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㉒本能

 第2クォーターの途中。ブザーが鳴る。選手交代のアナウンスが流れた。 『2番・塩見選手に代わりまして、14番・谷越選手』  残り時間は6分。時計を一瞥して、ニコはコートへ向かって歩き出す。戻ってくる塩見先輩と目が合った。 「リバウンド」 「はい」  一度肩を回して筋肉を解す。間宮先輩が普段よりも鋭い雰囲気を纏い、控えめな微笑でニコを迎え入れてくれた。  ディフェンスからのスタートだ。相手チームのPFのマークに付く。  4月半ばに始まった春大会は、2週目を迎えていた。先週の土曜に初戦、日曜に2回戦を終え、今日が3回戦目となる準々決勝だ。総当たり戦だった関東リーグと違い、春大会はトーナメント戦だから、一度負けたら次はない。組み合わせは運次第とも言えるのだが、先週の2戦はどちらも自分たちと同じ2部所属のチームだった。初戦は余裕を持っての勝利、2回戦は接戦の末に何とか勝った。この展開はほぼ予想通りで、どちらの試合でもニコはベンチ入りを果たしたが、コートに立てたのは初戦だけだった。大きな点差のついているタイミングで、様子見のために投入された。  しかし、今日は違う。3戦目。当たったのは、1部所属の格上のチームだった。戦況も良くはない。大きく負けてはいないが、こちらが追いかける展開が続いている。2戦目の接戦も緊張感が高かったが、今はそこに焦燥感も加わっていた。だから、とニコは自らの使命を思う。スタメンである塩見先輩を休ませ、自分が預かった時間に責任を持つ。調子は悪くなかった。呼吸もいつも通り。練習でやれていたことに対する自信もあった。足りない部分が、この試合でいきなり補われるような奇跡は起きないだろうが、諦めないことは、できる。  ボールが右に、左に運ばれていく。相手チームのパスは巧みだ。ニコは相手PFにボールを回す選択肢を必死で潰そうと試みる。PF同士、共にペイントエリアに入り込み、位置の奪い合いが始まった。身長差を間近で確かめる。リーチは。ベンチで見ていた限り、ジャンプ力は並の選手だ。フィジカルは。ボールが一度外へ回され、外角からシュートが打たれた。軌道は。反射的にニコは腰を入れていた。ニコの感覚が最も研ぎ澄まされる瞬間だ。理屈では説明できない。左から伸びてくる手よりも先に、リングに当たったボールを奪い取り、振り向いて、ドライブへ。左サイドから、谷越、と声が聞こえる。右サイドも見た。追いついてくる相手PFの気配。味方がスクリーンに入って行く手を阻んでくれた。その隙に、間宮先輩にパスを出し、また走り出す。誰がどこにいるのか。動きづらい味方はいないか。空いているスペースは。右のコーナー付近が空いていた。走る。到着と同時にパスを受けて、ニコは腰を落とした。マークに来た相手が数歩下がった。そのドライブに備えた動き出しの瞬間、心が決まる。ゴールのほぼ真横からシュートを打った。ボールがリングを潜った。 「いいよ、谷越。ナイス!」  喜んでいる暇はない。即座に攻守が入れ替わる。  少し、見えるものが増えたような気がした。相手チームは格上だけあって、確かに技術も戦術も磨かれていると思う。その戦術が彼等の体にしっかり染み込んでいるからか、どう動きたいのかが何となく予測できる。ニコ自身が好きなプレイに近いのかも知れなかった。きれいに繋がるパス。正確な軌道を描くシュート。敵ながら見事だった。それならば、とニコは展開を見る。自分がこうされたら嫌だと思うことを積極的にやるしかない。  ペイントエリアの外からシュートが打たれた。少し強い。バックボードの白い四角のやや上方にボールが当たった瞬間、ニコは飛んでいた。左隣でほぼ同じタイミングで飛んだ選手と接触する。負けられない。が、左からボールを弾かれ、ボールはニコの指先を掠めていく。右側にいた相手プレイヤーがそれを受け、シュートを打ち直す。ボールは、ネットを抜けた。  ブザーが鳴った。タイムアウトだ。一斉にベンチへ戻る。  ここまでか、とニコは一度深く息を吐いた。  汗を拭き、飲み物を喉に流し込みながら、監督の指示を聞く。シュート精度の低いやつに打たせろ。リバウンド取れ。思い切ってスリーポイント狙え。向こうの10番、スクリーン来るから柔軟にスイッチで対応しろ。  タイムアウト残り10秒の合図が来る。ニコはここで交代だった。塩見先輩がコートへ戻る。 「谷越」  間宮先輩が、また控えめな微笑を浮かべてニコを見た。 「はい」 「まだ油断すんなよ」 「え。はい」  それだけ言って、間宮先輩はコートへ向かっていった。試合再開の合図が鳴る。  ニコがその言葉の意味を知ったのは、第3クォーターの終盤だった。点差は思うように縮まらず、依然相手チームのリードを許している。派手なミスがあるわけでも、シュートが決まらないわけでもないのに、追い越せない。ベンチでじっと展開を見守りながら、ニコは『自分ならどうするか』を考えていた。  その時、監督から名前を呼ばれた。返事をしたのは殆ど反射だ。立ち上がると同時に、監督に手招きされる。 「さっきのでいい」 「……はい」 「リズム崩せ」  ジャージのファスナーに手をかける。交代だ。本日2度目。鼓動が上がった。  ブザーが鳴り、塩見先輩と入れ替わる。さっきの交代の時より、すれ違う塩見先輩の表情は険しかった。  あんたみたいには出来ないけど。胸も掌も熱くなる。が、頭は冴えていた。  味方のスローイン。プレイヤーたちが配置についているのを見る。  ニコの傍に相手チームのPFが寄ってくる。この時点で? とニコは不思議に思ったが、いや、とすぐに納得した。パスのルートを塞ぐならこれが効果的だ。俺もさっきやったな、と第2クォーターを思い返す。それなら、これはお返しというわけだ。嬉しくなる。少なくとも、コートに立っている今この時は、一人前だと認められている。思わず口角が上がった。  自分へのパスがないまま、ボールは少しずつ運ばれていく。空間を把握する。間宮先輩に向かってパスが送られた。と、それを見たニコはコートを横断するように駆け出した。距離があるが厭う理由はない。間宮先輩の手にはボールが、目の前には相手のPGが立ちはだかっていた。その脇へ踏み込み、ニコはスクリーンをかける。ニコが作った壁を利用して、間宮先輩がドライブへ。場が動いた。そこから先輩を追いかけるようにまた走り出す。  次は。  ボールがどう流れていくのが最善かをニコは考え続け、走り続けた。  先ほどと同じようにコーナー付近まで駆けつけたところにパスが来た。相手のPFが即座に対応してくる。さっきよりも距離を開けてはこない。その場でドリブルし、左右にスイングする。ドライブのタイミングを計るのが半分、もう半分は。右に踏み込んで、左へパスを送った。味方が受け止めるのを見届け、ポスト下へ駆け出す。シュートが打たれた。ガードに伸びる手。リバウンド争いが始まっている。腕が、肩がぶつかり合い、リングで跳ねるボールに、一斉に床を蹴る。絶対に逃せない。ニコは強引にボールをもぎ取り、着地とともに投げた。ボールがネットを潜り抜ける静かな音がした。  間宮先輩がニコの腰に触れて言った。 「走れ」  ニコは黙って肯いた。  今、ニコを含む味方5人は、一丸となってゲームに挑んでいた。オフェンスでもディフェンスでも、最良の判断を下し、それを実行すべく、懸命にコートを駆けていた。にも関わらず、それでも時にガードに掴まり、シュートは打たれ、得点されていく。  すげえな、とニコは思った。高校時代から全国レベルで戦ってきたスーパープレイヤーたちが、1部には集まっている。マジで上手いんだな、と感心した。そして、そこからさらに技を磨き、体を鍛え、大学ならではの戦術を叩きこまれた彼らと、今こうして同じコートに立っている。そのことにニコは感激すらしていた。勝てないかもしれない。でも、勝てたらすげえ。自分たちが劣勢なのは誰の目にも明らかだが、ニコは顔を下げなかった。下げる理由などない。やれると思うことをするしかない。走れと言うなら走るしかないのだ。  第3クォーターが終わり、第4クォーターへ。これが最後だ。  ニコは味方のフォローに走り続けた。オフェンスでは心地よい連携が叶うように。ディフェンスではできるだけ相手が嫌がるように。こめかみから滴り落ちる汗を振り払い、足を止めることなくコート内を動いた。遅せぇ、と塩見先輩に言い刺された言葉を思い出す暇もない。今の自分が遅いのか速いのかも、考えている余裕はなかった。  はっとしたのは、思いがけないタイミングだった。パスを取り損ねた相手の手から、ボールが落ちた。予期せぬ方向へバウンドしたボールを見るや否や、ニコは駆け出していた。あれは、俺のだ。床に滑り込み、サイドラインを割る手前で捕まえる。谷越、と声。相手ゴールに向かって走っている味方へボールを投げた。ガードは追いついていない。スリーポイントラインから放たれたシュートは、きれいにリングを抜けた。  ブザーが鳴った。 『選手の交代です。14番・谷越選手に代わりまして、2番・塩見選手』  呼吸を整えながら、ニコはベンチへ向かった。  塩見先輩と目が合った。すれ違いざま、肩を叩かれる。  その後も、ニコはベンチからずっと試合の流れを見つめていた。自分と塩見先輩のプレイは、同じとは言えなかった。前は彼を真似することを試し、身になることもあったが、さっきまでコートにいた自分と、今コートにいる塩見先輩とは、正直、似てさえもいない、とニコは思う。彼はニコがしたような、自分以外の4人を常にフォローしているとは言い難かった。それはフォローをしないという意味ではなくて、フォローする場面を厳選しているように感じるのだ。そして、塩見先輩のフォローは的確で、効果的だった。さっきの自分は縦横無尽に駆け回ってあれこれ世話を焼いたつもりになっていたが、効果が100パーセントであったかと言われれば、そうでもない。狙い通りの効果が出たのはせいぜい半分ちょっと、あるかないかだ。精度の低いフォローに回るくらいなら、回数は減っても確実な仕事をした方がいい、のかもしれない。それをやっているのが、塩見先輩だ。  でもな、とニコは小さく息を吐く。  だったら、回数増えても精度の落ちないフォローをすればいいんじゃね?  足りないものはなにか。判断力か。やはり速度なのか。迷いはなかったと言い切れるか。それから、走り続けられる持久力。次のパーソナルジムで相談できることが増えた。  点差が少し詰まったのは、塩見先輩の力か。いや、それだけでもなかった。チームの先輩たちは、誰一人として試合を諦めてはいない。気持ちは、負けていなかった。  だから、試合終了のブザーが鳴ったその時、追いつくことのできなかったスコアボードの結果を見て、ニコは悔しさを覚えると同時に、善戦した、そう思った。もちろん、口には出さなかった。トータルでおよそ10分。たった10分コートにいただけの自分が、先輩たち相手に感想を述べるべきではない。これは遠慮ではない。当然の敬意だった。  体育館のロビーで解散となった直後、間宮先輩に声を掛けられた。隣には塩見先輩もいる。 「お疲れ」 「お疲れさまでした」 「塩見が感動してるよ」 「え」  塩見先輩の顔を見る。彼は間宮先輩を横目に睨んで、 「するかよ」  いつもの調子でそう言った。間宮先輩は笑う。 「なんでよ。俺は感動したけどね」  話が見えず、ニコは首を傾げた。 「今日さ、谷越がどういうプレイヤーなのか、ちょっと分かった気がしたから」 「……と言うと?」 「いや、入部からのお前を見てたらとっくに分かってたことだけどね。今日の試合って谷越にとっては、例えるなら、相手チーム全員塩見、みたいなことじゃん?」  はてなマークが頭上を飛ぶ。想像したら怖かった。 「強い相手に萎縮しないってことの、裏が取れた感じ。萎縮しないどころか、結構楽しんでたろ」 「ああ、それは……楽しかったです」 「うん。あと、機動力。鍛え甲斐ありそう。結構走れてたから」 「……けど、数分走れるだけじゃ意味ないんで」 「そうだね。でも、塩見とは違ったタイプのPFになりそうだから、楽しみにしてる」  じわり、と心が熱くなった。負けたことが急にひどく悔しく思えてくる。  それじゃ、と歩き出す先輩たちに、もう一度挨拶をしようと口を開きかけた時、塩見先輩がニコを見た。 「口だけ番長で終わんなよ」  本日の格言。ニコは笑みを返し、はい、と応えた。  鞄を肩に提げ、ニコも体育館を出た。  心の中に、間宮先輩の言葉が何度も浮かんでくる。塩見先輩とは違ったタイプ。楽しみにしてる。それをじっくりと噛み締めながら、公道へ向かうレンガ敷きの道を歩いた。 「ニコ」  呼ばれた声に顔を上げた。  声が、出なかった。混乱する。なんで。無意識に瞬きが増え、唇を開いて息を吸い込んだ。  ダンが、近付いてきた。 「おつかれ」 「……うん」  ようやく、喉が鳴った。コクリ、と飲み込んで、その顔を見つめる。 「……どうして」 「……どうして、って……」  今度はダンの瞬きが増えた。スイと斜め下に逸らされる視線。 「一度……観てみたいなと思って」 「……観たの?」 「観たよ」 「マジで?」  途端に胸がざわざわと揺れ始めた。  気付かなかった。観客席に注意を払うことなど1回もなかったから。  そして、『今日の試合』を見たダンのことを思う。自分たちのことを思う。 「……ごめんな。勝てなくて」 「いや」  ダンは強くそう否定し、はっきりと首を横に振った。それだけのことで、ニコは少し安心する。 「お前、バスケ分かるんだっけ」 「雰囲気は分かる」  つい笑ってしまった。 「面白かった?」 「……だいぶ。て言うか……ドキドキした」 「あー。イラついた? もっとシュート入れろよ、とか」 「そんな気持ちになるわけないだろ。なんて言うか……」  言葉を探すダンは、一度唇を嚙み、 「……生まれて初めて祈りを捧げた」 「え?」 「シュートがちゃんと決まるように」 「…………」 「ニコたちが、勝てるように」  たったの10分、コートにいただけだ。それなのに、思いがけず観戦してくれていたダンの言葉に、また深い悔しさが込み上げてくる。  鞄を地面に下ろし、ダンに手を伸ばす。流れ出す感情に抗えず、ニコはそのままダンを抱き締めた。腕の中で、ダンが身を固くするのが分かる。ダメ、と微かな声が聞こえた気がした。だが、そのうちダンの手がニコの背に回り、手のひらで優しくそこを叩かれた。その慰めで充分だった。身を放すと、ダンはもう一度言った。 「おつかれ」 「ありがと」  鞄を提げ直すと同時に、深く息を吐く。 「飯食いたい」 「どっか寄る?」 「寄らないと倒れる」 「じゃ、寄ろ」  最寄り駅まで歩く間、ダンはあまり喋らなかった。ニコも特に喋らなかった。隣をダンが歩いてくれているなら、黙っていても構わなかった。  中華料理屋を見つけてそこに入った。ラーメンと半チャーハンの定食。餃子を一人前。失ったエネルギーを補うように、ニコは夢中でそれらを食べた。  目の前でチャーシュー麵を食べているダンは、やっぱり黙っている。どこか、ぼうっとしているようにも見えた。ラーメン丼の中のチャーシューがやけに美味そうだ。厚みがあって、柔らかそうだった。その視線に気付いたのか、ダンがふっと笑う。 「1枚食う?」 「いいの?!」 「いいよ。看板に偽りなし」 「看板」  ダンは店内の壁を指差した。『当店自慢・熟成チャーシュー』という貼り紙がある。 「よく見てんな」 「その店のこだわり商品は試すことにしてるから」  チャーシューは美味かった。自分もこれにすればよかったと思うほどに。  食事が済んでひと息つくと、ダンが言った。 「初めて、お前の試合、ちゃんと見てさ」 「あぁ。そうか」 「なんか、いろいろビックリした」 「ふうん」  そのビックリを、ダンは事細かに説明しなかったけれど、ひとつだけ、呟くように言う。 「知らない顔してた」  なんだか気恥ずかしくなる。 「試合中もイケてたろ、俺」 「……あのさ」 「ん?」 「本気なのかツッコミ待ちなのか、どっちか分かんない発言やめろよ」  なんだろう。妙な既視感があった。ツッコミ待ちに決まっている。  ダンはニコの顔をじっと見て、ふ、と口許を緩めた。何を思っているのかニコには計り知れないが、やはり、ダンがそこにいるだけで充分だと思った。  春の大会。トーナメント戦は準々決勝で敗退となったが、いい試合だった。そして、とてもいい日だった。 続く

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