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⑱思い出のアルバム その3
くしゃ、とバーガーを包んでいた紙の音が鳴った。ダンは食べ終えた後のそれをたたみ、更に小さく、四角く折りたたんでいく。ニコはその手元を見つめ、当時のダンと、今ここにいるダンとを意識した。ダンは小さくなったラップを手にしたまま、そっと目を上げ、ニコを見た。
「あの時さ……」
「うん」
「なんで……お前、リレー出たの」
あぁ、とニコは声を漏らし、
「成り行きだな」
「……どういうこと」
「こっちは大変だったんだって。理系クラスと特進クラス合同でさ、そもそも運動部が少なくて、リレー出たがるヤツいなかったから」
他の団体競技の出場者はそれなりに埋まっていったものの、クラス対抗リレーだけは決まるまでに時間を要した。立候補者はおらず、気まずい沈黙が流れ、事態は膠着状態となった。
「だから、もう運動部から選んでくしかねえじゃん。野球部とサッカー部がいたから、そいつらには走ってもらうしかねえってなって、あと、陸部の長距離のヤツが志願して。ンで、どう?って聞かれたんだよ」
「ニコが」
「そう。出たいわけじゃなかったけど、断りづらい雰囲気ではあったから」
「……そっか」
ダンはまだ何か聞きたそうな顔をしていた。その顔にニコは答えてやる。
「分かるだろ。文系クラスからは絶対お前がリレーに出てくるに決まっててさ。やる前から結果が分かってるようなもんじゃん。1位になれねえって分かる勝負なんか、気乗りしねえよ」
「自分で選んだわけじゃないってこと」
「まあ。でも……」
種目決めをしたあの場を、ニコは思い出す。谷越くん、バスケ部だよね。どうかな。そう言われた時、自分は。
「記念に1回くらい、いいかもって思った」
「記念」
「お前と走ってみても」
「…………」
「負けても死なねえし、って」
はっきり、ダンと勝負したいと思ったわけではなかった。負けは決まっているのだし、それを面白いと思えなかったのも本当だ。それでも、心が動いた。
「ちゃんとがんばってたろ」
「……うん」
走順を決め、バトン練習をし、自分たちがどの程度走れるのか、ニコたちは真面目に練習に取り組んだ。コーナーを走るのが上手くいかなかった。速度が落ち、走りづらい。おまけにニコは、バトンの受け渡しがなかなかスムーズにできず、ひとり焦ってもいた。
「だから、お前に聞いたんだよ。どうしたらいいかって」
それまで、暫く疎遠だったけれど。陸上競技のことを相談するのに、ダン以上に相応しい相手がいるとは思えなかったから。
「……俺じゃなくても、他にいただろ。陸部の、短距離のヤツ」
「知ってるヤツの方が聞きやすいじゃん」
「でも……」
「話したかったんだよ」
「…………」
「走ることなら、話してくれんじゃねえかって。そう思ったから」
実際、話してくれた。事務的に。必要なことだけを。それでも、あの日のニコは、満足していた。
「嫌だった?」
ダンの気持ちを何も知らない自分は、自分の希望を満たすためだけに、ダンに話しかけた。
「嫌……って言うか……」
「うん」
「……ニコって変だと思った」
「なんだよそれ」
思いがけない答えにニコは笑った。だが、ダンは笑わない。
「俺が関わりたくないって態度取ってるの分かってるのに、なんでわざわざ話しかけてくるんだろうって……しかも、結構長いこと喋ってなかったのに、……普通の友達みたいにさ……」
「ダン久しぶり、って。前置きすればよかった?」
「そういうことじゃねえよ」
そういうことじゃねえ、のは分かる。ニコだって、何も感じず、何も考えずにダンに話しかけたわけではない。勇気が必要だった。怖気づきそうにもなった。それでも、聞くと決めた。だから話しかけた。
「往生際が悪いんだってよ」
「……え」
「前、ヒトに言われた」
ポテトのケースから、残りの小さな欠片をつまみ上げて、ニコは言った。
「ちゃんと納得いく決着がつくまで終わりにできない性格らしいぜ、俺」
「あぁ……まぁ、それは、そうかも」
「だから、変なんじゃなくて、そういう人間ってこと」
そこでダンはふっと口元を緩めた。
ニコはポテトを口に放り込み、空いてしまったポテトのケースを平らに潰す。いつも思うが、どうしてポテトはいつの間にかなくなってしまうのだろう。無限に湧いてくればいいのに。
「……アンカーは?」
「ん?」
「最初、3走だっただろ。なのに何でアンカーに変わったの」
その質問に、今度はニコの口元が緩んでしまう。
練習から本番までの間に、確かに自分たちは走順を変えた。それを、なんで、とダンに聞かれるのが、いささか信じ難い。
「それはダンが言ったからだろ。俺のバトンがヘタクソだって。アンカーなら1回受け取るだけで済むじゃん」
「それで変えたの?」
「そうだよ」
「バトンの回数が問題なら、第1走って選択肢もあったじゃん」
「俺、バトンもらうより、渡す方がヘタクソだったし」
「……そういう意図じゃなかったんだけど」
「つうか、そんなヘタクソだった?」
「見ててイライラした」
「だよな。俺もイライラした」
緩む口元は抑えられない。これは、あの時ダンが自分のことを見ていたという明確な証言だ。チームが違うにも関わらず、ダンはニコの走順を覚えていたし、バトンパスの練習が覚束ない様子も見ていた。避けられ、会話はなくとも、意識はされていた。それだけのことが、ニコには嬉しい。
ニコは言う。
「思ったより、楽しかったな。リレー」
「そう?」
「あんな真剣にトラック走ったことなかったし。お前がいつも見てる景色ってこんな感じかって、それが分かったのも、まあ良かったと思ってる」
「そうなんだ……」
「勝てねえのはやっぱ悔しいんだけどさ。けど、コーナー回って、お前が横を駆け抜けてった時のあの瞬間はさ……なんつうんだろうな……ちょっと感動したんだよな」
走順を変えたことで、必然、ニコはダンとアンカー対決をすることになった。
あの時の気持ちを言葉にするのは難しかった。ダンが走る姿は、いつも客観的にしか見たことがなかった。それが、同じフィールドで、しかも、首位を争う展開になったあの時。初めは自分の方が前を走っていた。でも、自分は知っていたし、待っていた。そうだ。ダンが来るのを待っていたのだと思う。だから、ダンのお陰でスムーズに走れるようになったコーナーを抜けて、ゴールに向かう最後の直線に入った直後、風のようにダンが自分の右側を抜けていったあの瞬間、体中が熱くなるくらい高揚した。いつものように、観客席から観たかったという気持ちもあった。けれど、ダンと競争し、負けるという経験は、後にも先にもそれが最後だ。2位でゴールした後のニコは、その結果を仲間と分かち合うより先に、「見たかよ、あれ俺の友達だぜ」、そんなふうにダンを称えたかった。
「だから、ダンに勝てねえのは諦めでもあるけど、期待でもあったんだろうな」
「期待」
「そう。ちゃんと勝ってほしいっていう……や、信頼だな。今でもそうなるとしか思えねえし」
ふふ、とダンは笑う。
「期待と信頼には応えたられた、ってこと?」
「そうだよ。マジかっけえかった」
陸上のことでは一切謙遜しないダンも、ニコは好きだ。学校で一番の俊足だったことに間違いはないから、そうやって王のごとく堂々としていてほしい。
もう1つトレイに残っているバーガーに手を触れ、ニコは言った。
「そんで……1回話せたんなら、また話せる機会あんじゃねえかなって思ってたんだけど」
「…………」
「それは結構ムズかったな。リレーみたいな口実もなかったし。だから、文化祭で俺達のクラスが合同で出し物やるってなった時、最初ウソなんじゃねえかと思ったりして」
奇跡も神様も信じてはいない。だが、あの展開は何かが自分に味方をしたのではないかと、ニコは思った。ダンのいる文系クラスと、自分の理系クラス。それが文化祭で一緒に何かをやる、などという偶然は誰も予想していなかったことだろう。
「けどお前、実行委員で忙しそうだったしよ。教室に殆どいなかったじゃん」
「……うん」
「わざと忙しくしてた?」
「…………」
「だよな」
ニコは笑って頷いた。
「……ごめん」
「いや違げぇよ、別に責めてるわけじゃなくて」
「…………」
一度、Lサイズのコーラを飲む。
「聞いていい? 文化祭のこと」
ダンが俯く。嫌なら無理に聞こうとは思わなかった。1年以上前のことだが、ニコの心にもあの時のことはまだ鮮明に残っている。それはきっとダンも同じだ。粗熱が取れているとは言え、傷跡がきれいさっぱり消えているわけではないと思う。それを乱暴にほじくり返したいわけではなかった。
「あったじゃん。ちょっと独創的な、聞こえよがしのアレ」
ダンの目が持ち上がり、ニコと目が合った。少し不機嫌そうに見えるが、やめろと制止されている空気ではない。
「あの陰口さ、半分くらい感心してたんだよな、俺。すげえ想像力だなって。仲良かった俺達を見て、そうじゃなくなった俺達を見て、その隙間をものすげえ想像力で埋めてんだなって思って。そんで、……なんかどうでもいいやってなった」
「誤解されててもいいと思ったってこと」
「別にあいつらに誤解されてても困ることなくね? つうか、あいつらが何言ってたか、もうあんまよく覚えてねえんだけど」
すると、明らかにダンの双眸が鋭くなった。睨まれている。
「お前のこと散々貶めてただろ。事実でもないのに。俺の付属品みたいなこと言って、それを俺が見限ったとか、お前がまだ俺に気に入られようとしてるとか……、なんで平気だったんだよ」
「だから、別に困んねえし……」
「お前がふざけんなって言わないから、俺が言うハメになったんだろ」
「…………」
「……いや、……ごめん」
少し、胸が熱くなる。ダンはやはり、自分のために怒ったのだ。ものすごい勢いで。唐突に。
「……ごめん、違くて……」
「いや。嬉しかったけど。フツーに」
「…………」
「だから、その後自分が怒鳴られるなんて思いもしなかったっつうの」
ニコは笑ってそう言ったけれど、案の定と言うべきか、ダンは笑うどころか表情を曇らせた。
『全部お前のせいだバカヤロウ!』
『もう二度と俺に向かってしゃべりかけんな!』
くだらない陰口は忘れてしまっても、ダンから言われたことはいつまでも耳の奥に残っている。
ダンが言う。
「……あの時……怒った?」
「え。いや。……怒ってはねえよ」
「……どうして」
「どうしてって……怒ってたのはお前だろ。だから、……あぁやっぱ嫌われてたのか、って思った」
「……違うんだよ」
「うん」
違うのはもう分かっている。
ダンは小さな声で弁解する。
「あいつらのこと見過ごせなくなって……なんか、自分でもワケ分かんないくらいキレてさ……」
ニコも、あんなふうに怒るダンを見るのは初めてだった。
「そしたら……お前が言ったじゃん。もういいからとか、怒るなとか」
「うん」
「あれで余計ワケ分かんなくなって、……『もういい』の意味も分かんねえし、お前がまた平気な顔して話しかけてくんのも……苦しくてさ……」
黙って頷くニコに、ダンは言った。
「でも……ごめん……」
「……いいよ」
「……ごめん」
「怒ってねえって」
取り上げかけていたバーガーを手に持ち、ニコはダンに差し出した。
「食う?」
「……え?」
「食ってもいいよ」
「……いや……だいじょぶ」
「あ、そう?」
受け取ってくれたらいいのに。ニコはそう思いながら、ラップを剥がした。
何となく、落ち着かない気分になっていた。バーガーに齧りついてその気分を誤魔化してみるが、どうもソワソワとする。本当なら立ち上がって、ダンがいる方のシートに座り直したい。ダンの傍に寄りたかった。だが、この広いボックス席に、男ふたりで並んで腰掛けているのはあまりにも奇妙だと、そのくらいのことはニコにも分かる。だから、口を動かして、我慢する。
もうひとつだけ、聞きたいことがあった。手の中のものを腹に収め、ラップを丸めてトレイに放ってから、ニコはダンを見た。
「ダンは、俺に怒ったこと、あった?」
目だけが、ニコに応えた。
「前、迷惑とか、言ってたし。多分あんだろ。どれが一番ムカついた?」
「え……待って。それもう俺が怒ったことある前提じゃん」
「怒ってないことないだろ」
ダンは困ったように首を傾げて、ニコの立てた前提を記憶の中に探り始めた。
「……怒ってた、ことは……ないかな」
「正直に言っていいから」
「意味分かんなかったことはいっぱいあるけど」
「どれが」
「大体どれも」
「…………」
「正直に言っていいっていったじゃん!」
意味が分かんなかった、とはなんだ。そう言えば、想定外すぎて迷惑、という言われ方をしたのだったか。
「……何が意味分かんなかった?」
「だから……こっちが避けてるのに近づいてくることとか。いきなり夏にウチ来たのもだし。それから、また来るまた来るって言って、本当に来るのも……」
「ごめん」
「……え」
怒ってはいなくても、困惑はさせたのだろう。その困惑に詫びることは、できる。
「自分の気持ちしか考えてなかったから。……まあ、怒らせる気も困らせる気もなかったけど、でも結果的に、お前がどう思うかってことは、蔑ろにしたのかもって思って」
ダンはニコを見つめて、数度瞬きをした。その顔にニコはさらに言った。
「お前がこうしようって決めたことも、邪魔しただろ」
「……あぁ」
「だから、ごめん」
ほんの少し頭を下げて、もう一度ダンを見る。ダンはニコを見たまま、笑っていた。何か興味深いものでも見るような顔つきで。
「……なんだよ」
「いや。……謝んなくていいけど。ニコは」
「いや。そういうわけにもいかねえだろ」
「確かに意味分かんなくて困ったし、そういうことあるたびにめっちゃ疲れたけど」
「お前のその疲労にごめんだよ」
「でも……」
ダンはそこで黙ってしまった。何かを深く感じ入る様子のダンを、ニコは黙って待った。
やがてダンはトレイの上のドリンクカップに指を添え、そっと持ち上げた。
「……また、会えたのは……よかった、かも」
その唇が、ストローを咥えた。
ニコの頭の中にダンの声がよみがえる。
『……よかったと思う。会えて。……多分』
卒業の少し前に聞いた言葉だ。今、ダンは似たようなことを言った。しかし、その意味が全然違うものであることを、ニコは痛いほど感じていた。あの日の『会えてよかった』は、さよならの前置き。でも、今は。
ニコは耐えきれず、立ち上がった。びっくりしたようにダンが顔を上げる。
「どっか行こ」
「……え」
行こう、と首で表を示す。許されるのなら、ダンのどこかに触れたかった。肩でも。腕でも。その指先だけでも構わない。のそり、と席を立つダンの顔には、「意味分かんない」と書いてある。意味を説明できないこともあるのだ、と、そう説明してやりたかった。
ファストフードを出て、改めて辺りの様子を眺める。少し、懐かしい。卒業から1年弱しか経っていないのに、またこの街を歩いていることに、妙な感慨を覚える。
「どっかってどこ」
「んじゃ、あっち」
隣に並ぶダンの肩に、手を置く。一瞬だけ、お互いの間に緊張感が走る。しかし、ダンはそれを嫌がらなかった。多分、ダンも思い出したのだと思う。かつての自分たちが、こうやって歩いていたことを。学校で。この街で。並んで一緒に歩く時、ニコの手がダンのどこかに自然と触れていた、あの時のことを。
「あっちってなに」
「川の方、歩こうぜ」
「川は寒くねえの?」
けれど、ニコにはどうしていいか分からないことがある。ダンに触れながら歩くことは、友達の延長でできるけれど、そうじゃないことはどうしたらいいのだろう。
ダン。キスしたくなった時は、どうしたらいい?
きっと、部屋に戻るまで我慢しろと言われるのだろう。多分これは、男とか女とか、そういう問題ではない。でも、もしダンが、ここでしてもいいよと言ったなら。有り得ない想像に、ニコは静かに笑う。笑いながら、ダンにもう少し身を寄せてみる。
「どした?」
思っていることは明確なのに、それを口にできないもどかしさが胸の中で渦を巻く。
キスしたい。
それだけのことが、今のニコには、言えない。
続く
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