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④解
個人用デスクの前の男子高校生が、すぐ横に座っているニコに気弱そうな表情を向ける。
「どした」
塾のバイトの日だった。
高校1年生の彼は、『数学が苦手』というタスキでもかけているのかと思うくらい、数学への苦手意識が強かった。今のような顔をすることも珍しくない。夏休み前に始まった二次関数に絶望しているのだと、とても素直に話していた。
「……あの、この前は、できたんですけど……」
「うん」
「今日はできません」
彼は今日も素直だ。
「うん。よくあることだから気にすんな」
そう言って、ニコは椅子から身を乗り出して、彼の開いているテキストを覗き込む。空欄に、考えよう、問題を解こうとした跡が残っている。
「数字とグラフが連動してるってのは、この前分かったろ」
「はい」
「で、先週は解けたじゃん」
「はい」
「1回解けたんだから、また解けんだよ、絶対」
「……ですかね」
肩のタスキが重すぎるのか、なかなか自分を信じられずにいる彼の顔を、ニコは見る。
「サッカー部だっけ」
「え。……はい、そうです」
「いつからやってんの」
「スポ少からです」
「すげえじゃん」
はあ、と曖昧に頷く彼は、なぜ唐突にそんなことを聞かれたのか戸惑っているようだった。
「じゃあ、今はフツーにうまくできること、いっぱいあんだろ。リフティングとかうめえの?」
「まあ」
「けどさ、最初から天才だったわけじゃないよな。できなかった時、あっただろ」
「そう、ですね」
「いきなりできねえんだよ、何でもさ。練習してるうちに身についてくもんじゃん。だろ?」
「……ですね」
今度の肯きは、理解がこもっていた。
ニコは自分が持っていたペンの頭でテキストを指し、片手を生徒の肩に置く。
「最初の基本形、もっかいやろうぜ。y=x² のやつな」
できません、と言いながらも、諦めようとはしない彼の姿勢に救われている、とニコは思う。生徒と講師のマッチングは塾長や社員の仕事で、ニコが生徒を選ぶことはできない。どんな生徒でも構わないと思ってはいるものの、解りたい、という気持ちのない生徒の相手は面倒臭そうだ。
この日、二次関数の基本形と、簡単な応用を1問解いて、彼は満足そうな様子を見せてくれた。
「これ。家でも毎日やってみ。基礎練はだりぃけど、必要だろ」
「はい。……あの、もう1個聞きたいことあるんですけど」
「なに」
「谷越先生、英語ちょっと分かります?」
「は?」
どう受け取っていいか分からなくて、ニコは笑った。単に英語の質問してもいいですか、という意味なのか、オマエ数学しかできねえの? と言われているのか、どちらだろう。
「ちょっとは分かるよ。ちょっとだけどな」
あの、と言いながら、彼は鞄から英語の教科書を取り出し、ページを捲る。
「長文になると、訳し方がイマイチ分かんなくなって……」
「あー分かるわ。とりあえず、主語だけ探しとけよ。そしたらSVOCの文型で何となく分かんだろ」
「これ関係代名詞入ってて、それがどれなのか分かんないし……そもそもナニソレ? って感じなんですけど」
「んー。後ろに説明くっつけてるってことじゃん?」
「あと、前置詞の種類が多すぎて。どれが正解か全然わかんなくて」
「それな。どれか1つに絞ってほしいよな」
彼は教科書を閉じた。
「……英語、雑」
「うるせえな。だからちょっとだけ分かるっつったろ。数学と理科ならいくらでも持って来いよ」
遠くの方で咳払いが聞こえた。
授業の時間が間もなく終わる。今日解けた問題を家に帰ったらもう一度やることを生徒に約束させて、ニコは席を立った。
今日の授業をすべて終えて塾を出る。塾はテナントビルの4階にあり、昇降はエレベーターを使っていた。ニコは階段でもいいのだが、途中の階にある飲食店が踊り場にビール樽やガスボンベを置いていて通りづらいので、諦めた。エレベーターのボタンを押して到着を待っていると、同い年の同僚がやはり帰り支度をしてやって来た。おつかれ、と挨拶を交わす。ちょうどエレベーターが4階に着いて、ドアが開いた。一緒に乗り込む。ドアが閉まり、箱が動き出すと同時に、同僚が言った。
「谷越さぁ」
ん、と同僚を見る。
「塾長に何か言われなかった?」
「何かって」
「いや。言われてないならいいんだけど」
「なに」
同僚は、ふっと笑って、
「お前、ちょっと心配されてるよ」
「なにが」
「今日のは、言葉遣いじゃない? 谷越、声デカいから聞こえちゃうんだよな」
「えー?」
何か問題のある言葉遣いをしただろうか、とニコは今日の授業を振り返る。生徒を罵倒した覚えはない。公序良俗に反するような話題も特になかったはずだ。
「言ってたじゃん、『うるせえな』って」
「え。あー。……え、それ?」
「それだろ。て言うか、お前気付いてないだろ。塾長、結構ハラハラしてお前のこと見てるよ」
「マジで」
エレベーターが1階に着く。ドアが開いて、ふたりは表へ歩き出した。駅の方へ向かいながら、同僚は言う。
「まあ、気にしなくていいんじゃない? 何も言われてないなら」
「え、俺、急に怒られたりすんのマジだるいけど」
ははは、と同僚は明るい笑い声を立てて、大丈夫だろ、と他人事のように言う。妙な不安を植え付けようとした張本人だというのに。
「怒ってはないよ、多分。別に谷越の講師としての評価が低いわけじゃないみたいだったし」
「どういうことだよ」
「だからさ、評価はされてるんだって。谷越って、先生っていうより、大学生の兄貴みたいなとこあるじゃん。だから、多分生徒からは人気あると思う。塾長もその辺は助かるって言ってたし。けど、言葉遣いが先生っぽくないから、……そういうことだよ」
「兄貴ならよくね? ……まあ、言いたいことは分かるけど」
かと言って、先生らしい口調とは何かが、ニコにはよく分からない。それに、講師を始める時のオリエンテーションでは、生徒と年が近い親しみやすさが、学生講師の強みだと言われた覚えがある。だから、丁寧語を強要されてはいないし、堅苦しさも求められていない。それなら普段通りでいいのだなと解釈して、ニコは最初から素の自分で生徒を相手にしていた。それを今更変えろと言われても困る。
「俺は谷越にそのままでいてほしいよ。面白いから」
「なに勝手に面白がってんだよ」
「俺は生徒に『うるせえな』とは言えないけど、それ言ってる谷越見てるのは面白いんだよ。で、谷越見て困った顔してる塾長見るのもね」
「悪趣味だな、お前」
「心配することないって。数学のセンセーは需要あるしさ。谷越を手放したくはないと思うから、まあ平気だろ」
怒られるのも嫌だが、クビになるのはもっと嫌だ。同僚は無責任だが、とりあえず平気だと言うのだから、そう受け取っておくことにする。
駅が近づいてくるに連れて、周囲に人が増えてきた。規模の大きなターミナル駅だけあって、夜の十時を過ぎても街が閑散とすることはない。
「谷越、何線だっけ」
「あー、俺、地下潜るわ」
「ん、じゃあまたね」
「おう。おつかれ」
同僚はそのまま地上階にある改札へと向かって歩いていった。ニコは近くの地下へと続く階段を下りていく。地下通路を、目的の改札口を目指してまた歩いた。
と、見たことのある後ろ姿があった。ニコは歩調を上げ、その背中に迫り、小柄な肩を掌で叩いた。
「おう」
「……ッ……、……やっぱりか」
「おつかれ。塾帰りだろ?」
「びっくりするし痛いからやめて」
「蹴っ飛ばしてねえだけいいだろ」
トートバッグを持ち直して、直江は不服そうな顔で眼鏡の位置を整えた。先日カフェで偶然会って以来だ。
これでもニコは、直江への挨拶には気を遣っている。高校時代、軽くふくらはぎを蹴飛ばしたら、そのまま前に倒れていったことがあるからだ。その時のニコは、どうして直江が突然転んだのか理由がわからず、具合でも悪いのかと本気で思った。だが、床に這いつくばった直江が恨みがましい目で自分を睨みつけるので、そこでようやく自分のせいらしいと理解した。以来、直江への挨拶は手加減するようになった。蹴飛ばすのはやめておくことにしている。
直江とは帰りの電車が同じはずだ。一緒に改札口を目指す。
「中高生の夏休み、もうすぐ終わっちゃうね。稼ぎ時だったからちょっと残念」
「荒稼ぎしてたのかよ」
「するでしょ。昼間の授業もあるし、夏期講習もあるし。効率よく稼がないと。谷越くんはコマ数増やしたりしなかったの?」
「少しだけ。バスケあるし」
「あー、そっちの練習時間が増えるのか」
しっかり稼がなければいけない理由がニコにはない。実家暮らしだし、両親もニコにとっての最優先事項がバスケであることを理解してくれている。月々のバイト代は交際費や食費の足しになる程度で、給料日前には底をつく。
「お前、貯金でもしてんの」
尋ねると、直江は肯いた。
「パソコン、いいやつが欲しくて」
「なるほど」
「いつもは少しずつ貯めてるけど、夏休みは貯められる額が増えるから」
さしづめ、大人が言う夏のボーナスみたいなものか、とニコは思う。
そして、ふと思い出す。
「……ダンも金貯めてんだよな」
「ああ。あの後会ったの?」
改札口が近づいてくる。手にスマホを持ち、ゲートのタッチパネルに押し当てた。ピ、という音を聞きながら、改札を通過する。隣のゲートを抜けてきた直江と再び並び、ホーム行きの階段へ。
「バイク。買うんだってよ」
「へえ。バイクも高そう。パソコンとどっちが高いんだろ」
「どっちも性能次第ってとこじゃねえの」
「だよね」
この前店で見たダンのお気に入りのバイクがいくらするのか。話題がそこまで及ぶことなく、ニコは帰ってきてしまった。聞きたいことはまだ沢山あった。が、急ぐこともない。ひとつずつゆっくり聞いても、構いはしないのだ。
「でも、団野くんの方がお金貯まるの早いよね、きっと。ボクは所詮バイトだけど、彼は社員でしょ」
「そりゃ、そうだよな」
再会した日にも思った。ダンは社会に出て働いている。仕事中だから、とあの日言われた。あれは自分と話したくない言い訳でも何でもなく、ダンにとっての事実なのだ。まだ学生のニコが突然ふらりと遊びに来たのを、歓迎するわけがなかった。アユミさんの計らいで部屋まで上がらせてもらったけれど、きっとダンには仕事をサボっているという後ろめたさもあっただろう。今のニコはそこまで想像できる。が、後悔とは違う。
階段を下りていく。ホームは改札階よりもさらに下の階だ。
「……直江さ」
「ん」
「さっきの、痛いからやめて、はマジなやつ?」
すると、直江の足が止まりかけた。が、階段で止まるのは迷惑だと気付き、すぐにまた元の歩調に戻る。直江の視線が自分の横顔に注がれているのをニコは感じた。
「……それ、マジだって言ったらやめてくれるってこと?」
「俺がマジだって判断したらな」
「それじゃボクの主張は意味なくない?」
「つうか、直江はそこまで嫌じゃねえだろって思ってる」
「勝手……」
「嫌なわけ?」
「もう諦めてるって言う方が近い。どうせやめないでしょ」
ただの挨拶だ。痛いだの乱暴だのと文句は言われ慣れている。本当に嫌そうな相手には控えているし、誰にでも同じわけではない。これでも人は選んでいるのだ。
「どうしたの、急に」
ホームに着いた。ちょうど急行列車の発車アナウンスが聞こえ始めたところだった。周りの幾人かが小走りになる。ニコも直江の腕を掴んで駆け出した。うわぁ、と声が上がるが、乗り損ねたら悔しい。下りてきたのはホーム端の階段だ。いちばん近い最後尾の車両に乗り込む。車掌室の壁際に落ち着いたところで、ドアが閉まった。
「意外とせっかちだよね」
「ンなことねえよ。ジャストタイミングのが気持ちいいだろ」
ニコは、さっきほぼ無意識で掴んだ直江の腕を見る。それから、直江の顔も。特にどうという変化はない。
「ねえ。だからどうしたの。さっきから」
「え」
「なんかボクに気ィ遣ってるの? 急にそういうの怖いからやめてくれる?」
ハハ、とニコは笑った。
「それはマジなやつだ」
「マジだよ。谷越くんの皮かぶった他人みたい」
「その発想がコエーよ」
あれから時々、頭の中で再生される。
『……なんだよッ』
振り払われた手の感触も。
あれと同じものを直江に探そうとしてみたが、見つかりそうにない。
「俺の挨拶が痛てぇっつうのは分かる」
「分かるんだ」
「ンで、さっきちょっと、触ったじゃん、腕」
「触ったってなに。掴んだ、でしょ」
「俺、そういうのフツーにするじゃん」
「する」
直江の顔には「今さらそれがどうした」と書いてあるのがわかる。ニコは小さく溜息を漏らした。
「……ダンがすげえ嫌がんだよ」
あまり、言葉にはしたくなかった。直江から目を逸らし、電車のドアの上を見やる。次の停車駅がデジタル画面に表示されていた。
「それは、最近ってこと。それとも、前から?」
「あー……まあ、前から、かな。多分」
いつから、と明言するのは少し難しい。高校2年生に進級するタイミングで距離をとられてしまったから、それと同時にニコはダンに触れる機会も失っていた。だが、触れるのを嫌がられる、というのと、距離をとられる。どちらもニコにとっては同じことだ。距離をとられたと同時に触れるのを嫌がられるようになった。そう解釈しても間違いではない気がする。遠いか近いかの問題だ。遠ければ細かいものは見えなくなる。近ければ見える。
直江の方を見ずに、ニコは尋ねる。
「俺、怖がらせてんのかな」
「心当たりでもあるの?」
「ないけど」
塾のバイトが決まった時に塾長から言われた。谷越くん、体大きいから、態度は威圧的にならないように、優しくね。初対面の中高生をビビらせるな、というアドバイスだった。これは子供の頃から親にも言われてきた。あんた、他の子より体大きいんだから、気を付けなきゃだめだからね。しかし、外見的な圧の強さがダンを怖がらせているとは思えない。出会った時からダンとは体格差があって、そんなもの関係なしに自分たちは仲良くしていたのだ。それが急に怖くなるなんて馬鹿げている。
それなら、知らず、何か精神的に追い詰めたのだろうか。いつ。何のことで。
「……あいつ、いろいろ変なんだよ」
「変」
「目ェ合わねえだろ、まず」
再会から会ったのは2回。それと、去年のダンの誕生日。その時のダンをニコは思い出す。
「あんま喋んない。好きなことはちょっと喋る。けど、基本反応薄い」
「うん」
「ずっと緊張してる」
「うん」
「近くに寄ると余計緊張する」
「うん」
「で、ちょっと触ると、逃げる」
手を振り払われたことは言えなかった。
「息苦しそうにして、顔色も変っつうか」
「……そっか」
言葉にして並べてみたら、余計にわけが分からなくなった。
ニコは鼻で笑い、
「前に聞いたんだよ、ダンに。お前、俺と喋ったら誰かに殺されんの?って」
直江は慎ましく笑い返した。
「高校ン時にあいつに何が起こったのか全然分かんねえし、それが今も続いてるってさ、なんなのってなるだろ」
「それは、そうだね」
「俺に虐待されるの恐れてるヤツみたいに見えるじゃん。じゃなきゃ、純情な片思いかよって……」
ニコはそこで言葉を止めた。
ガタンと窓が揺れる音がした。逆方面の電車とすれ違う。次の停車駅のアナウンスが流れ始めた。
目が合わない。ろくに喋らない。
緊張している。距離が詰まるとさらに身を強張らせる。
触れると、逃げる。
いや、だからって、とニコは頭の中で一度否定した。
去年の誕生日。ダンを問い詰めた。怒ってるのか。ムカついてるのか。
俺のこと嫌いなのか。
『ちが……ッ……』
違う、と言いかけたダンの、それまで見たことのなかった表情を思い出した。
あれが、どんな感情を孕んだ表情なのか、言葉で表すのは難しかった。今でも難しいと思う。単純な喜びや悲しみといった種類のものではなかったからだ。ただ、真っすぐだった。ほんの1秒か2秒、自分を見つめるダンの目は真っすぐで、その瞳からなにか深いものが溢れ出ていたのは、分かる。自分に向かって注がれた深いなにか。『すげえイイ顔』だった。
俺のこと嫌いなのか。違う。
違うってことは。嫌いなわけじゃないってこと。じゃあ好きじゃん。
あの時、そんなふうにシンプルに解釈した自分のこともついでに思い出してしまった。
好きってなんだよ。俺だってダンのこと好きだよ。でも、それって。
あの表情の意味は。
ニコはそのまま、しばらく黙っていた。直江も、何も言わずに黙っていた。しかし、いくつかの駅に停まり、下車駅が近づいてきた頃、直江が言った。
「また、会いに行くの?」
ニコは直江の顔を見た。自分よりも随分小柄な彼は、いつもと同じ穏やかそうな顔つきでニコを見上げている。
「……車でどっか行く約束してる」
「そっか」
「けど……すぐは無理だな。9月から関東リーグ始まる」
「忙しいの」
「だいぶ」
心の中が一度小さくうねる。焦燥感を思い出す。
「お前ともしばらく会えねえわ」
「塾、休み?」
「秋は無理」
下りるのは直江の方が先だった。電車の減速に合わせて、直江はトートバッグを持ち直す。
「淋しくなったら連絡くれてもいいよ」
「バァカ、そういう俺もコエーだろ」
「確かに」
ふふ、とふたりで笑った。
「バスケ、応援してるね」
「おう。またな」
電車が止まる。ドアが開く。ニコに手を振り、直江はホームへと下りていった。
続く
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