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第17話 星を頼りに

砂漠の朝は、思っていたより寒かった。 オルヴァンは毛布から顔だけ出し、まだ薄暗い空を見上げた。 隊商宿の中庭では、旅人たちが夜のうちに運び込んだ荷を積み直している。 香辛料の袋、塩の塊、染め布、乾燥した果実。長い脚を持つ砂漠馬が鼻を鳴らし、水桶へ首を伸ばしていた。 隣ではアデマールがもう起きている。 「寒いです」 「おいで」 毛布を持ち上げられたので、オルヴァンは素直に潜り込んだ。 アデマールの胸へ背中をつける。 「暖かいです」 「俺も」 「アデはさっきまで外にいたでしょう」 「戻ってきたらオルが丸まってたから」 「寒かったんです」 「可愛かった」 「では、もう少し見ていてもよかったのに」 「抱きたくなった」 腹へ回った腕が強くなる。 オルヴァンは満足して目を閉じた。 「出発は?」 「夕方」 「では、まだ寝られますね」 「寝る?」 「アデも」 「はいはい」 毛布の中で向きを変え、今度は胸へ頬を押しつける。 そのまま二人で二度寝した。 **** 砂漠の隊商は、太陽が高いうちにはあまり進まない。 昼間は隊商宿やオアシスで休み、日が傾いてから荷車を連ねる。 その暮らし方が、二人には新鮮だった。 昼前に起き、まず食べる。 薄く焼いた平たいパンへ、塩気の強い肉と刻んだ野菜を挟む。甘い香辛料茶には干した果実が添えられていた。 オルヴァンは赤い実を一つ食べ、もう一つをアデマールの口へ入れる。 「甘い?」 「うん」 「僕はこっちの方が好きです」 黄色い実を取る。 「じゃあ交換する?」 「してください」 皿を少し寄せる。 向かいに座っていた隊商の男が笑った。 「仲いいな、あんたら」 アデマールが即答する。 「夫だから」 「見りゃ分かるよ」 男は砂漠馬へ水をやりに立っていった。 オルヴァンが茶を飲みながら笑う。 「最近、言う前に分かられてますね」 「なんでだろ」 「さあ」 二人とも特に考えなかった。 食後は隊商宿の中を歩いた。 日差しを避けるため、建物は厚い土壁で囲まれている。中庭には布の日除けが張られ、商人たちがその下で横になっていた。 荷車の陰では、車大工が車輪を外している。 アデマールが覗き込んだ。 「何してる?」 「砂が入った。軸を磨いてるんだ」 職人が木軸を見せてくれる。 「毎日?」 「毎日だ。怠ると夜中に折れる」 「大変ですね」 オルヴァンもしゃがむ。 職人は二人が興味を持ったのが嬉しかったらしく、油の塗り方から車輪を縛る革紐まで次々に見せてくれた。 アデマールは実際に車輪を持たされる。 「持ち上げてみろ」 「これ?」 「腰をやるなよ」 アデマールが片手で持ち上げた。 職人が黙った。 アデマールも黙った。 「……両手で持った方がよかった?」 「そういう問題じゃねえよ」 オルヴァンが隣で肩を震わせる。 「笑うなよ」 「だって」 「重そうに見えなかった」 「普通は重いんですよ」 職人が車輪を取り返しながら、アデマールの腕をじっと見る。 「何食ったらそうなるんだ」 「いろいろ」 「僕が選んだものもたくさん食べています」 「じゃああんたが育てたのか?」 「はい」 「違うだろ」 今度は職人まで笑った。 **** 夕方。 太陽が西へ傾く頃、隊商が動き始めた。 荷車が一台、また一台と隊商宿を出る。 二人は自分たちの馬を借り、列の中ほどへ入った。 砂漠馬は細身で脚が長い。 アデマールが首筋を撫でる。 「よろしくな」 「気に入ったんですか?」 「格好いい」 「僕とどちらが?」 「オル」 「即答ですね」 「比べる必要ある?」 「ありません」 オルヴァンは機嫌よく馬を進めた。 砂丘の向こうへ太陽が沈む。 赤かった空が紫へ変わり、やがて深い青になる。 暑さが引いていく。 代わりに、星が出た。 一つ。 二つ。 数えられなくなる。 街の灯りも森の枝もない。 空が、地平線から地平線まで星で埋まっている。 オルヴァンが馬を止めた。 「すごいですね」 少し先へ行ったアデマールも戻ってくる。 「うん」 二人でしばらく空を見た。 隊商の荷車が横を通っていく。 鈴が鳴る。 砂漠馬の蹄が、柔らかい砂を踏む。 「アデ、あれ分かります?」 オルヴァンが星を指した。 「北?」 「全然違います」 「早くない?」 「かなり自信ありそうでした」 「じゃあ、あっち」 「反対です」 「星多すぎるんだよ」 「星のせいにしましたね」 オルヴァンが笑い出す。 アデマールは不満そうに空を見上げた。 「オルは分かるの?」 「もちろん」 迷いなく一つの星を指す。 「北はあちらです」 「本当に?」 「疑うなら隊商の方に聞いてみます?」 「信じる」 「急に素直ですね」 アデマールは馬を寄せた。 「迷ったらオルについていく」 「任せてください」 「どこまでも?」 「どこまでも」 アデマールが嬉しそうに笑う。 オルヴァンはその横顔へ手を伸ばし、頬へ軽く口づけた。 「前を見てください」 「今オルがキスしたんだけど」 「しましたね」 「もう一回」 「隊商から離れますよ」 「じゃあ夜休んでから」 「はい」 二人は馬を並べ、隊商を追った。 **** 数日目には、夜の旅にもすっかり慣れた。 休憩になると砂へ敷物を広げる。 隊商の鍋から豆と羊肉の煮込みをもらい、固いパンを浸して食べた。 香辛料が強い。 オルヴァンが一口食べて目を丸くする。 「辛い」 「水いる?」 「もう一口食べます」 「辛いんだろ?」 「美味しいです」 食べる。 また辛そうにする。 それでも食べる。 アデマールは笑いながら水筒を渡した。 「好きだなあ」 「この煮込みですか?」 「オル」 「知っています」 オルヴァンは水を飲んでから、アデマールの肩へ寄った。 食後、隊商頭が砂へ棒を立てた。 影の位置を見て、空を見る。 何人かの若い隊商員も集まった。 「星で道を見るんですか?」 オルヴァンが尋ねる。 「星と風と砂だな。どれか一つだけ信じると迷う」 隊商頭は地平線を指した。 「あの星を右に置く。風が北からなら、砂丘の筋はこうなる。古い道には目印もある」 アデマールが感心する。 「すげえな」 「何十年も歩いてりゃ覚える」 「俺、さっき北を二回外した」 「それは才能だな」 隊商員たちが笑った。 オルヴァンもまた笑っている。 「そんなに笑う?」 「だってアデ、剣なら後ろから飛んできても避けるのに」 「星は飛んでこないじゃん」 「飛んできたら困ります」 隊商頭が二人を眺めていた。 「剣を使うのか?」 「まあ、それなりに」 「護衛の仕事でもしてたのか?」 「昔ちょっと」 それで話は終わった。 隊商頭は次の休憩地点について話し始めた。 **** その夜は、風が弱かった。 砂丘の輪郭が星明かりで淡く浮いている。 荷車の列は細長く続き、護衛たちは前後と左右へ散っていた。 オルヴァンが馬上で欠伸をする。 「眠い?」 「少し」 「俺の馬に来る?」 「寝ますよ」 「支える」 「アデも馬に乗ってるでしょう」 「できる」 「できるでしょうけど」 オルヴァンが笑った、その時だった。 アデマールの視線が変わった。 馬を止める。 「オル」 「はい」 オルヴァンも止まった。 二人が同じ方向を見る。 右手の砂丘。 何もない。 風もない。 それでも、アデマールは動かなかった。 後方の護衛が気づく。 「どうした?」 アデマールは砂丘を見たまま答えた。 「何かいる」 護衛の表情が変わる。 すぐに短い笛が鳴った。 隊商全体へ緊張が走る。 荷車が寄せられる。 家畜を内側へ。 護衛たちが武器を抜く。 誰もアデマールの言葉を笑わなかった。 この土地で生きる者たちは、砂漠で誰かが感じた異変を軽く扱わない。 オルヴァンが馬から降りた。 砂へ指先を触れる。 わずかな振動。 一度。 二度。 離れた場所でも。 「複数です」 隊商頭が剣を抜く。 「砂潜りだ。数は?」 「かなり」 砂丘が膨らんだ。 次の瞬間、砂が爆ぜた。 巨大な顎が飛び出す。 護衛の槍が一斉に向く。 「来るぞ!」 一頭目が荷車へ突っ込んだ。 護衛三人が槍で軌道を逸らす。 別の場所から二頭。 さらに奥で砂が盛り上がる。 アデマールが馬から降りた。 肩掛けバッグの脇へ手を伸ばす。 何もなかった空間から、大太刀が現れる。 オルヴァンもレイピアを抜いた。 「アデ」 「うん」 それだけで二人は左右へ分かれた。 砂が爆ぜる。 魔獣が飛び出す。 アデマールが踏み込んだ。 一閃。 巨大な魔獣が空中で横へ弾かれ、そのまま砂へ落ちた。 護衛の一人が目を見開く。 「……は?」 次が来る。 アデマールはもうそちらを向いていた。 大太刀を返す。 二頭目。 一撃。 三頭目が背後から飛び出す。 「後ろ!」 声が届く前に、オルヴァンのレイピアがその腹を貫いた。 抜く。 振り返る。 風が走る。 砂の表面が大きく流れ、次に潜んでいた魔獣の位置が露わになる。 「アデ、奥三つ」 「了解」 アデマールが走った。 速い。 砂の上を走っているとは思えない。 一頭が潜る。 その先へ、もうアデマールがいる。 大太刀が落ちる。 一頭。 横から二頭。 身体を沈め、最初の顎を避ける。 返した刃で一頭。 もう一頭へ蹴り。 巨体が砂を撒き散らして転がった。 一方、オルヴァンの周囲でも砂が爆ぜる。 レイピアを持ったまま半歩下がる。 魔獣の顎が空を噛んだ。 その腹へ刃が入る。 次の魔獣が潜る。 オルヴァンの足元から水が薄く走った。 砂が一瞬だけ固まる。 潜っていた魔獣が弾き出される。 「そこ」 護衛の槍が突き込まれた。 「おおっ!」 護衛たちもすぐに合わせる。 槍。 弓。 剣。 隊商を守る輪が崩れない。 その外側を、アデマールとオルヴァンが走る。 砂が動く。 オルヴァンが見る。 アデマールが斬る。 アデマールが振り返る。 オルヴァンがもう次を押さえている。 言葉はほとんど要らなかった。 最後の一頭が大きく跳ねた。 アデマールが大太刀を構える。 魔獣はその直前で向きを変えた。 オルヴァンへ。 護衛が叫ぶ。 オルヴァンは動かなかった。 ただ、アデマールを見た。 次の瞬間。 大太刀がオルヴァンの横を抜けた。 魔獣が砂へ叩き落とされる。 オルヴァンの髪が風圧で揺れた。 「終わり?」 「こちらは」 オルヴァンが周囲を見る。 砂の振動が遠ざかっていく。 残った魔獣が逃げていた。 「終わりです」 アデマールが大太刀を下ろした。 静かになった。 護衛たちはまだ武器を構えている。 一人がゆっくり槍を下ろした。 別の一人も。 隊商頭が辺りを見回す。 倒れた魔獣。 無事な荷車。 無事な家畜。 そして、息一つ乱さず立っている二人。 「……あんたら」 アデマールが振り返る。 「うん?」 「本当に、ただの旅夫夫か?」 「旅人だよ」 「夫夫です」 隊商頭が額を押さえた。 「そこを聞いてない」 護衛たちから笑いが漏れた。 張り詰めていた空気がほどける。 アデマールも笑った。 オルヴァンがレイピアを収めながら近づいてくる。 「アデ」 呼ばれた瞬間、アデマールは腕を広げた。 オルヴァンがその中へ入る。 抱きしめる。 「怪我は?」 「ありません」 「よかった」 オルヴァンも背中へ腕を回した。 「アデも?」 「平気」 唇を重ねる。 一度離れて、もう一度。 すぐ横で護衛が倒れた魔獣を確認している。 誰も気にしない。 隊商頭だけが二人を見ていたが、やがて諦めたように部下へ向き直った。 「怪我人を見ろ! 家畜も全部確認しろ!」 隊商が動き始める。 オルヴァンはまだアデマールの胸にいた。 「働きましょう」 「もうちょっと」 「僕もそうしたいですけど」 「じゃあ十秒」 「十秒だけですよ」 二人で十秒抱き合ってから、救護へ向かった。 **** 幸い、重傷者はいなかった。 噛まれた護衛が一人。 転倒した時に肩を痛めた者が二人。 魔獣に驚いた家畜が一頭、脚を傷めていた。 治療が終わる頃には夜もかなり更けていた。 隊商頭は進行を諦め、その場で野営を決めた。 砂丘の陰へ天幕が並ぶ。 火が焚かれる。 さっきまで戦っていた護衛たちは、もう鍋を囲んでいた。 「飲め!」 アデマールへ杯が渡される。 「いいの?」 「飲まなきゃやってられん。あんなもの見せられた後で!」 アデマールが飲む。 「うまい」 「そうだろ!」 オルヴァンにも杯が来た。 「俺たちが一頭仕留める間に何頭斬った?」 「数えてません」 「俺は数えたぞ。途中まで」 「途中でやめたんですか?」 「嫌になった!」 笑いが起きる。 護衛たちは自分たちの戦いも振り返っていた。 「あの三頭を槍で返したの、よかったな」 「右が遅れた」 「次はもっと寄せろ」 「弓も二本当たってたぞ」 アデマールも聞いている。 「最初のやつ、三人で向き変えたの格好よかった」 「見てたのか?」 「見えてた」 「お前、あっちで斬ってただろ」 「見えるよ」 護衛がしばらく黙った。 「……そういうところだぞ」 また笑いが起きた。 やがて食事が終わる。 火が小さくなる。 一人、また一人と天幕へ戻っていった。 **** 二人は少し離れた砂丘へ上った。 大きな毛布を一枚だけ持ってきた。 オルヴァンが先に座り、その後ろへアデマールが座る。 毛布を二人まとめて被る。 オルヴァンは当然のように背中を預けた。 アデマールの腕が腹へ回る。 頭上には、昼間よりずっと近く見える星。 「北、どっち?」 アデマールが聞いた。 オルヴァンが笑う。 「あっちです」 「覚えた」 「本当に?」 「たぶん」 「明日また聞きます」 「忘れてたら?」 「教えます」 アデマールが首筋へ口づけた。 オルヴァンは目を閉じる。 もう一度。 「アデ」 「ん?」 「今日は甘やかしてください」 アデマールの腕が少し強くなる。 「いっぱい戦ったから?」 「頑張りましたから」 「うん。格好よかった」 「もっと」 髪へ口づける。 頬。 耳の下。 首筋。 オルヴァンが毛布の中でアデマールの腕を撫でる。 「もっと甘やかしてください」 「どうしよう。全部したい」 「してください」 アデマールが一瞬、動きを止めた。 「オル」 「はい」 「今、すごく抱きたい」 背中越しに伝わる声が熱かった。 オルヴァンは身体を反転させる。 毛布の中で向かい合う。 「僕もです」 アデマールの頬へ触れる。 「来てください」 唇が重なる。 今度は長かった。 オルヴァンの指が黒いシャツを掴む。 アデマールは腰を抱き寄せた。 唇を離しても、額をつけたまま離れない。 「天幕、戻る?」 「もう少し星を見たいです」 「抱きたい」 「僕も抱かれたいです」 「……オル」 「だから」 オルヴァンが笑う。 「もう少しだけ我慢してください」 アデマールが唸るように息を吐き、オルヴァンの肩へ額を落とした。 「無理かも」 「頑張ってください」 「さっき頑張った」 「僕も頑張りました」 「じゃあ戻ろうよ」 「あと少しです」 オルヴァンは楽しそうだった。 アデマールはとうとう諦め、後ろからもう一度抱き込んだ。 「五分」 「もう少し」 「十分」 「もう少し」 「オル、絶対帰る気ないだろ」 「ありますよ」 少し間があった。 「アデとこうしているのも好きなんです」 アデマールの腕から力が抜けた。 代わりに、もっと深く包み込む。 「それ言われたら待つしかないじゃん」 「知っています」 二人で星を見た。 しばらくして、オルヴァンが毛布の中でアデマールの指へ自分の指を絡める。 「アデ」 「ん?」 「そろそろ戻りましょう」 アデマールが立ち上がった。 「よし」 「わっ」 毛布ごとオルヴァンを抱き上げる。 「歩けます」 「俺がもう無理」 「そうでしたね」 オルヴァンは笑って首へ腕を回した。 天幕へ戻る。 入口の布が落ちる。 アデマールはオルヴァンを抱いたまま寝具へ膝をついた。 オルヴァンが自分から脚を絡める。 「アデ」 「うん」 「離さないでください」 「離せるわけない」 衣擦れの音がした。 外では、星を頼りに旅をする人々の夜が静かに更けていった。 **** 翌朝。 オルヴァンはアデマールの腕を枕にして眠っていた。 毛布の中は暖かい。 肩にはアデマールのシャツが掛かっている。 目を開けると、すぐ近くに夫の寝顔があった。 「アデ」 反応がない。 頬を撫でる。 「朝ですよ」 腕が動いた。 腰を抱かれ、そのまま胸へ戻される。 「まだ」 「隊商が出ますよ」 「まだ出ない」 「どうして分かるんです?」 「静かだから」 オルヴァンは耳を澄ませた。 確かに、荷車を動かす音がしない。 「……もう少し寝ます?」 「寝る」 額へキスされた。 オルヴァンも顎へ口づける。 「おやすみなさい」 「おやすみ」 二人でもう一度毛布へ潜った。 天幕の外では、朝日を受けた砂丘が金色に輝き始めていた。

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