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⑲9ヵ月後までに
5対5。試合形式の実践練習の最中だった。PGのママ先輩の声が盛んに聞こえる。ニコのチームがゴールに向かってボールを運び、ポスト付近にプレイヤーたちが集まる。ニコは周りを見、最適な位置へと動き始める。一瞬、ミスター塩対応と目が合った。相手チームのPFは彼だ。リバウンドに備えようとする彼の前に体をずらして、ニコは腰に力を込めた。先には行かせない。ボールが宙に飛ぶ。軌道を予測。床を蹴るのに迷いはなかった。隣へ一歩踏み出したミスター塩対応も飛んでいる。リングからこぼれ落ちるボールをニコの指先が捉え、掌へ。そのまま押し込む。
「谷越、ナイス!」
ホッとするのも束の間、ボールはもう動き出していた。次の展開へ頭を切り替える。
相手チームの間をパスが回る。ミスター塩対応が走り出すのが見えた。どうして。ほんの一瞬それを考えた隙に、ボールが彼の手に渡っていた。ニコは慌ててまた走り出す。今度はディフェンス。味方のセンターがボールを弾いた。予想外の方向に飛んだボールは誰の手にも渡らず、床にバウンドして転がる。飛び出していたのは殆ど無意識だ。滑り込み、ラインから外へはみ出す間際のボールに手を伸ばし、抱え込んだ。
そこで、終了の合図が鳴った。
息が上がっていた。汗が落ちる。練習でも礼儀を欠いていい理由はない。全員でセンターラインに並んで一礼した。タオル。飲み物。そう心で念じながら自分の荷物の方へ歩いていくニコは、突然背後から腰を叩かれた。
「いいね、谷越。ナイスファイト」
「あぁ。あざす」
「ポスト下はほぼ出来上がってんね」
「そう見えてんなら……よかった」
荷物に到着し、タオルを首にかけ、顔の汗を拭う。ママ先輩も同様だ。少し離れたところにあるバッグからタオルと飲み物を取り出し、試合後の体を労っている。コートでは、早くも次の組み合わせが練習試合を始めようとしていた。
ニコは壁際の部員たちを見渡した。それから、飲み物を手にしたまま、ママ先輩の方へ近づいていく。
「あの……」
「ん。どした」
自分たちから随分離れた場所にいるミスター塩対応を、ニコは指した。
「……あの人、最近、具合でも悪いンすか」
「え、なんで。元気そうだけど」
「不治の病とかじゃ、ないですよね」
「えぇ? 病気のヤツがあんな走れないと思うけど??」
うーん、とニコは首を傾げ、
「なんか……最近、あんま何も言ってこなくて」
「ああ。淋しいってこと?」
「いや、淋しいわけじゃないけど……」
ははは、とママ先輩は明るく笑う。
「大丈夫、あいつは具合悪くても、舌と歪んだ性格は常に絶好調だから」
「……じゃあ……」
ママ先輩の顔を、ニコは見た。
「俺、見限られたんすかね」
「……わあ」
ふたりして見つめ合う。ママ先輩はニコを初めて見つけた生物のような目で見ている。
「それ本気で言ってんの」
「理由はいろいろ考えてんですけど。見限ったか、飽きたか、それこそ具合悪いのか、とか」
「ターゲットを他に移したか、とかね」
「えぇ? やっぱ俺、諦められたンすかね?」
「いや、もう1個理由あるだろ」
もう一度、今度は眉を下げて笑ったママ先輩は、ニコの肩を叩いて言った。
「言うことがなくなってきた、とは思わないの?」
「……そんなことある?」
「現状、今自分がどのくらいのこと出来るようになったか、把握してる?」
「……んー。感覚的には」
ママ先輩に促されて、ニコは床に腰を下ろした。コートを眺める。
「さっきの試合でも、谷越が出来てる部分はちゃんと形になってたじゃん。最後の局面だけ取っても、リバウンドちゃんと取ったし、その前に、塩見を前に出さないって仕事もちゃんとしてた。……ああ、なんだっけ、ミスター塩対応、だっけ?」
「それは置いといていいんで」
「あの場面では、同じPFの塩見を谷越はちゃんと抑えただろ。あれに対してあいつが言うことなんかないでしょ」
「……そうすかね」
「おまけに、終了間際のルーズボール。あれを取りに行く根性があるやつは意外と少ないからね」
「あ、それは俺もそう思ってました。だから、こぼれたやつは拾いに行こうって決めてます」
うん、とママ先輩は笑顔で頷く。
「もちろん、課題は課題として残ってるよね。判断力も判断スピードも、あと一歩かな。そこは完全に塩見の経験値と技術の方が上だから、あいつがそこをツッコもうと思えばツッコめるとは思う」
「なんで言わないンすかね」
「1年坊主がいきなり合格点に到達するとは思ってないからだろうね」
「でも、いつも遅せぇ、遅せぇって言ってきてたし……」
「遅せぇことは自覚してもらわないと困るだろ。今の谷越にはこれが足りませんってことを、あいつは全部言ったんだと思う。で、順番にクリアしようとしてる。身についてきたこともある。判断についてもやろうと努力はしてる。だから、まあ今は様子見って感じなんじゃない?」
ちら、と向こうの壁際にいるミスター塩対応を見た。相変わらずクールな面持ちでコートを見、時折隣りの同期生と何かを話している。
「……やっぱ淋しいのかな、俺」
ニコがそう漏らすと、ママ先輩は可笑しそうに笑い、
「そんなに構ってほしいなら、そうだな……今度言ってみ。1 on 1やりましょうよって」
「え」
「言ってみ」
それを言ってみた後どうなるか、ニコは頭の中でシミュレーションしてみる。そして、ママ先輩を軽く睨んだ。
「それ。絶対、調子乗るんじゃねえって怒られるヤツじゃないすか」
「そうだよ」
「構われたいんじゃなくて。どうしたらいいか教えてほしいンスよ、俺は」
くくく、とママ先輩はひとりで楽しそうだ。ミスター塩対応は厄介だが、この人も実は大概なのではないかとニコは思う。
「でもさ。谷越が塩見に懐いてるの、ホント面白いし、ちょっと嬉しいよ」
「懐いてるっつうか……」
「後輩に懐かれたことなんかないんだから、あいつ。来年卒業する時、泣いちゃうかもな」
ミスター塩対応が別れを惜しんで泣く姿は、残念ながら想像できなかった。
しかし、来年、という言葉をニコは少し意識する。まるまる1年間あるわけではない。今が2月で、次年度の関東リーグは秋に始まって11月に決着がつく。それまでおよそ9ヵ月。あと9ヵ月で、この先輩たちは引退する。
「それまでに、が……目標だな」
ん、とママ先輩がこちらを見た。
「ミスター塩対応がいる間に、もうちょっとマシなPFになんねえとって、思います」
「いいね」
「いや、感覚的なことは少し分かってきてるンすよ」
「うんうん」
「俺が思うスピードじゃ遅いんだからと思って、半分博打みたいな感じで早く動き出すようにしたりとか。それがハマる時もあるし、見当外れなこともあるんだけど、でも、多分博打じゃなくて、論理的に動けるようになるんだってことも、頭では分かってて。今こういうふうに相手がいるから、こっちに動けばいいとか、こっちに誘導するといいとか、そういうことですよね」
すると、ママ先輩は不意に立ち上がった。ニコを見下ろし、
「いいよ。ちょっとこっちで整理しよう」
そうニコを促した。
ママ先輩は、体育館の隅に避けてあったホワイトボードの方へニコを連れていき、今はまっさらなそこに、コートの絵を大きく描き始めた。それから、端に集まっている丸形の赤いマグネットを5個、青を5個、コートの中に配置していく。
「例えば、赤がオフェンスだとして」
そう言って、黄色のマグネットをボールに見立てて、試合の流れを再現し始めた。ニコはそれを熱心に聞いた。こうなると、ここが空く。だから、こう動く。こっちに誘導したいなら、自分がこう動く。実際に図になっていると、イメージが湧きやすく、理解も深まった。
「家にホワイトボードはないだろうけど、紙でも何でもいいんだよ。具体的に何かを動かしてみると、分かりやすいだろ。多分、谷越って動いてみて体で覚えるのが得意なタイプだと思うんだけど、頭で処理する物量が多いからさ。1回、机の前で考えてみるのがオススメ。それに、他のポジションのこともいっぺんに見えるから、PGはこの時なに考えてるかとか、だからこっち動いたのかとか、そういうのもだんだん分かるようになると思うよ」
ニコは肯いた。塾で生徒に、樹形図は面倒でもちゃんと書け、と言ったことを思い出す。あれは自分にも当てはまることだったと気づく。
と、ママ先輩の背後に人の気配があって、ニコはそちらを見た。ミスター塩対応だった。あ! と思わず声を上げてしまう。
「間宮、なにやってんの」
ぬるっとしたその声に、ニコはすでにワクワクし始めていた。
「うん。戦術の整理。谷越の理解がいい線いってるから、図説してたとこ」
ふうん、とミスター塩対応はホワイトボードを眺め、
「情報量を処理するスペックが足りてねえんだろ」
本日の格言。
ニコはミスター塩対応を見つめる。
「絶対バージョンアップするんで」
「…………」
「これ。さっきのヤツ……こう並んでたじゃないですか。ンで、先輩がここからこう走って……。これ、なんで?」
「…………」
「どこ見て、走るって決めたのかなと思って」
ミスター塩対応はホワイトボードを見、それからニコを見た。不機嫌そうに眉間に皺を寄せて。
「タメ口きいてんじゃねえよ」
「あ。……そこ? えっと……すみません」
「自分で考えろ」
「えー、でもさっきのことだし……」
「タメ口」
「……すみません」
ミスター塩対応はニコの質問に答えることなく、去っていった。
ママ先輩が横で声を殺して笑っている。
「……あの人マジでケチっすよね」
「うん、そうね。タメ口でもタメ口じゃなくても、あいつ教えてくれないもんね。あー、おっかし」
「同じ人間なんだから、あの人にできて俺にできねえはずないっすよね」
「うん。ごめんね。あいつが解説してくれたら話早いんだよね。でもさ、後輩の甘やかし方も知らないんだよ、あいつ」
「俺、甘えてるンすかね。あーでも……間宮先輩には甘えてるか」
ミスター塩対応の翻訳機は必要だった。ママーー間宮先輩がいない状態で、自力でここまでミスター塩対応の発言を理解できたかどうか、ニコには自信がない。
ママ先輩はホワイトボードからマグネットを外しながら言う。
「俺は別にいいよ。頼られて悪い気はしないから。あいつだって、多分そう」
ニコはクリーナーを手に取り、コートの線を消していく。
「前、言ってたじゃないすか、俺のこと気に入ってると思うって」
「うん」
「あれ、今でもそうだと思います?」
「うん、思う」
「じゃあ、今度帰りにラーメンでも誘ってみよっかな」
あははは、とママ先輩は弾けるように笑い、その声の大きさに、自分で自分の口を押さえている。
「……行ってくれる気はしねえけど」
「いいよいいよ、誘ってみ。気まずかったら俺も一緒に行ってあげるから」
「ホントに? え、あの人、ラーメン好きかな」
「好きだよ、フツーに。いいね、ラーメン」
きれいになったホワイトボードに背を向け、また歩き出す。隣りのママ先輩は面白そうにニコを見て、
「構われた瞬間、機嫌良くなったじゃん」
「……まあ。本日の格言も頂けたんで」
「格言?」
「『情報量を処理するスペックが足りてねえんだろ』」
ミスター塩対応の真似をするニコに、ママ先輩はまた笑う。この人は笑い上戸だな、と思い、その様子を見ているニコも釣られて笑ってしまう。
構われて機嫌が良くなったというのは、からかい半分だと分かる。しかし、間違ってもいない。人から突然興味を失われるのは、やはり淋しいことだ。
ミスター塩対応が人を褒めることはないのかも知れないが、もし叶うなら、彼がいる間に一言だけでも認められたと思える言葉を引き出したい。
「ちょっとマシ」
そんな言葉で、構わないから。
続く
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