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⑥塩
「だからそれじゃ遅せぇって言ってんだよ!」
体育館に、ミスター塩対応の声が響く。クソ、とニコは心の中で呟き、ゴール下に向かって走る。ボールと人の動きはちゃんと見ているはずだった。味方のガードが抜かれるのを見て、ヘルプに向かった。しかし、間に合わない。呟いた『クソ』は、自分自身に対してだった。
ヘルプが間に合わなかったせいで、相手チームは既にシュートタイミングを計っている。ニコは体を捻じ込む。リバウンドへの備えの方が身に馴染んでいた。背中、腰、腕で相手をゴール下から退かしにかかる。尤も、簡単に退かせられるほど先輩たちはやわではない。鍛え上げた筋肉の使い方を分かっているだけ、彼等の方が有利だとさえ言えた。それでもニコは踏ん張る。1歩、後方へ足が動いた。
シュートが決まり、ホイッスルが鳴った。5対5で行われた試合形式の実践練習は、ここで終了となった。
クソ、ともう一度呟く。今度は声に出ていたかもしれない。部員たちの荷物が並ぶ壁際へと歩きながら、小さく首を傾げる。タオルで汗を拭う。10月になろうというのに、気温はまだ高い。2リットルのペットボトルからスポーツドリンクを喉に流し込んだ。
座って体を休めながら、監督からの総評を聞いた。今日の実践練習はAとB、それぞれで行われ、ニコはAの方に加えられていた。初めてのことではない。だが、毎回緊張する。そして、意気も高くなる。できることを増やしていかなければ、という気持ちは緊張感を生むが、自分より上の者たちのプレイを目の前で見られることは嬉しい。どうせ自分がまだヘタクソなのはみんな分かっているのだから、出来るフリをする意味はない。それなら堂々とコートの空気を吸ってやる。ニコはいつもそう思いながらコートを駆けていた。終わってみれば、課題ばかりが目の前に残るのだけれど。
解散の号令がかかって、一斉に挨拶をする。
ニコは新しいスポーツタオルを首にかけ、濡れたタオルをバッグに突っ込む。少し離れた床に座り、クールダウンのためのストレッチに入った。
「あとでちゃんと膝、冷やしとけよ」
声のした方を見ると、まだ片腕を吊ったままの先輩がそこにいた。
「はい。ども」
「俺、氷嚢もらってこよっか」
「いや、自分で行くんで大丈夫ッすよ」
先輩を使うわけにはいかない。立ち上がりかけるニコを、先輩はまあまあと押しとどめ、
「ヒマなんだよ。練習できないし。俺の充実した時間のために協力しろって」
「いや、けど……」
先輩はさっさと踵を返して、マネージャーたちが用意する氷嚢を取りに歩いていってしまった。
あの人はママだな、とニコは思う。とても分かりやすく面倒見がいい。あの先輩の厚意を退けるのも逆に悪い気がする。何となく自分に風当たりの強い先輩たちに囲まれているニコにとって、ママ先輩は少し息をつくことができる存在だ。
ところが、氷嚢を手に戻ってきたママ先輩は、人をひとり連れてきていた。ミスター塩対応だ。ニコが手本にすべきPFの先輩である。
「お前、いい身分だな」
ああ、面倒臭せぇ。そうは思うが、顔には出せない。これは謝るべきか。でも、アンタに謝る必要ねえよな。
「だから、俺が勝手にやってんだって言ったろ。谷越に頼まれたわけじゃないんだって」
「付け上がらせんなよ」
ニコは立ち上がり、ミスター塩対応と対峙する。身長は殆ど一緒だ。
「なんだよ」
「……まあ、確かに俺が自分で……」
「谷越が謝んなくていいって。コイツのはただのいちゃもんなんだから」
俺もそう思います。ママ先輩を見たニコの顔には、もしかしたら、そう書いてあったかもしれない。
いちゃもんってなんだよ。だってそうだろ。ふたりがやり合う。
「て言うか、お前さぁ」
ミスター塩対応はニコに一歩距離を詰め、
「脳みそ鈍すぎなんじゃねえの?」
「…………」
「見てから動くんじゃ遅せぇってまだ分かんねえのかよ」
見てからでは、遅い。ニコの頭に先ほどまでの練習風景が過る。
「体ばっか鍛えてても使えねえんだよ」
「…………」
「さっさとBに戻った方が……」
「あの」
ニコはミスター塩対応を見つめ返す。この人の普段の熱のない喋り方がどうにも気に障っていた。さっきのように、コート上では勢いのある声が飛んでくるのだが、こうして向かい合って喋る時、彼は淡々と抑揚のない声音でニコを追い詰めてくる。これは地味に効く。
「なに。なんか文句でもある?」
「動き出しを見るんじゃ遅いってことですか」
「…………」
「視線とか、足の向きとか、そっち見ろってこと?」
大きなデータを拾うから間に合わない。もっと微小なデータの積み重ねが大きなデータに繋がっている。その微小な方を拾う必要があるということかもしれない。難易度は高そうだ。だが、イメージは湧く。何故なら、自分だってそういう体の使い方をしているからだ。
「そんなの自分で考えろバカ」
「…………」
ミスター塩対応はそう言い捨てて、立ち去って行った。
バカは余計だろ、バァカ。ニコは彼の背中にそう心で毒づく。
はい、とママ先輩が氷嚢を差し出す。ありがとうございます、とニコは受け取り、思わず溜息を吐いた。
「ごめんね、メンドくさいヤツで」
「……ああ、いや、まあ」
ママ先輩は笑ってくれたが、否定し切らないのはまずかっただろうかと省みる。
膝に氷嚢を当てた。コートを走った後のアイシング。体を使った、と実感できる唯一無二の時間だ。膝。足首。腰。冷やしてやると、体が喜んでいるような気がする。
「アイツ、超分かりづらいけど、あれで褒めてるつもりだよ」
「は?」
は?
「谷越の体がちゃんと出来てるのは認めてるんだよ。最後のゴール下とか良かったから。まあ、もともとセンターで体張ってたからっていうのもあるだろうけど、でも、周りに負けてないのは大きいと思う」
「えっと……それは、でも……えぇー?」
「全部を褒めてるわけじゃないけどさ、ココ出来てんだから、ソコもちゃんとやれよって感じ?」
そうだろうか。ただの嫌味や意地悪にしか思えない。ママ先輩の翻訳を素直に受け取るのも、ニコには難易度が高かった。
「今の質問はイイとこいってる。先読みするんだよ。ヘルプでもスクリーンでも、この後こうなるだろうなって形を予測して動かないと、間に合わない。で、それをゲーム中ずっと継続しなきゃいけないのが、谷越の仕事ね」
「そうすね……分かんなくはないです。ゴール下で、ずっとそういうのやってたし」
「そうそう、ポストプレーは比較的安定してるって思うよ。勘も良いと思う。だからそれを、外でも使えるようになったら、めっちゃ上手くなれるはず」
そわっと胸の内側を上向きに撫でられる感じがした。上手くなれる。いい言葉だ。自分にまだ伸びしろがあると思うだけで、口角が上がってしまいそうになる。
ゆっくりと時間をかけてアイシングをし、プロテインを呑む。ジムや先輩たちから巻き方を教わったテーピングを丁寧に外していく。今日の体育館にはシャワー室がついているから、汗を流して帰りたい。一年生が最後なのは分かっているので、待ち時間を潰さなければならなかった。
帰り道、自分の動き出しのことをニコは考え続けた。予測を立てる。センターの頃から自然とやっていたことだ。感覚的、だったと思う。体に積み重なった経験値によって感覚が磨かれ、どちらに飛ぶか、どちらの腕を出すか、どこに踏み込むかを瞬時に判断して実行していた。やろうとしていることは、おそらく同じ。ただ、今は見る場所が広く、全体的なスピードが速い。感覚はあるはずなのに、いろいろ、間に合っていない。つまり、経験値が足りないということだ。経験値は一朝一夕に得られるものではない。焦っても仕方がないことは分かるが、気持ちは焦る。のんびり構えていたらリーグ戦が終わってしまう。
電車の中で、スマホを開く。動画サイトのアイコンをタップした。ブックマークに飛び、一覧からバスケの試合動画を選んで再生した。音は要らない。プロの海外選手の活躍をいくつかピックアップした動画で、その迫力が純粋に好きでブックマークに入れていた。嘘みたいに巧みで華麗なパス回しや、美しい軌道を描いて決まるシュート。野性的なダンクや弾丸のようなドライブ。派手なプレイはそれだけで高揚感を煽るが、今のニコはもう少し静かな気持ちで動画を眺めていた。少し離れた距離から走り出す選手がいる。ディフェンスにかかりかけている味方の傍へ猛スピードで向かい、スクリーンをかけ、結果、場が動き、ボールが繋がっていく。ニコはそれを少し巻き戻し、もう一度走り出しを見た。この距離から。このタイミングで。今の自分では間に合わないどころか、動こうという判断さえ下せない気がした。
いや。プロと同じことができない不甲斐なさを嘆いても仕方がない。もう少し実現性のあるプレイを参考にした方がいい。そう思ってニコはスマホを閉じる。身近な手本は言うまでもない、自分の大学チームだ。
『だからそれじゃ遅せぇって言ってんだよ!』
そう。ミスター塩対応は完璧な手本だ。やっていることと言っていることは間違っていない。彼は上手い。
それなのに、あの人間性は一体どういうことなのか、とニコはひとり首を捻る。あれだけ文句を言うのなら、こちらの質問にくらい答えてくれてもいいと思う。彼は確実に自分のことを目障りに感じているのだと思うが、それなら放っておいてくれればいいのに、今日のような妙な絡み方をしてくるのが厄介だ。面と向かって、時に通り過ぎざまに、何かしらケチをつけてくる。要約すれば、それらは『ヘタクソ』ということで、それが自分でもその通りだと思うから完全に一蹴もできない。
この手の拒絶のされ方も初めてだな、とニコは思う。拒絶なのか、ただの後輩いじめなのかもよく分かっていなかった。嫌な気分には違いないけれど、彼の動機が分からないことがニコの心をモヤらせている。調子のいいクソ生意気な後輩だと思われる経験は高校時代にも多少あったが、当時は実力で黙らせることができた。しかし、今はそうもいかない。
だけど、とニコは窓外の景色に目を馳せる。
ミスター塩対応の塩など、ちょっと横っ面を引っぱたかれる程度のことだ。大した怪我にもなりはしない。蓄積する痛みはあれど、それでも。
『全部お前のせいだバカヤロウ!』
今でも耳の奥に再生することのできるその怒声は、ダンが発した言葉だ。突然投げ放たれたその言葉は、真っすぐにニコの心臓に突き刺さった。
そこに至る経緯については、正直どうでもよかった。それが、去年の秋、高校最後の文化祭の時であったことと、場所が化学室であったこと。ニコのいた理系クラスと、ダンのいた文系クラスが一緒に催しを開くことになったこと。文化祭最終日の一般公開が終わって、みんなで騒いでいた時のこと。要点はそのくらいだ。
催し自体は楽しかった。自分たち理系クラスは、理科にちなんだコンセプトカフェを開き、プラスチックのビーカーや試験管などを利用して飲食物を提供していた。片や、文系クラスの方はアコースティックライブを企画して、化学室前方のスペースを使ってかなり本格的な演奏を披露していた。2クラス合同というのも珍しかったし、両クラス本気で楽しんでいたためだろう、なかなか人気のある催しになった。
ただ、ニコにとって、少しだけ面白くないことがあった。それは文化祭の準備中から始まっていた。陰口が聞こえた。自分のクラスメイトたちからではない。文系クラスの数名が、何やら自分のことを指して何か言っているのに、ニコは気付いた。クラスの違う全くの他人、というわけでもなく、1年生の時に同じクラスだった連中だと分かる。彼等の半分聞こえよがしに近い陰口にニコは耳を澄ませてみた。
『理系クラス仕切ってるつもりなんじゃねえの?』
『あれは仕切ってるって言うより、ただの自分勝手だろ』
『デカい声で圧かければ何とかなると思ってんじゃね?』
『スポ薦のエースだからって1軍気取りすぎだよな』
なるほど、とニコは思った。別に仕切るつもりも圧をかけているつもりもなかったが、そういうふうに見るひともいる、ということをニコは承知していた。自分勝手でない、と言い切るほど自分を利他的だとも思わない。これだけなら、どうということもなかった。しかし、彼等の陰口には続きがある。
『どうせ独りじゃ仕切れないだろ。あの頃目立ってたのだって絶対団野の恩恵じゃん』
『団野は多分分かってたんじゃね、アイツ使えねえって。だから縁切ったんだろ』
『それで今、アピってるってこと? まだ俺使えるよー的な?』
『団野の視界に入りたすぎて草』
なんだそれは、というのがニコの感想だった。何をどう見てそう思ったのか疑問だった。事実に近い部分だけを抜き出すとしたら、1年生の頃のダンと自分がクラスの中で目立っていたこと。これは本当だ。目立つ立場にいると、必然的に意見が通りやすくなり、何となく場を仕切る空気になったことは確かにある。それが叶ったのはダンがいたからだと言うなら、ニコは別にそれでもよかった。そして、最も事実に近いのは、ダンと自分の縁が切れているということ。1年生の頃を見ている彼等にはよく分かるのだろう。当時あれだけ一緒にいたふたりが、今は他人のように振る舞っている。そう見えることに不思議はなかった。
ダンのことが含まれた陰口には引っ掛かりを覚えないでもなかった。陰口、という質の悪さも気分が悪い。それでもニコは黙認することにした。根拠のない憶測を並べ立てる彼等に腹を立てても馬鹿らしいし、とりあえず彼等はニコを下げることに必死な様子で、ダンの悪口を言う様子はなかったからだ。
それなのに。
徹底的にニコを避け続けていたダンが、怒り出した。文化祭の後。みんなが集まる化学室で。突然に。だんだんと声量に遠慮がなくなっていく彼等の言葉を、きっとダンも耳にしたのだと思う。立ち上がり、彼等に詰め寄り、怒り出したのだ。もう一度言えよ、と。何も見えてねえくせに、と震える声で言って、机を蹴飛ばした。
あの瞬間、ニコは深いことを考えたわけではなかった。1年以上もまともに話していない友達の怒りを見、そこに空白の時間に対する違和感など何もなくて、ただ、気持ちのままに声を掛けた。ダン。もういいから。お前がそんなに怒んなくていいんだって。何故なら、彼等はダンの文句などひとつも言っていないのだから。
ダンの手や呼気が震えているのが、少し遠いところにいたニコにも分かった。そしてダンは顔を上げて、ニコにナイフを投げた。
『全部お前のせいだバカヤロウ!』
予想できるわけもなかった。2クラスの生徒たちが集まる前で、ニコはダンにそう怒鳴りつけられた。
驚いて、何が自分のせいなのかを落ち着いて考える間も余裕もなかった。怒らなくていい、そう宥めた理由を説明しようと思った記憶はある。だが、それもダンに遮られた。うるせえよ黙れ、と。それから、ダンはニコの胸に突き立ったナイフの柄に手をかけて、容赦なく抉った。
『もう二度と俺に向かってしゃべりかけんな』
ナイフが抜かれた。ダンは化学室を出て行った。ニコの胸から、血が流れ始めた。
駅から家までの道を歩きながら、ニコは微かに笑う。あの時のあれに比べたら、ミスター塩対応の嫌味など可愛いものだ。
思い出すと、まだ古傷が痛む。あの時は、ダンは本当に自分のことを嫌いなのだと、そう思うことしかできなかった。ダンに何か悪いことをした覚えはなかったが、拒絶し、二度と関わりたくないと思うくらいの何かを、きっとしてしまったのだろうと。それならせめて、理由を教えてほしいとニコは願い続けた。縁を切りたいというのなら、最後に一言謝らせてほしかった。大事な友達だったから。けれど、高校を卒業した今でも、それは叶っていない。
理由が分からない、という点では、ミスター塩対応もダンも同じだ。どうして絡んでくるのか。どうして避けられたのか。
そして、また、気付いた可能性を思い出す。
『全部お前のせいだバカヤロウ!』
あれが、ニコのことを好きだから発した言葉なのだとしたら。
それは確かに、俺のせいってことになる、のかも。
『もう二度と俺に向かってしゃべりかけんな』
歩きながら、肩のバッグを背負い直す。
こういうのが分からない。距離を取られた挙句、会話まで拒まれる、その意味が。
「……好きなら、話したいもんなんじゃねえの、フツー?」
空は暗くなっていた。街灯の灯る道をニコは歩く。
どこかの家から、賑やかな笑い声が聞こえてきた。
続く
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