26 / 39

第26話 勇者様は魚が嫌いだった

湖へ着いた朝、アデマールは舟着き場の前で露骨に足を止めた。 湖畔には朝市が立ち、木箱いっぱいの銀色の魚が並んでいる。 燻製を吊るした店、魚の腸詰めを焼く店、薄く切った魚肉を酢と香草で和える店まで続いていた。 オルヴァンが隣を見る。 「アデ」 「ん?」 「嫌そうですね」 「嫌じゃない」 「では、あの店へ行きましょう」 オルヴァンが指した先では、小ぶりな魚を丸ごと焼いていた。 アデマールの眉間へ皺が寄った。 「骨多そう」 「やっぱり嫌なんでしょう」 「味は好きなんだよ。骨が面倒なんだよ」 「昔からですね」 オルヴァンが笑う。 アデマールは少し不満そうに市場を見回した。 「オル、覚えてたの?」 「忘れませんよ。昔ここへ来た時も、ずっと魚の骨と戦っていました」 「そんな大げさな」 「ベルトランより時間がかかっていました」 「それは嘘だろ」 「本当です」 「シビラは?」 「先に食べ終わって、お酒を飲んでいました」 「……あいつら早すぎるんだよ」 オルヴァンは楽しそうに笑いながら、焼き魚を二尾買った。 「食べます?」 「食べる」 「嫌いなんでしょう?」 「魚は嫌いじゃない」 「骨が嫌い」 「それ」 二人は湖を見渡せる石段へ座った。 オルヴァンが紙皿の魚を受け取り、細い骨を指先で外していく。 アデマールがじっと見る。 「取ってくれるの?」 「僕も食べますから」 「俺の分も?」 「さっきからそうしています」 骨の外れた身を一切れ差し出す。 アデマールがそのまま口へ入れた。 「うまい」 「でしょう?」 また一切れ。 今度はアデマールが自分から少し身を寄せる。 「次」 「自分でも食べてください」 「オルがやってくれる方が早い」 「甘えていますね」 「夫だからいいだろ」 オルヴァンは呆れたように笑いながら、もう一切れ差し出した。 「はい」 「好き」 「魚が?」 「オルが」 「聞いていません」 そう言いながら、オルヴァンの口元は緩んでいた。 **** 午前は湖上舟へ乗った。 観光用の小舟には簡単な屋根がつき、湖畔の町並みを眺めながらゆっくり進む。 遠くには山が重なり、湖面には小さな帆船がいくつも浮かんでいた。 オルヴァンは舟縁へ腕を置き、水面を覗き込む。 「透明ですね」 「底見える?」 「浅いところなら」 アデマールも隣へ寄る。 二人の肩が触れる。 「魚いる?」 「いますよ。ほら」 オルヴァンが指した先を小魚の群れが走った。 アデマールはしばらく追っていたが、やがて舟の屋根へ背を預けた。 「昔ここ来た時、こんなにゆっくり舟乗ったっけ」 「乗っていません」 「だよな」 「荷を受け取って、その日のうちに出ました」 アデマールが湖の向こうを見る。 「もったいなかったな」 「今見られていますから、いいでしょう」 アデマールが隣を見る。 オルヴァンは湖を見たまま笑っていた。 「うん」 アデマールはその肩へ腕を回し、軽く引き寄せた。 オルヴァンも自然に身体を預ける。 舟は静かな湖面を進んだ。 **** 昼には、湖畔の食堂へ入った。 店先には大鍋が並び、魚と根菜を煮込んだ濃いスープの匂いがしている。 アデマールが献立を見る。 「これなら骨ない?」 「身をほぐしてあるみたいですよ」 「じゃあそれ」 「即決ですね」 二人で同じスープを頼んだ。 熱い椀が運ばれてくる。 白身魚と芋、葱に似た香味野菜がたっぷり入っていた。 アデマールが一口食べる。 「これ好き」 「骨がありませんから?」 「それもある」 オルヴァンも食べる。 「おいしいです」 食事の途中、向かいの卓で老人が話している声が聞こえた。 「昔はこの辺りまで兵隊の荷車が並んだもんだ」 隣の男が聞き返す。 「戦争の頃?」 「そうそう。湖の船まで荷を積んでな」 アデマールとオルヴァンは一瞬だけそちらへ視線を向けた。 すぐ自分たちの食事へ戻る。 アデマールがパンをちぎった。 「俺たちもここで荷受けたよな」 「はい。薬と乾燥肉と、矢もありました」 「魚も?」 「大量に」 「だから覚えてるんだよ。毎食魚だった」 「三日だけです」 「三日も」 オルヴァンが笑う。 「その時も、僕が骨を取っていました」 「そうだっけ?」 「途中から面倒になって、丸ごとかぶりつこうとしていました」 「俺が?」 「はい」 「止めた?」 「止めました」 「ありがとう」 あまりに素直に礼を言われ、オルヴァンが目を細めた。 「どういたしまして」 アデマールはスープを食べながら、少し嬉しそうに笑った。 **** 午後、市場へ戻ると騒ぎが起きた。 魚屋の前で積み上げていた籠が崩れたらしい。 銀色の魚が石畳を跳ね、水路へ次々と落ちていく。 「待て待て待て!」 店主が追いかける。 近くの客も拾おうとするが、魚は濡れた石の上を滑り、そのまま水へ逃げていく。 「オル」 アデマールが笑いを堪えながら呼ぶ。 「分かっています」 オルヴァンが水路へ向けて片手を上げた。 水面がゆっくり盛り上がる。 散っていた魚が流れへ押され、一か所へ集まり始めた。 十匹。 二十匹。 さらに増える。 水ごと大きな輪になり、そのまま岸へ寄ってくる。 店主が目を丸くした。 「お、おお……!」 最後の魚まで岸際へ集まったところで、水が浅い桶へ流れ込む。 魚も全部そこへ入った。 「全部いる!」 店主が叫ぶ。 周囲から拍手が起きた。 オルヴァンは少し笑って手を下ろした。 その瞬間。 一匹だけ、桶の縁から跳ねた。 高く飛ぶ。 アデマールが振り返る。 銀色の魚が真正面から飛んできた。 ぺちん。 頬へ当たった。 周囲が静かになった。 魚はそのままアデマールの腕へ落ちる。 アデマールはしばらく動かなかった。 オルヴァンの肩が震え始める。 「オル」 「はい」 「笑った?」 「まだです」 店主が慌てて魚を受け取る。 「す、すまん旦那!」 アデマールは頬を拭った。 「大丈夫」 オルヴァンがとうとう吹き出した。 「すみません……アデ……」 「絶対あとで言うだろ」 「言いません」 「もう笑ってるじゃん」 周囲まで笑い始めた。 店主も安心したように大笑いする。 「悪かった! 礼に魚持ってってくれ!」 アデマールが即答する。 「骨少ないやつで」 さらに笑いが広がった。 **** そのあと二人は湖畔の温浴施設へ向かった。 石造りの浴室からは湖が見える。 窓を開けると冷たい風が入り、湯気がゆっくり流れた。 アデマールは肩まで湯へ沈み、頬を何度も洗っている。 オルヴァンが隣から眺める。 「もう魚の匂いはしませんよ」 「ほんと?」 「はい」 「オル嗅いで」 「自分で分からないんですか?」 「分かんない」 アデマールが少し顔を寄せる。 オルヴァンは笑いながら近づき、頬のあたりへ鼻先を寄せた。 「大丈夫です」 「よかった」 そのままアデマールが腰へ腕を回す。 オルヴァンは離れず、首へ腕を乗せた。 「魚に当たった勇者様」 「それもう言う?」 「言わない約束はしていません」 「意地悪」 「可愛かったですよ」 アデマールが止まる。 「今なんて?」 「可愛かったです」 「もう一回」 「魚に当たったところが」 「そこ要らない」 オルヴァンが笑う。 アデマールはその笑った口元へ口づけた。 一度。 もう一度。 オルヴァンも返す。 「アデ」 「ん?」 「今夜も魚ですかね」 「骨取ってくれる?」 「甘えすぎです」 「取って」 「仕方ないですね」 アデマールが嬉しそうに抱き寄せた。 「好き」 「知っています」 「オルは?」 「大好きです」 今度はオルヴァンから唇を重ねた。 **** 夕食では、本当に魚料理が出た。 宿の食堂には昼の市場の店主から届け物が来ており、大きな白身魚が香草と一緒に焼かれている。 アデマールが皿を見た。 「でかい」 オルヴァンが横へ座る。 「骨を取りますね」 「お願いします」 魚を開き、太い骨を外す。 アデマールも横から覗き込む。 「それだけ?」 「大きい魚ですから、細い骨は少ないですよ」 「最高」 オルヴァンが一口分を切り分ける。 「どうぞ」 「オルも食べて」 「食べます」 一切れをアデマールへ。 次は自分。 またアデマールへ。 途中からアデマールも自分で食べ始めた。 「うまい」 「今日はたくさん魚を食べましたね」 「オルがいると楽」 「僕が骨を取るからでしょう」 「それだけじゃないよ」 オルヴァンがアデマールを見る。 アデマールは白身を一切れ口へ入れた。 「昔ここ来た時も、オルがいたから楽しかったんだと思う」 オルヴァンの目元が少し柔らかくなる。 「忙しかったのに?」 「忙しかったけど」 「三日間ずっと魚でしたよ」 「それは嫌だった」 「そこは変わりませんね」 二人で笑った。 **** 部屋へ戻ると、湖からの風が窓を鳴らしていた。 オルヴァンが寝台へ腰を下ろし、髪をほどく。 アデマールは窓を閉めてから隣へ座った。 「オル」 「はい?」 「骨取ってくれてありがとな」 「夕食のですか?」 「昔のも」 オルヴァンが少し驚く。 「今さらですか?」 「今思い出したから」 アデマールはオルヴァンの手を取った。 指を絡める。 「俺、昔からオルに甘えてたんだな」 「今もですよ」 「嫌?」 「いいえ」 オルヴァンが肩へ寄る。 「僕もアデにたくさん甘えています」 「もっと甘えていいよ」 「アデもですよ」 「じゃあ今甘える」 アデマールがそのままオルヴァンの膝へ横向きに頭を置いた。 オルヴァンが目を丸くする。 「そこですか?」 「だめ?」 「いいですよ」 白い指が黒い髪へ入る。 ゆっくり梳く。 アデマールは目を閉じた。 「気持ちいい」 「眠ります?」 「まだ寝ない」 「では、このままにします」 しばらく黙って撫でられていた。 アデマールが目を開ける。 上からオルヴァンが覗き込んでいる。 「オル」 「はい?」 「キスしたい」 「どうぞ」 アデマールが少し起き上がる。 オルヴァンも身体を傾ける。 唇が重なる。 離れる。 また重なる。 アデマールはそのまま腕を腰へ回し、オルヴァンを隣へ引き下ろした。 二人で寝台へ横になる。 「アデ」 「ん?」 「今日はよく甘えますね」 「魚いっぱい食ったから」 「関係あります?」 「ない」 オルヴァンが笑った。 アデマールも笑い、額を寄せる。 「オルが骨取ってくれるの好き」 「はい」 「髪撫でてくれるのも」 「はい」 「一緒に寝るのも」 「僕も好きです」 オルヴァンが胸元へ身体を寄せる。 アデマールは背中へ腕を回した。 唇へ一度口づける。 「今日はこのまま寝る?」 「もう少しくっついていたいです」 「俺も」 オルヴァンの脚が自然に絡む。 アデマールはその腰を抱き寄せた。 二人はしばらく、湖の風が窓を鳴らす音を聞いていた。 **** 翌朝。 湖の上には薄い霧が浮いていた。 二人は朝食前に宿を出て、湖畔の遊歩道を歩いている。 オルヴァンの片手には、小さな紙包み。 アデマールが横から覗く。 「それ何?」 「燻製魚です」 「朝から?」 「昨日いただいたものです」 「骨ある?」 「少ないです」 「じゃあ食べる」 オルヴァンが一切れ取り出す。 アデマールは歩きながら口を開けた。 「はい」 そのまま食べる。 「うまい」 オルヴァンも一切れ食べた。 「アデ」 「ん?」 「魚、嫌いではありませんね」 「だから最初から言ってる」 「骨が嫌い」 「そう」 二人は笑う。 湖面を朝日が照らし始める。 昨日乗った舟が、もう沖へ出ていた。 アデマールがオルヴァンの手を取る。 指を絡めたまま、湖沿いをゆっくり歩いた。

ともだちにシェアしよう!