14 / 14
⑭入会手続き
「ダン」
ダンの部屋に入るなり、ニコは身を翻した。部屋のドアを閉めてこちらを向くダンの手首を掴む。驚いたようなその顔を見つめて、ニコは言った。
「俺……ホントごめん」
去年のダンの誕生日。謝りに来たことを思い出した。わけは解っていなかった。ただ、ダンに何か悪いことをしたのだろうと思って、せめて謝罪だけはしなくてはという思いで、ここに来た。
そして、今年のダンの誕生日である今日も、ニコは謝っている。去年と違うのは、謝る理由が明確だということだ。
しかし、ダンの表情が蒼白になるのを見て、
「あぁ……ごめん……そうじゃなくて……」
誤解があるならそれを解きたいと思って来ているのに、新たな誤解を生んでいる場合ではない。ダンが今、ニコの謝罪を「やっぱり無理だったごめん」という意味で受け取りかけたのを察して、ニコはそれをきっぱりと否定する。
「そうじゃなくて」
「…………」
手首を掴む手に力が籠ってしまう。手を離す気になれなかった。もし、今ダンに触れるなと手を振り払われても、ニコは諦めずに何度でも捕まえると思う。
ダンの手を引き寄せて、部屋の中へ進む。促し、並んでベッドに腰を下ろす。もちろん、手は離さないまま。
「悪いことしてた、かも」
「……なにが」
「……不安だった?」
「……え」
「俺……いい加減に見えるようなこと、してた?」
ダンの目が揺れる。いや、と呟いて俯いてしまう。頻りに瞬きをする様子は何度も見てきたから、今、ダンが動揺しているのが分かる。何を思っているのか。ニコの胸がぎゅっと苦しくなる。
「お前さ……言ったじゃん。男同士で、普通じゃなくて、気持ち悪いだろって。でも、それって、同意を求めてたわけじゃなくて、俺がそう思ったら嫌だってことだろ」
「……だって……」
「だよな。それ、ちょっと……気持ちは分かった気がする」
少し顔を持ち上げて、ダンはニコの顔へ視線をくれた。
「俺、お前の思いは分かったって言ったのに……分かっただけで、なんか……満足した気になってたって言うか」
自分で言葉にすると情けなくなる。嘘ではないから尚更。ダンから自分に流れ込んでくる気持ちの深さに心を動かされ、欲しいと望み、満たされていた。
「けど、それじゃ……全然ちゃんとしてねえだろ」
「…………」
「コイツ割といい加減なんだって、お前が思ったかもって思って……」
ダンの手を握る。
「お前にそう思われてたら、すげえ嫌なんだよ」
手の中で、ダンの指が小さく動いた。
12月25日。クリスマスの夜だった。街はどこも煌びやかなイルミネーションに彩られ、この家の最寄り駅も例外ではなかった。既に閉店した後の自転車屋も。バイク屋も。けれど、クリスマスなどどうでもいい。
「もう、体験とか要らねえから」
19歳になったダンの横顔を、ニコは見つめる。
「高校で最初に会った時からずっと特別なんだよ。……や、会う前から、かもな」
「……え」
「入学式で名前呼ばれんの聞いた時からだから」
「…………」
「俺が『タニコシ ノゾミ』って呼ばれて、んで、後ろのやつが『ダンノ メグミ』。そんなことあんのかよって思った」
自分がノゾミで、次のやつがメグミ。これはやはり、同族意識だ。
「仲良くなってからはホントにずっと特別だった」
「…………」
「話し方も、雰囲気も、なんか全部……好きで」
高校1年生の時のダンの姿が思い浮かぶ。いつも話していた。一緒に歩いた。笑い合うことも沢山あった。
「いつからか分かんないけど、ずっと大事だと思ってたよ」
「…………」
「で、ずっと変わんなかった」
往生際が悪いから。
「変わんなかったから、避けられて辛かったし、けど、それでも変わんなくて。だから……卒業前にさ、お前が全部終わりにしようとしてても、それも分かんないくらい、……ホント、分かってなくて……」
ダンが手を握り返してくる。
波打つ心を落ち着かせなければならなかった。答えは出してきた。だが、自分がこんなに感情的になることは想定していなかった。一度、息を吐く。
「……また、会えて、お前がどう思ってたか知ってからも、全然変わんなかったんだよ。逆に……お前のことが分かってくたびに、もっと大事になったかもしれなくて……」
「…………」
「いつだって会いたいんだよ。ダンに」
「…………」
「一緒にいたいって思う」
次に息を吐いたのは、ダンの方だった。前を向いて、どこかを見つめて、それから深く息を吸い込んだ。その口許が動く。微笑んでいるようにも見える。瞬きはまだ多かった。
「……ニコ」
「ん」
「普通じゃ、ないんだよ」
ニコは頷いた。
ニコを見ないまま、ダンは言った。
「お前……それ、家族に言える?」
「…………」
「周りの友達に言える?」
ダンの小さく静かな声がニコの耳に響く。
「知らない他人も、どう思うか、分かる?」
「……でも」
「ニコはせっかく普通の生き方ができるのに、こっちを選ぶ必要、ある?」
その声が微かに震え始めている。それでもダンは、やめなかった。
「普通に女の子とつき合えるし、普通に結婚もできる。そういう普通の幸せを犠牲にしてまで、選ばなくていいんだよ」
「…………」
「他人に普通に祝福される方が、いいだろ?」
「なあ」
握っている手を強く引き寄せていた。
ダンが背を向けようとしている気がした。今にもこの手を離してどこかに行ってしまいそうな気がした。
「お前じゃなきゃ嫌なんだよ」
震える自分の声に驚くのと同時に、涙がこぼれた。
少しだけこちらを向いたダンのこめかみに咄嗟に顔を寄せる。ぐ、と息を呑み込んで耐える。
「……なんで、俺が無理してる前提なんだよ……別に、なにも諦めてねえよ」
「……ニコ、でも……」
「一緒にいたいって言ってんだから……もう独りでどっか行こうとすんなよ」
逸らされる視線も、遠ざかる背中も、もう見たくない。もう一度ダンを失う、そう思うだけで胸が張り裂けそうだ。
「……でも、もしかしたら……」
ダンのか細い声が言う。
「……やっぱり女の方がいいって、思うかもしれないじゃん」
「分かんねえよ、そんなの」
ダンの手を固く握る。
「そんな先のこと考えても全然分かんねえよ。誰とつき合ってたってそんなの同じだろ。いつまで続くとか、ずっと好きかどうかとか、誰にも……分かんねえんだからさ……」
「…………」
「でも今はお前が一緒にいないと嫌なんだよ、俺は」
涙がもうひと粒こぼれ落ちる。
触れ合っているダンの呼吸の音が聞こえる。小さく肩が上下している。ニコの握っているその手が動いて、ゆっくり、握り返してくるのがわかった。微かな吐息がまたひとつ。
「……ニコ……」
自分を呼ぶ声に、頬をすり寄せて応えた。
「……ずっと、もう終わりって、何度も思ったのに」
「…………」
「……お前が、全然終わらせてくれないから……」
募る思いは罪悪感に似ていた。ニコは目を閉じる。
「……ごめん」
「…………」
「……ずっと、分かんなくて、ごめん」
苦しい。でも、自分がダンを苦しめた。その苦しみのせいで自分が酷いやつだと思われて、本当に嫌われてしまう可能性だってあった。そう思うと苦しい。
「……謝んなくていいよ」
「…………」
「俺が、言わなかったんだから」
だけど、とニコは言いかける。
「ニコ」
「…………」
「……思ってない」
「……え」
「いい加減だなんて、思ってない」
「…………」
「……夢見てるみたい……今」
もう抑えることはできなかった。涙があふれる。ダンに顔を押し付けたまま、ニコは静かに泣いた。
「……ニコ?」
戸惑うその声さえ愛おしかった。笑みが浮かぶ。ダンの頬に唇を押し当てて、ここにいることを確かめる。
すると、ダンは静かに身じろいでニコの方に体の向きを変えた。濡れた頬を指先で撫でられ、それから、そっと唇にキスをくれた。通い合う。この瞬間にも、ニコはそう思った。
しばらく、ふたりは黙っていた。
部屋の中には静寂だけがある。ダンの部屋のこの空気を、ニコは知っていた。何も言わずに、自分たちは部屋のあちらとこちらにいて、特別なことは何もしないで過ごしていたあの時間。たまに聞こえるのは微かな衣擦れの音や、雑誌をめくる紙の音。それから、表を通り過ぎていく車の音。あの頃と同じものと、違うものが同時に存在しているのを、ニコは感じ取っていた。
それから、さっきダンが言ったことをもう一度頭の中で思い返した。また並んでベッドに腰掛けて、ニコは口を開いた。
「……家族に言いづらいってのは、まあ、何となく想像できるわ」
「……うん」
「でもまぁ、言わなくてもいいしな」
「結婚しないのかって言われる時が来るかも」
「今時オヒトリサマでも珍しくねえんだろ?」
呆れたようにダンが笑う。
笑ってくれる。それだけのことが、嬉しかった。
それに、ダンが遠い将来のことを想像していることも。
ダンがこちらを見上げる。
「でも……」
「まだなんかあんのかよ」
「…………」
「なに」
ダンはしっかりとニコを見つめていた。
「もう、体験要らないって言ったけどさ……全部は、見てないだろ」
「全部?」
「……まだ、してないよ。全部」
「……あぁ」
全然考えていないわけでもなかった。ダンの言う『普通』の恋愛を参考に考えてみれば、自分たちはまだ、道半ばなのだろう。素肌に触れ、快楽を共有し合った。でも、まだ続きがある。
「そこも……俺にとっては不安材料なんだけど」
「なんで」
不安だ、とダンが素直に口にするのが嬉しい。
「それ見て……やっぱ無理ってなる可能性も絶対あるから」
試しに少し想像する。だが、これも未知なことに変わりはない。
「やってみねえと何とも」
「……できそうに思うの」
「できんじゃねえの。分かんないけど。とりあえず、勃つんだし」
「俺が挿れたいって言ったら?」
「…………」
「嘘。ごめん。違う」
ダンはニコの腕に額を寄せて、顔を隠した。ニコは慌てて言う。
「や、無理とかじゃなくて、マジで分かんねえし……」
だが、それも『できんじゃねえの』とは即座に思えなかった。未知の扉の奥の、さらに未知な領域な気がして、尻込みする。正直に言うべきか、と言葉を選びかけるニコに、ダンは言った。
「逆でいいから」
「……え」
「挿れるの、そっちでいいから」
「けど、お前……」
「その方がいいんだよ、俺は」
覚悟のほどを試されたのだろうか。未知の手前の方まで引き戻されて、じゃあ、『できんじゃねえの』と思い直す。
「とりあえず、手解きはダンがしろよ」
「え……、あぁ、うん」
「だから、体験レッスンは終わり」
「正式に入会するってこと?」
「はんこいる?」
ダンと一緒に笑った。ニコは言う。
「なんか新鮮」
「なにが」
「何となく」
顔を上げて、ダンは言った。
「でも、ホントに引くかもしれ……」
「かもしれないはもういいから。やってみたら分かんだろ」
「でも……」
「挿れるとイイの?」
「お前言い方」
「ダンがイイなら、俺もイイんじゃね?」
「言い方」
新鮮だ。悪くない。
気持ちのまま、ダンの唇に軽くキスをする。
「あ、そうそう」
ニコは愛用のボディバッグの肩ひもを回し、背から前へと収納部分を移動させる。ファスナーを開いて、中に手を差し込んだ。小さな包みを取り出す。黒いラッピング袋に、金のリボン。
「誕生日おめでと」
いつもの店で買った、シルバーアクセサリー。
ダンはそれを丁寧に受け取って、ニコを見る。
「……ありがと」
ニコは微笑む。去年は礼を聞けなかった。受け取る手さえも伸びてこなかった。それが、今年は違う。
ダンの表情は慎ましかった。喜んでくれているとは思うが、破顔するほどではない。受け取っていいのか、受け止めていいのかを、まだ迷っているようでもあった。ただその手に、プレゼントの包みを大事にそうに乗せて。
続く
ともだちにシェアしよう!

