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第23話 北の空がほどける夜
港へ着いた時、雪が降っていた。
細かな雪だった。
海から吹く風に乗り、木造の家々の屋根や石畳へ静かに積もっていく。細長い湾の両側には険しい山が迫り、その斜面にも白い筋が続いていた。
オルヴァンは宿の前で立ち止まり、空を見上げる。
「寒いですね」
「砂漠の次がこれだもんな」
アデマールが隣へ寄り、白い上着の肩へ積もった雪を払う。
「手、冷たい?」
「少し」
黒い手袋越しにオルヴァンの指を包む。
そのまま二人で宿へ入った。
****
昼食は、港の食堂で魚のスープを食べた。
白身魚と芋、玉葱を煮込んだ濃いスープに、黒いパンが添えられている。
オルヴァンは最初の一口で息を吐いた。
「温まります」
「うまいな」
アデマールはパンを大きくちぎり、スープへ浸す。
隣では、オルヴァンが小さめにちぎったパンを同じように沈めていた。
「真似しました?」
「アデがおいしそうに食べるので」
「じゃあこれも」
アデマールが自分の匙へ魚を多めに乗せ、オルヴァンの口元へ運ぶ。
オルヴァンはそのまま食べた。
「おいしいです」
「だろ」
今度はオルヴァンが芋を一つすくう。
「アデも」
「うん」
互いの皿を行き来しながら食べる。
窓の外では雪が強くなったり弱くなったりしていた。
食堂の主人が薪を炉へ足しながら言う。
「今日は港の外まで行くなら、夕方より前に戻ってきな。夜は冷えるぞ」
「分かりました」
オルヴァンが返す。
アデマールは窓の外を見る。
「今日は何する?」
「雪ぞりに乗りたいです」
「乗ろう」
「毛皮市場も行きたいです」
「行こう」
「サウナも」
「全部行こう」
食堂の主人が笑った。
「忙しい観光客だな」
アデマールが即答する。
「遊びに来たから」
オルヴァンも楽しそうに頷いた。
****
雪ぞりは、思っていたより速かった。
犬系獣人の御者が合図を出すと、二頭の大きな雪犬が一気に走り出す。
そりが雪道を滑る。
「おおっ!」
アデマールが子どものような声を上げた。
オルヴァンも笑っている。
港町を抜け、雪に覆われた坂道へ入る。
湾が見える。
細長い海。
その両側に切り立つ山。
空には低い雲。
風が強くなると、オルヴァンがアデマールの肩へ寄った。
アデマールはすぐ腕を回す。
「寒い?」
「平気です。こうしていたいだけです」
「じゃあもっとおいで」
オルヴァンが素直に身体を寄せる。
御者が前から声を飛ばした。
「景色見ろよ! 旦那ばっか見てたらもったいないぞ!」
オルヴァンが笑う。
アデマールは腕を離さない。
「両方見る!」
「器用だな!」
そりはそのまま雪の道を駆けた。
****
午後は毛皮市場へ行った。
狐に似た毛。
灰色の狼毛。
白い長毛。
厚手の手袋、帽子、肩掛け、敷物。
アデマールは黒い毛皮の帽子をかぶせられた。
オルヴァンがじっと見る。
「どう?」
「似合います」
「買う?」
「でも、耳が隠れすぎですね」
オルヴァンが両手で帽子の位置を直す。
「これなら」
「いい?」
「はい」
今度は店主が白い毛皮の肩掛けをオルヴァンへ持ってきた。
「白い旦那にはこれだな」
オルヴァンが羽織る。
アデマールの視線が止まった。
「……それ買う」
「まだ値段も聞いていませんよ」
「似合う」
「アデ」
「すごく似合う」
店主が笑った。
「旦那さん、商売しやすいな」
オルヴァンも笑いながら肩掛けを外す。
「では、少し値段を聞いてからにしましょう」
「買うのは決定?」
「僕も気に入りました」
結局、帽子と肩掛けを一つずつ買った。
その場で身につける。
二人とも少しだけ雪国の旅人らしくなった。
****
夕方前、町で一番古いサウナへ入った。
石を熱し、水をかける。
蒸気が一気に広がる。
アデマールが大きく息を吐いた。
「熱い」
「気持ちいいです」
オルヴァンは隣で肩の力を抜いている。
二人で並んで座り、しばらく黙って汗を流した。
外へ出る。
雪の積もった庭。
冷たい空気が肌へ刺さる。
「うわ」
アデマールが笑う。
「これすごいな」
オルヴァンも白い息を吐く。
「頭が冴えます」
「寒くない?」
「今はまだ」
数分後。
オルヴァンの肩が少し縮まった。
アデマールがすぐ近づく。
「寒くなった」
「少しだけです」
「戻る?」
「はい」
言い終わる前に、アデマールが抱き上げた。
「アデ」
「何?」
「歩けます」
「俺が抱きたい」
オルヴァンは一瞬だけアデマールを見る。
すぐ首へ腕を回した。
「では、お願いします」
アデマールは満足したように笑い、そのままサウナの中へ戻った。
****
宿へ帰ると、二人ともすっかり眠くなった。
夕食までまだ時間がある。
暖炉の前には厚い敷物があり、長椅子には毛布が積んであった。
オルヴァンが座る。
アデマールも隣へ。
少ししてオルヴァンが肩へ寄る。
さらに少しして、頭が膝へ移った。
「寝る?」
「少しだけ」
アデマールが毛布を掛ける。
オルヴァンはそのまま目を閉じた。
アデマールは髪を撫でながら、暖炉の火を眺める。
外では雪が降り続いていた。
しばらくして、宿の主人が静かに近づいてきた。
「起こすか?」
アデマールが首を横に振る。
「もうちょっと寝かせたい」
主人は笑い、声を落とした。
「なら夕飯は少し遅らせとくよ」
「助かる」
「それと、今夜は空が綺麗かもしれん」
アデマールが顔を上げる。
「空?」
「雲が切れそうだ。運がよけりゃ、北の光が出る」
「北の光?」
主人は窓の向こうを指した。
「見れば分かるよ。港の外れまで行くといい」
アデマールは膝で眠るオルヴァンを見る。
その髪をもう一度撫でた。
****
夕食は、昼とは違う魚料理だった。
香草と塩で焼いた魚。
酸味のある野菜。
黒パン。
温かい蜂蜜酒。
オルヴァンは昼寝のあとですっかり元気になり、よく食べた。
「アデ」
「ん?」
「さっき、何か聞いていました?」
「空が綺麗かもって」
「空?」
「北の光が出るらしい」
オルヴァンの目が少し大きくなる。
「見たいです」
「行こう」
「食べたらすぐ?」
「ちゃんと暖かくしてから」
「分かりました」
オルヴァンは急いで食べようとして、アデマールに笑われた。
「逃げないよ」
「出る時間が分からないでしょう」
「じゃあ俺も急ぐ」
二人とも少し早めに夕食を終えた。
****
町の外れまでは、歩いて二十分ほどだった。
アデマールは昼に買った黒い毛皮帽子。
オルヴァンは白い肩掛け。
さらに厚手の外套を着込み、手袋をしている。
夜の港は静かだった。
木造の桟橋へ波が当たる。
遠くで船の索が軋む。
町の灯りが後ろへ遠ざかる。
少し先まで行くと、雪原の向こうに湾と山しか見えなくなった。
「この辺かな」
アデマールが空を見る。
雲が切れている。
星が出ていた。
オルヴァンも見上げる。
「星も綺麗ですね」
「砂漠とは全然違うな」
「はい」
二人で並ぶ。
アデマールはオルヴァンの手を握った。
しばらく何も起きない。
風が吹く。
雪が少し舞う。
「寒い?」
「大丈夫です」
「肩貸す?」
「ください」
オルヴァンが寄る。
アデマールは肩を抱いた。
そのまま待った。
しばらくして。
オルヴァンが小さく息を呑んだ。
「アデ」
「うん」
北の空に、淡い光が現れていた。
最初は薄い。
雲のようにも見える。
それがゆっくり伸びる。
緑がかった光の帯が、夜空を横切った。
揺れる。
ほどける。
また集まる。
その上に、さらに淡い紫が重なる。
山の黒い稜線。
白い雪原。
静かな湾。
その全部の上を、光が動いていく。
オルヴァンは何も言わなかった。
アデマールも黙っていた。
握っていた手だけが、少し強くなる。
光が大きく広がる。
空そのものが波打っているようだった。
オルヴァンの目が潤んだ。
それでも笑っている。
しばらくして、ようやく声が出た。
「綺麗ですね」
「うん」
アデマールは肩を抱いたまま答える。
オルヴァンは空を見続ける。
「こんなものがあるんですね」
「うん」
「世界って、広いですね」
「うん」
また少し沈黙。
オルヴァンの頬に、涙が一筋落ちた。
悲しそうではなかった。
むしろ、嬉しそうだった。
「アデと見られてよかったです」
その瞬間だった。
アデマールの腕に力が入った。
オルヴァンが少し驚いてこちらを見る。
アデマールは何か言おうとして、やめた。
一度息を吐く。
それでも、うまく収まらない。
オルヴァンの頬へ触れる。
涙を親指で拭う。
「アデ?」
「ごめん」
「どうしました?」
「今、ちょっと無理」
オルヴァンの目が柔らかくなる。
アデマールは頬へ手を添えたまま、少し困ったように笑った。
「オルがそんな顔して、俺と見れてよかったって言うから」
「はい」
「すげえ嬉しい」
「僕も嬉しいです」
「抱いていい?」
オルヴァンはすぐ腕を広げた。
「はい」
次の瞬間、アデマールが強く抱きしめた。
オルヴァンの身体が胸の中へ収まる。
背中へ回った腕が離れない。
「アデ」
「うん」
「苦しいです」
「ごめん」
少し緩む。
それでも離れない。
オルヴァンは笑って、今度は自分から抱き返した。
「このくらいなら大丈夫です」
アデマールは髪へ何度も口づけた。
額。
頬。
目尻。
「俺もオルと見れてよかった」
「はい」
「本当に」
「はい」
「大好き」
「僕も大好きです」
アデマールがまた頬へ口づける。
オルヴァンが少し笑う。
「アデ、今日は何度も言いますね」
「止まんない」
「いいですよ」
「いいの?」
「今日は、いっぱい言ってください」
アデマールの目が少し揺れた。
「オル」
「はい」
「好き。大好き。ずっと一緒にいたい」
「僕もです」
「こういうの、全部一緒に見たい」
オルヴァンはアデマールの頬へ手を添えた。
「見ましょう」
「これからも?」
「これからも」
「世界中?」
「行けるところまで」
アデマールが唇を噛むように笑った。
「駄目だ。もっと抱きたい」
「抱いてください」
言葉の途中で、また腕が強くなる。
今度はオルヴァンも同じだけ力を込めた。
二人はしばらく、北の光の下で抱き合っていた。
****
光は、ゆっくり形を変え続けた。
二人は雪の上へ厚い敷物を広げ、肩を寄せて座った。
アデマールはまだオルヴァンを抱いたままだった。
「アデ」
「ん?」
「少し落ち着きました?」
「ちょっと」
「さっきはすごかったですよ」
「ごめん」
「謝ることではありません」
オルヴァンは肩へ頬を寄せる。
「嬉しかったです」
「ほんと?」
「はい。僕も、今かなり好きです」
「いつもじゃなくて?」
「いつもより、たくさん」
アデマールがまた黙った。
オルヴァンは横目で見る。
「また駄目になりました?」
「……うん」
「ふふ」
「笑うなよ」
「嬉しいので」
アデマールは額をオルヴァンの肩へ預けた。
「オル、お願い」
「何です?」
「もうちょっと近くにいて」
「もう十分近いですよ」
「もっと」
オルヴァンが身体を向ける。
アデマールの胸へ両腕を回す。
脚も触れるほど寄る。
「これなら?」
「うん」
「まだ欲しいですか?」
「欲しい」
オルヴァンの表情がさらに柔らかくなる。
「では、宿へ戻ったらもっと甘えましょう」
アデマールが顔を上げる。
「帰る?」
「もう少し見てからです」
「また待つの?」
「アデも見たいでしょう」
「オルも見たい」
「はい」
「じゃあ見る」
また二人で空を見上げた。
今度は指を絡めていた。
****
宿へ戻った頃には、夜も深かった。
部屋へ入る。
外套を脱ぐ。
帽子を置く。
オルヴァンが白い肩掛けを外そうとすると、アデマールが後ろから受け取った。
そのまま肩へ手が残る。
「アデ」
「ん?」
「まだ甘えたいんですね」
「うん」
「僕もです」
オルヴァンが振り返る。
アデマールの胸へ両手を置く。
「今日は、僕も離れたくありません」
アデマールの目が変わった。
さっきまで雪原で必死に抑えていた感情が、また一気に戻る。
「オル」
「はい」
「いい?」
「来てください」
言葉より早く抱きしめる。
唇が重なる。
長い。
離れても、すぐまた重なる。
オルヴァンが首へ腕を回した。
アデマールの手が背中から腰へ下りる。
「アデ」
「ん?」
「もっと」
「うん」
首筋へ口づける。
オルヴァンが身体を預ける。
「今日は、たくさん好きって言ってください」
「言う」
「抱いてください」
「うん」
「離さないで」
アデマールは額を合わせた。
「離さない」
服を緩める。
肩から布を落とす。
オルヴァンの肌へ触れる。
オルヴァンもアデマールのシャツへ手をかけた。
「アデ」
「好き」
「僕もです」
「もっと欲しい」
「僕も」
アデマールが抱き上げる。
オルヴァンの脚が腰へ絡む。
そのまま寝台へ向かう。
「オル」
「はい」
「今日のこと、ずっと覚えてたい」
オルヴァンが笑う。
「僕もです」
身体が寝台へ重なる。
窓の外では、まだ遠い北の空が淡く明るかった。
****
夜更け。
オルヴァンはアデマールの胸の中へ収まり、毛布に包まれていた。
汗ばんだ髪を、アデマールがゆっくり梳く。
頬を撫でる。
オルヴァンは目を閉じたまま、その手へ頬を寄せた。
「アデ」
「ん?」
「まだ起きています?」
「起きてる」
「よかった」
「どうした?」
オルヴァンは少しだけ身体を起こした。
アデマールの頬へ口づける。
「今日、連れてきてくれてありがとうございます」
「俺も連れてきてもらったみたいなもんだろ」
「それでもです」
「じゃあ、俺もありがとう」
「はい」
オルヴァンはまた胸へ戻る。
「世界って、広いですね」
「うん」
「まだ知らない景色、たくさんありますね」
「全部行こう」
「全部は無理かもしれません」
「じゃあ行けるだけ」
「それがいいです」
アデマールが背中を抱く。
オルヴァンも腕を回した。
「アデ」
「ん?」
「明日は何もしない日にしません?」
「いいね」
「昼まで寝て」
「うん」
「起きたら魚のスープを食べて」
「うん」
「またサウナへ行って」
「うん」
「夜は宿でゆっくりしましょう」
アデマールが髪へ口づける。
「最高」
オルヴァンは笑った。
「では決まりです」
しばらくすると、胸の中で呼吸が穏やかになった。
アデマールは眠ったオルヴァンの背中を抱いたまま、目を閉じた。
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