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第11話 山から逃げるもの

峠道を登り始めて、一刻ほどが過ぎていた。 昨日まで牧夫たちが使っていた柵は空になり、風に揺れる草だけが残っている。 先頭を歩くのは砦の斥候二人。その後ろにベルトラン、アデマール、オルヴァンが続いていた。 馬は途中の番小屋へ預けてある。ここから先は道が細く、ところどころ崩れているらしい。 先頭の斥候が足を止めた。 「ここです」 道脇の柔らかい地面に、無数の足跡が重なっている。 鹿。山羊。狼。それより大きな野獣や、魔獣らしい爪跡まで混じっていた。 オルヴァンがしゃがみ、しばらく地面を見る。 「全部、下へ向かっていますね」 「昨日からずっとです」 斥候が頷いた。 「俺たちの靴跡以外、上向きはほとんど見てません」 オルヴァンはそれ以上調べずに立ち上がった。 アデマールが山の上を見る。 灰色の岩の間を、峠道が細く伸びている。 「徹底して逃げてるな」 「そう見える」 ベルトランも周囲を見た。 風が吹く。 草が擦れる。 それ以外の音が、ほとんどない。 アデマールが眉を寄せた。 「静かだな」 「この先はもっと静かでした」 もう一人の斥候が答える。 「昨日来た時も、鳥の声がしなかった」 五人はまた歩き始めた。 少し上れば、また足跡。 さらに進めば、そこにも下向きの跡。 木立へ入っても、鳥が飛び立つ気配はない。茂みの中から小動物が逃げる音もしなかった。 生き物の姿だけが、ごっそり抜け落ちている。 オルヴァンが小さく息を吐いた。 「みんな、もう下りてしまったんですね」 「俺たちだけ逆向きか」 アデマールが言う。 オルヴァンが隣を見る。 「そうみたいです」 「今さら戻るか?」 前を歩くベルトランが振り返った。 アデマールは笑う。 「まさか」 「朝食もちゃんと食べてきましたし」 オルヴァンも平然と言う。 ベルトランは少し黙った。 「そこは関係あるのか」 「大事です」 オルヴァンの返事は速かった。 アデマールが横で大きく頷いた。 **** 昼前、峠道は大きく曲がり、谷を見下ろす岩棚へ出た。 先頭の斥候が突然立ち止まる。 「音がします」 全員が黙った。 遠くから、低い響きが伝わってくる。 最初は雷のようだった。 少しずつ大きくなる。 枝が折れる。 石が転がる。 何十、何百という足音が重なっていた。 斥候が谷の向こうを指した。 「来ます!」 反対側の斜面から、鹿が飛び出した。 一頭。 その後ろから何頭も続く。 山羊。 猪。 さらに狼。 普段なら同じ場所を走るはずのない獣たちが、同じ谷筋を一斉に下っている。 その中には大型の野獣も、魔獣もいた。 数え切れない。 土煙が木々の間へ広がっていく。 オルヴァンは黙って見つめた。 鹿のすぐ横を狼が走っている。 それでも襲わない。 鹿も狼を恐れて別方向へ逃げない。 どちらも何度も山側を振り返りながら、ただ下へ走り続けていた。 アデマールの顔から笑みが消える。 「食う側も、食われる側も一緒か」 「よほど上にいたくないらしいな」 ベルトランが低く答えた。 その時、群れの一部が岩場へ雪崩れ込んだ。 斜面が震える。 頭上で乾いた音がした。 斥候が顔を上げる。 「上!」 小石がいくつも落ちてくる。 その奥で、大きな岩が一つ斜面から外れた。 ベルトランの剣が抜かれる。 二度、短く光った。 先に飛んできた石が左右へ弾ける。 オルヴァンもすぐ片手を上げた。 一度だけ風が吹く。 砕けた石片が斥候二人の頭上を避け、道の外へ散った。 最後に、背丈ほどもある岩が真っすぐ転がってくる。 アデマールが前へ出た。 「これは俺だな」 足元の土が盛り上がる。 岩の片側へぶつかり、進路を少しだけ変えた。 それでも勢いは止まらない。 アデマールはさらに一歩前へ出て、両手を岩へ当てた。 「重っ」 靴底が地面を滑る。 一歩。 もう一歩。 岩の勢いが落ちる。 アデマールが身体をひねった。 「そっち行け!」 岩は道の端へ向きを変え、そのまま斜面の窪みへ落ちた。 静かになった。 斥候二人が、しばらく何も言わない。 アデマールが振り返った。 「大丈夫?」 「……はい」 一人がようやく答える。 もう一人は、ベルトラン、オルヴァン、アデマールを順番に見た。 「今の、打ち合わせしてました?」 「してない」 ベルトランが剣を収める。 オルヴァンも白い長手袋を整えた。 「怪我がなくてよかったです」 アデマールが腕を振る。 「ちょっと痺れた」 「あとで見せてください」 「平気だよ」 「あとで見せてください」 アデマールがオルヴァンを見る。 「……はい」 斥候が思わず笑った。 ベルトランは何も言わず、谷の向こうへ視線を戻した。 獣の流れは、まだ続いている。 誰もこちらへ向かってこない。 ただひたすら、山を下りていった。 **** 昼食は、風を避けられる岩陰で取った。 砦町で包んでもらった肉入りのパンと、固い山のチーズ。干した果実もある。 小鍋では湯を沸かし、温かい茶を淹れた。 アデマールが包みを開く。 「これ俺の?」 「半分は僕のです」 オルヴァンが隣へ座った。 「最初から分けるつもりで買ったでしょう」 「そうだった」 アデマールがパンを二つに割る。 大きい方をオルヴァンへ渡した。 オルヴァンが両方を見比べる。 「こっちの方が大きいですよ」 「気のせい」 「かなり違います」 「いっぱい歩いたから」 「アデも歩きましたよ」 そう言いながら、オルヴァンは受け取った。 少し離れた場所では、ベルトランと斥候二人が地図を広げている。 アデマールはパンを食べながら、オルヴァンの手元を見る。 「寒い?」 「少し」 白い長手袋の指先が冷えていた。 アデマールが片手を差し出す。 「貸して」 「何をです?」 「手」 オルヴァンが片手を乗せる。 アデマールは黒い革手袋の両手で包んだ。 もう片方も取る。 「両方ですか」 「両方」 「返してくださいね」 「温まったら」 「僕の手ですよ」 「預かってるだけ」 オルヴァンが笑う。 二人の肩が触れる。 アデマールは白い長手袋ごと、冷えた指先を軽く擦った。 やがてベルトランが地図を畳んで戻ってくる。 「行くぞ」 アデマールはまだ両手を握っている。 ベルトランは一度だけ見る。 それ以上は何も言わなかった。 オルヴァンが立ち上がる。 「もう暖まりました」 「じゃあ返す」 アデマールは手を離す前に、白い指先へ軽く口づけた。 「返却」 「ありがとうございます」 ベルトランが先へ歩き始める。 「置いていくぞ」 「今行く」 アデマールも立ち上がった。 **** 午後になると、峠道はさらに細くなった。 ところどころに古い石畳が残っている。 かつては荷車も通ったらしい。 斥候の一人が、分かれ道で止まった。 「ここから旧峠道です」 新しい道は東へ大きく迂回している。 西へ伸びる古い道には草が生え、崩れかけた石標が傾いていた。 ベルトランが西を見る。 「この先に何がある?」 「古い採石坑があります」 斥候が答えた。 「砦を増築した頃に石を切っていたそうです。二十年以上前に閉じたはずです」 「入口までどのくらいだ?」 「ここからなら、半日もかかりません」 オルヴァンが西側へ顔を向ける。 少し目を細めた。 「こちらの方が分かりやすいです」 「悪魔のマナ?」 アデマールが聞く。 「はい。まだ薄いですが、さっきまでより強いです」 ベルトランが頷いた。 「旧道へ入る」 五人は草の生えた道へ進んだ。 少し歩くと、岩の表面に黒い染みのような揺らぎが見える場所があった。 触れずとも分かるほどのものではない。 だがオルヴァンには、先ほどまでよりはっきり感じられるらしい。 進むほど、残滓が増えていった。 斥候の一人が無意識に呼吸を浅くする。 ベルトランが足を止めた。 「二人とも、ここまででいい」 「ベルトラン殿?」 斥候たちが振り向く。 「砦へ戻って報告しろ。旧峠道から採石坑の方向へ痕跡が続いている。坑道図が残っているなら探させてくれ」 「ですが、三人だけで?」 ベルトランは平然としている。 「十分だ」 アデマールも肩掛けバッグの位置を直した。 オルヴァンは白い長手袋の手首を整える。 誰も特別なことを言わない。 斥候二人は三人を見た。 やがて、一人が頷く。 「分かりました」 「暗くなる前に下りろ」 「はい」 二人は来た道を戻っていった。 足音が遠ざかる。 旧峠道には、三人だけが残った。 アデマールが道の先を見る。 「こうなると、ちょっと懐かしいな」 「何がだ」 ベルトランが聞く。 「少人数で山の奥まで行く感じ」 「昔は四人だった」 オルヴァンが笑った。 「シビラが聞いたら怒りますよ」 「そうだった。四人」 アデマールがすぐ訂正する。 ベルトランが呆れる。 「本人の前で忘れるなよ」 「忘れてないって」 三人はそのまま旧道を進んだ。 **** 日が傾く頃、小さな岩棚を見つけた。 背後は高い岩壁。 前には旧峠道。 少し離れた場所から細い水も取れる。 ベルトランが周囲を確かめた。 「今日はここで泊まる」 アデマールが西を見る。 山の陰が長く伸びている。 「採石坑まで行かない?」 「暗くなってから近づく理由がない」 ベルトランが答える。 「明るくなってから入口を確認する」 「了解」 三人は野営の準備を始めた。 アデマールが薪を集める。 オルヴァンは小鍋へ水を入れ、乾燥野菜と燻製肉を加えた。 ベルトランは周囲を一周し、安全を確かめて戻ってくる。 火がついた。 薪がぱち、と鳴る。 橙色の炎が揺れ、その上から細い煙が立ち昇った。 煙は岩壁に沿って流れ、途中で風にほどけていく。 鍋から湯気が出始める。 アデマールが覗き込む。 「まだ?」 「まだです」 「いい匂いする」 「だから待ってください」 ベルトランが向かいへ座った。 「変わらんな」 「何が?」 アデマールが見る。 「鍋の前で待てないところ」 「昔からですね」 オルヴァンが鍋を混ぜながら笑った。 ベルトランは焚火へ薪を一本足す。 「魔獣王の領域へ入る前も、同じことしてたぞ」 アデマールが少し考えた。 「あの寒かった夜?」 「ああ」 オルヴァンも思い出したらしい。 「シビラが火を強くしすぎた時ですね」 「鍋の底が焦げた」 ベルトランが言う。 アデマールが笑った。 「あったな、それ」 「僕は弱火でって頼んだんですよ」 オルヴァンも笑っている。 「シビラの弱火は信用できない」 「本人の前で言わない方がいいですよ」 「俺もそう思う」 ベルトランが頷いた。 炎が揺れる。 煙が一度だけ濃くなり、すぐ細くなる。 アデマールが言った。 「俺、あの時夕飯減ったって怒ってなかった?」 「かなり」 「決戦前だぞ。食わないと」 「今も同じですね」 オルヴァンが笑う。 ベルトランも少し口元を緩めた。 「お前は夕食の次に、毛布でも騒いでた」 「毛布?」 アデマールが首を傾げる。 オルヴァンがすぐ答えた。 「僕の毛布へ入ってきたんです」 「寒かったんだよ」 「自分の毛布もありました」 「オルの方が暖かかった」 ベルトランが焚火越しに二人を見る。 「昔からそれか」 「昔からです」 オルヴァンが普通に答える。 「昔から」 アデマールも頷いた。 ベルトランは何も言わず、枝を一本火へ入れた。 アデマールがオルヴァンを見る。 「でもオルも追い出さなかっただろ」 「寒そうだったので」 「優しい」 「今さらですか?」 三人の笑い声が、静かな山へ小さく広がった。 それ以上、昔の戦いそのものを語ることはなかった。 魔獣王へ向かっていたこと。 四人で野営していたこと。 寒い夜に火を囲んだこと。 鍋を焦がしたこと。 毛布へ潜り込んだこと。 それらもすべて、本人たちにとっては同じ旅の途中にあった出来事だった。 「できましたよ」 オルヴァンが鍋を火から下ろす。 三人分の椀へ分けた。 豆と乾燥野菜、燻製肉の簡単なスープ。 黒パン。 固いチーズ。 アデマールが一口飲む。 「うまい」 「今日は焦げてません」 「シビラいないしな」 ベルトランが言う。 「だから本人の前で言うな」 「分かってるって」 また三人で笑った。 **** 食後、焚火は少し小さくした。 煙も細くなり、岩壁を撫でるように流れている。 ベルトランが剣を持って立ち上がった。 「最初は俺が見る」 「交代するぞ」 アデマールが言う。 「分かってる」 「起こせよ」 「起きなかったら蹴る」 「優しくして」 「断る」 ベルトランは少し離れた岩の上へ移動した。 焚火のそばには、アデマールとオルヴァンが残る。 二人用の毛布を広げる。 アデマールが背中を岩壁へ預けて座った。 「オル」 「はい」 オルヴァンが隣へ座る。 すぐ肩を抱かれた。 そのまま身体を預ける。 毛布を二人へ掛けた。 焚火の熱が頬へ届く。 背後は冷たい山の夜。 目の前では炎が小さく揺れ、細い煙が上へ伸びている。 オルヴァンが火を見る。 「懐かしかったですね」 「うん」 「三人で歩くのも」 「うん」 少し離れた場所には、ベルトランの背中がある。 オルヴァンが声を落とした。 「昔は、こういう日の終わりも四人で野営でしたね」 「そうだったな」 「今は、アデと同じ毛布で眠れます」 アデマールがオルヴァンを見る。 オルヴァンも顔を上げた。 「僕、今の方が好きです」 アデマールの表情がゆっくり緩んだ。 「それ、すごく嬉しい」 「本当なので」 アデマールが白い髪へ口づけた。 次に額。 オルヴァンが目を閉じる。 少しして、自分から顔を上げた。 唇が重なる。 ゆっくり。 少し長く。 それでも先を急ぐようなキスではなかった。 離れると、オルヴァンはまた肩へ頭を預けた。 アデマールが毛布の中で手を探す。 指を絡める。 「暖かい?」 「はい」 「俺?」 「アデも、火も」 アデマールが笑う。 「どっちが上?」 「今日はアデです」 「よし」 オルヴァンも笑った。 焚火がぱち、と鳴る。 火の粉が少しだけ上がり、すぐ消えた。 アデマールが絡めた指へ力を入れる。 オルヴァンも握り返した。 しばらく二人は何も話さなかった。 炎が小さくなっていくのを、同じ毛布の中から眺めていた。 **** 翌朝。 焚火の跡へ水を掛ける。 最後に土を被せると、白い煙が一筋だけ上がった。 三人は旧峠道を西へ進んだ。 昨日より岩が多い。 道の両側には古い採石の痕跡が残っている。 人の手で削られた斜面。 崩れた石積み。 朽ちかけた木の支柱。 ベルトランが道端の石標を見る。 「近い」 少し進む。 旧道が大きく曲がった。 その先で、三人の足が止まった。 岩山に、大きな黒い穴が開いている。 入口の上には古い木組みが残り、その一部は崩れていた。 閉鎖された採石坑。 中から冷たい風が吹いてくる。 オルヴァンの表情が変わる。 「ここは、かなり分かります」 悪魔のマナだった。 山道に残っていた薄い気配より、明らかに濃い。 アデマールが入口へ近づく。 「オル」 岩壁の端を指す。 新しく削れた部分に、三本の深い傷が残っていた。 オルヴァンも近づく。 一度見て、目を細める。 「昨日の傷と同じ形ですね」 「ああ」 ベルトランも傷を見る。 「かなり最近だ」 アデマールが坑道の奥へ目を凝らした。 暗く、先は見えない。 「入る?」 「今日は戻る」 ベルトランは坑口の木組みと、天井の亀裂を見上げた。 「坑道図と崩落箇所の記録を持ってくる。中で大太刀を振れるとも限らん」 アデマールも天井を見る。 「それは困るな」 「困るだけで済ませるな」 オルヴァンが少し笑った。 「準備してから来ましょう」 ベルトランが頷く。 「場所は分かった。それで十分だ」 三人は坑口へ背を向けた。 少し歩いたところで、アデマールがオルヴァンの隣へ並ぶ。 オルヴァンも自然に隣へ寄った。 前を歩くベルトランが振り返ることはなかった。 山から何もかもが逃げ出した理由は、黒い坑口の向こうに残されていた。

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