13 / 18
第13話 水の町では、ゆっくり漕げ
「旦那! 速く漕ぐんじゃない! ゆっくりだ!」
船頭の声が水路いっぱいに響いた。
アデマールは慌てて櫂を浅くしたが、細長い小舟は勢いよく前へ滑っていく。向かいから果物売りの舟が来ていた。
「アデ、右へ」
「分かった!」
櫂を入れると、今度は舟首がぐいっと右へ振れた。
「回しすぎだ!」
船尾の船頭が頭を抱える。
隣ではオルヴァンが肩を震わせていた。
「オル、笑ってるだろ」
「だって、アデがものすごく真剣なので」
「真剣だよ。これ、戦場より難しくない?」
「舟は倒して勝てませんからね」
船頭まで吹き出した。
朝の運河は、すでに何十艘もの舟で賑わっていた。
石造りの建物の間を大小の水路が走り、荷船、渡し舟、花を売る舟、焼き菓子を積んだ舟まで行き交っている。
二人は朝から観光用の小舟を借りた。
船頭が漕いでくれるだけでも町を回れるのだが、アデマールが「俺もやってみたい」と言った結果、最初の橋へ着く前から何度も指導を受けている。
「黒い旦那、櫂は押し切らなくていい。水を撫でるくらいで十分だ」
「撫でる?」
「そうそう」
アデマールは言われた通り、今度こそ力を抜いた。
小舟が静かに進む。
「お」
船頭が頷いた。
アデマールはすぐオルヴァンを振り返る。
「今の見た?」
「きれいに進みましたね」
「上手かった?」
「さっきまでよりずっと」
アデマールは満足そうに笑った。
船頭も笑う。
「旦那、褒められると伸びるな」
オルヴァンが楽しそうに頷いた。
「昔からです」
****
水上朝市では、舟そのものが店になっていた。
「焼きたて! 胡桃と蜂蜜!」
声のする方から、大きな籠を積んだ舟が近づいてくる。
オルヴァンの視線が、その籠へ吸い寄せられた。
アデマールが櫂を持ち直す。
「寄せる」
「俺がやる!」
船頭が素早く櫂を奪った。
「なんで?」
「朝飯を沈めたくねえ!」
二艘が並ぶと、オルヴァンは胡桃入りの焼きパンを二つ買った。熱い紙包みを受け取り、一つをアデマールへ渡す。
二人で齧る。
表面は香ばしく、中から温かい蜂蜜が染み出した。
「うまい」
「おいしいです」
その横を香辛料の舟が通り、その向こうでは猫獣人の青年が色とりどりの花を売っている。
アデマールはパンを食べながら、器用に片足で舟を操る青年を眺めた。
「みんな簡単そうだな」
「この町では、歩くのと同じくらい慣れているんでしょうね」
「オルもやってみる?」
「いいですよ」
「結構難しいよ」
「アデがたくさん見せてくれましたから」
アデマールがパンを食べる手を止めた。
「それ、失敗の方?」
「成功したところもありましたよ」
船頭が声を上げて笑った。
アデマールも結局笑い、残りのパンを一口で食べた。
****
古い石橋をくぐった先には、小さな工房が並んでいた。
水際まで大きな扉が開き、舟から直接材料を運び込める。ガラス工房の店先では、朝日を受けた小瓶や飾り玉が光っていた。
オルヴァンが舟の上から身体を乗り出した。
「あそこ、寄りたいです」
「俺も見たい」
船頭が舟を岸へつける。
工房の中には赤、青、緑の小瓶が並び、奥では職人が細いガラスを炎の前で回している。
オルヴァンは水滴の形をした薄青の飾りを手に取った。
「きれいですね」
アデマールは横から覗き込む。
「オルに似合いそう」
「僕につけるものじゃありませんよ」
「分かってる。なんとなく」
オルヴァンが笑う。
「では、宿の窓辺に下げましょうか」
「買う?」
「はい」
二人で一つ選び、包んでもらった。
次の店では香油を嗅ぎ、その先では木彫りの小舟を眺めた。
昼になる頃には、アデマールの肩掛け鞄に小さな包みがいくつか増えていた。
水路へ張り出した食堂では、焼いた川魚と豆の煮込みを頼んだ。
食事の途中、アデマールが水面を眺めながら言う。
「オル、午後は漕ぐ?」
「そのつもりです」
「見るのとやるのは違うからな」
「そうですね」
「結構難しいから」
「はい」
「俺も後半は上手かったけど」
「はいはい」
オルヴァンが魚を一切れ自分の皿へ移しながら笑った。
アデマールは少しだけ不満そうに眉を寄せたが、すぐ豆の煮込みへ戻った。
****
午後。
オルヴァンは船頭から櫂を受け取った。
「最初は小さく動かせばいい。舟が進み始めたら、無理に押さなくても流れてくれる」
「分かりました」
一度、水を押す。
小舟が静かに前へ出た。
二度目もまっすぐ。
橋脚が近づくと、オルヴァンは櫂を浅く入れ、舟首を滑らかに向けた。
そのまま狭い間を抜ける。
アデマールは腕を組んだ。
「……上手いね」
「ありがとうございます」
「初めて?」
「初めてです」
船頭が感心したように頷く。
「白い旦那、筋がいいな」
アデマールはしばらく水面を眺めた。
「俺も最後はこんな感じだった?」
「近かったですよ」
オルヴァンが妙に柔らかい声で答える。
「慰めてる?」
「少しだけ」
オルヴァンが笑い、アデマールもつられて笑った。
****
午後の水路は朝より混んでいた。
市場から戻る舟、倉庫へ向かう荷船、劇場街へ客を運ぶ渡し舟が次々と交差する。
二人の小舟の前を、大きな荷船が進んでいた。
船体いっぱいに木箱と壺が積まれ、岸では二頭の荷役獣が太い曳き綱を引いている。
その綱が突然切れた。
鈍い音が響き、荷船が斜めへ流れる。
進行方向には客を乗せた渡し舟がいた。
「綱が切れた!」
「渡しを下げろ!」
岸と船上から声が飛ぶ。
アデマールが立った。
さっきまでオルヴァンの舟さばきに軽口を叩いていた雰囲気が、一瞬で変わる。
「オル」
「はい」
それだけで二人は別々に動いた。
アデマールは船縁を蹴り、岸へ飛ぶ。石畳を一歩走り、流れてくる荷船へ跳び移った。
船員の横を抜け、切れた曳き綱を掴む。
「これ借りる!」
返事を待つ間もなく船尾から岸へ飛び戻り、両手へ綱を巻き取った。
綱が張る。
満載の荷船がアデマールを引いた。
靴底が石畳を滑り、一歩、二歩と下がる。
三歩目で止まった。
荷船も止まった。
船腹へ押し返された水が大きく跳ねる。
岸辺が静まり返った。
アデマールは綱を握ったまま、荷船の船員へ声を飛ばす。
「これ、どこへ繋ぐ?」
船員が呆然と係船柱を指した。
「……そこだ」
「了解」
その頃には、オルヴァンも小舟を動かしていた。
「少し借ります」
船頭から櫂を受け取り、混雑した舟の間を抜ける。
止まった荷船へぴたりと横付けした。
「足を痛めた方はこちらへ」
転倒した船員を乗せ、岸まで運ぶ。
すぐに向きを変え、もう一度荷船へ戻る。
別の船員を乗せる。
流れを横切る舟の間へ入るたび、櫂が一度だけ水を切った。
荷船では、傾いた木箱が積み荷の端へ寄っていた。
アデマールが岸から振り返る。
オルヴァンも同じ場所へ視線を向けた。
指先が僅かに動く。
揺れていた木箱と壺が静まった。
「新しい綱を持ってきたぞ!」
荷役人たちが走ってくる。
そこからは、この町の船員たちが動いた。
綱を掛け直し、積荷を確かめ、渡し舟を先へ通す。水路には数分でいつもの声が戻った。
荷船の船員が岸へ上がり、アデマールを上から下まで見た。
「旦那……何者だ?」
アデマールは黒い手袋についた水を払った。
「旅人」
小舟を寄せたオルヴァンも頷く。
「二人で観光中です」
船頭が対岸から叫んだ。
「観光客が荷船を腕で止めるか!」
周囲から笑いが起きた。
アデマールも笑い、オルヴァンの小舟へ戻った。
****
事故のあとは、水上菓子屋を探した。
冷たい乳菓子へ果実蜜をかけたものを一つずつ買い、二人で舟の上から夕方の水路を眺める。
オルヴァンは柑橘。
アデマールは赤い果実。
「オルの一口」
「では僕にもそちらをください」
器を交換する。
少し離れたところから声が飛んできた。
「さっきの旦那たち!」
荷船の船員が別の舟から手を振っている。
「積荷、全部無事だったぞ! 壺も一つも割れてない!」
「それはよかったです!」
オルヴァンが手を振り返した。
隣の船員も笑う。
「あれだけ傾いたのにな。運が良かった!」
アデマールとオルヴァンは顔を見合わせた。
そのままアデマールが乳菓子を一口食べる。
「オルの方うまいな」
「僕はアデの方も好きです」
「じゃあ半分交換する?」
「そうしましょう」
船頭が二人を眺め、肩を揺らした。
「さっきまで大騒ぎの真ん中にいたとは思えんな」
アデマールは果実蜜の器をオルヴァンへ渡す。
「観光しに来たから」
「今日はまだ夕方が残っていますしね」
二人は橋の向こうに見える店を探し始めた。
****
日が傾く頃、最後にもう一度だけ小舟を借りた。
今度はオルヴァンが漕ぐ。
船頭は岸から、
「暗くなる前には戻ってこいよ!」
と送り出してくれた。
水面へ建物の灯りが伸び始めている。
オルヴァンは朝から覚えた通り、櫂をゆっくり動かした。
後ろに座ったアデマールは、しばらく景色を眺めていた。
やがて少し前へ寄り、オルヴァンの腰へ腕を回す。
「アデ、重いです」
「漕ぎにくい?」
「少し」
「離れようか?」
「そのままでいいです」
アデマールは嬉しそうに頬を寄せた。
オルヴァンは櫂を動かしたまま、少しだけ後ろへ体重を預ける。
石橋の下へ入る。
水音が近くなった。
橋を抜けると、朝の水上市場が夜の店へ変わり始めていた。舟の上に小さな灯りが並び、香辛料や焼き菓子の匂いが流れてくる。
「この町、好きです」
オルヴァンが言った。
「俺も。明日も舟乗る?」
「乗りましょう」
「今度は俺も漕ぐ」
「朝ごはんの前ですか?」
「食べたあと。腹減ってると集中できない」
「では、パンを買ってからですね」
アデマールが髪へ口づける。
オルヴァンは振り返り、唇へ軽く口づけた。
そのまま櫂を戻す。
小舟は灯りの間をゆっくり進んだ。
****
宿へ戻った頃には、二人ともすっかり身体が冷えていた。
部屋には小さな浴室があり、二人で入れる大きさの木桶へ湯を張ってもらった。
アデマールが肩まで沈むと、隣のオルヴァンがその腕へ触れた。
「張っていますね」
「綱かな」
「たぶん」
オルヴァンはアデマールの腕を取り、肩から肘へゆっくり揉んでいく。
「気持ちいい」
「今日はずいぶん力を使いましたからね」
「舟では使わない方がいいって怒られたのに」
「荷船には役立ちました」
アデマールが笑う。
「オルは腕、大丈夫?」
「僕は櫂を持ったくらいです」
「いっぱい漕いでた」
「では、あとでお願いします」
アデマールはすぐオルヴァンの肩へ腕を回した。
「今でもいいよ」
「湯の中で揉むんですか?」
「できる」
「ではお願いします」
オルヴァンが背中を向ける。
アデマールの指が肩へ沈むと、気持ちよさそうに息を吐いた。
しばらく揉んだあと、そのまま後ろから抱き込む。
オルヴァンは胸へ身体を預けた。
「アデ」
「ん?」
「今日は楽しかったです」
「俺も」
アデマールが耳の下へ口づける。
オルヴァンは少し首を傾け、続けやすい位置を作った。
「そこ、もう少し」
「うん」
二度、三度と口づける。
オルヴァンが振り返り、唇を重ねた。
湯が少し揺れる。
離れたあとも、互いの腕はそのままだった。
「明日も乗りますからね」
「今度は負けない」
「勝負だったんですか?」
「今日から」
オルヴァンが笑い、もう一度アデマールへ寄った。
****
風呂から上がると、昼に買った薄青のガラス飾りを窓辺へ吊るした。
灯りを透かすと、水滴のような影が壁へ揺れた。
「きれいですね」
オルヴァンが眺めている間に、アデマールが後ろから濡れた髪を持ち上げた。
「乾かす」
「お願いします」
温かな風を当てながら、指で髪を梳く。
オルヴァンは途中から椅子の背へ身体を預け、アデマールの腹へ後頭部をつけた。
「眠い?」
「少し。でも寝る前にアデの髪も乾かします」
「俺は短いから平気」
「僕がやりたいんです」
乾かし終わると、今度はアデマールが椅子へ座らされた。
オルヴァンが黒い髪へ温かな風を当てる。
終わる頃には、アデマールがオルヴァンの腰を抱き、額を腹へつけていた。
「アデ」
「もうちょっと」
「眠いんでしょう?」
「オルが近いから」
オルヴァンが笑い、髪へ口づける。
アデマールはそのまま腰を抱いていた。
しばらくして、オルヴァンの指が黒い寝間着の襟へ触れる。
「寝ます?」
「寝る」
留め具を一つ外す。
アデマールが顔を上げた。
「着替え手伝ってくれるの?」
「もう半分着ていますけど」
「じゃあ脱がせる方?」
オルヴァンが少し笑う。
「アデがそうしたいなら」
アデマールの腕が腰へ回り直した。
「したい」
「僕もです」
オルヴァンは黒い寝間着の襟をもう少し緩めた。
アデマールも白い寝間着へ指を掛ける。
肩から布が少しずれ、露わになった肌へ掌が触れた。
オルヴァンが自然にその手へ頬を寄せる。
「冷たくない?」
「アデの手は暖かいです」
唇が重なる。
離れて、また重なる。
オルヴァンが首へ腕を回した。
「今日はまだ、くっついていたいです」
「俺も」
「寝台へ行きましょう」
「うん」
アデマールが抱き上げる。
オルヴァンの脚が腰へ絡む。
二人とも笑った。
「明日は僕の方が上手に漕ぎますよ」
「今日もオルの方が上手だっただろ」
「認めましたね」
「今は舟の話したくない」
「どうしてです?」
アデマールが首筋へ口づけた。
「オルに触りたいから」
オルヴァンの目が細くなる。
「では、そちらを優先してください」
「喜んで」
寝台へ下ろす。
オルヴァンは脚を解かず、そのままアデマールを引き寄せた。
唇が重なる。
アデマールの指が白い寝間着をさらに緩める。
オルヴァンも黒い布を肩から落とす。
肌へ触れる。
指を絡める。
二人の身体が重なった。
「アデ」
「ん?」
「好きです」
「俺も」
その声は、いつもの夜と同じくらい自然だった。
窓辺では、薄青のガラスが夜の灯りを受けて揺れていた。
****
夜更け。
オルヴァンは毛布の中でアデマールの胸へ収まっていた。
汗の残る髪を、アデマールの指がゆっくり梳く。
頬を撫でる。
オルヴァンはその手へ頬を寄せた。
「アデ」
「ん?」
「明日の舟、どうします?」
「乗る」
「漕ぎます?」
「漕ぐ。絶対上手くなる」
「楽しみにしています」
アデマールが少し身体を起こす。
「その言い方、笑う気だろ」
「少しだけです」
「ひどい夫だな」
「好きでしょう?」
「大好き」
頬へ口づける。
オルヴァンも胸元へ一つ返した。
「僕もです」
アデマールが毛布を肩まで引き上げる。
「朝飯、胡桃パンな」
「はい」
「いっぱい食べてから舟」
「力を入れすぎないでくださいね」
「それもう言わないで」
オルヴァンが笑う。
そのまま腕枕へ頭を戻し、脚を絡めた。
「おやすみなさい、アデ」
「おやすみ、オル」
二人は水音の遠く聞こえる部屋で、そのまま眠った。
****
翌朝。
窓辺のガラスへ朝日が入り、水色の光が寝台の端で揺れていた。
アデマールが先に目を覚ました。
腕の中では、オルヴァンがまだ眠っている。
しばらく眺める。
やがてオルヴァンが目を開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
「朝ごはんは?」
「胡桃パン」
「舟は?」
「そのあと」
オルヴァンが笑う。
アデマールは首筋へ口づけ、毛布の中でもう一度抱き寄せた。
「あと少し」
「では、あと少しだけ」
朝市が賑わい始める音を聞きながら、二人はもう少しだけ寝台に残った。
ともだちにシェアしよう!

