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⑮団野家

『駅着いた』  短い連絡を入れてから、歩くこと約10分。  見慣れた自転車屋の看板の前までたどり着くと、ニコは手にしていたスマホを見た。到着を知らせようとメッセージ画面を開いたところで、声がする。 「ニコ」  顔を上げる。建物の奥から、ダンが出てきていた。頬を緩め、おう、と返事をした。 「あけましておめでと」 「うん。おめでと」  三が日が明けたところだった。それでもまだ街には正月の名残がある。駅前の商店街も、まだ正月休みの店が多くあったし、人出も心なしか少ない気がする。団野家の自転車屋とバイク屋も同様で、どちらのシャッターにも正月飾りと、新年の挨拶と休み明けの日にちを記した紙が貼られていた。 「元気?」  そう尋ねたニコに、ダンは笑った。 「なにそれ。お前にそんなの聞かれたことないんだけど」 「俺も聞いたことねえわ」 「元気だよ」 「俺も元気」  久し振りに顔を見る気がする。ダンの誕生日に会って以来だから、実際には10日が経っただけなのだが、随分長いこと会っていないような気がした。会わない間にもメッセージのやり取りはしていたし、暮れに一度だけ電話もした。会いたい気持ちはいつもと変わらない。それなのに、いざ会うと少し変な気分だった。どこかそわそわと落ち着かない。 「相変わらずノープランで来たんだけど」 「いいよ。別に」 「後で、どっか飯食い行く?」 「いいよ」  それからニコは自転車屋の上を指し、 「アユミさん、いる?」 「え。いるけど」 「挨拶していい?」 「なんで」 「正月だし」 「別にいいだろ、そんなの」 「挨拶だけ」  ダンは一度首を傾げて、建物奥の階段へとニコを促した。  ダンの部屋は3階だが、家族の団欒スペースと両親の部屋は2階にある。前によくここに来ていた頃、たまにお邪魔することがあった。アユミさんがニコにも食事を出してくれる時がその殆どで、ニコはそれを喜んで食べていた。食事が1食増えたところで問題はなく、自宅に帰ってからも母の作ったごはんを何食わぬ顔で腹に収めた。  そんな頃を思い出しながら、二階のドアを開くダンの後に続く。団野家のにおいがした。 「おう、ノゾミ」  部屋着のアユミさんが奥から顔を覗かせた。リビングからテレビの音が小さく聞こえてくる。アユミさんは玄関までやって来て、 「あけましておめでと。今年もよろしくな」 「はい。よろしくお願いします」 「上がってくだろ? 餅が余っててさ」 「マジで」  ダウンジャケットの裾がグンと引かれた。隣のダンがこちらを見ている。 「餅1個だけ」 「…………」 「だめ?」 「…………」  ニコの尻を引っぱたいて、ダンは靴を脱いで玄関に上がっていった。ニコもいそいそとスニーカーを脱いで後に続く。  久々のリビングは、前と少し違う気がする。でも、物の配置が何となく変わっているだけで、雰囲気はニコが知っているそれと同じだった。きれい過ぎず、乱雑過ぎず、ここで家族が過ごしている気配がある。座んな、と示された椅子に、ニコは素直に腰掛けた。  しかし、久しぶりという気分だけではなかった。10日前と、それ以前とでは、こうして2階の部屋に上がり、アユミさんと会う気分が少しだけ違うような気がした。アユミさんはいつも通りのアユミさんだけれど、自分とダンは、見えないところが変わった。 「流石にまだ冬休みだろ」 「今日はまだ」 「どっか遊びに行ったり、予定あったりしねえの」 「え。……だから、ここ来たンすけど」  ハハハ、とアユミさんは笑いながら、すぐ傍のキッチンへと入っていった。ドアはなく、リビングと自然にコミュニケーションが取れる。コンロのガスを点ける音がした。 「じゃあ、せっかくだからビールでも飲むか」 「いやぁ、それはちょっと」 「舐めるぐらいも飲まねえの?」 「そうすね」  酒に興味がないわけでもないのだが、未成年のうちは好奇心で手を出すのはやめておこうとニコは決めている。うっかり酔っぱらって、それを誰にも見つからないという保証はない。それがバスケに影響する可能性を考えると、迂闊なことはしたくない、と思う。 「メグミは俺の晩酌にたまに付き合うぜ」 「え、ウソ」  ニコは隣に座っているダンを見た。 「お前、飲んでんの?」 「少しだよ」 「聞いてねえんだけど」 「言ってないから」  迂闊なことはしたくないのに、気が迷い始める。そんなニコを見透かしたかのように、すかさずダンは言った。 「親父の言うことなんか流しときゃいいんだよ。餅食いに来たんだろ」 「うん……そう」  ダンが。アユミさんと晩酌。  何が、と説明はできないが、良い響きだとニコは思った。この親子が一緒にいる姿は、今まさにこうして目にしているわけだが、例えば夜、仕事を終えた後のふたりがこのリビングに帰ってきて、アユミさんが冷蔵庫から缶ビールを2つ出して、テーブルに置く。今日一日の仕事の話をしながら、一緒にビールを飲む。そういう光景は当然ながら見たことがない。自分の知らないダンが、この家の中に存在する。当たり前のことなのに、不思議な感覚だった。まだ未成年のくせに、などと言うつもりは毛頭ない。そんなことはどうでもよくて、ダンが父親と酒を飲むという行為が、自分よりも大人びているものに思えて、少しだけ悔しいのだ。 「おい、メグミも食うだろ」  キッチンから声が飛んでくる。 「……1個でいい」 「もっと食えよ。早く食わねえとカビるだろ」 「親戚に言っとけよ、こんなにいらねえって」 「もらう方がアレコレ要求できねえんだよ」  焼いた餅を並べた皿が運ばれてきて、割りばしと取り皿が置かれた。それから、長方形にカットされた海苔も。 「とりあえず、磯辺な」 「超うまそう」 「メグミ、そこの醤油取って」  テーブルの端にあるカゴから、ダンは醤油を取ってニコの前に置いた。  アユミさんはキッチンに戻りながら、 「次は煮るからさ、きなこ餅も食うだろ」 「マジすか。俺、きなこ超好き」  喜んだ途端、ダンに脚を蹴飛ばされた。 「お前1個って言っただろ」 「えー。だってせっかく用意してくれてんだからさ」 「もういいって断ればいいじゃん」 「もらう方がアレコレ要求できねえって、今さっきアユミさん言ったぜ?」 「…………」  本気で長居しようと思っているわけではない。正月明け、まだ冬休み中である今日、団野家に新年の挨拶に来たのは嘘ではないが、目的はダンに会うことだ。その時間を蔑ろにするつもりなど、あるわけがない。ただ、餅が好きなだけで。自宅でもそれなりの量を正月の間に消費したが、今のところ、まだ飽きていない。  取り皿に醤油を注ぎ、焼いた餅をつけ、海苔で巻く。 「そういやさ、ダンの母ちゃんって、もう仕事行ってんの」 「え。ああ……今日から仕事」 「全然会えないんだよな。高校ン時からずっと」 「別に会おうとしなくていいだろ」 「けど会ってみたいじゃん。ダンって母ちゃん似?」 「……らしいけど」  ダンの母は外で仕事をしている人だ、と聞いていた。仕事が生き甲斐の人で、しっかり働き、しっかり稼いでいるのだとダンは言っていた。だからこそ、父親の道楽のような仕事が許されているのだ、とも。 「ダンに似てんなら、美人だな」 「知らねえよ」  磯辺焼は美味かった。親戚、と言っていたから、どこか米どころから送られてきた餅なのかもしれない。ニコの家が正月に用意するのはスーパーで買った徳用の餅だが、これは明らかにモノが違う。隣で同じように磯辺焼を食べるダンに、美味いな、と言うと、よかったな、と素っ気ない返事があった。皿には焼いた餅が4個乗っていたから、まだ2個残っている。アユミさんも食べるのなら、3個か6個になるはずだとニコは思い、 「もう1個食っていい?」  そう尋ねると、ダンは呆れた顔をしながらも、 「どうせきなこ餅待ってんだろ。それ食って待ってりゃいいじゃん」 「いただきます」  ダンは一度椅子を下りて、テーブルの反対側にあるポットからお茶を注ぎ、ニコに出してくれた。  アユミさんがきなこ餅を皿に盛って戻ってくる。ニコとダンの前にそれぞれ皿を置いた。ニコは早速箸を手に取る。 「ノゾミがここで飯食ってんの見るの、久しぶりだな」 「ですね。ただいまって感じ」 「夕飯も食ってくか?」 「え、マジで……」 「後で飯食いに出かけるからいらない」  ニコの反応を鋭く打ち消すようにダンが言う。こえーな、とニコは思いながら、黙ってきなこ餅を口に運んだ。  やさしい見た目と、やさしい風味。きなこに混ぜられた砂糖と塩の按配がちょうど良く、やわらかな餅の食感も相まって幸せな気分になる。 「なに食いに行くんだよ」 「まだ決めてない」 「駅前のトウジのとこ、電話してやろうか。今日から開けるってよ」 「いいよ別に」  きなこ餅を味わいながら、ニコは親子のやり取りを眺める。 「俺にツケといていいから」 「だからいいって」 「メグミが奢んのか」 「え」 「だって、ノゾミはまだ学生だろ。お前、社会人」 「あぁ……まあ別に、それでも、いいけど」  いやいや待って、とモゴモゴ言い、ニコは淹れてもらった茶を飲む。 「そういうつもりで来てねえよ。あーびっくりした」  アユミさんは笑いながら、斜向かいの椅子に座った。 「冗談だよ。天秤は傾かねえ方がいいもんな」 「俺も一応、バイトしてるんで」  稼ぎが全く違うことは分かり切っている。しかし、これでダンに食事代を負担してもらう、などということになれば、いよいよダンの方が大人だと意識せざるを得なくなる。それが事実だとしても、何となく受け入れ難いとニコは思う。晩酌の件は憧れや焦燥に近かったが、奢られるというのは、自分たちが対等でないと言われているようで嫌だった。そうだ。天秤は平衡であってほしい。 「そういや、メグミから聞いたけどさ。お前、先生やってんだって?」  テーブルの上でアユミさんが身を乗り出して聞いてくる。何だかこういう反応に慣れつつある自分をニコは自覚した。 「そうすよ。今は高1の子2人に数学教えてて」 「文武両道なんだなぁ、ノゾミは」 「いやぁ、そういうわけでもないんだけど」 「ひとに教えられるだけの理解はあるってことだろ」 「理数系なら、ってだけっすよ。社会科とかクソだもん、俺」  アユミさんが笑う。  ダンがキッチンの方に入っていく。冷蔵庫を開く音がする。 「メグミ。ビール1本取って」  それからアユミさんはニコの方に顔を戻し、 「メグミもさ、バイトはやった方がいいと思ってたんだよな。社会経験だろ。いきなりウチで仕事始めたから、ここの事しか知らねえじゃん。まあ、本人がここが良いって言うんだから、それはそれでいいんだけどさ」 「メグミの方が勉強できるし、塾講師も向いてそうすよね」 「向いてんのかなぁ。勉強できんのと教えんのは、また違う気もするけどね」 「メグミは俺よりちゃんとしてそう」 「お前、ちゃんとしてねえの?」 「俺はちゃんとしてるつもり」  と、キッチンからこちらを見ているダンと目が合った。眉間に皺が寄っている。  どうした、と無言で問いかける。ダンはすいと目を逸らして、食卓に戻ってきた。アユミさんの横に缶ビールを置く。それから、ニコの隣に戻りながら、皿の横に小さな容器を置いた。 「なにこれ」 「黒蜜」 「黒蜜?」  四角い容器に赤い蓋。確かに中には黒っぽい液体が詰まっている。 「なんかで余ったやつ。開いてないし、まだ新しいから」  そう言って、ダンは自分の皿のきなこ餅に黒蜜をかけると、ニコの方へ寄越した。 「味変。美味いよ」 「……マジか。いや、絶対美味いよな、コレ」  アユミさんが缶のプルタブを起こす音が小さく響く。  ニコは黒蜜がけのきなこ餅を口に入れる。濃厚な甘さがプラスされて、さっきよりも贅沢な気分になる。幸福度2割増しだ。皿をダンの方に戻し、 「ダンも食った方がいい」 「いや、いいよ、食って」 「いや、食った方がいい」 「美味いのは知ってるから」 「でも食って!」  小さく吹き出して、わかったよ、とダンは箸を取る。  美味いと思うものを振る舞ってくれたダンの厚意が嬉しい。それに、とニコはこれも美味そうにビールを飲んでいるアユミさんを見る。アユミさんが塾講師のバイトをしている自分を揶揄わなかったことも、ちょっと嬉しかった。他人が自分をどう見ても構わないが、何度も『お前にできんの?』という反応を見続けてきたニコにとって、アユミさんのフラットな言葉たちは素直に有難いと思えた。チラ、と黒蜜きなこ餅を食べるダンを見る。ダンに至っては、『嘘言うなよ』という返しだった。本気で腹が立つわけではない。そう思われるのは仕方がないとも思う。高校時代から勉強よりも明らかにバスケのイメージが強いのは自覚しているから、そういう自分と塾講師というバイトが結びつかないのは当然だろう。だから、アユミさんに『文武両道』と言われるのは、少々過剰な評価のような気がするのも本当だった。  結局、沢山の餅をごちそうになって、ニコはダンと一緒に2階の部屋を出た。一度、3階のダンの部屋で落ち着くことにする。  いつもの窓際に寄る。晴れているが、冬の空は低く見える。ベッドに座ってスマホを開いているダンを振り向き、 「なあ。トウジって誰」 「あぁ、ご近所仲間って感じ。駅前で定食屋やってんの」 「それでか」  自営業仲間ということなのだろう。地域に根付いた店同士は仲が良くなるものなのかもしれない。 「ダンが気に入ってるっていう喫茶店も、自営業なの?」 「え」 「休みの日はそこで飯食ってるってアユミさんが言ってたから」  すると、ダンは溜息を漏らして、お前さぁ、とニコを見た。 「親父と距離近すぎ」 「え。そう?」 「そうだよ。……無防備すぎてハラハラする」  無防備すぎる。その言葉をニコは考える。確かに、アユミさんに対して警戒心を抱いたことはない。抱く必要を感じたこともなかった。 「俺、アユミさんのこと好きだからな……」 「…………」 「で、多分、アユミさんも俺のこと結構好きだろ」 「あのさぁ……」 「割と会った最初の頃からそうだなって思ってた」 「……なんで」  初めてダンの家に来て、初めてアユミさんと会った時のことを思い出す。学校からダンと一緒にここへ来て、自転車屋の前にアユミさんがいて、友達? 友達。そう短い会話があって。 タニコシ ノゾミです、と調子よくフルネームで挨拶をした。 「俺がどうって言うより、まず俺の名前が気に入ったっぽかったじゃん」 「…………」 「へえ、ノゾミって言うんだ、って復唱されたし。んで、俺アユミ、って言ってさ。そっからすぐ、俺のことノゾミって呼び始めて」 「なぁ……」 「メグミとノゾミか、って嬉しそうにしてただろ」 「だから、それ!」  ダンがベッドから立ち上がる。その勢いにニコは驚いた。 「なんだよ」 「勝手に下の名前で呼ぶなよ、お前」 「なんで」 「なんでって……変だろ、普段呼んでねえのにさ」  ああ、とニコは理解する。さっき、ダンが不機嫌そうにこちらを見ていた理由だ。 「けどさ、アユミさんと話してる時にダンって呼びづれえんだって。ダンノのダンだろ。だったらアユミさんもダンだし。だから、メグミって呼んだ方が……」 「だからそれやめろって」 「えー……」 「じゃあ俺がノゾミって呼んでもいいのかよ」 「いいよ」 「…………」  ダンはまたベッドの上に腰を下ろしてしまう。頭を抱えている。 「……いいよじゃねえんだよ」 「なんでだよ。別にそっちでもいいけど」 「いや呼ばねえし」 「メグミはだめ?」 「だめ」 「えー」  そうは言われても、アユミさんの前ではメグミと呼ぶことになる。それこそ今さら変えられないのだ。  メグミ。  改めてその名前を思った。入学式で初めて聞いたその名前。どんなヤツだろうと背後のメグミに一瞬思いを馳せた。  メグミ。  呼びやすくていい名前だ。それなのに、どうしてそんなに嫌がるのだろう。実は、自分の名前が嫌いなのだろうか。それは考えたことがなかった。まあ、時々女に間違われて面倒だしな。同族意識があるからこそ、共感できることもある。 「て言うか……親父に余計なこと喋んなよ、お前」 「どれが余計だよ」 「それが分かってない時点ですげえ不安なんだけど……」  ダンが抱える不安を実感として理解することは、正直まだできずにいる。だが、ダンが不安を抱えている、ということは解る。 「大丈夫だと思う」 「…………」 「多分」 「おい」 続く

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