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第35話 嫌いだった場所
「ここ、嫌いだったな」
アデマールが丘の上で足を止めた。
街道から外れた先に、緩やかな草地が広がっている。
白い羊が斜面を歩き、牧童の子どもたちが犬と一緒に群れを追っていた。
風に揺れる草の向こうには、小さな村の屋根が見える。
オルヴァンも隣に立った。
「はい」
それだけだった。
理由を尋ねることも、昔の話を促すこともしない。
アデマールはしばらく丘を眺め、それから歩き出した。
「飯にしよう」
「ちょうどお腹が空きました」
二人は村で買った昼食の籠を持って、丘の中腹に立つ大きな木へ向かった。
****
木陰へ敷物を広げる。
籠の中には焼きたてのパン、燻製肉、山羊乳のチーズ、赤い実の酢漬けが入っていた。
オルヴァンがパンを切る。
「アデ、チーズをお願いします」
「薄め?」
「はい」
「これくらい?」
「ちょうどいいです」
アデマールが得意そうに笑う。
「上手くなっただろ」
「最初よりは」
「最初も普通だった」
「一枚ごとに厚さが違いました」
「腹に入れば同じだろ」
「そういうところです」
二人で笑った。
肉とチーズをパンへ挟み、赤い実を添える。
一頭の羊が近くまで来た。
じっと二人を見る。
アデマールも見返した。
「やらないぞ」
「めえ」
「自分で草食え」
「めえ」
オルヴァンが肩を揺らす。
「通じているみたいですね」
「絶対パン狙ってる」
「僕もそう思います」
羊はしばらく粘ったが、やがて諦めて草を食べ始めた。
アデマールはパンを食べながら丘を見渡した。
「こんなに緑だったっけ」
「地形はあまり変わっていません」
「もっと荒れてた気がする」
「草もかなり傷んでいましたからね」
頭上を見る。
大きな枝が空へ伸びている。
「この木はなかったよな」
「ありませんでした」
「戦争が終わってからか」
「たぶん」
アデマールが幹を軽く叩いた。
「でかくなったな」
オルヴァンが木を見上げる。
「長い時間が経ちましたから」
アデマールは少し黙ったあと、またパンを食べた。
「いい場所になったな」
「はい」
今度の返事には、笑みが混じっていた。
****
昼食が終わっても、二人は立たなかった。
今日は先を急ぐ必要がない。
オルヴァンは木の幹へ背中を預け、本を開いた。
アデマールは敷物へ仰向けになる。
枝の隙間から青空が見えた。
「眠いですか?」
「ちょっと」
「寝ていいですよ」
「うん」
返事をしたのに、目は閉じない。
空を見る。
羊を見る。
丘の下で遊んでいる子どもたちを見る。
オルヴァンが本から顔を上げた。
「アデ」
「ん?」
「こっちへ来ます?」
自分の膝を軽く叩く。
アデマールが身体を起こした。
「膝?」
「はい」
「いいな、それ」
隣へ寄り、そのまま頭を預ける。
オルヴァンの指が黒い髪へ入った。
ゆっくり梳く。
アデマールの肩から目に見えて力が抜ける。
「これ、すごくいい」
「でしょう?」
「オルもあとでやる?」
「お願いします」
「交代な」
風が木の葉を揺らした。
オルヴァンの手が何度も髪を撫でる。
アデマールはようやく目を閉じた。
しばらくして、ぽつりと言う。
「昔もこうしてほしかった」
髪を撫でる手が一瞬だけ止まった。
「言えばよかったのに」
「言えなかった」
「どうしてです?」
「格好つけてた」
オルヴァンが笑った。
「知っています」
「そんな分かりやすかった?」
「僕には」
アデマールも笑う。
目は閉じたままだった。
「ここ、全然寝られなかったよな」
「はい」
「寝てもすぐ起きてた」
「起きていました」
「オルは?」
「少しは寝ました」
「俺が起きると、いつもいた気がする」
「なるべく近くにいましたから」
アデマールが目を開けた。
見上げる。
「俺が寝てる間も?」
「はい」
「なんで?」
「心配だったので」
オルヴァンの指が額へかかった髪を払う。
「少し眠ったと思ったら目を覚まして、すぐ剣を持っていました」
アデマールは黙った。
やがてオルヴァンの手を取り、指を絡める。
「覚えてなかった」
「それくらい疲れていたんですよ」
「そっか」
絡めた手を胸元へ置く。
「ありがと」
「どういたしまして」
アデマールは指先へ口づけた。
そのまま手を離さない。
「オル」
「はい?」
「今日は、俺が起きるまでここにいて」
「いますよ」
アデマールの目がまた閉じる。
「よかった」
今度は、すぐに呼吸がゆっくりになった。
****
オルヴァンは本を閉じた。
膝の上でアデマールが眠っている。
眉間にも肩にも力が入っていない。
遠くから羊の鳴き声と子どもたちの笑い声が聞こえる。
オルヴァンは髪を撫で続けた。
昔、この丘で眠るアデマールを見た時は、いつ目を覚ますか分からなかった。
眠ったまま剣の柄を握っていた夜もある。
今は、何も持っていない。
自分の膝へ頭を預けているだけだった。
オルヴァンが頬へ触れる。
アデマールが眠ったまま、わずかにその手へ顔を寄せた。
口元が緩む。
「ゆっくり寝てください」
返事はなかった。
それが嬉しかった。
****
丘の下から声が飛んできた。
「待ってー!」
羊が一頭、群れから外れて駆けてくる。
少年が必死に追っていた。
「そっち行くな!」
羊はそのまま木へ向かう。
オルヴァンが顔を上げた。
アデマールはまだ眠っている。
羊が敷物の横を通り抜けようとした瞬間、一本の腕が伸びた。
胴を抱える。
「めえっ」
羊が止まった。
アデマールは目を閉じたままだった。
少年が駆け寄る。
「す、すみません!」
「はい」
アデマールが羊を少年の方へ押す。
少年は受け取ってから、恐る恐る尋ねた。
「……寝てた?」
「寝ています」
オルヴァンが答える。
「すご……」
少年は羊を連れて戻っていった。
アデマールが目を閉じたまま呟く。
「聞こえてる」
「起きました?」
「ちょっと」
「また寝ます?」
「寝る」
頬をオルヴァンの膝へ寄せ直す。
「まだいる?」
「いますよ」
アデマールの口元が少し緩んだ。
すぐにまた眠った。
****
目を覚ました頃には、日がかなり傾いていた。
アデマールが瞬きをする。
「……寝た?」
「よく眠っていました」
「どれくらい?」
「二時間くらいです」
「二時間?」
勢いよく起きる。
オルヴァンが脚を伸ばした。
「痺れた?」
「少し」
「起こせよ」
「気持ちよさそうだったので」
「二時間も?」
「たまにはいいでしょう」
アデマールはすぐにオルヴァンの脚を揉み始めた。
「ここ?」
「もう少し下です」
「この辺?」
「はい。気持ちいいです」
念入りに揉む。
オルヴァンは笑いながら任せた。
夕方の光の中を、羊たちが村へ戻っていく。
アデマールはその景色を眺めた。
「俺、ここで二時間寝たんだな」
「はい」
「何も起きなかった」
「羊は来ましたけどね」
「あれは起きたうちに入らない」
「では、何も起きませんでした」
アデマールが笑った。
少しして、手を止める。
「もう嫌いじゃないかも」
オルヴァンの表情が変わった。
「そうですか」
「うん」
目が少し潤んでいる。
アデマールが気づいた。
「オル」
「嬉しいんです」
アデマールは身体を寄せ、頬へ触れた。
「オルのおかげ」
「僕は膝を貸しただけですよ」
「昔も近くにいてくれた」
「はい」
「今日もいてくれた」
親指で目元を撫でる。
「これからもいて」
オルヴァンは答えるより先に、アデマールの胸へ抱きついた。
アデマールの腕もすぐ背中へ回る。
「います」
胸元から声がする。
「ずっといます」
アデマールが強く抱いた。
「俺もいる」
オルヴァンの腕に力が入る。
「絶対ですよ」
「うん」
しばらく、二人とも動かなかった。
****
村の宿へ戻った頃には夜になっていた。
夕食を食べ、湯を浴びる。
部屋へ戻ると、オルヴァンは椅子の背へ白い上着を掛けた。
振り返る。
アデマールがすぐ後ろにいた。
目が合った。
昼間、丘の上で「ずっといます」と言った時と同じ顔だった。
オルヴァンの胸が熱くなる。
何か言う前に、アデマールの腕が腰へ回った。
身体が引き寄せられる。
唇が重なった。
強い。
オルヴァンは驚くどころか、嬉しそうにアデマールの首へ腕を回した。
自分からもっと近づく。
アデマールの手が背中を滑り、身体を隙間なく抱き込む。
唇が離れる。
息をつく暇もなく、今度はオルヴァンから重ねた。
アデマールの喉から小さく息が漏れた。
「オル」
名前を呼ばれた時には、オルヴァンの指はもう黒いシャツの襟へ掛かっていた。
引き寄せる。
また唇が重なる。
アデマールの腕がさらに強くなる。
頬。
耳の下。
首筋。
口づけが落ちるたび、オルヴァンは嬉しそうに身を寄せた。
「アデ」
呼んだ声が少し震える。
アデマールが顔を上げる。
オルヴァンは笑っていた。
潤んだ目で、どうしようもなく嬉しそうに。
その表情を見た瞬間、アデマールの身体が動いた。
オルヴァンを抱き上げる。
「わっ」
すぐに腕が首へ回る。
脚も腰へ絡んだ。
アデマールはそのまま寝台へ向かう。
途中でまた口づける。
オルヴァンも離れない。
寝台へ下ろされた瞬間には、今度はオルヴァンがアデマールを引き寄せた。
二人の身体が重なる。
アデマールの指が白い服の留め具へ掛かる。
オルヴァンの手は黒いシャツを緩めている。
どちらが先だったのか分からない。
肌へ触れた指が止まらない。
手を取り合うのではなく、いつの間にか指が絡んでいた。
「好き」
アデマールがようやく言った。
オルヴァンは唇を重ねて答えた。
また離れる。
「大好きです」
今度はアデマールが言葉を塞ぐように口づけた。
オルヴァンが笑う。
その笑いまで愛しくて、アデマールはまた抱きしめる。
「離したくない」
「離れません」
オルヴァンの脚がもっと強く絡む。
「今日は、ずっとこうしていたいです」
「俺も」
アデマールの手が頬を包む。
オルヴァンはその手へ口づけたあと、もう一度首へ腕を回した。
「アデ」
次の言葉より先に、二人の唇が重なった。
****
夜は深くなっていた。
窓の隙間から入った風が、薄いカーテンを揺らしている。
オルヴァンは毛布の中でアデマールの胸へ収まっていた。
汗ばんだ髪を、アデマールの指がゆっくり梳く。
頬を撫でる。
オルヴァンは目を閉じたまま、その手に頬を寄せた。
「オル」
「ん……」
眠そうな返事。
アデマールが額へ口づける。
「寝る?」
「まだ」
オルヴァンが目を開けた。
至近距離で視線が合う。
一瞬。
オルヴァンの腕が伸びた。
アデマールの首へ回る。
そのまま唇を重ねた。
アデマールの目が少し大きくなる。
けれど次の瞬間には、もう背中を抱き寄せていた。
オルヴァンが身体を起こす。
毛布が肩から滑る。
アデマールの手が肌へ触れる。
オルヴァンはその手を止めるどころか、もっと近くへ身体を寄せた。
唇が離れる。
二人とも少し息を乱している。
「オル」
返事の代わりに、またキスが来た。
アデマールが笑った。
そのまま身体ごと抱き込む。
今度はアデマールから。
オルヴァンもすぐに応える。
脚が絡む。
指が髪へ入る。
頬へ。
首へ。
何度も触れる。
もう一度唇が離れた時、オルヴァンはアデマールの頬を両手で包んだ。
「まだ欲しいです」
言葉は、ずっと後から追いついた。
アデマールの表情が崩れる。
嬉しくて仕方がない顔だった。
「俺も」
オルヴァンを抱く。
強く。
オルヴァンも同じだけ強く抱き返す。
「もっと」
「うん」
「離れたくないです」
「離さない」
どちらからともなく唇が重なる。
一度満たされたはずの熱が、むしろさっきより近くなっていた。
アデマールはオルヴァンの頬を撫で、笑う。
「オル、すごい可愛い」
「アデも、すごく格好いいです」
またキス。
「好き」
「大好きです」
「何回でも言って」
「何回でも言います」
オルヴァンがアデマールを引き寄せる。
「何度でも欲しいです」
その言葉に、アデマールは答えるより先に抱きしめた。
オルヴァンも嬉しそうに笑いながら、もう一度脚を絡める。
二人の身体が毛布の中へ沈んだ。
****
朝。
オルヴァンが目を覚ますと、アデマールの腕の中だった。
頬は胸元へ寄り、背中には腕が回っている。
少し動く。
すぐ抱く力が強くなった。
「起きた?」
「はい」
「おはよう」
「おはようございます」
顔を上げる。
アデマールの髪も少し乱れていた。
オルヴァンが指で直す。
アデマールはその手首へ口づけた。
「よく寝た?」
「よく寝ました」
「俺も」
オルヴァンが笑う。
「昨日は昼も二時間寝ましたよ」
「夜も寝た」
「元気ですね」
「オルがいるから」
オルヴァンの目元が柔らかくなる。
アデマールが頬へ口づけた。
一度。
オルヴァンも返す。
「昨日の丘、また行く?」
「行きたいです」
「次も膝借りていい?」
「好きなだけ」
「二時間でも?」
「もっとでも」
「じゃあオルも俺の膝使って」
「交代ですね」
「うん」
アデマールはオルヴァンをもう一度胸へ抱いた。
「もうちょっとこのままでいい?」
「もちろんです」
オルヴァンも腰へ腕を回す。
窓の向こうでは、朝の光が丘を照らしていた。
昔は、戻りたいとは思わなかった場所。
今は二人とも、また行きたいと思っていた。
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