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⑨体験レッスン初日
約束の時間に、ニコはダンの部屋を訪ねた。今日はアユミさんには会わず、まっすぐに自転車屋の裏手に回り、階段を上がっていった。ダンには休みの日が週に2日ある。自転車屋の上司たちと相談して決める1日と、定休日だ。今日は自転車屋もバイク屋も休みの日で、店の表にはシャッターが閉まっている。ちょうど12月に入ったところで、駅前の商店街も、この店も、クリスマスらしい装飾が目に付くようになった。
3階のドアを開け、自室へとニコを招き入れるダンは、先日のドライブの時よりも固い顔をしていた。部屋、という空間の狭さがそうさせるのかもしれなかった。狭さという点では、車の方が余程狭いはずなのだが、あの時のダンの方が余程緩んでいた。実際の距離は近くても、車の運転席と助手席に座っていれば、お互いにおとなしく前を向いて座っている他ない。それ以上距離が縮まる必然はないのだ。それに、外に出かけるという行為自体が開放的でもあった。しかし、今日は違う。
ニコはいつものように、部屋の奥の窓際まで進んでいく。この窓からの景色を見るのは、習慣のようなものだ。特に面白いものが見えるわけではないし、変化もないが、なぜか落ち着く。
そして、ダンもいつものように、ベッドの端に座る。ニコから離れた、部屋のドアに近い方へ。
「筋トレ、続いてんの」
「……うん」
「ここで?」
「まあ……部屋でできる程度のやつだから」
今日の約束を取り付ける時、お前の部屋行くわ、とニコは言った。また車でどこかに行くのも悪くはなかった。ダンと外の景色を一緒に見て、あてもなく歩き、どうでもいい話をするのも、悪くない。だが、それは過去の自分たちを探して、懐かしさと期待を抱くだけの自分勝手な行為だとニコは分かっている。今、ダンに会うのなら、この部屋が最適だとニコは判断した。
ダンが、こちらを見た。
「バスケは」
ニコの口許が緩む。
「ウチはもうオフだよ。練習日も減るし、ちょっと息つける感じ」
「そっか」
「けど、冬の間にある程度形にしとかねえと、2年になった時に出遅れるじゃん。だから、今は自分の課題に丁寧に取り組める時間って感じ」
頷いてくれたダンは、今日も笑顔を浮かべている。あの時よりも、慎ましく。
「そっちは。バイク、うまく乗れるようになったのかよ」
「まあ……少しずつは」
「ひとりでどっか走ってんの?」
「いや、親父が一緒。……いちいちうるさくてさ」
「アドバイス?」
「口出されんの鬱陶しいから……早く自分の買いたくなる」
ふ、とニコは笑った。アユミさんのことだから、アドバイスはきっと的確だろう。こうするとうまくいく、こうするとやりやすい。そういうことを端的に言ってくれそうだ。ダンが鬱陶しく思う気持ちも理解できるが、ちゃんと助けられてもいると思う。いい親子だ。
「バイク屋とか自転車屋って、この時期が忙しいとかあんの」
何となく尋ねたニコに、ダンは答えた。
「正にこれからだよ。ボーナス出たり、クリスマスあったりするから」
「あぁ、なるほど」
「もともと平日より週末の方が忙しいけど、クリスマス前は特にそうっぽい」
「クリプレに自転車のイメージあるわ」
「サンタが乗ってくるやつな」
「自転車に? ソリどうした?」
ふたりで小さく笑い声を立てる。
しかし、クリスマスの話題が出たことで、ニコの心はひとつのことしか考えられなくなった。それを言おうと決めてきたからでもあるが、話の方向がそこへ向いたのなら、もう、口にするしかない。そう思った。
「あのさ」
窓際から動かないまま、ニコは言った。ん、とダンの自然な顔がニコを見る。
「去年のお前の誕生日ン時、ここ、来たじゃん」
ダンの表情が、ニコを向いたまま停止した。その瞳が無機質に似た色に変わる。
ニコはそれまでの世間話と同じ口調で言った。
「あれはさ……なんつうか、俺としては、謝りに来た日だったわけ」
今でも、あの日の自分の心情を思い出すと、疼くものがある。それでも、順を追って話さなければならない。
「ずっと避けられてたじゃん。長いことさ。俺は理由が分かんねえから、ずっと『はぁ?』って思ってたわけ。理由訊きたくても、傍に、寄らせてもらえなかったし」
ダンの顔が逃げていく。俯き、瞬きを多くしながら、違う方へと。
「ンで、その前に文化祭があったじゃん」
ベッドの上で、ダンがシーツを握りしめるのが見えた。
「全部俺のせいで、二度としゃべりたくねえ……まで言われたらさ、もう認めるしかねえじゃん。俺がお前に何かして、それでお前は怒ってて、もう関わりたくねえんだって……そう思うだろ。俺は、そう思ったんだよ」
「…………」
「だから、とりあえずゴメンネはするべきだと思って。あの日来たわけ」
とりあえず、などという軽い気持ちでは全然なかった。約1年半の間、自分に酷く腹を立て続けていたらしいダンの気持ちを思えば、謝ったところで許してもらえるとは到底思えず、覚悟を決めるほか、出来ることはない。あの日のニコはそう思って、ここへ来た。
「誕プレも、持ってきたけど。あれは半分、お詫びの品だよ」
ダンの誕生日には、ダンが気に入っているシルバーアクセサリーの店でプレゼントを選んで贈ってきた。1年の時も。疎遠になっていた2年の時も。
「あとはホラ……会った時から誕生日の主張されてたから。あげねえと逆に気持ち悪いみたいなのもあんだけど」
12月25日。クリスマスの日。この日が、ダンの誕生日だった。世間的なイベントに誕生日が埋没してしまう悲しい性を、出会って割とすぐの頃にダンから聞いていた。その時に約束したのだ。ダンの誕生日はちゃんと祝ってやるから、と。
「……そんであの日、俺、いろいろ言ったし、訊いたじゃん」
何か怒っているのかとニコは尋ねた。ダンはそれに答えなかった。ただ強い緊張感だけが伝わってきた。答えないダンに、ニコは更に言った。一所懸命考えても、何かをした覚えがないのだと。自分なりに、誠実に伝えたつもりだった。それでもダンは無言のままで、余計に胸が苦しくなった。前は毎日のように見ていた顔すら、満足に見せてくれない。ダンの笑顔の記憶はなくならないのに、見えているのは背中だけ。お前と切れたくねえけどさ。それはニコが漏らしてしまった本音だ。しかし、あの日の自分は覚悟を決めていたから、本音を我儘として通すわけにはいかなかった。お前が無理ならしょうがねえから。この際だから言ってくんねえ? お前がどう思ってんのか。諦めたいわけではなかった。覚悟だって決めずに済むならその方がよかった。それなのに、ダンは何も言わず、それまで以上に身を固くするだけで、ニコに答えをくれる気配はなかった。文句があるなら言えばいいのに。殴りたいと思うなら殴ればいいのに。不規則な呼吸しか返ってこないダンのことが、ニコには解らなかった。
「俺としては、何があって、こういう理由でオマエが気に入らねえよって、そう言ってもらえんのが望みだったけど。せめて、結論だけでも言えよって、お前に言ったよな」
『全部お前のせいだ』と言うのなら、やはり自分が何か悪いのだろう、と。
俺はお前に何かしたのか。
俺にムカついてるのか。
話もしたくないってことだろ?
俺のこと相当嫌いってことだろ?
「……で、お前は言ったんだよ。違うって」
そして、思い出す。
『ちが……ッ……』
そう言いかけてニコを見たダンの顔。知らない顔。喜怒哀楽では括れない、何かの熱を帯びた顔。
「てっきり、そうだよって言われんだと思ってたのに……お前が否定するから……」
嫌いだときっぱり言われていたら、誕生日プレゼントは渡せなかったかもしれない。ニコはそれをダンに手渡そうとしたが、やはり手を出してくることはなかったので、ダンのデスクの上に置いた。今、ニコはそのデスクのすぐ脇に立っている。あの日プレゼントを置いた場所には、今は何もない。あれをダンはどうしたのだろう。包装を解いて、開けてくれただろうか。
「結局理由は分かんなかったけど、違う、って聴けたから、あの日はそれでいいことにした。そのうち、分かる時もあるかもって思って。だから、また来るって言った」
「…………」
「……お前と切れたくなかったから」
ここまでは、過去の確認と、前段だった。
気持ちは、ダンの傍に寄りたくなっている。歩み寄り、ベッドに自分も腰掛けて、ダンにちゃんと届く距離で話したいと思っている。けれど、近づけたいのは体ではない。ニコは一度窓の外を見た。冬の白っぽい空が広がっている。静かになった部屋に、ダンの浅い呼吸の音が微かに聞こえた。
「でも。見当違いだったって、解った」
呼吸の音が、止まった。
ダンを見る。ダンも、こちらを見ていた。
「……解った?」
ニコは肯いた。
ダンは不可解そうだった。信じられないのだろうか。瞳は不安定に揺れていた。
「違う、って言われた意味も、多分、解ったと思う」
「…………」
「それ言った時のお前の顔もさ。あの時は、なんか、すげえイイ顔してんなと思っただけで、意味は解んなかったんだけど」
「…………」
「この前のドライブの時、解った」
ダンが掌で顔を覆う。纏うその空気には悲愴感が滲んでいた。こういうダンも、去年の誕生日に見た。今なら想像できる。必死で隠していたのだと。本当の気持ちが伝わってしまうことのないように。お前はどう思っているのだとニコに尋ねられて、その答えが口から漏れてしまわないように。
「もう、そうやって隠す必要ねえよ」
「…………」
「解ったから」
自分の目の前で辛そうにされるのが、辛かった。できるなら、楽になってほしかった。
すると、ダンは大きく息を吐き、顔を上げた。前を見、何かを思い、そして、ニコを見た。
「……何が解ったんだよ」
「……だから……」
「それで? 何しに来たわけ」
腕や胸に、急に熱を帯びたような感覚が走った。ダンはニコを睨んでいる。今までになかった新たな緊張感が互いの間に走る。
「……解ったってことは、言っときたくて。で、考えてんだよ」
「は? ……何を」
「どうなれるかってことをだよ」
ハ、とダンは笑った。
「お前、頭おかしいんじゃねえの?」
ナイフが、ニコの胸に新しい傷をつける。
「無意味なことしてんじゃねえよ。考えてる? 考える必要あんのかよ」
「必要は、あるだろ」
「ねえよ。考えるだけ時間の無駄だろ。余計なことしてんな」
「お前のこと考えてそれが無駄になるわけねえだろ」
ダンの表情が揺れる。頬や唇が震えているのが分かる。だが、その手に握るナイフを下ろす気はなさそうだった。
「……どういうつもりで考えてんだよ。考えて何か変わるのかよ。変わんねえだろ」
「考えてみなきゃわかんねえじゃん……」
ダンがじっとニコの顔を見つめてくる。
「それって何だよ。同情かなんか?」
「……え?」
「じゃなきゃ興味本位とか? ソッチ側どうなってんだろうなぁって、見学するみたいな気分で覗きに来てんのかよ」
「…………」
「見たいとこだけ見て、表面的な参考程度の体験レッスンもすんのかもな。で、これ以上は無理ってなったら、もういいやって引き返すんだろ?」
「…………」
「ふざけんなよ、どストレートの分際で」
境界線が敷かれている。ダンの言葉ではっきりそれが見えた。ダンはソッチ側にいる。そして自分は、コッチ側だ。
「俺はお前の行動原理が解んねえよ。避けられて嫌われてると思ったらそのままどっか行けよ。俺の気持ちが解ったつもりになったんなら……会いに来るんじゃねえよ」
「ダン……」
「何にも解ってねえくせに……」
ナイフを握る手さえも震えている、ような気がした。こっちへ来るな、と頑なにニコを退け、一歩でも踏み込むことを許すまいと、ダンは威嚇している。怖がっているように見えた。それは、単にニコへの恋情が漏れることへの恐怖だけではない。核はその奥だ。ダンは、自分の性愛傾向を隠そうとしていた。同性愛者だということを。
ニコはダンを見つめる。まだナイフを構えたままのダンに言う。
「わかった」
「だから……」
「それ込みでわかったっつってんだよ。だから、ちゃんと、それ込みで、考えるから」
ダンが立ち上がる。その肩が上下している。つかつかとニコの傍まで歩み寄り、手首を掴まれた。力づくで追い返そうとでもいうのだろうか。抵抗するべきか迷う。引き寄せられるまま、一歩を踏み出す。ダンとの距離が迫る。間近にニコを見上げるその顔は。
「……考えて、解るわけねえだろ」
「…………」
「そんなに解りたいって言うなら……全部見て、汚ねぇ裏側も全部体験しろよ。そしたらどんだけ自分が軽薄だったかわかるから」
「…………」
「それで死ぬほど後悔すりゃいいんだよ」
ダンの瞳から目が離せなくなった。恐怖とは違う色を帯び始めるその瞳は、まだ見ぬダンの深淵を映すかのように、深く、強い。掴まれている手首に痛みを覚える。ダンに部屋の半ばまで引き出されたかと思うと、手が外れ、不意に胸を押された。無防備なまま、力の加わった方に後ずさるが、ベッドに脚がぶつかる。さらに間を狭めてくるダンに抗えず、ニコはベッドに腰を落とした。ダンは、ニコの目の前から退かなかった。
「……どこまで考えた?」
低い声でダンが問う。
「想像できたのかよ」
「……かもな」
「手ぐらい繋げそうだと思った?」
ニコは肯く。
「あとは?」
ニコは手を持ち上げ、ダンの腕を掴む。脚を開き、その間にダンの体を招き入れると、腰に腕を回してみる。腹の辺りに頬を押し付ける。女性とは違う、ダンの細い体と硬い骨の感触があった。抱擁は、できる。そのことを今、ニコは確かめていた。見えない頭上から、深い吐息が降り落ちてくるのが分かる。鼓動も聞こえる。ダンの胸が上下するのも。
「……それから?」
ニコは唇を噛んだ。その次も、考えていた。
ダンが何を試し、確かめているのか、それをニコは躊躇なく理解することができた。ダンとどうなれるのか。ダンと恋愛ができるのか。それを自分なりに丁寧に考えた時、これまでの自分たちとどう違うのかという点に行き当たった。友達とはしないこと。恋人とならすること。つまり、それは身体的な接触に他ならない。だから、今、ダンがニコに訊いていることは、ニコが考えていることとまったく通じている。
ダンを腕に抱いたまま、ニコは言った。
「お前が言う通り、この後は、考えてても解んねえから」
「…………」
「ダンが軽薄とか後悔とか言うの、よくわかんねえけどさ」
「…………」
「でも……やってみていい?」
ダンの体をそっと離す。そして、その首に手を伸ばした。
が、ダンは、ニコの手を押さえた。
「お前がやるなよ」
「え」
「俺がする」
ダンが身を屈める。頬が、掌に包まれる。震える吐息と、唇。幾度も繰り返される瞬き。
「ニコ……」
微かな声が聞こえて、それから、目の前が翳った。
目を閉じたのは無意識だった。
押し当てられた唇は最初硬くて、そこから徐々に、開かれていった。ニコの唇を食むそれは優しい。大切なものの輪郭を唇で撫でるかのように、丁寧で、温かかった。そして、ニコは確かめる。これは、できることだ。意外と。体験、とダンは言った。しかし、この口づけは、体験などという事務的なものには感じられなかった。悪戯や好奇心で試しにやっているものとも次元が違う。同性としたいとは思わない。が、ダンの心の内側がそこに表れているそれを、厭う気持ちにはならなかった。ニコが少し唇を開いて返すと、ダンはさらに深くまで口づけてきた。
何かが自分の中に流れ込んでいるのか。それとも、自分の中から何かを吸い出されているのか。閉じた瞼の裏側の世界がぐらりと歪むような気分になりながら、ニコはダンの腰に手を回し、引き寄せていた。ダンの体重がニコの体を押す。ニコはダンの身を支えながらゆっくりとそれに応じて、ベッドに背を沈めていく。ダンはニコの体を跨ぎ、一度か二度、息継ぎのために僅かに唇を離しただけで、長い時間、口づけをやめなかった。
ようやくそれが終わった時、ニコはその次のことを考え始めていた。
ダンはニコの上から退かないまま、間近に見つめてくる。瞳は相変わらず深い。男っぽい顔つきをしている。口を開くまで、少し間があった。ニコも黙ってダンを見つめ返していた。
「……次は?」
「……あぁ」
「考えた?」
「一応」
「考えたのかよ」
ダンは苦笑交じりにそう言い、
「やめねえよ」
ニコは小さく頷いて見せる。
すると、ダンはやや眉を下げて、
「……どうしても無理なら俺のこと殴って帰れよ」
「……殴んねえよ」
「…………」
「帰んねえし」
しかし、ダンの手が服の裾から滑り込み、肌着代わりのTシャツをボトムスから引き抜かれると、ニコの肩は硬直した。肋骨の辺りの素肌に、ダンの指が触れる。心拍が速くなるのが自分でも分かった。ダンの顔を見たい気持ちと、目を逸らしたい気持ちが同時に湧く。ダンの手はニコの胸の方まで進んで、指や手の腹で大きく、時に繊細にその場所を這っていた。これは、できるのか。ニコは自問する。嫌なのだろうか。嫌悪感、とは少し違う。緊張している。なぜ。怖いのか。そうかもしれない。
漏れる吐息の音に、ニコは少し目を上げる。かつて見た『すげえイイ顔』に似たダンの表情がそこにあった。切なそうでもある。そこに優しさのようなものもある。だが、もっと深いものが滲んでいる。それをどういう感情だと言い表すのはやはり難しいが、
『ニコ』
そう呼ばれているような気がして、ニコはダンへと手を伸ばした。頬に触れる。視線が重なるのを確かめて、ニコはその首をそっと引き寄せた。抗われるかとも思ったが、ダンはそうしなかった。再び、唇が合わさる。ニコは思う。やはり、ただの体験行為ではない。ダンの口づけには思いが込められている。口づけだけではない。今、ニコの首や頬やこめかみを撫でているその手にも、ニコの上に乗っているその体にも、触れている場所すべてにダンの幾層にもなった思いが込められていると感じた。解ったのは、ダンの気持ちの深さだ。胸が熱くなる。
唇を離したダンが息だけの声で言う。
「……ごめん……」
何がと問う間はなかった。ニコの体を下りて脇へ身を移すと同時に、ダンの手が股に触れた。腰が強張った。止めようと思えば止められる。止めたい気持ちもある。その気持ちの種類はひとつではなかった。そこを確認するようなダンの手に、ニコは口を開きかけた。が、言葉を漏らしたのはダンの方が先だった。
「……クソ……なんで……」
クソってなんだよ。いっそそう言って茶化してやりたいほど羞恥心は募っていたけれど、ニコは何も言えなくなった。ダンが泣き出しそうな顔をしているせいだ。だから、腹を括るしかなかった。
ダンがボトムスの前を開くのも、下着の上から硬くなっている性器を握るのも、それを外に出して唇を触れるのも、ニコは黙って受け入れていた。ダンは少し性急で、衝動的に見えた。が、それは突如そういう欲に支配されたものではなく、きっと、ずっとこうしたかったのだと、ニコは感じた。自分は何も知らなかった。ダンが思いと欲とを抱えながら自分を見ていたことに、何も気付いていなかった。今、ダンは願いを叶えている。ダンの切望に比べたら、自分の羞恥心や怖さなど大した問題ではないとさえ思った。
だが、射精感が高まったその時、ニコはおとなしくしていられなくなった。ダンの腕を引く。その下腹部に触れ、同じように着衣を広げて、そこに片手を差し込んだ。ダンの吐息が切なく震える。ニコ、とまた自分を呼ぶ声。
もうひとつ、解った。ダンと触れ合うことは、できる。
だから、『体験』が済んだ後で、ベッドから動かなくなってしまったダンを残して帰る時、ニコは言った。
「また、来るから」
続く
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