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㉓愛情

 翌日の夜。時刻は20時半を回った頃だった。  車の速度を落とし、ニコは目的地の敷地の前で一度ブレーキを踏んだ。敷地の中を見る。バイク屋のシャッターは閉まっていた。閉店時間は20時だから、アユミさんは既に家に戻っているのだろう。そして、自転車屋を見る。店頭の明かりは消えていたが、店内から光が漏れている。ニコはハンドルを切りながらゆっくりとアクセルを踏み、いつものようにバイク屋の前の空きスペースに車を停めた。  ボディバックを手に車を降りて、自転車屋に向かった。店の外は片付いていて、シャッターも半分閉まっている。ニコは店の目の前まで歩いて行って、シャッターの前でしゃがみ込んだ。奥の方で、作業しているダンがいた。どうしようか少し迷った末、ニコはガラス戸に手を掛けて、静かに開けた。身を屈めてシャッターを潜り、店内に入る。戸を閉めて振り向くと、ダンが立ち上がってこちらを見ていた。 「おう」 「ごめん。もう終わるから」 「全然。急いでねえし」  ニコは、接客用カウンターの椅子に座り、作業に戻ったダンを黙って見つめていた。1台の自転車の前にしゃがみ、ペダルをくるくると回している。仕事をしているダンの顔をじっくり見たことはあまりなかった、とニコは気付く。大人と同じ世界にいる。そう思うのは何度目になるか分からないが、作業着を着て、自転車の面倒を見ているダンは、自分とは少し違う世界にいる、そんなふうに感じてしまう。  店にはダンの他は誰もいなかった。堤さんも阿部さんも帰った後なのだろう。仕事が残っているから、閉店時間を過ぎた今も、ダンはこうして作業を続けているのに違いない。  昨日、ニコの試合を観に来てくれたダンのことを、昨晩も、今朝起きた時も思っていた。一度も想像したことのないサプライズで、ニコは心底驚いたし、嬉しかった。だからダンに会いたくなった。連絡をしようかスマホを手にした時に、ハタと気付いた。今日は日曜日。昨日は土曜日だ。自転車屋は、どちらも営業日だった。ダンは、仕事を休んで試合を観に来たということになる。何ヵ月も前から分かっていた予定ではない。春の大会は先週始まって、日曜日に2回戦を突破した時点で、『勝てたから来週も試合だ』とニコはダンにメッセージを送った。つまり、ダンが試合を観るために休みを取ると決めたのは、どんなに早くても、1週間前だったわけだ。ダンが試合を観に来られたということは、堤さんと阿部さんが許可を出したということで、だから、もしかしたら、とニコは思う。ダンは、昨日休んだ分、今日は俺が頑張ります、そう言ったのかも知れない、と。  自転車をきれいに拭き上げて、ダンはそれを店の奥の方へ移動させた。工具類を片付け始める。その手元を見ながらニコは言った。 「今日、忙しかった?」 「まあ、いつも通りかな」 「自転車って春も売れそうだよな」 「うん。生活変わったタイミングで買う人もいるから」 「おつかれ」 「うん」  閉店する頃に会いに行ってもいいか、とニコは昼間のうちにメッセージを送っていた。いいよ、とシンプルな返信があって、それから夕方頃、少し遅くなるかも、と追加の返信が送られてきた。日中は春大会の準決勝を観に出掛けていて、一度家に戻り、それから車を出してここに来た。  店をすっかり片付けて、一緒に表に出る。ダンが戸を施錠し、シャッターを閉めた。じゃあ、と歩き出すダンに、ニコは言った。 「お前、飯は」 「……ああ、まだだけど、でも……」 「飯は食えよ」 「…………」 「先に2階」 「お前、また親父に会いたいだけじゃないの」 「それはついで」  作業着のままのダンとともに、自転車屋の裏手から2階へ上がった。玄関で靴を脱ぎ、お邪魔しまーすと声を掛けながら、ダンの後からリビングへ入っていく。アユミさんはもうテーブルの上に缶ビールを置いて、のんびりと寛いでいた。 「おう、お疲れ」 「うん」  親子で仕事終わりの挨拶を交わしている。それからアユミさんはニコを見て、 「ノゾミもお疲れ。昨日試合だったんだろ」 「はい、ありがとうございます」 「今日は試合なかったのか」 「あー……昨日負けたんで、もうないンすよね」 「あれ。そうなの」  アユミさんは立ち上がり、 「てっきり勝ったんだと思ってたわ」 「なんでですか」  アユミさんが本当に意外そうな顔をするので、ニコはきょとんとする。試合だったことはダンから聞いて知っているとして、それなら試合結果も報告されていてよさそうなものなのに。 「ゆうべ、メグミがやたら興奮してたからさ。だから……」 「親父、今日飯なに」  ダンがアユミさんに体をぶつけながらキッチンに入っていく。 「うどんでいいか」 「いい」  アユミさんはキッチンを指差し、ニコに小声で言った。 「余計な事言うなってよ」  ニコは笑って頷いた。 「けど……お疲れ様。きっといい試合だったんだろ」 「やれることは頑張ったって感じかな」  ニコの腕を軽く叩いて、アユミさんもキッチンに入っていった。  夕飯は家で済ませてきたのだが、当然のようにニコの前にもうどんが運ばれてきた。天かすと青ネギが乗ったシンプルなたぬきうどんだ。隣に座るダンを見、この量で足りるのだろうかと心配になる。一日仕事をして、残業までして、最後に摂った昼食からは随分時間が経っているのではないかと思う。ニコにしてみたら、このうどんはおやつだ。  アユミさんがダンに言った。 「冷凍ご飯ならあるぞ」 「いや、いい」  いらねえのかよ。食べればいいのに。ノゾミは、と聞かれて、ニコも断った。  大した時間もかからずに食事は終わり、ダンは早々と席を立った。3人分の器をキッチンへ下げる。ごちそうさまでした、とニコも立ち上がった。ダンと一緒に2階の部屋を出て、3階へと上がっていった。  いつものダンの部屋に入る。ダンが部屋の鍵を閉めるのが分かった。入口に近いその場所で、ニコはダンの腕を取る。 「ダン」  軽く引き寄せて、その顔に両手をあてがい、少し身を屈めてキスをした。 「ありがと。昨日」  ダンは驚いたような顔をし、小さな声で「うん」と応えた。視線がそっと逃げていく。そのまま寄り添うように部屋の中ほどへ進み、並んでベッドに腰を下ろした。 「ダンはさ、観たいと思ってたの。俺の試合」 「あぁ……機会があったら、くらいだったんだけど。でも、先週勝ったって連絡もらった時に、……なんか、行こうかなって」 「なんで言わねえの。来るって」 「……いや、別に、大した意味は……」  答えをごまかそうとしているふうなのに、ダンはニコの手首をそっと掴んできた。 「……俺が観てるかどうかは、どうでもいいって言うか。俺が行くからどうこうじゃなくて……俺が、観たかっただけだから」  うん、とニコは頷いて、 「けど、今後の参考までに言っとくと、ダンがいるって分かってたら、俺、めっちゃがんばれるタイプ」 「分かってなくてもがんばってただろ」 「そうだけど、もっとがんばれんだよ。だから、来るときは教えて」 「……うん」 「まあ……無理じゃないときでいいから。仕事、少し暇なときとか」  ダンは、掴んでいるニコの手首から、少しずつその手を上の方にずらしていった。肘から下の腕の形を、服の上から確かめているような所作だった。やっぱり筋肉フェチなのだろうか、と心の中で思い、ニコは黙って触らせておく。 「……やっぱ、シュート決まるの見たとき、すげえアガった」  ニコは微笑んで返す。昨日決めたシュートは2本だ  ダンの手が、上腕へと移っていく。深い吐息とともに、手に力がこもる。 「それに……結構ハラハラするもんなんだって思って」 「そう?」 「そうだよ。ゴールの辺りとか、そうじゃない時でも、何度か相手とぶつかってたし」 「あー」 「でも、リバウンド取って、で、そこからドリブルで走ってた時とか……なんか」  ぎゅ、と腕が握られた。 「……お前、そういう顔するんだって思った」  顔、とまたダンが言う。プレイのことなら、自分でも思い返すことができる。だが、試合中の自分がどんな顔をしていたか、ニコは分からない。  片腕を握ったまま、ダンが顔を上げる。 「あとさ……これ、気のせいかもしれないんだけど……」 「なに」 「ニコ、一瞬、笑ってなかった?」 「……いつだろ。シュート決めた後とか?」 「じゃなくて……もっと普通の時。向こうのチームの人と並んでた時、だと思う」  並んでいたということは。あれかも、とニコはひとつの場面を思い浮かべた。自分がオフェンスで、相手のPFがマークについた時のことではないだろうか。ダンの言う通り、一瞬喜びを感じていた自分がいた。コートの中ではまだ未熟な自分でも対等に扱ってもらえる。そう思って、笑ったかもしれない。 「よく見えたな」 「そんな気がしただけ。でも……」  そこで言葉を切り、ダンはまたひとつ息を漏らして、 「……それも知らない顔だったから……びっくりしたって言うか」  ダンは腰を浮かせながら両手をニコに伸ばしてくる。先ほど自分がされたのと同じようにニコの顔を捉えて、キスをくれた。触れるだけのキスだったが、今日もニコは、そこからダンの熱を受け取る。それも、かなり熱い。  離れたダンの唇からまた呼気が少し漏れて、間近にニコを見つめたまま、言葉を紡ぐ。 「……今日、会えると思ってなかった」 「……ん。ちょっとでも顔見たくてさ」 「どうして」 「昨日は、ありがとうを全部伝えらんなかったから」  次のキスは深かった。ダンが体重をかけてくる。その身を受け止めながらベッドに背を埋めて、ニコも舌で応じた。  ダンのキスは饒舌だ、と、これも何度も感じたことだ。今も、ダンはその思いを幾つも伝えてきている。ダンも、自分に会いたいと思ってくれていたのだと分かる。こうしてふたりになりたかったことも、触れあいたいと願っていたことも、分かる。  ダンの手が、春物のニットの上からニコの腹から胸を撫でた。ダンはこういう触れ方をする。確かめるように、丹念に、丁寧に。ニコに刺激を与えるためと言うより、ダン自身が何かを得ようとしている。そんなふうに見える。ニットの裾が捲られて、素肌にダンの指先が触れた。ダンが小さく息を呑む。ニコは静かに身を起こして、自らニットを脱いだ。それから、ダンを引き寄せて、抱き締めて、またキスをする。が、またダンに胸を押されてシーツに戻された。ふ、と思わず笑みがこぼれた。それを見咎めるようにダンが言う。 「……なんだよ」 「いや」 「……疲れてるよな」 「まあ多少は。でもちゃんと寝たし……」 「少しだけ」 「え」 「少しだけ」  どう少しなのか、少しで済むのかニコは疑問に思うが、頷いて見せた。試合後の体を労わってくれるのは、素直に嬉しかった。  露になったニコの上半身を、ダンはまた撫で始めた。時々、唇が押し当てられる。これもまた、ニコに何かを施そうという意思ではなさそうだった。腹筋。胸筋。両方の腕にも。特に集中して鍛えてある上腕から肩のラインにも、ダンはそっと口づけている。やはり、ダンの感情がある。だが、恋情とは少し違う気がする。祈りを捧げた、と言ったダンの言葉を思い出した。そうか。ダンの気持ちは、まだ昨日の観客席から離れられていないのかもしれない。  あ、とダンの小さな声がした。ニコは、ダンの触れている左肘の辺りに目をやった。 「なに」 「痣。できてる」 「あーマジで」 「痛くねえの」 「押してみ」 「…………」 「痛てぇ」 「ごめん」  ハハハ、とニコは笑う。ダンがそこを摩ってくれた。 「痣くらいフツーだから大丈夫だよ」 「気をつけろよ」 「それはちょっと難しいかも」 「……他にもあんの」 「どうだろ」  ダンは、その痣にも唇を押し当てた。少し、長い時間。その姿がニコの心を優しくさせる。  まだ着替えの済んでいないダンの作業着に、ニコは手を伸ばした。胸元のファスナーを摘まんで、そっと引き下ろす。それに応じて、ダンは上衣を脱いだ。黒い半袖のインナーが、細身の体のラインに沿っている。その胸に手を触れた。しかし、ダンはニコの手を退けた。 「いいから」 「なにが」 「何もしないでいいって」 「なんで」 「すぐ『なんで』って言うよな、お前」  そう言ってダンはクスリと笑い、ニコの体に跨る。  答えをはぐらかされたことは分かったが、一旦追求するのはやめておいた。ダンが首元へ顔を埋めてくる。首筋や耳にその唇が触れ、濡れた音が響いた。スイッチが変わった。ダンから与えられ始めている。これは性的なにおいだ。唇を這わせながら、片手もニコの体のどこかを触っている。ニコはダンの背に腕を回して、同じように触れた。ダンの唇が耳朶を食む。それから頬へ。顎先へ。間近に目を合わせた時、ダンの瞳が深く濡れているのに気付いた。ぞくりと胸が震えるのと同時に、ニコの唇が塞がれた。熱に侵されるようなキスに鼓動が上がる。ダンの腰を抱き、髪を撫でた。やがてダンはインナーを脱ぎ捨てて、素肌同士をぴったりと触れ合わせながら、何度も熱いキスを繰り返した。  だから、下肢を覆っていたコットンパンツや下着を脱がされていくとき、ニコの頭から理性は半分脱けかけていて、ダンがまた太腿やふくらはぎにも丁寧に口づけるのを、少し焦れったく感じていた。自ら性器を握って確かめる。が、確かめなくても分かっていた。緩やかだが温度の高いダンのキスのせいで、そこはもう硬くなっている。ダンにその手を退けられた。代わりに、ダンの手がそれを包む。と、すぐにその口腔に先端が吞み込まれていった。ニコの口から吐息が漏れた。  できれば、一緒にしたかった。順番に、でも構わないのだが、一方的に刺激を与えられるより、同時に与え合う方がニコは好きだった。多分、ダンもそうだ。けれど、何もしなくていいと言われた手前、自分も触りたいと言い出しにくい。それに、ダンの口の中で性感が高まっていくに連れて、理性がどんどん外へ追いやられていく。それに抗うのもまた難しかった。 「……なあ」  ダンの目だけがこちらを見る。 「……イク、かも」  微かにダンが頷いた。許可されたことを喜ぶべきか。だが、逡巡している暇はあまりなかった。口と手を使ってニコを射精に導こうとするダンの意思の前に、やはり抗う術はなかった。ニコはダンの肩を軽く押して、口を放すよう促す。だが、吐精のその時、ニコの性器はまだ熱く濡れた粘膜に包まれたままだった。快感は深かった。  荒い息を吐きながら、ニコは身を起こす。ダンはもう口を放していたけれど、その喉が上下するのを見て驚いた。 「お前……」  え、とダンがニコを見る。 「……嫌だった? こういうの」 「いや俺は嫌じゃないけど、……嫌じゃねえの?」 「一回やってみたかった」  あまりにも素直なその言葉に、ニコはつい苦笑してしまった。出したものを飲み込まれただけで、ニコ自身には何も影響はない。でも、何となくダンに申し訳ない気持ちになる。 「感想は」 「大丈夫」 「なんだよ大丈夫って」 「またできるって意味」 「……あぁ、そうなんだ」 「いいよ別に。ニコはやんなくて」 「……前向きに検討してみるけど」 「検討しなくていいから」  ダンは微笑んでいる。いいと言われても、とニコは思う。天秤は平衡がいいのだ。  じゃあ、とベッドから降りようとするダンを、ニコは止めた。その手首を掴む。 「俺だけイッて終わりはねえだろ」 「でも……」 「足りねえんだよ、これじゃ」  ダンをベッドに引き戻す。戸惑うその仕草を見つつも、ダンを横たわらせ、今度はニコが見下ろす体勢になった。 「ダンにだけ初体験させらんねえだろ」 「いやだから、ニコはやらなくて……」 「続き」 「……え」 「続き、してもいい?」  ダンの表情が変わる。時折見せる、あの顔だ。ニコを見つめる瞳に裸の感情が宿る。ニコの心に火が灯る。 「まだ、触ってないとこ、あるだろ」 「…………」 「触りたいんだよ。ダンの全部に」 続く

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