
誰か一人へ付きっきりになることなく、次々と別の場所へ指示を出している。
「忙しそうですね」
オルヴァンが言う。
「でかい船だからな」
その時、横から声が飛んだ。
「おい、夫夫!」
二人が振り返る。
ヨリスだった。
荷車の後ろで困った顔をしている。
「悪い、これだけ押してくれ! 係留区画が広がった!」
アデマールが笑う。
「朝会ったばっかりなのに使うなあ」
「今ここにいる知り合いがお前らしかいない!」
「はいはい」
アデマールが後ろへ回る。
オルヴァンも横から押した。
三人で荷車を安全な場所まで移す。
「助かった」
ヨリスが息を吐く。
オルヴァンはもう空を見ていた。
飛行船から細い索が落とされる。
地上の港湾員が受け取り、それを使って太い係留索を引き寄せる。
二本の索が地上へ繋がった。
船体はまだ高い。
船尾の推進器もゆっくり回り、風に合わせて姿勢を保っている。
オルヴァンが目を輝かせる。
「地上から引くだけじゃないんですね」
「船の方も動いてるな」
少しずつ高度が下がる。
係留塔へ近づく。
その時、広場の端から鈍い金属音が響いた。
ガン、と何かが外れた。
西側の巻き上げ機が止まる。
港湾員が叫んだ。
「ロアック! 西が噛んだ!」
濃紺の男――ロアックがすぐ振り向く。
飛行船を見る。
二本の索はまだ張っている。
船も推進器を回して姿勢を保っていた。
ロアックが大声を出す。
「係留中止はまだするな! 西は予備索! 東はそのまま! 船へ高度維持!」
港湾員たちが動く。
飛行船から鐘が鳴った。
下降が止まった。
オルヴァンが空を見る。
「止まれていますね」
「ああ。でもあのままじゃ降ろせないのか」
ロアックが予備の太い索を引き出す。
「西の石柱へ回せ! 人数集めろ!」
港湾員たちが集まる。
アデマールがオルヴァンを見る。
「手伝う?」
「はい」
二人はロアックのところへ向かった。
アデマールが予備索を指す。
「これ引けばいい?」
ロアックが一瞬見る。
「引けるなら助かる!」
それだけ言うと、もう別の方向へ声を飛ばした。
「東、まだ巻くな! 船はその位置!」
アデマールは数人の港湾員と一緒に索を握った。
太い。
重い。
風を受けた飛行船の力が伝わっている。
それでも、アデマールが腰を落として引くと、索が目に見えて動いた。
横にいた男が目を見開く。
「おい、待っ――」
「このくらい?」
ロアックが遠くから振り返る。
「そのまま! 石柱まで持ってこい!」
「了解!」
港湾員たちも慌ててついていく。
オルヴァンは空を見上げた。
港から海へ抜ける横風が、時々飛行船の船尾を押している。
ロアックが空へ向かって叫んだ。
「風がもう少し落ちれば楽なんだが!」
オルヴァンが近づく。
「少しなら弱められます」
「できるのか?」
「短い間なら」
「頼む!」
ロアックはそれだけ。
すぐまた港湾員へ向き直る。
「予備索、柱へ回ったら合図!」
オルヴァンが短く詠唱した。
広場を抜ける風が、少しだけ穏やかになる。
止めない。
向きを変えない。
ただ強い横風だけを削る。
飛行船の揺れが小さくなった。
船上でも船員たちが動く。
推進器が静かに回る。
予備索が石柱へ回された。
ロアックが手を上げる。
「よし! 西、引け! 東もゆっくり巻け!」
アデマールが索を引く。
港湾員も一緒に力を掛ける。
飛行船が係留塔へ寄っていく。
少しずつ。
慌てず。
塔上の作業員が新しい索を受け取る。
固定。
ロアックが空を見た。
「風はもういい!」
オルヴァンが魔法を解く。
自然の風が戻る。
それでも飛行船はもう三本の索に支えられていた。
巻き上げ機がゆっくり回る。
船体が係留位置まで降りてくる。
ロアックが最後に腕を下ろした。
「停止!」
全てが止まった。
飛行船が静かに浮かぶ。
数秒遅れて、広場から拍手が起こった。
****
アデマールが予備索から手を離した。
黒い革手袋の掌が裂けている。
「あー」
オルヴァンがすぐ気づいた。
「アデ、手」
「切ってないよ」
「見せてください」
アデマールは右手を開いた。
皮膚には大きな傷はない。
だが手袋の裂け目から、掌の中央が露わになっていた。
白い花と光を思わせる紋。
すぐ近くにいた港湾員が目を止める。
表情が変わった。
「……それ」
アデマールも自分の手を見る。
「あ」
別の男まで気づいた。
「勇者紋じゃないか?」
周囲の視線が集まり始める。
ロアックも歩いてきた。
裂けた手袋。
露わになった掌。
そしてアデマールの顔を見る。
「名前は?」
「アデマール」
短い沈黙。
ざわめきが広がった。
誰かが息を呑む。
「アデマールって……」
別の声が続く。
「魔獣王を倒した勇者?」
その隣に立つ白い旅装の男へ視線が移る。
ロアックが見る。
「じゃあ、そっちは」
「オルヴァンです」
オルヴァンは白い長手袋をつけたままだった。
今度こそ、広場が大きくざわつく。
少し離れたところでは、ヨリスが固まっている。
アデマールがそちらを見る。
「ヨリス?」
「ちょっと待て」
ヨリスが額を押さえた。
「俺、英雄に荷車押させたぞ」
「押したな」
「普通に頼んだぞ」
「助かったろ?」
「めちゃくちゃ助かったけど!」
オルヴァンが笑う。
「次も困っていたら呼んでください」
「呼べるか!」
周囲から笑い声が起きた。
ロアックも少しだけ口元を緩める。
「助かった。予備索が早く張れた」
「もう大丈夫?」
アデマールが聞く。
「ああ。あとはこっちの仕事だ」
ロアックは既に壊れた巻き上げ機を見ていた。
「西側は今日使わん。全部外して調べる」
「忙しそうですね」
オルヴァンが言う。
「空から来る船より、地面の機械の方が面倒だ」
そう言って、ロアックは作業へ戻っていった。
アデマールが裂けた手袋を見る。
「予備出すか」
「その前に」
オルヴァンが右手を取った。
白い長手袋越しの指で、掌と指を軽く確かめる。
「痛いところは?」
「ない」
「本当に?」
「握れるよ」
アデマールが指を曲げてみせる。
オルヴァンはそれを見て、ようやく手を離した。
「なら大丈夫ですね」
ヨリスが横から覗く。
「手袋なら、いい店あるぞ」
「予備持ってる」
「せっかく大市場に来たんだ。もっと丈夫なの見ろよ」
アデマールがオルヴァンを見る。
オルヴァンも見る。
「行きましょう」
「決まりだな」
ヨリスが呆れる。
「夫の方が決めるのかよ」
****
身元が知られても、市場は市場だった。
商人は売る。
客は買う。
荷車は走る。
少し違うのは、二人へ気づいた人が振り返ることくらいだった。
菓子屋の女主人が大きく手を振る。
「英雄さん、これ食べていきな!」
オルヴァンが立ち止まる。
「何ですか?」
「蜜漬けの柑橘。味見!」
一切れ渡される。
オルヴァンは普通に口へ入れた。
「おいしいです」
アデマールが隣で笑う。
「切り替え早いな」
「お菓子に罪はありません」
「俺にも一個」
「はいよ!」
今度はアデマールももらう。
ヨリスが頭を抱えた。
「英雄ってもっとこう……」
「こう?」
「いや、いい。もういい」
三人で市場を歩いた。
ヨリスが案内した革製品の店には、旅人や船乗り向けの手袋が何十種類も並んでいた。
厚手。
薄手。
手首が長いもの。
指先を補強したもの。
アデマールが一組取る。
「これ?」
「剣握るには硬すぎるんじゃないか?」
ヨリスが言う。
オルヴァンも手袋を触った。
「こっちはどうです?」
黒革の、少し柔らかいもの。
掌と親指の付け根だけ、革が二重になっている。
アデマールがはめる。
オルヴァンが手を取った。
「握ってみてください」
「こう?」
アデマールが拳を作る。
開く。
指を一本ずつ曲げる。
オルヴァンが手首へ触れる。
「ここは苦しくないですか?」
「平気」
「大太刀を握った時も動きやすそうですね」
アデマールは自分の手より、オルヴァンを見ていた。
「じゃあこれにする」
「まだ他にもありますよ」
「オルが選んだのがいい」
ヨリスが横から言う。
「英雄って手袋まで夫に決めてもらうのか」
「似合う方がいいだろ」
「まあ、それはそうだけど」
オルヴァンが少し照れながら、もう一度黒い手袋を見る。
「似合っていますよ」
「じゃあ絶対これ」
即決だった。
****
市場へ戻ると、飛行船から乗客たちが降り始めていた。
船員も何人か地上へ来ている。
その一人がアデマールたちを見つけた。
昼間、船上から指示を出していた男だった。
「さっきは助かった」
アデマールが新しい黒手袋を上げる。
「無事降りたな」
「ああ。こっちも推進器を回しっぱなしだったが、最後の横風が弱まって助かった」
男はオルヴァンを見る。
「興味あるなら、少し見ていくか?」
「いいんですか?」
返事が速かった。
船員が笑う。
「係留中だから飛びはしないが、甲板くらいなら」
オルヴァンがアデマールを見る。
明らかに行きたい顔だった。
「行こう」
「はい」
ヨリスが言う。
「俺は仕入れ残ってるから行くぞ」
「夜、暇なら飯でも食う?」
アデマールが聞く。
ヨリスが少し考える。
「港の酒場なら行く」
「じゃあそこで」
三人はまた別れた。
****
飛行船へ上がる階段は思ったより長かった。
甲板へ出る。
市場が少し低く見えた。
石造りの倉庫。
帆船の帆柱。
人の流れ。
さっき歩いていた菓子の通りまで見える。
オルヴァンは欄干へ近づいた。
「すごいです」
大きな気嚢を見上げる。
索。
帆。
船尾の推進器。
操舵用の装置。
目が忙しい。
アデマールは少し後ろから見ていた。
オルヴァンが振り返る。
「アデ」
「ん?」
「船より僕を見ていますよね」
「ばれた?」
「朝からです」
「仕方ないだろ」
「何がです?」
アデマールが近づく。
欄干のそばへ並ぶ。
「オルがずっと楽しそうだから」
オルヴァンの口元が緩んだ。
「船も見てください」
「見てるよ。さっきからすごいなって思ってる」
「本当ですか?」
「うん。でもオルの方が面白い」
「それは褒めてます?」
「めちゃくちゃ」
オルヴァンが笑う。
少し周囲を見る。
船員たちは別の場所で作業している。
それからアデマールの頬へ軽く口づけた。
アデマールが目を丸くする。
「急だな」
「見すぎなので」
「もう一回見たら?」
「知りません」
そう言いながら、オルヴァンは楽しそうだった。
二人は並んで甲板から港を眺めた。
空から来た船の上で見る大市場は、歩いていた時とはまるで違って見えた。
****
夜はヨリスと港の酒場へ入った。
大皿の肉料理。
香辛料の効いた魚。
豆の煮込み。
見慣れない果実を漬け込んだ酒。
ヨリスは買い付けた荷物の一覧を帳面へ書き込みながら食べていた。
「食事中まで仕事ですか?」
オルヴァンが聞く。
「忘れる前に書くんだよ。宿戻ったら酒飲んで寝るから」
「もう飲んでるじゃん」
アデマールが言う。
「これは食事の酒だ」
「便利な言葉だな」
「商人だからな」
三人で笑う。
オルヴァンが帳面を見る。
「随分買いましたね」
「少しずつだ」
ヨリスは指で項目を追う。
「売れる物が分かれば、次は量を増やす。そのうち荷車をもう一台。できれば馬も増やしたい」
「店は?」
アデマールが聞く。
ヨリスが少し笑った。
「いつかは欲しいな」
杯を傾ける。
「雨が降るたび商品へ布を掛けなくていいし、朝起きたら同じ場所に棚がある。そういうのも悪くない」
オルヴァンが頷く。
「いいですね」
「まあ、その前に稼がないとな」
「店ができたら行きます」
「簡単に言うなあ」
「行きたいです」
「なら、来ても恥ずかしくない店にしないとな」
アデマールが杯を上げる。
「じゃあ商売繁盛」
「まだ店もないぞ」
「荷車繁盛」
「言いにくい!」
オルヴァンが笑いながら杯を持った。
「では、ヨリスさんの商売に」
「それならいい」
三人で杯を合わせた。
****
宿へ戻る頃には、港も少し静かになっていた。
係留塔には飛行船が浮かんでいる。
大きな影が、夜の空へ溶けていた。
部屋へ入る。
アデマールが新しい黒い手袋を外す。
卓へ置く。
オルヴァンも白い長手袋を外した。
ようやく二人きりだ。
アデマールが手を開く。
右の掌に勇者紋。
向かいでは、オルヴァンの左の掌にも賢者紋がある。
ただ、それを特別に眺めることはしなかった。
オルヴァンがアデマールの右手を取る。
「痛くないですか?」
「平気」
「今日はずいぶん見られましたね」
「疲れた?」
「少し」
オルヴァンがそのまま手を離さず、身体を寄せた。
「でも楽しかったです」
「飛行船?」
「市場も」
「菓子も」
「はい」
「ヨリスも?」
「面白い人ですね」
アデマールが笑う。
「俺は?」
「また聞くんですか?」
オルヴァンは胸へ頬を寄せる。
「一番近くにいたでしょう」
アデマールの腕が背中へ回った。
「今も」
「はい」
少しだけ静かになる。
外では港の音が遠く聞こえる。
アデマールが白い髪へ口づけた。
オルヴァンも顔を上げる。
唇が触れる。
短く離れたあと、もう一度。
今度はゆっくり。
オルヴァンの手がアデマールの胸へ置かれた。
「二人きりって、落ち着きますね」
「今日は特にな」
「もう少しくっつきたいです」
「おいで」
腰を抱く。
オルヴァンも首へ腕を回した。
キスを重ねる。
急がない。
昼間の人混みも、身元が知られたざわめきも、珍しい飛行船の興奮も、少しずつ遠くなる。
今ここにいるのは、いつもの二人だけだった。
アデマールの手が背中を撫でる。
オルヴァンも服の胸元へ指を掛ける。
互いの服をゆっくり緩める。
触れた肌へ掌を滑らせる。
オルヴァンが身を寄せた。
「アデ」
「ん?」
「キス、もう一回」
「うん」
また唇が重なる。
指を絡める。
脚を寄せる。
いつもの温度を確かめるように、二人はゆっくり身体を重ねた。
****
夜更け。
オルヴァンはアデマールの胸へ頬を寄せていた。
同じ毛布の中。
アデマールが髪を撫でる。
「眠い?」
「少し」
「今日はいっぱい歩いたしな」
「食べました」
「それもいっぱい」
「飛行船にも乗りました」
「楽しかった?」
「すごく」
少し間を置く。
オルヴァンが笑った。
「アデの手袋も買いました」
「気に入ってる」
「まだ一日も使ってませんよ」
「オルが選んだから」
「それだけで?」
「十分」
オルヴァンが胸元へもう少し寄った。
「大事に使ってください」
「うん」
アデマールが額へ口づける。
窓の向こうには、係留された飛行船の影が見えていた。
オルヴァンが眠そうな声で言う。
「いつか、飛んでいる時にも乗ってみたいです」
「面白そうだな」
「はい」
「その時も菓子持ち込む?」
「もちろんです」
アデマールが笑う。
オルヴァンも目を閉じたまま笑った。
港の上では、空から来た船が静かに夜を過ごしていた。
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