30 / 39
第30話 花を植えた人
丘を越えたところで、オルヴァンが足を止めた。
一面の花だった。
赤、黄、白、薄紫。
緩やかな平原を埋めるように花畑が続き、その向こうには麦畑と小さな農家が点々と見える。
細い道には見物客が歩き、少し離れた広場では祭りの準備が進んでいた。
アデマールも隣へ並ぶ。
「すごいな」
「はい」
オルヴァンはしばらく動かなかった。
風が吹くたび、色の帯が波のように揺れる。
「行きましょう」
声が弾んでいた。
「行こう」
二人は坂を下りた。
****
花畑の入口では、小さな籠を持った女性が花冠を売っていた。
オルヴァンがすぐ足を止める。
「綺麗ですね」
「作ってみる?」
「自分で?」
店の女性が笑った。
「奥で体験できるよ。好きな花を摘んで、教えてもらえる」
オルヴァンがアデマールを見る。
「やりたいです」
「やろう」
二人は小さな鋏と籠を借り、花畑へ入った。
摘んでよい区画には細い札が立っている。
オルヴァンはしゃがみ、白い花を一輪切った。次に薄紫。少し考えて黄色を足す。
アデマールも隣で花を選んでいた。
「オル、これどう?」
赤い花を一本持ち上げる。
「綺麗です」
「入れる?」
「僕のですか?」
「うん」
「ではお願いします」
アデマールは嬉しそうに籠へ入れた。
しばらくして、二人の籠にはそれぞれ違う色の花が集まった。
作業台へ戻る。
教えてくれる女性が、茎を編む方法を一度見せた。
オルヴァンはすぐに編み始める。
アデマールも真似する。
三本、四本、五本と編んだところで、茎が一本外れた。
「あ」
「アデ、そちらを内側へ入れるといいですよ」
「これ?」
「はい。そのまま押さえて」
「できた」
また編む。
少しずつ輪になっていく。
オルヴァンの方はすでに形が整っていた。
アデマールが見る。
「上手いな」
「こういうの、楽しいです」
「俺のも完成させる」
しばらくして、二つの花冠ができた。
オルヴァンが自分の作ったものを持ち上げる。
「アデ、少しかがんでください」
「俺につけるの?」
「はい」
アデマールが素直に頭を下げる。
白と黄色を中心に編んだ花冠が、黒い髪の上へ乗った。
オルヴァンは少し離れて眺める。
「似合います」
「ものすごく?」
「そこまでは言っていません」
「でも似合う?」
「はい」
アデマールは満足そうに笑った。
「じゃあ次、オル」
今度はアデマールが、赤と薄紫を編んだ花冠をオルヴァンへ載せる。
少し曲がった。
直す。
もう少し右。
「動かないで」
「はい」
花の位置を整える。
アデマールは正面へ回った。
一瞬、黙る。
オルヴァンが首を傾げた。
「どうです?」
「ものすごく似合う」
「今度はアデが言いましたね」
「本当だから」
オルヴァンの口元が緩む。
アデマールはその頬へ軽く口づけた。
「可愛い」
「ありがとうございます」
オルヴァンも花冠を崩さないよう、アデマールの頬へ一つ返した。
****
昼は花畑の端にある農家食堂へ入った。
焼いた鶏肉、豆と青菜の煮込み、薄い平焼きパン、花の蜜を混ぜた冷たい飲み物。
窓からも花畑が見える。
オルヴァンはまだ花冠をつけたままだった。
アデマールも外していない。
近くの卓にいた子どもが何度も二人を見る。
やがて母親へ小声で聞いた。
「あのお兄ちゃんたち、花の王様?」
母親が慌てる。
「こら」
アデマールが吹き出した。
オルヴァンも肩を揺らす。
「王様だって」
「アデは似合いそうです」
「オルもだろ」
子どもがこちらを見る。
アデマールが小さく手を振る。
子どもも振り返した。
食事をしながら、オルヴァンは窓の外を眺めた。
「昔、ここにこんなに花がありました?」
「なかったと思う」
「ですよね」
「畑ももっと少なかった気がする」
二人の会話を聞いていた店の女性が、皿を下げながら笑った。
「昔をご存じなんですか?」
「かなり前に通ったことがあります」
「じゃあ、驚いたでしょう」
女性は窓の向こうを指した。
「花を植え始めたのは、戦争が終わってからなんですよ」
オルヴァンが振り返る。
「そうなんですか?」
「最初はほんの少しだったそうです。帰ってきた人たちが畑を戻すついでに、道端へ花を植えたのが始まりで」
アデマールが聞く。
「誰か一人が始めたの?」
「何人かです。うちの祖父もその一人でした」
女性は少し誇らしそうに笑う。
「ずっと荒れた土地のままじゃ嫌だったらしくて」
それだけ言うと、空いた皿を持って厨房へ戻った。
アデマールとオルヴァンはもう一度、窓の外を見た。
子どもが走っている。
年配の夫婦が花の前で立ち止まっている。遠くでは農夫が麦畑を歩いていた。
オルヴァンが飲み物を一口飲む。
「いいですね」
「うん」
アデマールも同じように花畑を見た。
****
午後になると、広場で小さな花祭りが始まった。
楽師が演奏し、農家が蜂蜜や保存果実を売る。
二人は花の香りを移した焼き菓子を買い、露店を順番に回った。
途中、似顔絵を描く絵師がいた。
アデマールが止まる。
「オル」
「はい?」
「描いてもらわない?」
オルヴァンが看板を見る。
二人用の小さな肖像画。
所要時間は半刻ほど。
「いいですね」
二人は並んで椅子へ座った。
絵師が少し考える。
「もう少し寄れます?」
アデマールがすぐオルヴァンの腰へ腕を回した。
オルヴァンも肩へ寄る。
絵師が笑う。
「十分です」
「もっと寄れるけど」
「アデ」
「はい」
そのまま描いてもらう。
途中でオルヴァンが少し動いた。
アデマールが囁く。
「疲れた?」
「少し背中が」
「寄っていいよ」
「では」
オルヴァンはさらに体重を預けた。
絵師が筆を止める。
「そのまま」
「はい」
しばらくして、小さな絵が完成した。
花冠をつけ、肩を寄せて座る二人。
アデマールが覗き込む。
「いいな」
「気に入りました」
「部屋に飾る?」
オルヴァンが少し考える。
「旅の間、持ち歩きましょう」
「うん」
絵師から包みを受け取り、二人はまた祭りへ戻った。
****
広場の中央では、大きな花幕を張る準備が進んでいた。
何枚もの布へ花を縫いつけ、長い綱で柱の間へ渡す。
風が少し強くなってきている。
「上げるぞ!」
係の男たちが綱を引く。
花幕が持ち上がり、大きく広がった。
その瞬間、強い風が吹いた。
一方の綱が柱から外れる。
「あっ!」
巨大な花幕が煽られ、広場の露店へ向かって倒れてくる。
アデマールが走った。
幕の端を掴む。
身体ごと引かれ、一歩踏ん張った。
止まる。
反対側では、別の綱も大きく揺れていた。
オルヴァンが片手を上げる。
吹き抜けた風が二つへ割れ、花幕の左右へ流れた。
大きく膨らんでいた布が、ふっと静まる。
「今!」
係の男が叫ぶ。
皆で綱を引き直し、柱へ固定する。
ほんの数十秒だった。
花幕が元の位置へ上がる。
広場から拍手が起きた。
アデマールは幕から手を離し、花冠を押さえた。
「落ちてない?」
「少し曲がっています」
「直して」
「はい」
人々がまだ花幕を見上げている中、オルヴァンはアデマールの花冠を両手で直した。
「これで大丈夫です」
「オルのも」
アデマールも薄紫の花を一輪、元の位置へ戻す。
「できた」
「ありがとうございます」
二人はそのまま祭りへ戻った。
****
夕方になると、花畑へ長い影が伸びた。
二人は人の少ない外れまで歩いた。
木製の柵へ腰を預ける。
オルヴァンの花冠はまだ頭にある。
アデマールのものも。
「一日つけてましたね」
「オルが作ってくれたから」
「僕もです」
「気に入った?」
「とても」
風が吹く。
花が一斉に揺れた。
アデマールは遠くを見る。
「この辺だったよな」
「はい」
それ以上は言わなかった。
昔は何もなかった場所。
今は花がある。
畑がある。
祭りがある。
アデマールが隣を見る。
オルヴァンは花畑を見ながら笑っていた。
「オル」
「はい?」
「こっち向いて」
オルヴァンが振り返る。
アデマールはそのまま頬へ口づけた。
「どうしたんです?」
「したかった」
「そうですか」
今度はオルヴァンが唇へ口づける。
「僕もです」
アデマールが笑う。
腰へ腕を回し、少し引き寄せた。
オルヴァンはそのまま胸へ寄る。
「アデ」
「ん?」
「今日、楽しかったです」
「俺も」
「花冠も作れました」
「絵も描いてもらった」
「お菓子もおいしかったです」
「祭りも」
二人で花畑を見る。
オルヴァンが小さく息を吐く。
「こうなっていて、よかったですね」
アデマールは少しだけ黙った。
それから頷く。
「うん」
オルヴァンが肩へ頭を寄せる。
アデマールの腕が背中へ回る。
しばらく、そのまま風に揺れる花を眺めた。
****
宿へ戻る前に、二人はもう一度祭りの広場へ寄った。
花幕の下では、まだ踊りが続いている。
昼の子どもが二人を見つけた。
「あ、花の王様!」
アデマールが笑う。
「まだ王様らしい」
オルヴァンが子どもへ手を振る。
「一緒に踊る?」
子どもはすぐ駆け寄ってきた。
その母親まで笑いながらついてくる。
広場の輪へ入った。
難しい踊りではない。
手をつなぎ、音に合わせて歩く。曲が変わるたび相手を替える。
アデマールが子どもに引っ張られ、オルヴァンが別の子どもと回る。
何度か離れる。
また近づく。
目が合う。
二人とも笑う。
一曲が終わった。
子どもたちは次の相手へ走っていった。
アデマールがオルヴァンへ手を差し出す。
「次、俺と」
「はい」
オルヴァンがその手を取る。
今度は二人で踊った。
花冠をつけたまま。
夕暮れの花幕の下で。
****
宿へ戻ると、オルヴァンは花冠を丁寧に外した。
卓の上へ置く。
少し萎れ始めている。
アデマールも隣へ置いた。
「明日にはしおれるかな」
「たぶん」
「取っとけない?」
「花ですから」
オルヴァンは少し考え、花冠から薄紫の花を一輪抜いた。
「これだけ押し花にします?」
「する」
アデマールも自分の花冠から白い花を一輪取った。
二つを紙に挟む。
荷物の中の厚い本へ入れた。
「これでいい?」
「はい」
アデマールは本を閉じる。
オルヴァンが花冠の残りを眺めている。
「オル」
「はい?」
「今日のオル、ずっと嬉しそうだった」
「楽しかったですから」
「花好きだもんな」
「好きです」
「俺も今日かなり好きになった」
「花を?」
アデマールがオルヴァンを見る。
「花も」
オルヴァンが笑う。
「僕もアデが好きですよ」
「そこ聞いてないけど嬉しい」
アデマールはすぐ腰を抱いた。
オルヴァンも首へ腕を回す。
「アデ」
「ん?」
「花冠、似合っていましたよ」
「ほんと?」
「はい」
「世界一?」
オルヴァンが吹き出す。
「そこまで言わせます?」
「言って」
「僕が作った中では一番です」
「一個しか作ってないだろ」
「では一番ですね」
「ずるい」
笑いながら唇が重なる。
アデマールが頬、耳の下へ口づける。
オルヴァンの指が黒いシャツの襟へかかる。
「今日はまだ、花の匂いがします」
「オルも」
アデマールが首筋へ顔を寄せる。
「ほんとだ」
「くすぐったいです」
「もう一回」
「匂いを嗅ぐんですか?」
「キス」
「それならどうぞ」
首筋へ口づける。
オルヴァンが少し首を傾ける。
もう一度。
「アデ」
「ん?」
「今日はたくさん歩きました」
「疲れた?」
「少し」
「じゃあ抱く?」
「お願いします」
アデマールはオルヴァンを抱き上げた。
脚が自然に腰へ回る。
「寝台まで?」
「はい」
「風呂先じゃなくていい?」
オルヴァンが少し考える。
「先に少しだけ、このままで」
「俺も」
そのまま寝台へ運ぶ。
オルヴァンを下ろし、隣へ横になる。
アデマールが髪へ指を通す。
オルヴァンは胸へ寄り、背中へ腕を回した。
「花畑、また行きたいですね」
「明日も行く?」
「朝なら人も少なそうです」
「行こう」
「また花冠作ります?」
「オルが作ってくれるなら」
「では今度は違う色にします」
「俺もオルの作る」
二人はそんな話をしながら、時々口づけた。
その夜は、花の匂いが少し残る部屋で、長い時間くっついて過ごした。
****
翌朝。
二人は日の出前に宿を出た。
花畑にはまだ人がほとんどいない。
朝露を乗せた花が、薄い光の中で揺れている。
オルヴァンが道の真ん中で立ち止まった。
「昨日と違って見えますね」
「静かだな」
二人でゆっくり歩く。
途中、アデマールが白い小さな花を一輪見つけた。
摘んでよい区画を確かめ、鋏で切る。
オルヴァンへ差し出す。
「はい」
「ありがとうございます」
オルヴァンは受け取り、胸元へ挿した。
「似合う?」
「はい。とても」
「じゃあ俺にも」
「自分から要求するんですね」
「夫だからいいだろ」
オルヴァンが笑い、今度は黄色い花を一輪選んだ。
アデマールの胸元へ挿す。
「はい」
「どう?」
「似合います」
「世界一?」
「朝からそれですか?」
二人は笑った。
朝日が平原へ伸びていく。
昨日作った花冠はもうない。
それでも花畑は、今日も変わらず一面に広がっていた。
ともだちにシェアしよう!

