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第28話 城壁に残った爪痕

町へ入る前から、それは見えていた。 高い城壁の一角だけ、石が大きく抉れている。 縦に三本。 遠目でも分かるほど深い傷が、城壁の上から下へ残っていた。 アデマールが馬上で目を細める。 「……残してるんだ」 隣を進むオルヴァンも見上げた。 「残っていますね」 門へ近づくにつれ、人の声が増えてきた。 露店。 荷車。 町へ入る商人。 城壁沿いの広場には色鮮やかな布まで張られている。 そして、巨大な爪痕の真下には看板が立っていた。 『魔獣王戦争・北壁の爪痕』 アデマールが馬を止めた。 「名前までついてる」 オルヴァンが看板を読む。 「説明もありますよ」 「読まなくていい」 「どうしてです?」 「何か恥ずかしい」 オルヴァンが笑う。 城壁の前では、子どもたちが木剣を持って走り回っていた。 「勇者だー!」 「俺が魔獣!」 「爪つけるぞ!」 一人が城壁へ向かって両腕を振る。 別の子が大げさに吹き飛んだ。 アデマールは黙って見ていた。 オルヴァンが隣から覗き込む。 「人気ですね」 「観光地になってる」 「いいじゃないですか」 「そうだけど」 城壁の下には焼き菓子の露店まである。 爪痕の形をした細長い菓子が並んでいた。 オルヴァンが一つ取る。 「アデ、これ」 「買うの?」 「食べてみたいです」 「俺がつけた傷なのに」 「だからです」 結局二つ買った。 焼きたては香ばしく、表面へ蜂蜜が薄く塗られている。 アデマールが一口齧る。 「うまい」 「でしょう?」 「俺の爪痕なのに」 「アデに爪はありませんよ」 「そういう意味じゃない」 オルヴァンが楽しそうに笑った。 **** 宿へ荷物を置いたあと、二人は町を歩いた。 古い城壁を内側から見ると、爪痕の周辺だけ石の色が違う。 何度も補強され、その上から傷だけ残すように整えられていた。 通りの先にはパン屋があった。 店先に大きな籠が並び、丸パン、胡桃パン、乾燥果物を練り込んだ細長いパンが積まれている。 オルヴァンが足を止めた。 「いい匂いですね」 「入る?」 「入ります」 店の中では、若い男が焼き上がったパンを棚へ並べていた。 奥から年配の男が出てくる。 「いらっしゃい」 二人は果実入りのパンを一つずつ選んだ。 会計を済ませようとしたところで、年配の男がアデマールをじっと見る。 次にオルヴァンを見る。 またアデマールへ戻る。 「……あんた」 アデマールが止まる。 「はい?」 男はしばらく何も言わなかった。 それから、奥へ向かって声を張る。 「エルノ! 店、ちょっと頼む!」 若い男が振り返った。 「父さん?」 「すぐ戻る!」 年配の男は店の外へ出る。 二人へついて来いと手招きした。 「ちょっとだけ、いいか」 アデマールとオルヴァンは顔を見合わせた。 「はい」 男は城壁の方へ歩いていく。 爪痕の前で止まった。 「俺、ここにいたんだ」 アデマールが男を見る。 「戦争の時?」 「まだガキだった」 男は城壁を見上げた。 「十二だったかな。母ちゃんと妹と、防空壕へ逃げる途中だった」 オルヴァンが静かに聞いている。 男は傷の下を指した。 「でかいのが城壁を越えてきてな」 アデマールの視線が、その場所へ移る。 記憶を探すように少し目を細めた。 男は笑った。 「覚えてないだろ」 「……ごめん」 「謝ることじゃない」 男は肩をすくめる。 「あんたら、あの日何百人も助けてたんだから」 アデマールが少し黙る。 オルヴァンが城壁を見る。 男は続けた。 「勇者があれを止めた。賢者が怪我人をまとめて運んだ。俺らはその隙に壕へ入れた」 「そうでしたか」 オルヴァンが答える。 男は笑う。 「その翌日、母ちゃんが店を開けたんだ」 アデマールが瞬く。 「翌日?」 「そう。窓割れてたのに」 「すごいな」 「パンが必要だってさ」 男は城壁から町へ視線を移した。 「兵隊も、避難してた連中も、みんな腹減ってたからな」 アデマールはしばらく何も言わなかった。 男が二人を見る。 「だから、俺もパン屋になった」 少し照れたように笑う。 「今は息子がほとんど焼いてるけど」 オルヴァンの口元が緩んだ。 「いい店ですね」 「ありがとう」 男は二人へ向き直る。 「一度、ちゃんと言いたかったんだ」 アデマールが少し困ったように笑う。 「俺たち、パン買いに来ただけなんだけど」 「それでいい」 男も笑った。 「今度は腹いっぱい食ってけ」 「それは喜ぶ」 オルヴァンが隣で笑った。 **** 昼過ぎ。 二人は再び城壁沿いを歩いていた。 爪痕の近くでは観光客向けの案内が続き、その奥には地下防空壕の入口が残されていた。 現在は一部だけ公開されているらしい。 「入ってみます?」 オルヴァンが案内板を見る。 「昔入ってないよな、俺たち」 「外にいましたから」 「じゃあ見よう」 階段を降りる。 地下は涼しかった。 太い石壁。 低い天井。 壁際には古い長椅子が残されている。 案内役の女性が、当時の避難場所だった区画を簡単に説明していく。 奥へ進んだところで、小さな音がした。 ぱら。 砂が落ちる。 オルヴァンが上を見る。 「アデ」 アデマールも同時に見上げていた。 「出よう」 短い一言だった。 次の瞬間、天井が鳴った。 石が一つ落ちる。 案内役が叫ぶ。 「皆さん、戻って!」 観光客たちが入口へ向かう。 奥にいた数人が走り出したところで、通路の一部が崩れた。 石と土煙が落ち、出口側との間を塞ぐ。 「こっちに三人います!」 向こうから声がする。 アデマールが崩れた石へ近づいた。 「オル」 「三人です。一人座り込んでいます」 「分かった」 アデマールが大きな石へ両腕を入れる。 持ち上げる。 その下からさらに細かな石が落ちた。 オルヴァンが片手を上げる。 空気が流れ、土煙だけが通路の奥へ押し流された。 「右側に空間があります」 「そこ抜く」 アデマールが石を横へずらす。 向こう側から光が見えた。 「見えた!」 閉じ込められていた男の声。 アデマールがさらに一つ退ける。 人が通れるだけの隙間ができた。 「一人ずつ!」 最初に若い女性。 次に老人。 最後に、足を痛めて座り込んでいた男。 アデマールが腕を伸ばす。 「掴まって」 「はい!」 引き上げる。 オルヴァンが男の足元へしゃがむ。 「捻っています。歩かせない方がいいです」 「じゃあ俺が運ぶ」 アデマールが男を背負う。 全員が地上へ出るまで、ほんの数分だった。 外へ出た途端、歓声が上がった。 アデマールは背負った男を長椅子へ下ろす。 オルヴァンがすぐ足を診る。 「骨は大丈夫です」 案内役の女性が何度も頭を下げる。 「ありがとうございます。本当に……」 「中、しばらく閉めた方がいいよ」 アデマールが地下入口を見る。 「はい。すぐ点検します」 そこから先は、町の職員たちが動き始めた。 柵を出す。 人を下げる。 石工へ連絡する。 二人は邪魔にならないよう、その場を離れた。 **** 「いた!」 声がして振り返る。 昼のパン屋の主人が走ってきた。 両腕に大きな籠を抱えている。 「聞いたぞ!」 アデマールが眉を上げる。 「早いな」 「この町は話が回るのが速いんだよ!」 男は籠を押しつけてきた。 中には焼きたてのパンが山ほど入っていた。 「持ってけ」 「多くない?」 「昔の分も!」 「昔の分?」 「母ちゃんのパン食ってたろ!」 アデマールが笑う。 「たぶん食ってる」 オルヴァンも籠を覗く。 蜂蜜を塗った丸パン。 胡桃。 乾燥果物。 焼きたての香りが立っている。 「こんなにいただいていいんですか?」 「いいんだよ」 男は二人を見る。 「昔も今日も、助けてもらった」 アデマールが少し言葉に詰まる。 オルヴァンの目が潤んでいた。 「オル?」 「……はい」 「泣く?」 「少しだけです」 パン屋の主人が慌てる。 「お、おい、泣かせるつもりじゃ」 オルヴァンが笑った。 「嬉しいんです」 アデマールは籠を片腕で持ち、もう片方でオルヴァンの肩を抱いた。 「俺も嬉しい」 「はい」 オルヴァンはそのまま少しだけ身体を寄せた。 パン屋の主人は二人を見て、やがて笑う。 「仲いいな」 「夫だから」 アデマールが即答する。 「知ってるよ」 男が笑った。 **** 夕方。 二人は城壁の上へ上がった。 町が一望できる。 屋根。 広場。 市場。 パン屋の煙突。 子どもたちがまだ爪痕の下で遊んでいる。 アデマールは焼きたての胡桃パンを一つ持っていた。 半分に割る。 オルヴァンへ渡す。 「はい」 「ありがとうございます」 二人で食べる。 しばらく黙って町を見る。 「アデ」 「ん?」 「よかったですね」 アデマールはすぐ答えなかった。 城壁の外を見る。 昔、魔獣が押し寄せてきた方向。 今は畑が広がっている。 「うん」 オルヴァンが隣へ寄る。 「僕、あの方の話を聞けてよかったです」 「俺も」 「翌日にパン屋を開けたんですね」 「すごいよな」 「はい」 アデマールはパンを食べ終える。 手袋についた粉を払う。 「守れてたんだな」 オルヴァンがアデマールを見る。 「はい」 その一言で、アデマールの肩から少し力が抜けた。 オルヴァンはそのまま腕を絡める。 「アデ」 「ん?」 「僕も、やってよかったと思います」 アデマールが隣を見る。 オルヴァンの目はまだ少し潤んでいた。 「オル」 アデマールが抱き寄せる。 「来て」 「はい」 オルヴァンは素直に胸へ収まった。 強く抱く。 しばらく離さない。 「ごめん。もうちょっとこのままでいい?」 「もちろんです」 アデマールは髪へ口づけた。 次は額。 頬。 オルヴァンが少し顔を上げる。 唇が重なる。 ゆっくり離れる。 オルヴァンの指が黒い上着を掴んだ。 「アデ」 「ん?」 「僕も、もう少し抱いていてください」 「うん」 もう一度、強く抱く。 城壁の下から子どもの声が上がる。 「勇者役、交代!」 「次俺!」 アデマールが吹き出した。 オルヴァンも笑う。 「人気ですね」 「もう好きにしてくれ」 「爪痕の菓子、もう一つ買います?」 「買う」 「気に入ったんですね」 「うまかったから」 二人は腕を絡めたまま、城壁の階段へ向かった。 **** 宿へ戻る頃には、空が赤くなっていた。 部屋の卓には、パン屋からもらった籠が置いてある。 オルヴァンが一つ取り出す。 「夜食にします?」 「絶対食う」 「夕食もありますよ」 「別腹」 「アデにも別腹があるんですか?」 「パン用」 オルヴァンが笑った。 アデマールは上着を脱ぎ、寝台へ腰を下ろす。 しばらくして、オルヴァンも隣へ座った。 「今日は疲れました?」 「身体は平気」 「では、ここですか?」 オルヴァンがアデマールの胸元へ指を当てる。 アデマールがその指を握る。 「ちょっとだけ」 「僕もです」 オルヴァンが肩へ寄る。 アデマールは腕を回した。 「オル」 「はい?」 「あの町の人、俺たちがいなくなったあとも、ちゃんと暮らしてたんだな」 「はい」 「パン焼いて、子ども育てて、観光地まで作って」 「元気ですね」 「すごいな」 オルヴァンがアデマールの頬へ触れる。 「アデもすごいですよ」 アデマールが目を細める。 「今それ言う?」 「言いたくなりました」 「……だめだ」 「何がです?」 アデマールが腰へ腕を回し、強く引き寄せた。 「また抱きたくなる」 オルヴァンは驚くより先に笑った。 「もう抱いていますよ」 「もっと」 「いいですよ」 アデマールは少しだけ黙った。 「ほんとに?」 「はい」 オルヴァンが自分から首へ腕を回す。 「僕も、今日はアデにたくさん触れたいです」 その言葉で、アデマールの我慢が切れた。 唇が重なる。 一度離れて、すぐにまた。 オルヴァンの背中へ腕が回る。 アデマールが抱き上げる。 脚が腰へ絡む。 「アデ」 「ん?」 「寝台へ」 「うん」 二人は笑いながら、そのまま倒れ込んだ。 黒いシャツの襟をオルヴァンが緩める。 アデマールも白い上着の留め具へ触れる。 肌へ掌を滑らせる。 オルヴァンがその手へ自分の手を重ねた。 「好きです」 「俺も」 「今日のアデも」 「うん」 「昔のアデも」 アデマールが少し笑う。 「それ、前にも聞いた」 「何度でも言いますよ」 「じゃあ俺も」 額を寄せる。 「オルがいてくれてよかった」 オルヴァンの目がまた潤んだ。 「僕もです」 次の口づけは、二人から同時だった。 そのまま互いを引き寄せ、身体を重ねた。 **** 夜更け。 オルヴァンは毛布の中で、アデマールの胸へ収まっていた。 汗の残る髪を撫でられ、頬へ何度か口づけられる。 「アデ」 「ん?」 「また泣きました」 「嬉しかったんだろ」 「はい」 「ならいいじゃん」 オルヴァンが少し笑う。 「アデも今日は静かでしたね」 「考えてた」 「何をです?」 「守った町って、こうなるんだなって」 オルヴァンはしばらく黙っていた。 やがて、アデマールの胸元へ頬を寄せる。 「いいですね」 「うん」 「明日、パン屋へもう一度行きません?」 「行く」 「今度は買いましょう」 「いっぱい買う」 「ほどほどにしてください」 「七人前?」 オルヴァンが吹き出す。 「それは前の町です」 「じゃあ五人前」 「減ればいいという話ではありません」 二人は笑う。 アデマールが毛布を肩まで掛け直す。 「おやすみ、オル」 「おやすみなさい、アデ」 城壁の向こうでは、夜の町の灯りが穏やかに続いていた。

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