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⑦ドライブ
晩秋。午後の空はよく晴れていた。
ニコはゆっくりとブレーキを踏み、後方を確認してハンドルを左に回した。バイク屋の建物は道路から少し奥まったところに建っていて、その手前に駐車できるスペースがある。ニコはハンドルを切り返して、道路に近いところへ車を停めた。エンジンを一度切り、スマホだけを手にドアを開ける。
店の自動ドアからアユミさんが出てきた。
「……なんだ。ノゾミか。久し振りだな」
「すみません。リーグ中だったんで」
この人に会うと、やはり自然に笑顔になってしまう。互いに距離を詰め、立ち止まる。アユミさんはニコの腕を軽く叩き、
「どうだよ。ちっとは上手くなったか」
「まあ……多分、ちっとは」
アユミさんはにやりと笑った。
「お前。だいぶうまくなったな、それは」
「そんなことないッすよ。ホントにちょっとだけ」
「試合、結構よかったの」
「まあまあ、ですかね。昇格ギリギリまでいったけど、そこは届かなくて」
「そっか。まあ、お疲れ様だな」
「あざす」
関東リーグの結果自体は悪くなかった。ニコたちのチームは2位の結果を収め、先輩たちの様子を見るに、これはかなり良い結果だったのだとニコは察していた。チームの実力に応じて、各大学が1部から5部に振り分けられており、ニコたちは2部に属している。リーグ戦では同じ部の大学が総当たりで試合を行い、順位を争う。2部リーグ内2位を勝ち取ったため、1部下位のチームとの入替戦にも出場した。ここで勝てれば来年度は1部に昇格となるのだが、下位とは言えど、1部の壁は厚かった。11月下旬に始まるインカレへの出場切符も目の前だったけれど、1部の強豪に出場権をすべて奪われて、全国にも手が届かなかった。4年生の先輩たちは、これで引退となる。
「それ、ノゾミの車?」
背後に停めた白のSUVを見て、アユミさんが言った。
「あーいや、ウチの車ッす。俺はまだ車買える余裕ないし」
「お前、どうせ車も変なとここだわるんだろうな」
「まあ……多分。とりあえず、白じゃねえなとは思う」
「素材関係ないだろ、それ」
「けど色は割と大事じゃないすか?」
「確かにな」
いずれは自分の車を持ちたいと思うが、今は金がないし、稼ぐ時間もない。こうして家にある車を腕が鈍らない程度に、たまに運転するぐらいが丁度いい。
涼しい風がそっと吹き抜ける。すっかり過ごしやすい季節になった。
「で。今日はどこ行くんだよ」
平日の昼過ぎだった。少し前に、今日の午後の授業が休講になったことを知り、ちょうどダンの休みの曜日と重なっていることを思い出して、ニコはメッセージを送った。連絡すること自体が、久しぶりだった。リーグ戦が始まる直前に、『関東リーグ、2ヵ月くらいかかるから、次までちょっと待ってて』と、短いメッセージを送ったのが最後だ。ダンからの返事は『わかった』と、これまた短かった。
「ちゃんと決めてないンすよね。車で来ただけで」
「ノゾミってノープランでデートするタイプ?」
「デート? 相手によりますよ。でも……行きたいとこ一緒に決めるのが好きかな」
手にしていたスマホを見て、時間を確かめる。約束の時間まで、あと10分ほどだ。
しかし、アユミさんの後方、自転車屋の奥から階段を下りてくる姿が見えた。ニコの視線が向く方で察したのか、アユミさんも振り返る。ダンがこちらに近づいてきた。
「……なんでいつも喋ってんの」
ダンはアユミさんを見て不可解そうに首を傾げている。
「俺がノゾミと喋っちゃ悪いかよ。別にお前の悪口とか言ってねえよ?」
「俺は親父の悪口言うよ?」
「クソガキが」
ハハ、とニコは笑う。アユミさんも口許を綻ばせたが、ダンは険しい顔で父親に言う。
「仕事戻れよ」
「はいはい」
アユミさんはもう一度ニコを見て言った。
「気を付けてな。メグミくんのことよろしく」
「はい。……あ、門限あります?」
「ンなもんあるかよ、箱入り娘じゃあるまいし」
ふたりはまた笑い、アユミさんはバイク屋に戻っていった。
臙脂色のブルゾンを着たダンが、そこに立っている。久しぶりだ。
「来るの早ぇじゃん」
ニコがそう言うと、ダンはまだ険しい顔つきの名残を滲ませながら言った。
「早いのはそっちじゃん。……いつも喋ってんの?」
「早めに来ると大体会うから」
「……あ、そう」
ダンを見る。自分が父親と親し気に話すのは嫌なのだろうか。でも、怒ってるという感じでもない。気恥ずかしいのかもしれない。もしダンがニコの家族と仲良くしているのを見たら、自分だって不思議な気分になるような気がする。
「ダン」
呼ぶと、その目が応えてくれた。視線が重なる。ダンの表情が少し、変化する。何かを見つけたみたいな、何かに気付いたような。その微かな変化をニコは見つめてしまう。言葉を次がないニコに、ダンが瞬きをする。
「……なに」
「あぁ、……乗る?」
通りに近い場所に停めたSUVを指す。
「……乗らねえっつったら?」
「いや乗れよ」
少し、空気が軽やかだ。どうしてかは分からなかった。ダンが前よりも言葉を紡いでくれるのが、ニコには嬉しい。会わない2ヵ月の間に、何かあったのだろうか。いい空気だ。
ダンを連れて車に戻った。助手席のドアを開けてやり、自分は運転席側に回って乗り込んだ。ダンはそっと車内に入り、ドアを閉める。新鮮な感じがする。そして、自分が少し緊張しているのかもしれないことに、ニコは気付く。シートベルトをしめる。ダンがそれに倣う気配がある。
「どっか行きたいとこある?」
「……え。……どこ行くんだろうって思ってた」
「あー、さっきアユミさんにもノープラン、軽くディスられたわ」
決める気がなかったのとは、少し違っていた。迷った末、決められなかったのだ。
「……どこでもいい」
「ん?」
「どこでもいいよ。テキトーで」
ニコもそれでいいと思っていた。多分、ダンもそうなのではないか、とも思っていた。
車を駐車スペースから動かす。通りに出て、ひとまず幹線道路を目指して走ることにした。
「なあ。アユミさんの悪口ってどんなの?」
ニコが戯れに尋ねると、ダンは小さく鼻で笑った。
「……自分のが何でも分かってる、みたいな顔するのがたまにムカつく、とかかな」
「バイクの話」
「そう」
「けど実際そうなんじゃねえの」
「俺のセンスの良さはまだお前には分かんねえだろうなぁ、とか言われんのはウザいだろ」
可笑しくて笑ってしまう。この親子はそういう感じなのだな、と分かる。それに、ニコは知っている。アユミさんはダンが手に入れようと思っているバイクを『結構いい』と褒めていた。ダンのセンスを褒めていたのだと思う。
「バイク、いつ頃買うの」
「どうかな……年明けて……春ぐらいかも」
「ローン組めねえの?」
「組めるけど……ちゃんと金作ってから買う方が、いいから」
これと決めたバイクのためにコツコツと貯金するのは、ダンらしいやり方だとニコは納得した。好きなもののために努力を惜しまない人だと知っている。買うための準備と一緒に愛情も積み上げているのだと分かる。
「けどさぁ、乗りたくならねえ? 店にあるんだし」
「なるよ。……大型、重いしさ。だから、親父ので練習はさせてもらってる」
「ああ、あの一張羅?」
「そう。傷つけたら殺すって言われてる」
「それ半分くらいマジだな」
幹線道路を下り方面に向かう。昼間のこの時間に車で走ることはないから、混んでいるのか空いているのか見当がつかない。だが、急いでどこかに向かう必要はなかった。流れが良ければそれでいいし、渋滞しているならゆっくり進めばいい。
お互いに前を向いて座っていると、相手の顔を見ることはできない。特に、ニコは余所見のできる状況ではない。空気は悪くなかった。が、揺れを感じないわけでもない。ただ、その揺れがダンのものなのか、自分のものなのか、それは判然としない。
この約2ヵ月の間、ニコはバスケに集中し続け、その余白の時間にダンのことを考えていた。考えていても答えが出るわけではなかった。ダンが自分のことを好きなのかもしれない。それはあくまでも仮定や予想であって、確定事項ではない。考えたからといって仮定が確定に変わるわけではないのだ。だから、確かめたいと思っていた。
いちばん簡単なのは直接聞いて、答えを得ることだ。但し、これが叶うとはニコには思えなかった。自分が「お前って俺のこと好きなの?」などとのたまう姿を想像するだけで笑ってしまうし、ダンが答えてくれるイメージも湧かない。答えがイエスなら、尚更。ダンはずっと拒絶と遮断の態度を取ってきた。それを考えると、真正面から言葉を引き出すのはおそらく無理だ。かと言って、それに代わる名案があるわけでもなくて、車を運転するニコの頭の片隅には、そのことがずっと居座っている。
でも、かつての自分たちに少し近い雰囲気を感じられる今が心地よかった。何でもない話を自然にできる。それだけで満足してはいけないだろうか。そんな気持ちにさえなる。もしも、このままダンの心が解けていき、今までのことは水に流せと言われたら、いいよと言ってしまうかもしれない。何もなかったことにして。
「仕事どう」
「……どうって」
「楽しい?」
「まあ……かもな」
再会した日、ダンは1台の自転車と向き合っていた。学生ではない姿で。自分よりも先に、大人になって。
「まあ、確かに、ずっとじぶんちにチャリがあったら、好きっつうか、傍にあんのが普通になんのかもな」
信号で止まる。道路はそれほど混んではいない。
「……カッコいいだろ、ピカピカのチャリって」
左側を見る。ダンの横顔が視界に入る。
「新品は当然そうだけど、修理した後のやつも、点検済んだやつも、ちゃんときれいでさ」
「うん」
「俺もコレやるんだ、って普通にそう思ってたから」
ダンのその言葉に屈託はなさそうだった。高校卒業後は家業に入るのだと初めて聞かされた時も、同じだった。
信号が変わる。ニコはゆっくりとアクセルを踏む。
「けど、どっかしらのタイミングで、家の仕事するって本決まりになったわけだろ。ダンが言ったの?」
「あぁ……言ったのいつだったかな。なんかあったじゃん、進路希望調査票、だっけ。あれ出す時に、一応親父に言った」
「進路決まんの最速だったんじゃね?」
「そうでもない」
え、と思わず隣を振り向きそうになる。
「アユミさんが反対したわけじゃねえだろ?」
「最初それに近かったんだよ。その進路の紙出すのって、1年か2年か……割と早めだったろ。だから、まだ時間あるからよく考えろとか言われて」
「息子が同じ仕事するのって、嬉しいもんかと思ってたわ」
「親父が嬉しいかはどうでもいいけど、俺はずっとそのつもりだったのに、マジで意味分かんなかった」
初めて聞く話だった。3車線ある広い道路を走りながら、ニコの耳はダンの話に集中している。
「それでさ、三者面談とかも結構めんどくて。担任は妙に進学勧めてくるし、親父もそれに乗っかるしで」
「ダンのとこ、アユミさんが面談来たんだ」
「母親は外で仕事してるから。親父のが来やすいってだけ」
そう言えば、ダンの母に会ったことはまだない。アユミさんが学校に来ていた、というのが何となく面白かった。校内でアユミさんに会ってみたかった。
「推薦の話とか、陸上の話とかいろいろされてさ。家の仕事は大学出てからでもできるだろとか言われて。けど、俺は高校出たら自転車屋って決めてたから、そんな選択肢出されても、って感じで」
「でも、ぶっちゃけスカウトとか、あっただろ」
「……あったけど。でも、陸上は高校までって決めてたから」
想像するに、アユミさんはダンが家業を選択するのを反対したわけではなかったように思う。ただ、ダンの可能性を狭めたくなかっただけなのではないか。周りから見れば、ダンは陸上部で結果も記録も残していて、複数の大学から声が掛かってもおかしくない人材だった。それに、ダンは意外と勉強も得意だった。だから、選べる道はいくつもある、アユミさんはそう考えて、自転車屋を保留にしたのではないか。ダンから取り上げたのではなく、最後に考えればいい、ぐらいのつもりで。
「興味なかったの、大学」
ダンが笑いを含んだ吐息を漏らすのが聞こえた。お前もそれか、と言われているような気がした。
「受験するなら、勉強する意味が持てたかも、とは思ったけど」
ダンは受験生ではないにも関わらず、好成績を収めていた。特に3年になってからは、試験のたびに掲示される成績優秀者の表の上位に、いつもダンの名前があったことをニコは知っている。
「進路も一途だったってことか」
「……え」
「……え。あ……いや、ホラ、陸上もさ。バイクとかも。お前って、好きなモン、ずっと好きだろ」
「……まあ」
僅かに気まずい空気を漂わせているのは、ダンか、それとも自分か。ニコにはやはり分からなかった。
大きなターミナル駅の傍を走り抜けると、景色が整ってくるのが分かる。港に近い観光地エリアに入った。どこまで行こうか、ニコはまだ決めていない。左右に大きく分かれる交差点に差し掛かって、ニコは左車線に移った。
しばらくふたりは黙っていた。
水辺の空気が少し近くなる。観光地ではあるが、平日のためか混雑はない。信号に捕まる。隣を見ると、ダンは窓の外に顔を向けていた。緑や花の美しい公園がすぐそこにある。ニコにとっても、見慣れた場所ではない。目新しい景色をただ眺めるのも悪くなかった。カーナビの画面を見る。特に目的地の指定はしていない。現在地から、この先の分岐を確かめた。そして、青信号が灯るのと同時に、次の方向を決めた。ハンドルを左へ。さらに水際が近付く。砂浜が広がる自然の海とは違うが、日々の生活の中にはない空気が確かにある。
「……そっちは」
「え」
ダンが小さく声を出す。
「バスケ。どうだった」
肩の辺りに、じんわりと熱を帯びるような感覚が広がった。晴れた空が、少し眩しく感じられる。空が広いせいかもしれない。
「……どっから話していいか分かんねえくらい、いろいろあってさ」
この2ヵ月を振り返る。大学に入ってから約5ヵ月を経て迎えた関東リーグ。
「リーグの殆どは観てただけ。この観てるだけっつうのがさ、イライラもするけど、思ったより悪くもなくて」
「……試合出られないと暴れそうなのに」
「暴れねえわ」
微かに笑う声がした。
「週末が試合で、それ以外の平日は全部練習でさ。この練習で上手くなんねえと一生試合に出してもらえないわけ。毎週同じこと考えて、繰り返して……なんかあっという間だった」
「…………」
「ベンチ入り決まった時、声出たし」
「……出たの。試合」
「あぁー……出たのは2回だけ。数分な」
その時の途轍もない緊張感をニコは思い出す。観客席とベンチは全然違う。が、ベンチとコートはもっと違っていた。声援や歓声がやけに大きく響いている気がした。高校では当たり前に試合に出て、慣れている環境であるはずなのに、見知らぬ場所に放り込まれた迷子のような気分に一瞬陥った。
「こっちが余裕で勝ってる時と、ちょっと空気動かしたいって時と。お試しだよな、フツーに」
「……いいじゃん。全然」
ニコの口角が上がる。そう。あれはよかった。緊張感がアドレナリンを誘発し、コートに向かう間こそふわふわとしていたが、敵味方入り混じるラインの内側に踏み込んだと同時に、頭が冴えた。
「出してもらえたからには結果出さなきゃとか、プレッシャーもあんだけど。で、100パー思うように動けたかっつうとそうでもねえし、逆に思ったよりうまくいったとこもあったりして……なんつうか、……めっちゃ楽しかった」
「…………」
橋を渡る。景色は港湾エリアのそれへと変化していた。四角いコンテナや倉庫が立ち並び、大きな円筒形のサイロも見えてくる。
「ダン、あれ」
ニコは前方を指した。ダンが少し身を乗り出して言う。
「キリンじゃん」
「え」
「キリン」
「クレーンだろ」
「でも見た目キリンじゃん」
「動いてね? なんかかっけえよな」
「キリンなら動くだろ」
「キリンじゃねえから」
笑いながら、ニコは道路標識を見る。矢印に従って走り、ウィンカーを点滅させ、ハンドルを切った。埠頭に着く。
「なあ、ちょっと下りようぜ」
速度を落としながら周りを観察する。釣りのできる桟橋があるらしく、施設専用駐車場の案内が目に入った。そこを目指すことにする。
「……釣りすんの?」
「しねえけど。路駐はヤだから。飲み物くらい買えば利用したことになんだろ」
駐車場は思ったよりも埋まっていた。出て行く車を1台見送り、ニコは数台分空いているスペースを見つけて、そこへSUVを停めた。
車を下り、施錠して、それから周囲を見渡す。少し、風がある。街中とは違うにおいがした。少し離れたところに灯台らしき背の高い建物がある。車の反対側で、ダンも同じように景色に視線を巡らせているのに気付いて、ボンネットの方へ進み出る。ふたりで歩き出し、敷地内の自販機で飲み物を買って、駐車場を出た。海側には高い壁が建っていて、反対側には働く港の気配がある。先ほど見たガントリークレーンは港の方だ。伸びる道に従って、何となく歩いていく。
「夜の方がきれいだよな、多分」
灯台に近づいていきながら、ニコは言う。
「工場夜景、とかいうやつ?」
ダンは隣を歩いてはいるが、ニコよりも半歩後ろの距離にいる。少しだけ振り返ってその顔を見た。
「あれヤバいよな。写真とか、見たことある?」
「テレビでちらっと見ただけ」
「自分の目で一回見てぇなと思っててさ」
「雰囲気、良さそうだもんな」
「配管とか見たい」
「配管?」
「タンクとかサイロもいろんな形あんじゃん。ああいうの見たい」
「へえ」
共感は得られないようだったが、ダンは微かに笑っていた。
そのまましばらく行くと、また駐車場があった。埠頭の端にある灯台は観光スポットにもなっているらしい。駐車場の奥には休憩所がある。そして、目の前に聳え立つ灯台を前に、ふたりは足を止めた。
「すげ……」
「でか……」
広い緑の芝生が広がる真ん中に、細い道がまっすぐに伸びている。それを行くと、長い階段が始まる。それを上れば灯台の足元に到着する。ふたりは迷うことなく、その道を行った。
階段を上り切ると、脇にエレベーターがあった。展望台へ上れるのだろう。けれど、ダンはそのエレベーターとは違う方に歩いていく。ニコはダンを見、ダンの向こうに広がる光景に気付いて目を瞠った。
「おぉ……やべぇ……」
秩序正しく積み上げられた白のコンテナ。赤や青の鮮やかなコンテナは大きさがバラバラで積み木のように重なっている。その向こうには、ガントリークレーンが並んでいるのがよく見えた。海の方を向いて建つその『キリン』たちは皆こちらに背を向けていて、その後姿は何とも堂々としていた。
ベンチが自分たちのすぐ傍にあることに気付く。この場所も展望エリアなのだろう。灯台の本体を囲むように、歩いたり、休憩したりできるようなスペースが360度巡らされている。ベンチも規則正しく並んでいた。しかし、ふたりは腰掛けることなく、柵の手前まで近寄って、コンテナと、キリンと、青い空とを眺めた。とても、静かだった。平日だからなのか、人は殆どいない。ダンは缶コーヒーを飲み、ニコはペットボトルの炭酸水を呷る。潮風が頬を撫でた。
「2ヵ月、時間的に会えなかったけどさ。多分、気持ち的にも無理だったわ」
「…………」
車の中にいる時は、話そうとも思っていなかった。しかし、カッコつけていても仕方がないとニコは思った。
「前、ちょっと言ったじゃん。まだ戦力外だって。今でもまだ微妙なとこでさ」
「…………」
「挫折、は言い過ぎかもだけど。バスケで『お前使えねえよ』って扱いされんの、初めてなんだよな」
事実を言っているだけなのに、心の中が少し萎縮するのが分かる。多分プライドのせいだ。
でも、と横で声がする。
「……出られたんだろ。試合」
ニコは肯いた。さっきの気持ちも嘘ではない。あれは、よかった。
カッコ悪いついでにもうひとつ言うことにする。
「同じポジションのクソムカつく先輩がいてさ。俺のメンタル折りたくてしょうがねえ感じの」
「……マジで」
「クソムカつくけど、クソうめえの。反論も反撃もできねえのがホント悔しいんだけど……」
「…………」
「練習でそいつの真似してたら、試合、出してもらえたわけ」
微笑んでダンを見る。ダンの口許も緩み、数度頷いてくれた。
「だからさ。まだ数分しか起用されないヘタクソではあンだけど、リーグの途中はもっと切羽詰まってたっつうか。思うように動けねえし、情報処理追いつかねえし、判断も鈍くせえし、……そういうんじゃちょっと……会えなかったかも」
「いいよ」
はっきりとした声で、ダンが言った。
「……分かってたから、いい」
「……うん」
「それに……変わったし」
「なにが」
「顔」
ダンが少し俯きがちになる。
「顔、って」
「お前のだよ」
「…………」
「だから、……いいよ」
自分では分からない何かを、ダンが感じ取ってくれた。自分の2ヵ月間を肯定してもらえたようで、ニコの笑みは深まった。
愚痴や弱音の類を口にすることは殆どなかった。きっとそれもプライドゆえだ。美徳だとか信念だとか言うほど立派なものでも、明確なものでもなかった。だが、今、ダンの前で格好のついていない自分の現実を吐露したことに、後悔はなかった。後悔せずに済んだことを、ニコは感謝する。
「結局さ、やり続けるしかねえんだなって改めて思ったわ。こうなりたいってビジョンがあったら、積み重ねてくしかなくて、ンで、どっかで結果になって出てくんだろうなって。……ダンも分かるだろ」
「わかるよ」
「ただの基礎練とかさ、地味な微調整とかあるじゃん。でも、そこ外せねえじゃん」
「わかる。そういうのが全部噛み合って作用した時に、結果出るんだよな。俺の場合は、タイム縮む、ってことだけど」
「だよな。だから俺、ジムは続けててマジ良かったなって思ってる。必要な筋肉ちゃんとついて、それがちゃんと使えた時に、自信になるって分かったから」
「うん」
「だからさ、今、もう一回バスケが好きになってる感じ」
柔らかに吐き出された呼気の音が耳に入って、ニコはダンを見た。ダンの目は前を見ていたが、その表情は明るく、優しい。何よりも、笑顔だった。
「大事だよな、体づくり。さすがに俺はジムには行かないけど……筋トレはまた始めた。バイク、ちゃんと動かせるようになりたいから」
「……ああ」
嬉しそうなその横顔から目が離せなくなる。ダンは続ける。
「お前がやってる筋トレはガチ過ぎて、多分俺にはできないけどさ。必要な筋肉も違いそうだし。でもやっぱ、体が変わってきたの分かるといいよな」
ダンがこちらを見た。嬉しそうな顔のままで。
知っている顔だった。かつて見ていた、あの頃のダンの顔だ。
感慨にも近い思いにニコは息を吸い込み、しかし、それは突如断ち切られる。
ダンの瞳が色を変えた。笑みだけを残して固まる表情。そこからゆっくりと、顔が背けられた。
その空気の変化をニコは静かに受け取っていた。そうか、と心で呟く。こちらを見なくなった、少し熱を帯びた頬を視界に映しながら、ニコは言った。
「ダンの場合ってなに。体幹トレーニングとか?」
「…………」
「あのバイクって何キロくらいあんの。腕とか腰とか鍛える感じか」
「……まあ、そう」
心が閉じかけているのが分かる。しかし、これは拒絶ではない、と今のニコは思う。嫌われているのではない。触れてみればもっとよく分かるだろう。きっと、ダンは逃げる。またニコの手を振り払うかもしれない。だが、そうなると分かっていることを試す必要はなかった。
さっき、自分にとっての2ヵ月はあっという間だったとニコは言った。その時、ダンが返事をしなかったことが思い出された。長かったのかもしれない。ダンにとって、この2ヵ月間は途方もなく長かったのかもしれない。その間、ダンは仕事をして、バイクに乗る練習をして、筋トレを始めた。
「あっちの海側の方も見ようぜ」
展望エリアの反対側に行けば、広がる海が見えるはずだ。ニコは足を踏み出す。普段なら何も考えず、ただ促すつもりでダンの肩に手を触れているところだった。ニコはそれをせずに、数歩先でダンを振り向いて待つ。瞬きを繰り返しながら、ダンがついてくる。
「そう言えばさ、俺、バイトしてる話したっけ」
「……バイト? なんの」
「塾の講師」
「…………」
「なに」
「……嘘言うなよ」
「嘘じゃねえよ」
続く
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