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⑳春
「……ぁ、……クソ」
眉間の皺を深くするニコに、すぐ目の前でダンがそっと笑う。その余裕そうな面持ちにプライドを煽られて、ニコは空いている片手をダンの胸に伸ばした。固く尖る突起を爪の先で掻く。
「……お、ぃ…ッ」
非難めいたその声に、ニコも笑い返してやった。
もう片方の手はダンの性器を握っている。ダンの手も、同じようにニコのものを握っている。別に何を競っているわけでもないのだが、相手よりも先に限界を迎えるのが、何となく面白くない。射精感に焦って刺激する場所を増やしてみたが、ダンがそれをおとなしく受け取るだけのはずもなかった。甘く鼻を鳴らしながら、向かい合うニコに口づけてくる。手の動きも巧みになる。クソ、ともう一度ニコは心で呟き、負けじとダンの胸を撫で、それから、唇を離して囁く。
「……メグミ」
しかし、切なげなダンの表情を見たら、余計昂った。
俄かにせり上がるそれに抗えず、息を詰め、ニコは吐精した。一度、二度。溢れるその感覚に陶酔しながらも、ダンが深く呼気を漏らすのが見え、それから、自分の手が温かく濡れるのをニコは感じた。ダンの鈴口からも、精液が流れ出ている。
「……ドローな」
「……そっちのが早かっただろ」
「ほぼ一緒だろ」
「て言うか、ニコの反則負け」
「なんだよ、反則って」
「……名前呼んだ」
「しょうがねえじゃん、呼びたくなるんだから」
にやりと笑うと、ダンに腕をひっぱたかれた。
悪戯半分、本気半分だ。名前で呼ぶと少々過剰に反応するダンだが、本気で嫌がっているわけではなさそうで、これは照れているのだなと判断することにした。肌に触れ合っている最中に呼ぶと、少し温度が上がる。そういう感覚もあった。だから、しょっちゅう呼ぶことが許されないのなら、効果のある時を選びたくなる。呼びたいのは本当だからだ。殊に、ダンへの気持ちが普段よりも濃縮されるような、こういう時間にこそ、口にしたくなる。メグミ、と。
ふたりで、ティッシュで肌を拭う。
ニコはダンの腕を取り、
「な。続きは」
「え。……あぁ」
「まだダメ?」
「ダメなわけじゃない、けど……」
不満、ではない。だが、こうして互いの性器を触り合うその先を、ダンがずっと躊躇っているのが分かる。したくないのとは違う、とニコは分かっている。寧ろダンはそれを望んでいるはずで、だからそのうち始まるのだろうと特別急かすことなくここまで来た。だが、ニコの中に少しずつ育ってきている気持ちがある。
ダンが言った。
「……今まで……嫌な時、なかった?」
「嫌? ねえよ」
「俺に合わせてた時とかは」
「ねえよ。ダンがその気なんだなって思ったらすぐスイッチ入る」
ふ、と笑うダンに、ニコは黙ってその腕を撫でてやった。
「ニコは……続き、したいの」
「そうなんだと思う。もっと……なんつうのかな。深く……」
「…………」
「繋がりたい?」
自分の気持ちに合った適切な言葉であるか、自信がない。
「もっと欲しいなって思う時がある。……これ、伝わる?」
「……うん」
「だから俺はいつでもオッケー」
ニコの手に、ダンの手が重なった。
「……じゃあ。心の準備、しとく」
「お前がすんのかよ」
「次まで待って」
「うん。いいよ」
交わすキスは、約束、と言っているようだった。
下着を履いて、そのままベッドに仰向けに寝転がる。ダンのベッドは相変わらず寝心地がいい。ダンはベッドの端に腰かけて、ジャージの上下を身に着けながら、
「あのさ」
顔半分をこちらに向けて言う。
「そろそろ、買おうと思う」
「……え」
「バイク」
思わずニコは起き上がっていた。
「マジで」
「走るのに、いい季節になってきたし」
春を迎えていた。
年度が変わり、ニコは2年生になった。間もなくバスケ部にも新入生が入ってくる。先日在校生だけで、新年度のチーム編成が行われたところだった。
「え、買うのいつ」
「いつとは決めてないけど」
「じゃ、俺が来るとき」
「……なんで」
「見たいだろ、フツーに」
ダンの横顔が微笑んだ。
「じゃあ、連絡して。来るとき」
「うん」
ダンがバイクを買う。ずっと欲しがっていた、あの黒の大型バイクをとうとう手に入れる。ダンがバイクを押して歩く姿も、それに乗っている姿も、早く見たい。ニコはまた寝転がりながら、
「あー。やっぱ俺も買お」
「え、何を」
「シューズ。新しいやつ」
ダンのバイクに比べたらだいぶ安価ではあるが、好きな時に気軽に買うには少々値が張る。週に1度のアルバイトで稼ぎもたかが知れている学生の身では、やや思い切りが必要だった。
「俺さ、Aチーム入れたから」
「Aチーム」
「公式戦出られるのがAチーム。去年はBで、おまけみたいにAに連れてってもらってたけど、今年はとりあえずAスタートって決まってさ」
「へえ。いいじゃん。そりゃいいシューズ買った方がいいよ」
「だよな」
「お前もそれ見せて」
ダンの手をそっと引く。近づいてくるその顔を捕まえて、またキスをした。バスケのシューズに興味があるとは思えないのに。でも、その気持ちが嬉しい。
「早く服着ろよ」
裸の腹を叩かれた。
「めんどくさい」
叩いたついでに、ダンはそのままニコの腹を掌で撫でた。妙に真顔で。
「なに」
「……あ、いや……」
指先が、胃のあたりをなぞる。
「……鍛えてんだなぁと思って」
「お前筋肉フェチなの?」
「性癖みたいに言うなよ、褒めてんだから」
「性癖でも別にいいけど」
「うるせえよ」
ダンは手を引っ込めて、ベッドを降りてしまった。
相変わらず羞恥心の強いダンの扱い方は難しい。何でもいいのに。それがダンだと分かるなら。
のろくさと身を起こして、脱ぎ捨ててあった服を拾って身に着けていく。楽しみが増えたな、と思い、自然と笑みが口元に上ってしまう。春。はじまりの季節。ニコにとって、出足は好調だった。
**********
「メグミはさ、ガキの頃から好きなモンは好きって、はっきりしてたよ」
堤さんがそう言うと、阿部さんが、そうそうと肯く。
「自分が乗る自転車もここで選ぶんだけど、コレって決めたら他は見向きもしなかったよな」
「一応こっちにもオススメはあるからさ、これもいいぞーなんて言ってやるんだけど、自分が決めたやつの前から一歩も動かねえんだよ。頑固だよなぁ、ホントに」
自転車屋の店内で、ニコはダンの上司だというふたりと、缶コーヒーを飲んでいた。ニコがダンの高校時代の同級生であることと、名前と、立ち寄った理由について説明すると、ふたりは即座に、こっち座んな、と来客用のカウンターテーブルに通してくれた。去年の夏にダンを訪ねてきたときに会ったのを覚えていたらしく、想像以上にフレンドリーな対応だった。
ニコは作業スペースに座るふたりの方へ椅子の向きを変え、それぞれ胸に、堤と阿部のネームプレートを付けた彼等の話を興味深く聞いていた。
「けどさぁ、いつかはアユミと同じ仕事すんのかなぁ、とは思ってたけど、高卒でいきなりとは思わなかったよなぁ」
「だよな。てっきり大学生にでもなんのかと思ってたよ」
「ありがたいけどな、俺達には。メグミが入ってくれたお陰で3時のティータイムが取れるようになったんだもん」
「お前、ティータイムって顔かよ」
アユミさんと同年代らしいふたりは楽しそうに笑っている。
ニコは彼らに尋ねてみた。
「メグミ、ここの仕事、結構早くからやってたんすか」
「あぁ、高校ン時からやってたよ。部活引退した後は、時間あるからって」
「じゃあ、もう普通に戦力ってこと?」
いや、と阿部さんが言った。
「資格試験がまだだからな、あいつ」
「あ、資格あるんだ」
「自転車技士資格っていうのがあって、実務経験ないと受けらんないから。メグミは来年だな」
「へえ、そっか」
「まあ、組み立てや整備のことは俺たちが教えてるし、あいつ頭いいから、もう殆ど分かってるよ。筆記もあるけど、大丈夫だろ、メグミなら」
それは大丈夫だろう、とニコも思った。試験はダンの得意分野だ。筆記も実技も難なくこなせそうなイメージしか湧かない。
堤さんが、でもさ、と笑う。
「やっぱり血筋なんだろうなぁ。あいつがバイク乗るってのは」
3人の顔が、自然と隣のバイク屋の方を向いた。並ぶ新品の自転車と壁に遮られて見えないが、今、バイク屋で行われているであろうことに、全員が思いを馳せる。
「けど、メグミは俺達とは違って無茶なことはしなさそうだから。そこは安心だな」
え、とニコは阿部さんを見る。
「無茶してたんすか」
「走り屋だったからな。アユミも」
そうそう、と堤さんもどこか嬉しそうに言う。
「峠族だったからさあ。ワインディングロード、めちゃくちゃ攻めまくったよねぇ」
「峠族ってなんすか」
「あぁ、若いヤツは知らねえよな。山岳のヘアピンカーブとかS字カーブなんかを、どんだけ上手く速く走れるかってのを競ってたのよ」
「アユミさんも? マジで?」
「アユミは結構ヤバかったよ。腕もあったけど、改造のセンスも良かったしな」
「今はもう警察の取り締まりが相当厳しくなったから、滅多にいねえと思うけど」
山岳地帯のヘアピンカーブを攻めているアユミさんを思い浮かべて、ニコは思わず口角を上げる。
「……やるなぁ、アユミさん」
「メグミは別にそういうことしたいわけじゃねえだろうし。ひとりで好きなとこ走ってそうだよな、あいつは」
「あぁーなんか分かる」
「仲間がいりゃそれも楽しいし。……ノゾミは乗らねえの?」
「バイクは乗らないっすね。車は乗れるけど」
その時、自転車屋のドアが開いた。
私服姿のダンが入ってくる。ニコは立ち上がり、
「おう。きた?」
「うん」
「どこ」
「外」
じゃあ外へ、とニコは歩き出したが、ダンはその場に立ち止まったまま、上司たちに「ども」と会釈する。ニコはダンと並んでそちらを振り向いた。
「……すみません。なんか、コイツの相手してもらっちゃって」
そう言ったダンに、堤さんと阿部さんはにこにこして首を振る。
「いやぁ。相手してもらったのはこっちだよ。丁度客もいなくて暇だったし」
「あぁ、メグミさ。お前、アユミの若い頃知ってんだろ」
「え。……どれのこと」
「走り屋の話。ノゾミに聞かせてやんなよ。今のアユミのまぁるくなった顔しか知らねえみたいだから」
ダンは少し複雑そうな顔をして、ニコを見た。ニコは、いつでも聞かせて、という意を込めてダンの視線に応える。
「じゃ、俺達も見るか。メグミの新車」
堤さんたちが腰を上げたので、ダンの腰を叩いて外へと促した。ダンがぼそりと呟く。
「……お前の距離感やっぱ異常」
「なにが」
「何でもう名前で呼ばれてんだよ」
「いいじゃん。ダンも呼べば」
「…………」
自転車屋のドアを出て、バイク屋の方へと進んでいく。建物の前に、春の暖かな陽光を浴びた、黒い一台のバイクが停まっていた。その傍でアユミさんが煙草を吸っている。アユミさんは、近付いてくるニコたちを見て、ハハと笑った。
「観客が増えてるじゃねえか」
バイクの前に立ち並び、ダンが一歩前に出る。ブラウンのシートに掌を置き、それから、左のハンドルを握ってみる。メーターの辺りを見つめ、ピカピカ光っているタンクを優しく撫でた。
ダンが夢を叶える瞬間に立ち会えたことを、ニコは嬉しく思った。初めにこれと決めたのはいつだったのだろう。購入資金を貯めている間も心変わりすることなく、欲しいと決めたこの1台をダンはとうとう手に入れた。ダンは歓喜に叫ぶことも小躍りすることもなかったけれど、静かな喜びと達成感に胸を熱くしているのが横顔で分かった。
「乗るのか?」
アユミさんが尋ねると、ダンは首を横に振り、
「いや……今日はいい」
「なんで」
ニコはついそう口走っていた。
と、堤さんと阿部さんが横から言う。
「なあ。ちょっと跨って見せろよ」
「メグミが乗ってる感じ、見たいもんな」
バイクの向こうでアユミさんが微笑んでいる。
ダンが戸惑っているのが分かる。こんなにギャラリーがいるとは思っていなかったのだろう。ニコを見るその顔が、どうしよう、と言っているようで可笑しい。
「メグミ」
ニコは言った。
「俺も見たい」
きっと、ダンも乗りたかったのだと思う。ハンドルを握るその手に力が籠った。シートを跨ぐその所作はきれいだった。両方のハンドルを持ち、左に傾いでいた車体をまっすぐに起こす。それから、左のスタンドを蹴り上げる。前を見るダンのその顔つきは、エンジンをかけて今にも走り出していきそうに見えた。
「……かっけえ」
笑みが深くなってしまうのを、ニコは抑えられなかった。
「アユミ。写真撮っとけよ」
「あ? あー……ノゾミ、撮っといて」
「おし」
スマホを取り出すニコに、ダンが慌てたように言う。
「いいよ、別に」
「いいから。さっきみたいに前向けって」
「ニコ」
「それともピースでもする?」
「…………」
大人しく前を向いたダンに、ニコはカメラのシャッターを切った。アユミさんたちのために、いろんな角度から撮影する。
「もういいだろ」
「メグミ。1回だけ笑顔」
「ニコ!」
アユミさんたちは楽し気に笑っていた。ダンの笑顔はそのうちにするか、と諦めて、ニコはスマホをしまう。
ダンはスタンドを下ろし、ゆっくりとバイクを降りた。大きな車体を扱うことに既に慣れているのが分かり、感心する。アユミさんのバイクで練習していたというのは、伊達ではなかった。
アユミさんは煙草を消し、吸殻を携帯灰皿に押し込みながら言う。
「これで好きなとこ行けるな」
「うん」
「気をつけろよ」
「分かってる」
阿部さんが笑って言った。
「アユミが気をつけろだって」
堤さんも笑う。
「よく言うよな」
「うるせえな、お前ら。仕事戻れ」
普段聞いているよりも荒っぽい口調でアユミさんはそう言って、堤さんたちを追い返そうとする。ふたりは、はいはいと自転車屋の方に足を向けた。が、堤さんがふと振り返って、ニコに言った。
「そういや、ニコってあんたのことだよな」
「ああ、はい。そうすけど」
「メグミはノゾミって呼ばねえんだ?」
ダンが小さく咳をした。
ニコは笑い、
「俺も普段はニックネームで呼んでるんで」
「へえ。いいな、友達っぽくて」
「そうすね」
じゃあな、ノゾミ。また来いよ。
そう言って、堤さんと阿部さんは自転車屋に戻っていった。
「メグミ。ヘルメットとグローブ。後で取りに来いよ」
アユミさんもバイク屋に戻っていく。その背中を見送ると、残されたのは、ふたりと1台になった。
「どっか、走りに行ってくれば」
ニコが言うと、ダンはやはり首を振った。
「今日はいい。まだ、行きたいとこ決めてないし」
「けど、走りたくね? 俺ならソッコーどっか行くぜ」
「今日はまだ……見てたいから」
「ん。それもなんか分かる」
ダンの相棒を、ニコはもう一度見た。去年の夏、人のいないバイク屋の店内で見た時と、何かが違う気がした。車体のどこかに、ダンの名前が刻まれているような、有り得ないけれど、そんな気がする。
しばらく、ダンと一緒にバイクを見つめていた。
「なあ。アユミさんのバイクさ、空冷式で、フィンが付いてたじゃん」
「うん」
これ、とニコはダンのバイクの一部を指差した。
「これもフィンなの」
「形だけな」
「形だけ。フィンの形だけしてるってこと」
「そう。これは水冷だからラジエーター付いてる。でも、親父のみたいなクラシックなバイクを踏襲してるとこもあるから、デザインだけフィンを採用してるって感じ。これで冷やしてるわけじゃないけど」
「すげぇこだわり」
「いいだろ」
そう言って微笑むダンの顔から、目が離せなくなった。ダンの顔には、愛情が滲む。そのことをニコはもう知っていて、今、ダンはバイクに愛情を傾けているのだと疑いなくわかる。そういうダンを、愛おしく思う。
「……メグミは、ノゾミって呼ばねえんだ?」
さっき、堤さんが言った言葉を口にしてみた。
「……なに」
「いや。呼ばねえんだ、と思って」
「…………」
「いいよ、別に。今まで通りで」
「……うん」
「俺は時々メグミって呼ぶけど」
「なんでだよ」
「呼びたい時があるから」
「…………」
団野家で便宜上そう呼ぶのとは別に。ダンを、メグミと呼びたくなる時がある。
ダンはニコから目を逸らして、相棒のシートをまたそっと撫でた。
続く
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