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⑪体験レッスン第2回

「あれからバスケの方はどうだよ」  いつもの作業着姿で、いつものように外で1台のバイクをいじりながら、アユミさんが言った。  12月半ば。北風の冷たさが頬にしみる日だった。ニコはカーキ色のブルゾンのポケットに手を突っ込み、答える。 「デカい試合は全部終わったんで、今は個人的な課題に取り組んでるって感じすかね」 「ふうん。ノゾミはそんなデカくて、スピード出して動けんのか?」 「そりゃ、ちゃんと動ける筋肉つけてますから。それに、デカいバイクと同じで安定感もありますよ」 「そりゃすげえな」  ははは、とアユミさんは楽しそうに笑った。  今日は店は開いているが、ダンは休みの日だった。店に到着して、店の前にいたアユミさんに声を掛け、こうして雑談を交わすうち、ニコはハタと気付いた。おそるおそる口を開く。 「今日、ダ……えっと、メグミ。います?」 「え」  アユミさんは手を止めてニコを見上げた。 「今はいねえよ」 「あー……」 「もう戻ると思うけど。なんだよ、約束してねえの?」 「忘れたンす。連絡するの」  前回会ってから今日まで、ニコは日に何度もダンのことを考えていた。考えながら、ダンに何を話そうかを少しずつ整理していった。その気持ちが概ね固まってきた時、会おう、と決めた。事前に知らせてもらっていた、ダンの今月の休みの日を確認し、じゃあこの日と予定を立て、今日ここを訪れた。が、自分の気持ちに集中し過ぎたせいか、肝心のダン本人への予告を忘れたのだ。 「てっきり、戻る時間に合わせて来たのかと思ったよ」 「メグミ、どこ行ってんですか」 「飯。近くの喫茶店」 「家で食わないんだ」 「仕事の日はウチで食ってるけど、休みの日は外に行くんだよな、アイツ。駅の反対側の方にさ、古い喫茶店があって。そこがメグミのお気に入り。そのうち連れてってもらえよ」 「へえ……」  ダンのお気に入りの店。初めて聞いた。でも、ダンが気に入っているということは、休みの日は毎回そこに行っているのだろう。注文するメニューもいつも同じ可能性が高い。ダンは、そういう人だった。 「お。噂をすれば」  アユミさんが通りの方へ目をやる。ニコもつられてそちらを見た。ダンが帰ってきた。  ダンは、バイク屋の前にいる自分たちを見つけて、足を止めた。おう、とニコは声をかけて、ダンの方へ近づいていった。 「ごめん、連絡すんの忘れた」 「…………うん」 「なんか用事あんの?」 「……いや、別に……」  顔を上げないダンを促し、ニコはアユミさんの方へと引き返す。アユミさんが、おかえり、とダンに言う。それから、ニコの方を向き、 「そういや、お前たち港湾地区まで行ったんだって? ノゾミが車で来たとき」 「あぁ、はい」 「ノゾミ、工場夜景観たいんだってな」 「そう、写真見たら、すげえアガったんで。実物観たいンすよね」  チラ、とダンを見る。アユミさんがこの話題を出したということは、ダンがあの日のことを喋ったのだろう。自分のいないところで情報共有がされたことに、少し嬉しくなる。アユミさんは続けた。 「最近、工場夜景クルーズだっけ、あれ人気らしいな。船でさ、両岸の工場とか観ながら進んでくんだってよ」 「へえ、観光っぽい」 「でも、車があんならそれでもいいよな。自力で行きゃ時間制限もないし、観たいやつじっくり観られるし」 「確かに」 「メグミもあれ、割と好きだろ」  え、とダンが視線を上げる。ああ、と首を捻り、 「……近未来SF感ありそうだから。それはまあ、興味あるけど……」 「日常にはない雰囲気だろうからなぁ」  雰囲気か、とニコは自分が見た工場夜景の写真を思い出す。近未来SFと言われれば、そうだなと思う。夜空の下で無数の灯りが秩序正しく並んで光り、煙突の先から立ち上る白い煙。雰囲気か、ともう一度思う。どちらかと言えば、自分は建築美のようなものを見ていた。非常階段の幾何学的なラインや、縦横無尽に伸びる配管のルート、まるでデザインされたかのような鉄骨の配置などを面白く眺めていた。同じものを見ても、ダンとは興味の向く先が異なるらしい。 「別に工場は逃げねえからさ。メグミがバイク買ったら、ノゾミを乗せてってやってもいいんじゃねえの」 「……え」  ニコはダンを見た。何となく嫌そうな反応に聞こえたからだ。が、そこで思い出したことがあって、ダンに言う。 「前に見せてもらったバイクさ、タンデムシート、他のバイクより小さい気がしたんだけど」 「え。……ああ、まあ」  それを言おうと思って、あの時ダンの肩に触れた。そして、その手を振り払われたのだ。 「……あれは、デザイン的にそうなってんの。レーサー仕様のスタイルを街でも乗れる感じに仕上げてるって言うか。だから、速く走れるスタイルを維持してて、見た目がスッキリしてんだよ」 「ふうん。そのスタイルのせいでタンデムシートが狭くなってんのかよ」 「そう」  工具を動かしながら、アユミさんがちょっと笑った。 「ノゾミが乗るなら、ちょっと窮屈かもな」 「けど、乗ってみたくはある」 「…………」  ダンが複雑そうな顔をする。人を乗せるために買うわけじゃない。そう思っているのかもしれない。  よし、とアユミさんは立ち上がり、工具を作業着のポケットに突っ込むと、バイクのハンドルを握った。 「まあ、車でもバイクでも、好きなとこ行きゃいいよ。知らないとこ行きゃ、それだけで非日常だろ」  ニコは肯いて見せる。 「ずっと外いると寒いだろ。部屋ン中入んな」  そう言って、アユミさんはバイクを押して店に戻っていった。  ダンとふたりだけになる。  ニコはもう一度ダンの顔を見た。 「……なんでそんなこの世の終わりみたいな顔してんの」 「…………」  全然わからない、とはもう言えない。ニコは一度鼻を啜り、 「今度また車で来るから」 「…………」 「どっか行こうぜ」  ダンの視線が持ち上がる。ニコを見る。黙ってはいるが、やはり嫌だとは言わないので、ニコはそれを承諾とみなした。 「今日は……部屋、いっていい?」  そこから自転車屋の裏手を目指して歩き、階段を上がり、3階のドアを開け、自分の部屋へ入るまで、ダンの足取りはずっと重たかった。ニコ自身も少し変な気分ではある。前回ここに来た時のことを思えば、そうなるのも仕方がない。  いつも通り、ベッドの端に腰掛けるダンを見、ニコはその隣に座ることにする。 「さっきのバイクのスタイルの話、ちょっと納得したわ」 「…………」  ダンが横目にニコを見る。 「レース用バイクがベースになってるってことだろ。レースで後ろに人乗っけないもんな」 「……うん」 「あのデザインが良かったんだろうなって思って」  雰囲気が好きなのだろう。工場夜景の話をした後のためか、ニコはそう感じることができた。前に、どこが気に入ってるのかと尋ねた時、ダンが答え方に迷っていたことも思い出された。雰囲気という抽象的なものを言葉にするのが難しかったのかもしれない。 「見た時も思ったけど、あのバイク、ダンが乗ってそうなんだよな、既に」 「……そう?」 「うん。イメージ湧くから」 「……そっか」  ドライブの日のようなダンの柔らかな表情はひとつもない。再会したばかりの時の、構えた緊張感とも少し違う。いずれにしても、気楽な雑談が叶わないのなら、本題に入るほかないとニコは腹を括った。 「あのさ」  そう言った瞬間、ダンの顔から表情が消えた。 「高校ン時、お前がしたかったのって、気持ちをなかったことにすること?」 「…………」 「それで、合ってる?」  ダンの唇が動く。微かな息と、瞬き。 「……だって……」 「うん」 「……無理だから……」 「なにが」  その横顔が歪む。 「……なにがじゃねえよ。この前解っただろ」 「無理だとは……」 「男同士なんだよ」 「まあ。それは、そう」 「普通じゃないだろ」 「少数派、とかそういう意味? それもまあ、そうだろうけど」  ダンがこちらを見た。 「お前は多数派の人間じゃん。俺とは違うんだから……理解なんか初めから無理なんだよ」 「そう言われるとさ……理解できたとは言えねえよ、確かに」 「……だから……」 「けど、逆に言えば、ダンだって多数派の俺のこと、理解はできないだろ?」 「…………」 「だからそこは、しょうがなくね?」  いや、だから、とダンは口籠り、顔を伏せた。瞬きが増える。次に聞こえた声は、少し掠れていた。 「……多数派からしたら……気持ち悪いだろ」 「ダンが?」 「……だって……」 「思ったよりそうでもなかった、ってのが正直な感想」 「……は?」 「この前ちょっとやったんだから分かるだろ」  不快感や嫌悪感が勝っていたなら、勃起などしなかったと思う。ダンはニコのそれをちゃんと見ていたのだから、分かっているはずだ。 「……なんなの、お前」  ダンの声が震えている。 「自分が意外とボーダーレスだってことに気付いたわけ? 相手が男でも平気だって……そう思ったわけ?」 「他の男なんか知らねえよ。俺がしたのはダンだけで、ダンにどう思ったかってことしか分かるわけねえだろ」  ダンは黙った。無表情ではない、切ないだけでもない顔をして、目の前の虚空を見つめている。 「話、戻していい?」  ニコは尋ねる。答え合わせと、もうひとつ確かめたいことがあった。 「なかったことにしたいのはさ、今も?」  今は。 「まあ……そのつもりだったとしたら、俺、だいぶ邪魔したと思うけど」  頬を少し震わせて、ダンはニコの方へゆっくりと振り向いた。 「……ホントに……お前いつも最悪」 「いつもかよ」 「そうだよ。何考えてるか全然わかんねえし……想定外すぎてマジ疲れる……」 「……そこまで?」 「別に俺に気ィ遣うことないし、無理とか嫌とかふつうに言えよ。我慢されても余計つらいし、お前だって……」 「嫌なら嫌ってとっくに言ってるっつうの」  だから、ここに来た。ダンが何を守ろうとしているのか、何を守るためにナイフを構えていたのか、その正体を捕らえたからこそ、ここに来たいと思った。 「あのさ」  距離を詰める。ダンのすぐ傍に寄った。ダンはもう逃げない。逃げる必要がなくなったのだ。隠しているものがなくなったから。 「お前この前、体験しろっつったじゃん。だったら今日はその続き」 「……え」 「この前はなんかそっちから一方的にやっただろ。今日は逆にしようぜ」 「え……いや……」 「考えても解んないんだから、やるしかねえじゃん。そしたらダンも解るだろ。俺が嫌々やってんのか、そうじゃねえのかさ」 「…………」 「だから、今日は俺がする」  この前したことをもう一度なぞる。  ダンを抱擁し、密着する。やはり感触が硬い、とニコは思う。それに、ダンが緊張しているのが分かった。腕の中で身を縮めていたダンは、そのうちそろそろと手を動かして、ニコの衣服のたわみを掴んだ。ダンの髪に頬を寄せてみる。今の自分が何を思うか、ニコは改めて意識する。嫌ではない。寧ろ、緊張しながらも自分の肩に額を押し付けてくるダンに、しばらくこのままでいたい、という気持ちさえ湧いていた。ダンの手が動く。ニコの背にそっと回される。今日もまた、じんわりと流れ込んでくる思いをニコは受け取った。  それから、そっと身を離して、ダンの顔を覗き込む。その表情にも緊張が表れていた。この前のことを思えば、どうして今さら、と些か不思議になる。あんなに積極的だったくせに。いや、違うか。ニコはダンの唇を見つめた。ただ積極的だったわけではないのだろう。全部見ていけ、とダンは言っていた。ニコに何かを思い知らせるつもりで、すべてを曝け出して見せたのだ。頬に手を添えると、ダンが少し顔を上げた。そのまま口づける。  今日は目を閉じなかった。近すぎる距離でダンの面持ちは見えないが、視界に輪郭の一部が映ることで、ダンの様子を意識することができた。この前の自分と同じように為されるがままのダンは、歯列を割って深く口づけると、低く鼻腔を鳴らした。どちらからともなく、互いの体に腕が回る。この感覚がいい、とニコの心が反応した。いつの間にかダンの舌も応じている。求められているのが分かる。胸の奥がまた、熱くなる。  シーツに身を倒していきながら、唇をダンの首筋へと移した。ダンが息を呑み、その身を小さく震わせる。手順も、方法も、計画を立ててきたわけではなかった。ただ、目の前にある素肌が愛おしいように思われて、唇で撫でたくなった。ダンが自分にそうしたように、ニコもダンの上衣を捲り、肌が現れた傍から唇を押し当てる。陸上部時代から鍛えていた履歴を持つダンの体は、よく絞られていた。再開したというトレーニングのお陰もあるかもしれない。自分とは違う筋肉の付き方をしているのを、ニコはつい眺めてしまう。ニコの唇が触れるたび、きれいな腹筋が反応を返してくる。漏れる呼吸も不規則だ。徐々に上の方へ移動していき、必要な分だけ発達した胸筋に辿り着いた。なだらかなその隆起を同じように撫でて、それから、片側の突起を口に含んだ。 「待……ッ……」  制止の声に、ニコは顔を上げた。ダンの手が肩を押し返そうとする。 「……それは、いいから……」 「なんで。お前もやったろ」 「いいから……ッ」 「……、……やる」  好奇心と欲求に抗えなかった。前回で、知らなかったダンの姿を相当見せられたとは思うが、まだある。嫌がるその先に何を隠しているのか知りたかった。何も言わずに自分を避けた理由があったように、ここにも見せていない何かが必ずある。  ニコ、と呼ぶ声を聞きながら、もう一度そこを食んだ。舌をあてる。吐息交じりの声。続けると、震えが大きくなった。 「……やだ……ッ」  さすがに、身を捩って逃げたがるのを無視はしづらかった。 「なんで」 「もうやだ」 「ほんとに?」 「…………」 「ゴーカンする趣味はねえから、本気で嫌なら考えるけど」  だが、ダンはニコの腕をしっかりと握って言う。 「……引くから……絶対」  その目をニコは見つめる。 「まあ……俺もこの前恥ずかしかったから分かるけど」 「…………」 「ダンの絶対はあてになんねえからさ」  つい、ふ、と笑いをこぼす。 「つうか、俺が体験中なんだから、インストラクターが嫌だとか言うと困るんだけど」 「……だって……」 「全部見ろって言うなら、全部見せろよ」  揺れる瞳がニコを睨んだ。 「……ホントお前、最悪……」 「うるせえよ」 「……ニコ……」 「全然嫌じゃねえから」  優しくそう言って、ニコは愛撫を再開した。  何かに縋りたそうなダンの片手を握ってやる。強く握り返される感触と、自分の下でうねる肢体、堪えようとする吐息。ニコはそれらに五感を研ぎ澄ませた。胸のほんの小さな一か所を起点に、ダンの体には大きな波紋が生じて、反応となって表れる。やはり今日のダンは、前回のように曝け出す覚悟がなさそうに見えるが、今見えているダンも、これはこれでダンには違いないのだろう。ダンはずっと怖がっていた。おそらく、ニコを好きになった時から。いや、それ以前からかもしれない。自分が少数派の人間だと自覚してから、その特異性にダンは怖がり、苦しんでいたのかもしれなかった。その蓄積の上に、今のダンがいる。今、怖がり、躊躇いながら、ニコの前から何かを隠そうとする、それは、多分――。  互いの体の隙間に手を差し込んで、ダンの脚の付け根に触れた。一瞬、ダンの動きが止まった。腰を包むデニムの奥が、熱を帯びているのをニコは確かめた。ファスナーに指をかける。ダンが手で顔を隠すのが見えた。その下半身から着衣を取り去る。一度ダンの頭の方へにじりよって、目元を覆うその手に唇で触れた。潤む瞳が現れる。ニコはまた口づけを落として、そのままダンの性器に触れた。くぐもった声。ニコの肩を掴む手。シーツの上を脚が滑る音。それを包み込んだ手を動かすうちに、ダンの呼吸が上がっていくのが分かった。そして、不意にダンは唇を離し、 「もう、いい……」  そう言ってニコの手を止めようとする。やっぱりこいつも往生際が悪い。 「だから。この前ダンもしただろ」  反論は返ってこなかった。黙って首を横に振り、その目がニコに何かを訴えている。ニコは言った。 「じゃあ……お前もやって」 「……え」 「一緒に」  ニコは自ら腰のベルトを解いた。  こうしてよかった、とその後ニコは思った。ダンに半分能動を許したことによって、ニコはこの日欲していたものを手に入れることができた。ダンが自分に触れるたび、その場所から思いの熱が伝わってくる。ニコに触れられているだけの時よりも、ダンが明らかに開いていくのが顕著に分かった。漏れる吐息が深くなり、体の強張りもほどけていく。ダンのその様子を見つめながら、ああ、とニコは実感する。これがもう一度、見たかった。  互いに触れ合う、という体験は、この前よりも濃密な体感をニコに与えた。ふたりの間を何かが巡っているような感覚があった。吐息が混ざり、触れ合い、一緒に温度が上がっていく。ダンの手が自分たちのものを一緒に握るのを見た時、背筋に震えが走った。 「……ニコ……」  切ないその声は、胸の最深部まで甘く響いた。堪らずにまた口づける。  事後、ニコの体と心に残ったのは、満たされた、という思いだった。 続く

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