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⑤戦い
高校の時は、ゴール下が自分の陣地だった。敵が攻めて来れば味方のヘルプに入り、ブロックに飛び、リバウンドに目を光らせた。攻め込む時はさらに神経が鋭敏になった。間合い。空間。リズム。パスを受けやすい場所を探る。ディフェンスを引き付ける場所に動く。オフェンスリバウンドは死んでも取る。シュートは、決める。それが、センターとしてのニコの働きだった。
そして、精神的にブレないことが、ニコの強みでもあった。押されていても、チーム内のミスが続いていても、ニコは絶対に顔を下げなかった。それはニコが鈍感だったという意味ではない。戦況も空気も理解して、頭の片隅に思う。次、決めれば空気が戻る。士気を上げるための声出しはキャプテンに任せていた。ニコはただ集中を研ぎ澄ませ、いつもの働きに徹するのだ。雑念なく、ボールと人の動きを追うその感覚は野性的でさえあった。そして、獣が牙を剥くように、シュートを打つ。ボールがゴールネットを滑り落ちてくるのを見て、また、次の展開へと頭を切り替える。そういうことを繰り返しているうちに、ニコはエースになった。
9月になり、関東リーグが始まった。毎週末試合という日々のスタートだ。平日に休みらしい休みはない。ニコの頭の中もバスケ一色に染まっていた。
観客席から試合の様子を見つめていた。大学に入って半年足らずの間に充分理解したと思っていたことだが、高校の時とはスピード感も迫力も段違いだとつくづく思う。それに、上手いだけでは通用しないことも痛感する。大学バスケは戦略的だった。個人の能力がどれだけ突出していようとも、メンバー同士の連携が取れなければ機能しない。今、眼下ではそれが実践されている。事前に録画した試合のビデオを見て相手チームを研究し、攻防の戦略を立て、それをゲームに生かす。判断はほぼ即時。油断も迷いも許されない。先輩たちは、見事にそれをやってのけていた。
目は、概ねパワーフォワードに注がれている。PFに転向して間もないニコにとって、試合こそがいちばん有効な参考資料だからだ。ゴール下のプレイは大体センターの時と一緒。だが、PFは外にも出る。どこが自分の陣地などと言っている場合ではなかった。動いて、相手とぶつかって、周りを見て、スペースを作り、スクリーンやヘルプに入り、隙あらばシュートを打つ。仕事が多い。常に戦場の真ん中で状況判断を下しながら走る必要があった。体力的にも相当消耗するが、最近のニコは頭も疲れている。だが、こうしてベンチにも入れず、観客席にしか座れない今でも、気は抜けない。立ちたいのはコートだ。あの場所に立つために、盗めるものは盗まなければならない。今、コートを縦横無尽に走るあのPFの先輩は、ニコに対して誰よりも塩対応甚だしいが、そんなことはどうでもいい。理解したかった。あのパスが通ったのは何故か。あそこでドライブではなくシュートを選んだのは何故か。どうやったらそんなふうになれるのか。声援も、歓声も忘れて、ニコはじっとコートを見つめていた。
ハーフタイムに入った時、隣に座っていた3年の先輩がニコに言った。
「お前、息してる?」
「……え」
左腕をギプスで固定された先輩は、ちょっと可笑しそうにニコを見ている。
「スポ薦の意地とプライドとかもあるんだろうけどさ。もうちょっと力抜けよ。オーラが怖いから」
「いや別に……そんな意地もプライドもとっくにねえですけど」
「意外と謙虚だよなぁ、谷越って」
怪我で出場を逃した先輩相手に、意外ってどういう意味だよ、と挑みかかることもできず、
「……謙虚なわけじゃなくて。現実がこうなんで」
「じゃあその現実をもうちょっと前向きに捉えたらいいだろ。1年でA帯同なの谷越だけじゃん」
「……まあ」
バスケ部の中では、AとBのチーム分けがある。1軍と2軍、と言い換えると分かりやすい。公式試合に出るのはAチームで、スタメンもベンチ入りもAの中から選ばれる。現在のニコはBチームだが、今回の関東リーグではAチームに帯同することが許された。ニコは先輩に言う。
「それ自体は嬉しいンすけど……毎回心臓がイカれそうで」
「うん、それはわかる。ここに座るか、ベンチに座るかって、だいぶ違うもんな」
試合の登録メンバー発表は、大抵前日の夜に行われた。スタメンも含めて15人がユニフォームを着ることができる。ここで名前を呼ばれなければ、こうして観客席に座ることになる。A帯同を許された時点で、ベンチ入りの可能性があることは予想できた。まだ始まったばかりの関東リーグだが、メンバー発表の時が来るとニコの鼓動は自分でも驚くぐらいに跳ね上がる。しかし、今のところベンチ入りは果たせていない。
先輩は、怪我していない方の手でニコの腕を叩いた。
「だからって、ずっとそんな構えてなくてだいじょぶだから。ベンチ入りしたって、コートに立てる保証はないんだし。疲れるだろ」
「けど、出来ることやっとかないと時間もったいないし」
先輩はハハ、と笑って、今は誰もいないコートに目をやった。
「どういう見方してる? PFだけ?」
「あぁ、まぁ、基本的には」
「じゃあさ、もうちょっと視野広げて、ざっくり全ポジ見てみ。PFだけ見てても繋がりが分かりづらいから。谷越がポジション転向で苦労してんのは分かるけど、役割理解するなら、今のうちから全体見た方がいい」
「……そっか。そうだよな」
「あと、相手のPFも結構いいよ」
「マジすか」
「な。気合入ってんのはいいけど、視野狭くなると吸収できるもんも減るだろ。それこそ時間の無駄遣いじゃん」
「……そっすね」
ニコはそこで胸にいっぱい空気を吸い込んだ。呼吸が浅くなっている自覚はなかった。
エースとは、信頼の積み重ねで得られる役割だ。新入生のニコにそれはない。エースになりたいわけではない。いきなりそれを望むのは分不相応に過ぎるのも分かっている。まずは試合に使っても損はしない、そう思われるプレイヤーになる必要がある。今はその積み重ねの時だ。使っても損はしない。そこからいずれは、得になるプレイヤーへ。まだ始まったばかりだ。もう完全に大人のバスケとして成立している3年生、4年生を見ていれば分かる。そこに辿り着くまでの下積みなら、いくらでもやる。
第3クォーター開始の合図が鳴った。
体育館を出た時、ニコは充実感に満ちていた。
先輩に言われた通り、試合の後半はコート全体を見ることを意識した。その結果、綺麗なものをいくつか目にすることができた。例えば、リズムよく滑らかに繋がるパス。例えば、あらかじめその場所に来ることが分かっていたかのようなリバウンド。それらの末に決められた鮮やかなシュート。こういう見事な連携を見ると、ニコはそれを『綺麗だ』と感じてしまう。感動し、興奮する。試合にもちゃんと勝った。気分が上がる。
そうだよな、とニコはひとり思う。もともと巧みな連携が好きなのだ。個人プレイではなく、チームで作り上げることに意味を感じていた。PFは、その連携の重要な立ち位置にいる。それを担えるということは、実はとてもラッキーなことなのではないか。ニコはそう思い至って、知らず背筋が伸びた。必要なのは、今まで感覚で処理してきたものを言語化することだ。『綺麗』な理由をひとつひとつ解釈することだった。今なら頭も回りそうな気がする。
先輩たち数名が笑い合いながら横を通り過ぎていった。肩を組み、背を叩き、腕をぶつけ合っている。いいな、と思った。あの輪に入るにはまだ時間が掛かりそうだ。試合や練習をともに過ごす濃密な時間の中で、あの親しげな距離感と雰囲気は出来上がった。それがよく伝わってくる。自分ひとりで足掻いている間は、手の届かない世界だ。同期生のチームメイトはもちろんいるが、ニコだけでなく、彼等もまた、大学バスケの洗礼を受けて苦しんでいる最中だった。
それで言うと、とニコはふと思った。
自分とダンとは、長い時間を要すことなく、ああいう距離感に至った。入学式で出会って、話をして、毎日一緒にいた。それだけの日々の中で、速やかに、しかし自然に親しくなった。仲良くなるきっかけはあったかもしれない。ニコもダンも、スポーツ推薦で同じ高校に進学した。ニコはバスケが好きで、ダンは走ることが好きだった。お互いに必要とするトレーニングについて話し、その違いを面白く聞いた。陸上を真剣に楽しんでいるダンのことが好ましかった。多分、ダンも同じように。好きなものに真っすぐに芯を立てているという点で、自分とダンは価値観が合っていたと思う。
しかし、それはただのきっかけで、四六時中部活の話をしていたわけではないし、もっとくだらない話題に笑っていたことの方が多かった気がする。だから、気が合ったとか、馬が合ったとか、そういう感覚的な言葉でしか親しくなった理由を捉えることが、ニコにはできない。
駅前でチームメイトたちと解散し、家路を辿る電車の中で、ニコは考える。
もし、今の自分が、PFとして、感覚的なものを言語化し、丁寧な解釈を必要とするのなら。
ダンとは、楽しいこと、面白いこと、時に、嫌なことを共有した。それは確かに親密さを深める要因ではあっただろう。共感度が高かったのかもしれない。と、言うより、いつでもダンが自分に対して肯定的であったこと、それが、自分がダンに懐いていた理由ではないだろうか。そして、それは自分も同じだった。ダンに対して否定的な思いを抱いたことは、覚えている限りないと思う。自分たちはいつでも、お互いの味方だった。
性質が似ているわけではなかった。ニコは自分の言動が少々ラフであることを自覚しているが、ダンはまた少し違う。短距離選手に相応しい細身の体同様、ダンの口調は少しシャープで尖り気味だった。何かを警戒しているのか、それとも威嚇なのかは分からなかったが、鋭いナイフを構えるその内側に、ダンが何を隠し、守ろうとしているのか、それが気になった。暴こうとしたわけではない。見せない内側があることそのものが、オープンに他人と関わるニコの興味を惹いた、それだけのことだ。何かを秘めたダンが纏う独特の雰囲気が、ニコは好きだった。自分にはない深みのような匂いがした。それを魅力、と呼ぶのは今でも気恥ずかしいのだが。
家に帰りつくと、風呂が沸いていた。先に入っといで、と母親に言われて、有難く湯船に浸かる。
高校1年の後半は、ふたりでいる時間が増えた。ダンの自宅を兼ねた自転車屋に行き、アユミさんと出会い、ダンの部屋にいることが多くなった。散らかった様子のないシンプルなダンの部屋は、居心地が良かった。部屋の主を差し置いてベッドを占領したことは数知れず。並んで壁際に座って肩を寄せ合い、一緒にスマホを見ながら大声で笑った。どうでもいい話を沢山した。黙っていても、平気だった。楽しかったし、楽だった。わざわざ考えたり、言葉にしたりしなくても分かり切っていたのだ。こんな友達は他にはいない、と。
しかし、そんな楽しく楽な日々は、たった1年で終わる。
2年生になり、クラス替えがあって、ダンとは別のクラスになった。ニコはそれに少しの淋しさを覚えたものの、大した問題ではないと思っていた。物理的な距離が数十メートル離れただけのことだ。問題はない、はずだった。
湯に、顔をつける。ゆっくりと息を吐く。あまり思い出したくはない。
逸らされる目。無視に近い反応。遠ざかる背中。
何が起きたのか、まったくわからなかった。
ざば、と顔を上げる。浴室の白い壁を見つめる。
あの時の自分は、わけの分からなさに酷く心が捻じれた。それまで味わったのことのない、重たく、鈍い痛みが胃に沈殿しているような気分だった。
けれど、わけが分かるのだとしたら。
あれは、ダンの片思いのせいなのだとしたら。
「いやでも、あんな避けなくてもよくね?」
つい独り言がこぼれる。
浴槽を出、体を洗う。
この前その可能性に気付いてから何度も考えようとしていた。だが、どうしても思考がうまくまとまらない。
じゃあ、自分の身に置き換えてみたとして。背中を洗いながら、ニコは再び試みる。
自分がダンを好きになったとして。その気持ちに気付いたらどうする。まあ、いきなり言えないってのは分かる。友達なんだし。それで急に好きだって言ったら、友達終わるじゃん。だから、言えないのは、分かる。でも、ダンは友達も終わりにした、ように見えた。多分そう。それって必要だったか。俺のこともう嫌いみたいな態度取る意味あったか。逆なのに。
ダンは手にしていたナイフを行使した。ニコに向かって振り翳し、関係を断ち切った。
いろいろな記憶が巡り始める。その後のダンは卒業まで、一貫してニコとの接触を嫌ってきた。もう交わることのないまま終わりにしようと思っていたことも、何となく、分かっていた。好きだから、遠ざかる。それがどういう構造なのか、ニコにはどうしても理解できなかった。
言えない。それだけなら納得できるのだ。友達だったものが形を変える。それを恐れるのは想像がつく。それともうひとつ。自分だったら言えないと思う理由が思い浮かぶ。自分たちは、男同士だ。
ニコの手が止まる。
「……だからか?」
シャワーから湯を出す。
思考がうまく進んでいかない原因はそこかもしれない、とニコは思う。同性愛に対して肯定や否定の特別な感情はないが、自分の中には存在しない傾向なのは確かだ。女性が好きだし、恋愛経験もある。セックスも何度かしてきた。それと同じ枠の中に同性を入れて考えるというのが、ニコにはどうにも難しかった。
でも。ダンだからな。
特別な友達が抱えているかもしれない思いを、分からないというだけで放棄する気にはなれなかった。もし本当にダンが自分のことを好きならば、今日までの間に自分がダンにしてきたことを振り返らなければならない、とさえ思う。ダンの拒絶反応とも呼べる態度の数々に自分は痛い思いをしてきたけれど、それが好意の裏返しだというのなら、少し、救われるような気がした。
「いや、だから……」
シャワーの中で、ニコは呟く。
「……好きって決まったわけじゃねえじゃん」
続く
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