42 / 51

第42話 家、見に行く?

街道を外れてから、景色はゆっくり変わっていった。 畑が減り、低い丘が増える。 夏草の間を細い道が続き、その先に小さな集落が見えた。 アデマールが馬上から地図を見る。 「この先だな」 「もう少しですね」 オルヴァンが隣から覗く。 二人が褒賞として受け取った辺境領は、この辺り一帯だった。 旅へ出てからも書類上の報告は受け取っていたが、実際にここまで足を運ぶ機会は少なかった。 道の脇には羊。 畑では何人かが豆を収穫している。 通りかかった荷車の老人が二人へ手を上げた。 アデマールも手を上げる。 「こんにちは」 「旅の人かい?」 「そんなところです」 オルヴァンが笑った。 老人は丘の向こうを指す。 「この先なら古い領館があるぞ。今は誰も住んでないが、雨風はしのげる」 「そこへ行くところです」 「そうか。東の屋根だけ気をつけな。去年からちょっと漏れる」 アデマールがオルヴァンを見る。 「もう情報入った」 「ありがたいですね」 老人へ礼を言って進む。 丘を一つ越えたところで、屋根が見えた。 石造りの二階建て。 大きさは十分にある。 その周りを、伸びた草と低木が囲んでいた。 アデマールが少し目を細める。 「おお」 「思っていたより大きいですね」 門まで来る。 片方の扉が少し傾いていた。 アデマールが押す。 ぎ、と長い音を立てて開く。 「鳴るな」 「かなり」 「帰ってきたの分かりやすい」 「誰にです?」 「家に」 オルヴァンが笑った。 **** 鍵は、近くの集落で屋敷を見回っている男が預かっていた。 二人が訪ねると、男は目を丸くしてから、慌てて鍵束を持ってきた。 「まさかご本人たちが来るとは思わなくて」 古い鍵を一つ選ぶ。 「中は時々風を通しています。井戸も使えます。台所の竈も生きてます。ただ、二階の東側は雨が強い日に少し漏れます」 「さっき聞きました」 「もう村中知ってるんですね」 男が苦笑する。 「庭は好きにしてください。昔は果樹もあったんですが、だいぶ伸びてます」 「今日、泊まれます?」 「もちろんです。寝具だけ干した方がいいかもしれません」 鍵を受け取る。 男は最後に言った。 「何か足りなければ村へ来てください。食べるものなら多少あります」 オルヴァンが頭を下げる。 「ありがとうございます」 二人は馬を引いて屋敷へ戻った。 アデマールが鍵を差し込む。 少し固い。 一度回らない。 「オル」 「貸してください」 オルヴァンが受け取る。 少し押し込みながら回す。 かちり。 「開きました」 「俺より家に好かれてる?」 「鍵の癖が分かっただけですよ」 扉を開ける。 ひんやりした空気が流れてきた。 **** 一階には大きな居間と台所。 奥に小さな食堂。 浴室。 使われていない部屋が二つ。 二階には寝室がいくつかあった。 窓を開ける。 陽の光が入り、細かな埃が舞う。 アデマールが咳をした。 「掃除からだな」 「そうですね」 オルヴァンは白い上着を脱いで椅子へ掛け、袖を捲った。 「まず一階だけにしましょう」 「全部やらない?」 「今日中に終わらなくなります」 「じゃあ一階」 二人で箒を探した。 見つかったのは物置の奥だった。 一本は少し柄が曲がっている。 アデマールが持つ。 「俺これ」 「使えます?」 「たぶん」 掃く。 数分後。 「腰痛い」 「持ち方が低すぎます」 オルヴァンが柄の長い方を使いながら言う。 「アデの方が背が高いですから」 「交換する?」 「僕が曲がった方を使うことになりますよ」 「じゃあこれでいい」 また掃く。 窓を開ける。 卓を拭く。 棚の中を確認する。 台所には古い鍋が残っていた。 オルヴァンが持ち上げる。 「これは使えそうです」 「何作る?」 「村で食材を買ってから考えましょう」 浴室も見る。 石造りの小さな浴槽が一つ。 アデマールが中を覗き込む。 「狭い」 「二人で入ったらかなり近いですね」 「それはそれでいいけど」 「足がぶつかりますよ」 アデマールはしばらく浴槽を見る。 「もうちょい大きくできそうだな」 「壁の向こうまで広げればできますね」 「やるなら?」 「やるなら、です」 二人は顔を見合わせた。 アデマールが笑う。 「まだ一日目だしな」 「まず泊まってみましょう」 **** 庭は、屋敷の中より手強そうだった。 腰ほどまで伸びた草。 絡み合った蔓。 何年も自由に枝を伸ばした木。 ただ、奥へ入ると昔の石畳がところどころ残っていた。 オルヴァンが草を分ける。 「ここ、道だったみたいですね」 「向こうまで続いてる」 辿っていく。 庭の奥には古い果樹が三本あった。 枝は伸び放題だが、小さな実をつけている。 アデマールが一つ見上げる。 「食えるかな」 「まだ早そうです」 「じゃあ待つか」 「何をです?」 「熟すまで」 「ずいぶん長く泊まるつもりですか?」 アデマールが止まる。 「いや、そういう意味じゃなくて」 オルヴァンが笑う。 「分かっています」 庭の端まで行くと、小川が見えた。 ただし屋敷のすぐ脇ではない。 草地を抜け、少し下った先を流れている。 「思ったより遠いな」 「歩けばすぐですよ」 「風呂に水引くなら大変そう」 「井戸がありますから、生活用ならそちらでしょうね」 アデマールは丘の下を見る。 さらに向こうには集落。 その先に街道。 「市場は?」 「村の人が、週に二度は隣町まで荷車を出すと言っていました」 「毎日買い物は難しいか」 「まとめて買えば大丈夫そうです」 アデマールが頷く。 しばらく庭を見る。 「直すとこ、いっぱいあるな」 「ありますね」 屋根。 門。 庭。 浴室。 古い台所。 伸びた果樹。 アデマールの口元が少し上がった。 「なんか楽しそう」 「僕も今、同じことを思いました」 「ほんと?」 「はい」 オルヴァンは草の向こうの屋敷を見た。 窓が開き、風が通っている。 さっきまで閉じていた建物が、少しだけ明るく見えた。 「まず今日の夕食をどうにかしましょう」 「それ大事」 「一番大事かもしれません」 二人は村へ向かった。 **** 買ってきたのは、丸パン、玉葱、豆、卵、塩漬け肉、山羊の乳。 それから小さな酒瓶。 アデマールが竈へ薪を入れる。 オルヴァンが鍋を洗う。 火がつく。 少し煙が出た。 アデマールが上を見る。 「煙い」 「煙突の引きが弱いですね」 オルヴァンが窓を開ける。 「明日、上を見てみましょう」 「登る?」 「屋根は僕も見たいです」 「じゃあ一緒に」 鍋へ玉葱と豆を入れる。 塩漬け肉。 少し水。 ゆっくり煮る。 途中でアデマールが味見する。 「うまい」 「まだ塩しか入っていません」 「肉の味する」 「それはしますね」 オルヴァンが香草を少し加えた。 二人でまた味を見る。 今度は本当においしかった。 夕食は大きな食堂ではなく、台所脇の小さな卓で食べた。 向かい合う。 蝋燭は一本。 窓の外は暗くなっている。 アデマールがパンをちぎる。 「静かだな」 「村も少し離れていますからね」 「嫌?」 「好きですよ」 アデマールがすぐ顔を上げる。 オルヴァンは煮込みを食べている。 「何が?」 「この静かさです」 「そっちか」 「何だと思ったんです?」 アデマールは笑って誤魔化した。 オルヴァンも気づいたように口元を緩める。 「アデも好きですよ」 「知ってる」 「言ってほしかったんでしょう?」 「まあ」 「では言いました」 アデマールが満足そうにパンを食べた。 **** 寝具は干したものの、寝台はまだ少し埃っぽかった。 二人は結局、一階の居間へ毛布を敷いた。 旅行鞄から敷布を出す。 枕代わりに畳んだ上着。 その上へ二人並んで寝転がる。 高い天井。 大きな窓。 古い梁。 月明かりが床へ長く落ちていた。 アデマールが横を向く。 「オル」 「はい?」 「今日、ここに帰ってきた感じした?」 オルヴァンも横を向いた。 少し考える。 「まだ、少し変です」 「俺も」 二人で笑った。 「自分たちの場所なのに?」 「書類ではそうですけど、今日初めてここでご飯を作りましたから」 「うん」 アデマールがオルヴァンの髪へ触れる。 耳へかかった白い髪を指で払う。 「でも、明日の朝もここだな」 「そうですね」 アデマールの指が頬へ移る。 オルヴァンがその手のひらへ少し頬を寄せた。 アデマールの表情が柔らかくなる。 近づく。 唇が重なった。 短く離れる。 オルヴァンの方からもう一度重ねる。 今度は少し長い。 アデマールの腕が腰へ回った。 オルヴァンも胸へ身体を寄せる。 「アデ」 「ん?」 「楽しそうでしたね、今日」 「オルも」 「はい」 アデマールが額へ口づける。 「屋根直して、庭ちょっと切って、風呂広げて」 「全部やるんです?」 「泊まってる間にできるとこだけ」 「それなら」 オルヴァンが笑う。 アデマールはその笑顔を見たあと、また唇を重ねた。 今度は離れるのが少し遅かった。 オルヴァンの指が黒いシャツの胸元を掴む。 アデマールの腕も強くなる。 互いの呼吸が近くなる。 「オル」 「はい」 アデマールが何か言おうとした時、オルヴァンの方から首へ腕を回した。 そのまま抱き寄せる。 アデマールが一瞬目を見開き、すぐ笑う。 「どうした?」 「僕も、ちょっと嬉しいんです」 「何が?」 「明日もここにいるのが」 アデマールは返事をする前に抱きしめた。 オルヴァンも背中へ腕を回す。 頬。 耳の下。 また唇。 しばらく二人で触れ合った。 古い屋敷の広い居間に、二人の小さな笑い声だけが残った。 **** 夜中。 ぽつ。 アデマールが目を開けた。 ぽつ。 もう一度。 隣でオルヴァンも目を開ける。 「雨?」 「みたいです」 外では細い雨が降り始めていた。 ぽつ。 今度は少し離れた床。 二人とも同じ方向を見る。 天井から、一滴。 アデマールが起き上がる。 「ここも漏るんだ」 「東側だけだと思っていました」 「新情報」 「ですね」 二人で笑う。 台所から桶を持ってくる。 水滴の下へ置く。 ぽちゃん。 「これでいいか」 「朝までなら」 毛布へ戻る。 オルヴァンがアデマールの腕の中へ入る。 アデマールが背中を抱く。 「直すとこ増えたな」 「一つ増えましたね」 「嫌になった?」 「いいえ」 オルヴァンが胸元へ頬を寄せる。 「明日、見ましょう」 アデマールが髪へ口づける。 「うん」 桶へ落ちる水音を聞きながら、二人はまた眠った。 **** 朝。 雨は上がっていた。 窓を開けると、庭の草が濡れて光っている。 アデマールは昨日の竈へ火を入れた。 オルヴァンが卵を焼く。 残ったパンを温める。 二人で小さな卓へ座った。 アデマールが窓の外を見る。 「今日、屋根見る?」 「朝食のあとに」 「庭も?」 「午後にしましょう」 「風呂は?」 「それは急ぎすぎです」 アデマールが笑う。 「じゃあ今日は二つ」 オルヴァンも笑った。 朝食を食べる。 昨日と同じ屋敷。 昨日より少し開いた窓。 床には昨夜使った桶。 台所には二人の皿。 「オル」 「はい?」 「今日も泊まる?」 オルヴァンはパンを一口食べてから頷いた。 「はい」 アデマールも頷く。 それで十分だった。

ともだちにシェアしよう!