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㉑恋それぞれ

 夕方。いつものカフェでバイトまでの時間を潰そうと歩く道すがら、直江の後姿を見つけた。少し久しぶりに思える。ニコは足を速め、隣に追いつくタイミングを見計らって片手を上げる。 「おう」  声を掛けると同時にその背を叩いた。ぐぁ、と直江が呻く。 「……油断してた」 「コーヒー。飲むんだろ」  何か言いたげな直江を無視して、一緒に店内へ入る。満席ではないが多くの席が埋まっていた。この時間はいつもそうだ。 「直江、席取っとけよ。俺、注文するから」 「え、いいの」 「コーヒーでいいのかよ」 「お願い」  レジカウンターで、ホットコーヒーのレギュラーサイズと、ホットカフェラテのラージサイズを注文し、金を払った。トレイにカップを2つ載せて、直江を探す。窓際の2人掛けの席から、手を振られた。  ニコが席につくなり財布を開く直江を見て、 「あーいいよ、今日は」 「え。なんで」 「この前給料日だったし」 「谷越くんに借り作るの怖いんだけど」 「どういう意味で怖いのか説明してみ?」 「……怖くないか。別に」  直江はおとなしく財布をしまった。  飲み慣れたカフェラテをひと口飲み、自分たちが2年生になっていることに気付く。年度が変わっただけでお互いの外見に変化があるわけではないが、20歳を迎える年だと思うと、少し不思議な気持ちになった。高校1年生の時に出会った直江とは、5年目の付き合いということになる。 「そっち、講義どう」  尋ねると、直江はにこりと笑い、 「ちょっと専門科目増えて楽しい」 「へえ。どんなことやんの」 「今年はレポートやプログラミングの課題が多そう。でも、新しいパソコンあるから、使い甲斐ありそうなんだよね」 「あぁ。買ったんだ」 「うん。後は、数学とか情報とか、工学関係の講義があるかな」  同じ理系同士、学んでいることは違っても、専門性が増してくればくるほど面白くなる感覚は理解できる。直江がこれからの講義に胸を躍らせているのを、ニコは、分かる、と思った。 「俺も材料系の講義とか実験、増えるんだよな」 「谷越くん、実験好きそうだよね」 「講義だけだとつまんねえじゃん」 「それはボクも分かるよ。話聞いてるだけより、自分で何かしてた方が面白いもんね」  だよなぁ、と言いながら、またカップを傾けた。  直江もコーヒーを飲み、それから、あ、と顔を上げる。 「そう言えば。団野くんはバイク買った?」 「買った!」 「……声デカ」  先日見届けた『ダン、バイクを買う』の儀を思い出して、ニコは笑顔になる。 「やっぱ超カッコよかったわ。ダンのバイク、って感じだった」 「見せてもらったんだ」 「おう。みんなで見た」  みんな? と首を傾げた直江は、ふっと笑い、 「なんで谷越くんがそんなに嬉しそうなの」 「え。そりゃ、嬉しいだろ。俺のじゃないけど」 「俺のじゃなくても嬉しいんだね」  微笑む直江が目を細める。 「一件落着。したのかな」  ニコは直江を見、静かに首を縦に振った。 「した」 「そっか。お疲れ様」 「あぁ、どうも」  直江に何かを与えられたわけではないが、話はだいぶ聞いてもらった。その礼がコーヒー1杯で適切かはともかく、ありがたかったと今のニコは思える。直江から確認される形にはなったけれど、結果報告の義務は感じていた。 「罪悪感に苛まれるところからは、脱却できたんだね」 「そう」 「ねえ。もう好きって言った?」 「好き……とは言ってねえかな」 「なんで。他になんて言うの」 「それに代わる言葉はいろいろあるだろ」 「例えば」 「うるせえな、プライバシーの侵害だ、お前」  可笑しそうに直江は笑った。  どうだっただろうか。話の流れで1回くらいは「好き」と口にしたのだったか。自分がどういう言葉を遣ったのか、ニコはうまく思い出せないけれど、好きだと思っていることは間違いない。それを伝えたくなった時、何がしかの手段で表現もしていると思う。好きに代わる言葉を用いるか、あるいは、触れるか。 「お前は」  ニコは直江に聞き返した。 「ボクがなに」 「お前、彼女いねえの」 「いるよ」 「えっ!」 「声デカいって」  ちょっと待て、とニコは椅子の上で居住まいを正す。テーブルに腕が乗る。 「いんの?」 「いちゃ悪いの」 「え、いつから。え、どこで」  直江は涼しい顔でニコを見ながら、またコーヒーを飲む。 「秋ぐらいから。大学の同期」 「どんな子」 「同じ工学部の人で……」 「リケジョか! え、可愛い?」 「そうだね」 「マジか!」  可愛いリケジョ。どんなだろう、とニコは想像してみる。清楚な感じか。それともちょっとクールな感じだろうか。 「どういう系?」 「ギャルかな」 「ギャル?!」 「だから声デカいよ、さっきから」  とうとうニコは笑い出した。何が面白いのかは自分でも判然としない。だが、予想の斜め上をいく直江の返答が楽しくて仕方がなくなってきた。 「ちょっと直江さ、今度紹介しろよ」 「えー。なんで」 「見たいじゃん。見ねえと分かんねえわ」 「見世物じゃないよ」 「じゃ写真!」  開いた掌を直江に差し出す。無言の攻防が数秒続いた後、直江はため息をひとつ吐いてスマホを取り出した。まんざらでもないのかもしれない。画面を操作する手元を覗きながら、ニコは言う。 「直江の言う可愛いがどういうのか興味ある」 「んー、でも毎日ちょっとずつ顔違うからな」 「……どういう意味」 「メイク技術がヤバくて」 「なにそれ」  こちらに向けて差し出されたスマホを、ニコは見た。色白のギャルがそこにいた。確かに可愛い。 「で、そうだな……違いが分かるやつだと、これかな」  直江は表示する写真を選びなおし、またニコに向ける。 「あぁー……まあ、さっきと印象違う、かも」 「全然違うよ。見て。アイラインの長さと角度。あと、こっちの方が睫毛が長いでしょ」 「あぁー……」 「それにカラコンの色も違うじゃん」 「すっぴんは」 「それも可愛いよ。写真は撮らせてくれないけど」  ニコは写真から目を上げて、直江の顔を見た。普段と変わらない面持ちで自分の彼女の写真を見せている、その姿もまた面白かった。思えば、こんなに無責任な気持ちで他人の恋バナを聞くことを、随分していないような気がする。ニコは椅子の背凭れに身を預け、溜息交じりに言った。 「秋かぁ……。関東リーグで会えてねえ頃じゃん」 「そうだね」 「聞くタイミング合わなかったんだな」  すると、直江は「えぇー」と不服そうな声を漏らした。 「違うでしょ。バスケで忙しかったのは本当だとしても、谷越くんがボクに興味なかったのは別の理由じゃん」 「え」 「秋でも冬でも、キミはいつでも団野くんのことで頭がいっぱいで、他人の恋愛なんかどうでもよかったでしょ」 「お前言い方……」 「ボクに彼女ができたなんて言ったら、谷越くんに幸せを見せつけるみたいで申し訳ないから遠慮してたんだよ。ボクの配慮にキミは感謝してもいいくらい」  言い返そうとして、声が止まる。どこまで本気か掴みづらい。多分、いつもの軽口の類だとは思うが。 「いや……言ってくれて平気だったって。逆に、直江も何とかしたんだったら俺も何とかしなきゃって、励みになったかもしれねえじゃん。そっち方向に配慮してもよかったんじゃねえの?」 「やだよ。どうせボクの話なんか一瞬聞くだけで、すぐ『ダンがさぁ』って自分の話し始めたに決まってるもん。ボクの幸せを蔑ろにされるって分かってて、話したくなんかならないよ」 「分かったよ、うるせえな。じゃ、今聞くから」  ふ、と直江は小さく噴き出し、ニコを見た。 「ひとの話を聞ける余裕ができてよかったよ。ホントに」  そんなに余裕がなかっただろうか。そうかもしれない。追い詰められていたという感覚はないが、多くのことを考えていたとは思う。ダンのことだけでなく、バスケにも必死だった。何かひとつに心奪われていたというより、忙しかったのだ。心も体も。 「そんで。どっちから好きになったんだよ」 「そんなの分かんないよ。劇的な何かがあって恋に落ちたのとは違うし」 「気付いたら、ってやつ? 初めから仲良かったってこと」 「そうだね」  随分前に、仲良くなった女の子もいる、と言っていた気がする。 「お前はいつからそのギャルをいいなと思ってたわけ」 「あ、興味を惹かれた瞬間なら覚えてるよ」  そう言った直江の表情が、心なしか明るく変化したように見えた。 「彼女がさ、プログラミングの本、読んでたんだよね」 「さすがリケジョ」 「その本って、プログラムのコードを誰が見ても読みやすいように書こう、っていう主旨の本なんだけどね。それボクも持ってて、いい本だなって思ってたの。谷越くん、プログラミングはやらないだろうけど、イメージは湧くかな。英数の文字や記号が羅列してるコード画面」 「あぁ、何となく」 「パッと見、何書いてあるか分かりづらいでしょ。だから、大事な変数には日本語でメモ付けたりとか、どこが区切りか分かるように字下げしたりとか、そういう工夫をするといいよってことが書いてあって……それってつまり、読む人への優しさってことじゃん」  うん、とニコは頷く。 「それを読むのは数ヵ月後の自分かもしれないし、他人かもしれない。でも、こうやって書いておいたら、誰が読んでも分かるよねっていう優しさだってボクは思ってて。……で、彼女も同じこと言ってたわけ」 「価値観の一致ってやつ?」 「そう。それと、正直に言うなら、ギャルの姿をした彼女がプログラミングの本を真剣に読んでるっていうギャップも、なかなか面白かった」  ふたりで小さく笑い合う。  直江と彼女とは、自分たちが望んだ場所で学びたいことを学びながら、自然に、穏やかに、けれど着実に、惹かれ合っていったのだろうと、ニコは思った。同じ優しさに共感する。それだけで距離が近くなる。その現象に無理はない。直江は彼女の優しい内面に触れて興味を惹かれた。惹かれた相手がどんな格好をしていても構わなかったのだと分かる。構わないどころか、ギャルだという彼女のメイクを信じられないくらい仔細に把握しているのだから、きっともう、彼女を丸ごと好きなのだろう。 「で。告白は。どっちから」 「ボク」 「好きって言ったのかよ」 「言ったよ」 「マジか!」 「声」  他人のことなのに、こんなにも気分が盛り上がるのはどうしてだろう。 「やるな、直江。意外と」 「……ボクもこういう自分と初めて出会ってるから、意外なのか、らしいのか、よく分かんない」 「けど、彼女もお前のこと好きなんだろ」 「そうみたい」 「じゃ、いいじゃん」  その時だけ、直江は少し目を伏せた。コーヒーを飲む。  その表情と仕草に滲む感情を、ニコは知っている。だから、何も言わずに黙ってカフェラテを飲んだ。 「今日は先行くね。ちょっと授業の前に準備することあるから」 「えっ、まだ聞きたいことあんだけど」  直江はカップのコーヒーを干し、椅子を引いた。 「じゃあ、これからは近況報告会だね」  いつもの笑顔がニコを見る。 「谷越くんも、団野くんとのこと、話してよ」 「……おう」 「って言わなくても、勝手に話してきそうだけど」  直江はトートバッグを肩に提げ、テーブルの横をすり抜ける。ニコの横で立ち止まり、 「ごちそうさま」  ニコは首を振り、片手を挙げて直江を見送った。  大切に思う人と、これからどうするのか。みんな、それぞれに決めていく。遅かれ早かれ、決める時が来る。  いい顔してたな、と、目の前の空いた席を見つめてニコは思った。 ********** 「例えば、10、20、30、40って数字が並んでるとすんじゃん。40の次、なんだと思う?」 「50」 「そう。5番目は50じゃん。じゃあ83番目は」 「……え」 「これを早く見つけられるようになるのが、公式ってこと」  なるほど、と生徒が頷いた。  『数学苦手』のタスキをかけた彼は、高校2年生に進級してからもニコの数学の授業を受けている。春休みの間は1年生の復習にたっぷりと時間を使い、2年生で躓くことが極力減るようにニコも尽力した。新しい単元を先取りで教えていくよりも、基礎力を固めていく方が、結果的に彼の自信につながると思ったからだ。  高校二年生の数学Bで、数列の単元が始まっている。学校での授業は少しずつ先に進んでいるだろうが、ニコはこれをまた最初からできるだけ丁寧に説明した。  今日の彼は、心なしか顔つきがすっきりしているように見えた。授業にも集中して取り組んでいる。言葉がちゃんと届いている、とニコは感じていた。  終わり間際、ニコは彼に言った。 「俺さ、今月また大会あるから、次に会えんのゴールデンウィーク明けになると思う」 「あ、分かりました。……ちゃんと、やっときます」 「分かんねえとこは早めに別の先生に聞けよ」  はい、と返事をする彼の自然な笑顔を見て、ニコはもう一度口を開く。 「次会うまでちょっと時間空くから、今のうちに聞いてもいい?」 「え。なんですか」 「……あれからどうした」  何のことを聞かれているのか理解した彼は、少しだけニコから目を逸らした。が、すぐにまたニコに視線を戻し、 「じゃ、今日も自習して待ってます」  あの日と同じ地下通路の壁際に並んで立つ。彼は言った。 「先生が異動になりました。偶然、ですけど」 「あー……公立だっけか」 「はい。3月の内には分かってて、それで……」  片手にアイスココアを持った彼は、ニコの方に顔を向ける。 「これがいいタイミングなんだろうってことで、終わりにしました」  ニコも彼を見た。彼は今も、自然に微笑んでいる。 「どっちも、引き際が分かんなくなってたから。やめるべきだって思いながら、どうやってやめたらいいのか分かんなくて。……でも、今しかないよねって、話し合って、決めました」 「……そっか」  ニコは彼の肩を抱いた。  少しの間、そのままどちらも黙っていた。  これは、ニコ自身の恋愛の話ではない。だから、余計なことは言わなくてもいいように思う。だが、恋愛において、どういう未来の選び方をするのか。彼らは選んだ。自分たちも選んだ。選んだ者同士、口にできる話もあるように思った。それに、彼が自分に話してくれたことの重みを考えると、やはり言った方がいいのかもしれない。そんな逡巡の末に、ニコは口を開いた。 「前、話してくれた時、言ってたじゃん。別れた方がいい理由が多すぎるって」 「はい」 「あの時はさ、無責任に別れろとも続けろとも言えなかったけど、……でもやっぱ、俺も別れた方がいいに1票だなって、今ならはっきりそう思うわ」  どうして、とは聞かず、彼は黙って頷いた。 「世間体とか、ひとに言えないって気持ちは、まあ分かるし、それは多分、やり方次第でどうにでもなんだろ。けど、どうにもなんねえこともあるじゃん」 「……はい」 「お前がその先生とどういう付き合い方してたか知らねえけど、大人はさ、この線超えたらアウトってルールがあるから。まあ、俺も年から言ったらお前に近いわけだし、まだ大人だとも思えないけど、それでも、塾の講師始める時に細かいルールいっぱい読んだし説明もされた。講師は生徒に手は出せねえんだよ」  立場に伴った責任がある。重々しく考えずとも、そういうものだという理解はできる。 「そのルールを破った時点で、相応の処分が下るわけ。クビくらいならいいよ。けど、それで済まねえ場合もあるじゃん」 「……そうですね」 「だから、そうなる前にやめたのは、正しかったんじゃねえの」  彼の頷きには、その通りだという意思が込められていた。きっと、そういうことを具体的に話し合って決めたのかもしれなかった。わざわざ自分が言わなくても、彼はとっくに理解している、そういう印象だった。 「ふたりで一緒に決めたことだとしてもさ、お前はちゃんと、その先生を守ったんだと思うよ」  彼の笑みが深まる。 「誰かにそう言ってもらえると、ホッとします」 「しんどかったな」 「まあ……。でも、悪いことばっかりじゃなかったし。今は、納得もしてるんで」 「お前、大人だよな」 「え」  年下のくせに。そう思ってニコは彼に笑いかける。 「数学は俺の方ができるけど」 「……先生なんだから当たり前でしょ」 「数学の評定なんか3でいいんだよ。努力は認められてるってことだから」 「…………」 「がんばれるのがお前のすげえとこだよ、ホントに」  苦手なものにも、辛いことにも、果敢に立ち向かえるその強さの原点がどこにあるのか、ニコは知らない。しかし、想像できることがあるとすれば、彼もアスリートだということだ。長くサッカーに携わっているという彼の心身は、そこで鍛えられていったのかもしれない。それなら、ニコにも少し分かる気がする。 「聞いてくれたのが先生でよかったと思います」 「なんで」 「わかんないけど」  ここにもひとり、大切な誰かとの未来を決めた人がいる。  ニコは彼の背を叩き、その顔を見つめた。彼が彼らしい笑顔でいることに、安心し、嬉しくもなる。 「じゃ。また来月な」 「はい」 「じゃあ」 「ありがとうございました」  一瞬迷って、けれど、ニコは彼に手を伸ばし、その身を軽くハグした。  戸惑う彼の顔に笑い、じゃあな、ともう一度言って、ニコは改札口へと歩いて行った。 続く

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