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第3話
翌日の授業中。
視線は前方の黒板にあるものの、俺の頭の中は昨日の昼休みの出来事でいっぱいだった。
改めて思い出してみても、昨日の狩矢くんは以前からは想像もつかないくらい砕けた態度で接してくれていたと思う。それだけ俺に気を許してくれたのか、はたまた機嫌が良かっただけなのか。後者のような気もするが、自分の都合のいい方に考えたってバチは当たらないだろう。俺の「めげない! しょげない! 狩矢くんと仲良くなろう大作戦」は功を成したと言っても過言じゃない。数々の表情を見せてくれたことが俺はとても嬉しい。
が、しかし……。
あの、本当に笑っているかも疑わしい微微微笑や、ため息と共に浮かべる呆れた表情。それから、いたずらっ子のような無邪気な表情から、大切な人を褒められて嬉しそうに目を細める仕草。
その全てが目が潰れてしまうんじゃないかってくらいきらきらして、かつ頭にこびり付いて離れない中毒性のあるものだったなんて、誰が予想できただろう。
たしかに彼は顔がいい。それは揺るぎない事実。でも俺の知っている狩矢くんはいつも眉間に皺を寄せ誰も寄せ付けない雰囲気を放つ人だった。それが通常運転なんだと思っていた。でも蓋を開けてみれば、そんなものはこちらが一方的に押し付けていた印象で。実際は、感情がとても素直に表に出る人であった。
昨日の昼休み以降の授業中も、帰宅中も、家族と夕食を摂っているときも、入浴中も、就寝前も、寝て起きてからも。俺はずっと、四六時中、狩矢くんの顔を思い浮かべている。
これはまずい。非常に。
底なしの沼にハマりかけている気がする。
俺が女の子だったら、もっと簡単に何の憂いもなく彼に憧れることができただろう。でも俺は男だ。しかもベータ。
そんな俺が、かっこよくて頭も良くて、おそらく運動もできる超人アルファに特別な感情を抱くなど……。彼にとって迷惑この上ない話だ。
俺は生まれてこのかた、恋というのを経験したことがない。
あの子かわいいな、くらいに思ったことは勿論あったが、それが恋かと問われればはっきりノーと言える。恋というのは常に相手の顔がチラついて、イチゴのような甘酸っぱい感情に胸を高鳴らせるものだ。そんな胸の高鳴りを、俺はまだ感じたことがない。……まぁ、そういう感情になるっていうのは、全て兄の受け売りだけれども。
マンガやドラマのラブストーリーを見て、恋をなんとなく知った気になって、でもどこか自分には遠いものであると感じていた。だって所詮は物語、フィクションだ。実際にどんな気持ちになって、どれくらい胸が高鳴るかなんて俺にはわからない。というかそうなる自分が全く想像つかない。とどのつまり興味がなかったのだ。
けれど、兄の恋愛相談や惚気を聞いていくうちに、ようやく恋という存在に興味を持った。
頬を赤く染めながら好きな人(恋人)のことを話す兄は、正に恋する乙女だ。
俺の兄は、見た目は所謂『美人』に分類されるが、性格は非常に男らしい人だ。精神的に不安定だった時期は誰も手が付けられないくらい荒れていて、外ではケンカ沙汰ばかり。家に帰ってこない日もしょっちゅうだった。印象的には今の狩矢くんに似ている。
そんな兄を一番近くで支え、変えたのが兄の恋人だ。
決して素直ではない兄にあんな乙女のような表情をさせるなんて、あの人と恋のパワーは絶大だなと感心したのを覚えている。そしてそれと同時に、自分もあんな恋をいつかは……なんて。ほんの少し、憧れを抱いた。
たぶん今、俺は彼に――狩矢くんに恋をしてる。想像してたよりもドキドキするし、狩矢くんを思い出すと心臓を掴まれてるんじゃないかってくらい胸が締め付けられて苦しいくらいだけど、これは間違いなく恋、しかも初恋と言えると思う。
ようやく、俺も恋をすることができた。
……が、恋とは、人を好きになるだけでは終わらない。どうしてそれに気付かなかったんだ、俺は。
好きになったら、想いが成就するか砕けるかのどちらかだ。俺の場合、当たる前に砕け散る可能性が非常に高い。何せ相手はあの狩矢くんだ。
かっこよくて、頭が良くて、不器用で繊細な一面を持つアルファの男の子。
アルファは特別だ。唯一、同じく特別なオメガと番になることができる性別だからだ。
オメガは女性ベータや女性アルファより妊娠しやすく、かつ高い能力を保持した優秀な子どもを産みやすい性だと言われている。アルファとの子どもであれば特にその可能性は高い。
アルファは優秀な子孫を残すため、オメガが放つフェロモンに惹かれるように出来ている。これは相手をどう思っていようが関係ない。アルファの本能によるものだからだ。
普通の自制が効くアルファであれば、通常時のオメガのフェロモンを感じただけじゃ理性が本能に喰われることはまずない。しかし異常時、つまりオメガの発情期に出くわしてしまえば、理性は本能に呑まれ、ただただオメガを欲する獣となる。
他のアルファに取られないよう、アルファはオメガの項を噛んで番にする。そうすれば自分以外のアルファは自分の番のオメガのフェロモンを感じなくなるし、自身も番以外のオメガのフェロモンを感じなくなる。正真正銘、自分だけのオメガを手に入れられるのだ。
とまぁ長々とアルファとオメガについて語ってきたが、ベータの俺がアルファの狩矢くんを好きになったって、これっぽっちも可能性はないということがわかっていただけただろう。
もちろん、ベータと結ばれるアルファもたくさんいる。それだけをみれば可能性が全く無いわけじゃないが、万が一、億が一、彼と俺の想いが通じ合ったとして。じゃあその後は?
複雑な家庭の事情がありそうだけれど、狩矢くんは将来を期待されているアルファに違いは無い。彼の優秀さがそれを物語っている。そんな彼が人の上に立った時、彼を傍で支えるパートナーはベータでしかも男です、なんて世間に知られてしまったら、未だ跡継ぎだなんだと拘っているアルファたちからは猛バッシングをくらうのは容易に想像がつく。
そうなれば宛てがわれるのは間違いなく子どもを産める女性かオメガ。男としてもアルファとしても本能で求める者を眼前に出されてしまえば俺の存在など、吹いて消える小さな火でしかない。
なんて不毛なんだ、俺の初恋は。
こんな気持を抱えたまま、今後狩矢くんにどんな顔で会えば……。
「――おーい、佐崎ってば!」
「ぅわ⁉」
突然身体を強く揺さぶられ、深く沈んでいた思考が引き上げられる。驚いて顔を上げれば目の前には小堀がいて、俺の両肩を掴んで心配そうに眉を下げながら俺を覗き込んでいた。どうやら俺の身体を揺さぶったのは小堀らしい。
「もう授業終わったぞ」
「えっ⁉」
そう言われ慌てて辺りを見渡したら確かに教室内には俺と小堀しかいなかった。先程まで四限の授業で特別教室での授業だったため、終わり次第みんなさっさと自分の教室に帰っていってしまったのだ。
小堀に教えてくれたお礼を言って、二人で早足気味に教室を出る。
それにしてもチャイムが鳴ったのも気付かないくらい考え込んでしまっていただなんて。さっきの授業、全く聞いてなければ板書もしてない。頭の出来が良いわけじゃないから、テストで悲惨な結果にならないよう授業だけはわりと真面目に受けるようにしていたんだけどなぁ……。仕方がない、あとで小堀にノートを見せてもらおう。
「……なぁ佐崎。弁当持ってきてるけど、もしかして今日も狩矢と食うのか?」
今日はおそらく時間がないから頼むとしたら明日かな、なんてノートを貸してもらうタイミングを考えていたら、小堀が何やら深刻そうな声色で問いかけてきた。
小堀の問いは正解で、俺は今日も狩矢くんと昼休みを共にする約束をしていた。授業は移動教室でかつ四限だから終わり次第昼休みに入るし、教室にお弁当を取りに行くのも手間だったからと持ってきていたのである。
でもそうか、この後狩矢くんと会うのか、なんて実感して落ち着かない気持ちになってしまったが、それを振り払うよう「そうだよ!」と元気よく肯定した。
自分の想いを自覚してしまった今、顔を合わせるのは少しばかり緊張するが、会えること自体はとても楽しみだし嬉しい。こころなしか、気持ちが高揚していっている。
が、しかし。
「俺は……もう行かない方がいいと思う」
やや緊張気味な声音で発せられた言葉に、俺の心の昂りが強制的に押さえつけられた。
思わず立ち止まり、隣りにあったはずの気配がないので振り返れば、先に立ち止まっていたらしい小堀が俺の数メートル後方で眉間に皺を寄せこちらをじっと見つめていた。その目はいつになく真剣で、小堀が本気で俺を止めているんだというのが伝わってきた。
たぶん、心配してくれているんだと思う。小堀は俺の狩矢くんに絡んでいく謎の行動も把握しているから。
相手はいい噂を聞かない狩矢くんだ。そんな相手に自分の友達が、あしらわれても無鉄砲に話しかけ、しまいには会いに行っているのだから不思議にも思うし心配もするだろう。だが安心してほしい。俺は彼に害されることはないから。
そういう思いも込めて「大丈夫だよ」と笑いかけたのだが、小堀は更に眉間の皺を深くして真剣だった目に不安の色を濃くしていった。
「なぁ、もしかして脅されてるんじゃないか?」
「え?」
脅されてるって……俺が狩矢くんに?
「行きたくないのに、逆らえないんじゃないか? あんなのの言うことなんて聞かなくていいんだぞ。昨日今日と様子おかしいし、悩みがあるんじゃないか? 一人で解決が難しいなら俺に相談してくれ」
「…………」
先程と変わらない真剣な表情で小堀が言った。こちらに歩み寄って俺の肩を掴んだ手は力強く、小堀の本気度が伝わってくる。だから俺はぐっと我慢した。小堀の手を振り払いそうになる衝動を。
狩矢くんはみんなが思っているような、怖くて無慈悲で悪意を持って誰かを傷つけるような人じゃない。この数日の関わりで、それは確信に変わった。
狩矢くんと話もしたことがないのに噂を鵜呑みにして、脅されてるなんて見当違いな予想をされて。腹の底の方で苛立ちが渦巻いた。
こんな感情になったのは、何も知らない他人が兄のことを貶す言葉を聞いた数年前以来だと思う。まさか仲良くしてる友達相手にも同様な感情を抱くと思わなかった。
しかし今回、小堀に悪気はミリも無い。純粋な気遣いと正義感から言ってくれてるだけだ。ここで俺が感情的になってしまっても、小堀には何も伝わらないだろうし解決にもならないだろう。何より、友達に怒りをぶつけたくはない。
俺はざわつく心を落ち着けるよう小さく息を吐き出して、つとめて冷静に、いつも通りに小堀に笑いかけた。
「心配してくれてありがとう、小堀。でも本当に何でもないんだ。狩矢くんと仲良くなりたくて、寧ろ俺の方からしつこく絡みにいってるだけだから」
「でも、この前生徒玄関で転ばされてただろ? 強引にどっか人気のない場所にも拉致られてたし」
「俺が狩矢くんの気持ちも考えず絡みに行ったから怒ったんだよ。尻もちついたのも俺がどんくさかっただけ。狩矢くんはそんな乱暴な人じゃない」
「けどさ、あの狩矢だぜ? 反社の人間と関わりがあるって噂もある。もっとひどいケガしてからじゃ遅いんだ。これ以上は近付かない方がいいって、な?」
軽く肩を揺すられ、聞き分けの悪い子どもを諭すような声色で小堀が言った。けれど俺は首を横に振り、目を伏せる。
「……俺たちが思ってるより、不器用だけど優しい人だよ、狩矢くんは」
小堀の手に触れ俺の肩から離すよう促せば、特に何の抵抗もなく離れて行った。未だ硬い表情を見るに、納得して引いたわけではないことはすぐに分かる。
俺は再び笑いかけて、「それじゃあ、また教室で」と手を振りそそくさとその場を後にした。
あのまま話を続けていたら押し問答になっていただろう。お互いにそういうのは望んでいないから、今回のところは物理的に離れるのが最適と判断した。
例の屋上へ続く階段を上りながら、胸中に溜まっていたモヤモヤと一緒に深く息を吐き出す。
小堀は誰とでも仲良くなれるコミュ力を持ち合わせているかつ噂好きなやつだ。自身の人あたりの良さを活かして数々の噂をいろんな人から聞き出していたら、何もしてなくても噂の方からやってくるようになったらしい。なので、俺が知らない狩矢くんに関する『噂』も、小堀はたぶん知っている。だからこそのあの反応だ。
小堀のことは友達として好きだ。話していて楽しいし、人との距離の詰め方も目を見張るものがある。しかし、噂を鵜呑みにして関わり合いの少ない狩矢くんの人となりまで決めつけてしまうのはあいつのよくないところだ。直してほしい、とまでは言わないけど、色眼鏡で人を見ていると視野が狭まって小堀の長所が活かされなくなることはひどく残念に思う。
悶々と小堀のことを考えていたらいつの間にか屋上前の踊り場に辿り着いていた。まだ狩矢くんは来ていないようだったので、昨日同様段差に腰をおろして待つことにした。
それから少し経って、階段を上る足音が近付いてきた。おそらく狩矢くんだ。
先程まで沈んでいた気分が一気に上向く。そうだ、せっかく狩矢くんに会えるんだ、落ち込んでなんかいられない。
あれ、でも待って。狩矢くんと会うのは昨日ぶりで時間的にはそんなに経ってないけど、自分の気持ちを自覚してからは初めてだよね。そう思ったら……どうしよう、ちょっと緊張してきてしまったぞ。
今更なことに気が付いて慌ててしまったが、足音は順調にこちらに近付いてきている。
とりあえず狩矢くんの前では普通に、いつも通りでいよう。変に意識して挙動不審にでもなったら、今より更に冷たい眼差しを向けられるのは想像に容易い。
背筋を伸ばし、緊張とか雑念とかを追い出すように深く息を吐きだす。そしてぐっと拳を握り気合を入れて、「さぁいつでも来い!」なんてすぐそこに迫っていた足音に身構えた。
が、しかし。足音が突然、ピタッと止んだ。
……あれ?
このままあの階段の角から狩矢くんが姿を見せると思っていたんだが……直前で足を止めたのだろうか。
入れた気合が空振りした気持ちになりながら、もしかして狩矢くんじゃない違う誰かなのかもと不安になった数秒後、再び足音がして階段の角から狩矢くんが姿を現した。
よかった、ちゃんと狩矢くんだった。
ほっと息を吐いて狩矢くんに手を振る。すると狩矢くんはなにやら気まずそうに視線を逸らした。こころなしか、彼の白い頬が赤みを帯びている気がする。
なんか……照れてる?
いまのやり取りに照れるような要素あっただろうか。
「……お前さ、自分の友達放ったらかして俺なんかに構ってていいの」
「え?」
狩矢くんの反応に首を傾げていたら、彼は視線を逸らしたままそんな事を言った。狩矢くんの言う「自分の友達」はおそらく俺が普段行動を共にしている人たちのことだ。昼休みも一緒に過ごすことがほとんどだったから、まぁ現状、狩矢くんの言った通り放ったらかしにはしている。
もしかしてそれで、俺と友達の関係に溝ができることを心配しているのだろうか。
先程、小堀と少しだけ言い合いになってしまったが、そんな事で気まずくなるような関係を結んでいるつもりは無い。俺が昼休みを突然別の場所で過ごすようになったとしても、他の友人たちも文句は言わないだろう。他の人がそうなったとて俺も文句なんか言うつもりない。だっていつどこでどんなふうに過ごそうが、約束さえ違わなければその人の自由だからね。
まぁとにかく、小堀のように多少気にはされるかもしれないが、俺が狩矢くんといることで他の友達と関係が悪くなることはない。
「大丈夫、何も問題ないよー。気遣ってくれてありがとね」
気負わないよう、ひらひら手を振って軽い調子で答える。でも狩矢くんはあまり納得いってなさそうだ。
「友達は大事にしろよ」
「俺にとっては、狩矢くんも大事な友達だよ」
まぁ俺の気持ちは友情からはだいぶかけ離れたものになってしまってるんだけどね。
でもそんなことを馬鹿正直に言えないのと、気持ちが溢れてしまわないよう、自分を律するため友達と言った。すると狩矢くんがこちらを見て目を丸くする。そしてポツリ、「ともだち」と初めて聞いた単語を口に出すように呟いた。
「えっ、と、友達だよね?」
「…………」
「友達だよね⁉」
きゅっと眉間に皺を寄せた狩矢くんの反応に不安が募って、思わずうるうるなんて擬音がつきそうな目で縋るように見つめてしまった。狩矢くんはそんな俺を見てまた少し気まずそうに視線を逸らしたが、「あー、いや……」とため息混じりに唸って片手で顔を覆う。
「友達、友達だよ。……だからそんな顔向けんな」
よかった、友達だった!
言わせたみたいになったけど友達って言ってくれた!
ほっと息を吐いて、改めて狩矢くんを隣りに誘う。そして俺の隣りに座ってくれた狩矢くんと共に、昨日と同じようにお弁当を広げた。
相変わらず、狩矢くんのお弁当はすごく美味しそうだった。今日のメインディッシュは野菜炒めと焼き魚らしい。俺のは今朝早起きして揚げた唐揚げだ。
狩矢くんは昨日のお礼って言って卵焼きを一切れくれたので、俺も唐揚げをひとつあげた。
卵焼きは俺が作るのと同じだし巻き卵だった。でも俺のとはまるで違う、全くの別物だ。ふわふわとした食感、優しい出汁の香りと味。まさに俺が追い求めているだし巻き卵――。
昨日、狩矢くんに俺の作ったものを食べてもらって美味しいという感想をいただいたが、これに比べたら俺の卵焼きなんて足元にも及ばない。
ゆっくりだし巻き卵を噛みしめながら、隣りの狩矢くんを盗み見る。俺の唐揚げを俺と同じように味わって飲み込んだあと、「うん、美味い」と言って口元を緩めた。
うっ……眩しすぎる。好きを自覚したからか一層その微笑みの破壊力が増している気がする。いけない、平静を装わなければ。
それにしても、おかずの交換ってなんだか仲のいい友達同士って感じで嬉しいな。けど、ちょっとだけこそばゆいとも感じる。俺は友達がいない訳じゃないが、おかずの交換はしたことがない。というかそもそもそういう発想に至らなかった。だから狩矢くんとの交流も、普段関わっている友達とはできない経験ができて新鮮で楽しい。
できることなら、これからもこんな関係を続けていけるといいな。
「そういえば、じいちゃんにお前のことを話したんだけど」
自身のお弁当を食べ始めた狩矢くんが、ふと思い出したように言った。なぜ俺のことを、と疑問に思って首を傾げると、「じいちゃんの弁当を褒めてくれたっていう、報告のために」なんて少し照れたように視線を逸らす。
おじいさんに報告するほど嬉しかったんだ。でもたしかに、自分の好きなものを褒められたら気分いいよね。
「じいちゃんがぜひ店に来てくれって言ってたから、連れてってやる」
「えっ、ほんと⁉ やったぁ! いつ? いつがいいかな⁉」
思わぬ提案に舞い上がり身を乗り出す勢いの俺に狩矢くんは「落ち着けよ」と苦笑を漏らした。
「じいちゃんはお前の都合が良ければ今日にでもって……」
「今日! 何もない! 今日行こう!」
「お、おう」
おじいさんの作った他の美味しい料理が食べられるって事だよね。うわ、やったぁ、こんなに早く願いが叶うなんて!
どんなメニューがあるのかな。コーヒーも美味しいって言ってたよね。楽しみだな。
狩矢くんは子どものようにはしゃぐ俺を若干引いた目で見ながら「じゃあ今日な」と了承してくれたので、俺はうんうん頷いて今日の予定に胸を踊らせた。
そして迎えた放課後。
生徒たちの目を気にした狩矢くんと学校の外で待ち合わせをしてから、俺は狩矢くんに着いておじいさんのお店に向かった。
十分ほど歩いて辿り着いたのは、商店街から道を何本か逸れた住宅街で、建ち並ぶ家々の中でも一際広い土地に一際大きな一軒家――の隣りに建つ、レンガ造りのレトロな外観の喫茶店だった。
狩矢くんによると、隣りの大きな家はおじいさんと狩矢くんが住んでいる家で、余らせていた土地におじいさんがお店を建てたらしい。
店を建てるところから始めるなんて……かなりの熱量だ。
ぽかんとお店を見上げる俺を置いて、狩矢くんは木製で上部に格子窓の着いたドアを開ける。カランコロンと子気味良いドアベルが鳴り、俺も我に返って慌てて狩矢くんのあとを追った。
二人で足を踏み入れた店内も、外観に合ったレトロで落ち着いた雰囲気だった。カウンター席が五つと、四人掛けのテーブル席が二つという多くない席数で、それぞれの席の間隔が広めだからゆったり過ごせそうという印象だ。天井も高いからか閉塞感も全くない。
「じいちゃん、ただいま」
「おかえり知央」
ほへー、と辺りを見回していたところ、狩矢くんが帰宅を呼びかけた。すると、カウンター内でしゃがんで何やら作業をしていたらしい初老の紳士風の男性がひょこっと顔を出した。
もしかして、この方が狩矢くんのおじいさん?
え、わ、若くないか?
キリッとした目元に皺と白髪混じりの髪があるからギリギリ初老に見えるだけで、スタイルも良くて背も高くて、何より顔が狩矢くんに似てとてもかっこいいから若く見える。いい感じに歳をとったダンディなおじさまという感じだ。狩矢くんが歳をとったらこういうふうになるのかな。
「あぁ、きみが佐崎くんか」
「は、はじめまして、佐崎と言います!」
不躾にもおじいさんを観察するよう眺めてしまっていた。慌ててピシッとお辞儀をして名乗ると、狩矢くんのおじいさんは優しげな目元を細めてひとつ頷いた。
「知央から話は聞いている。突然にも関わらず足を運んでくれてありがとう。よく来てくれたな」
「いえ、こちらこそ呼んでくださってありがとうございます」
そういえば、チヒロって狩矢くんの下の名前だよね。そうだそうだ、そういう名前だった。狩矢くんの名前を初めて見たときはまだ彼にそこまで意識が向いていなかったから、かわいい感じの響きだな、としか思わなかったので記憶に残っていなかった。おそらくもう忘れないだろう。直接口に出して呼ぶなんてことはハードルが高すぎてできないので、とりあえず心の中で「知央」と何度か呟いておく。
そんな俺の気持ち悪い思考なんて知る由もないおじいさんは、歓迎するぞ、とにこやかに笑って俺たちをカウンターに座るよう促してくれた。
よかった、すごく優しい人だ。
お言葉に甘え二人並んでカウンター席に座る。すぐに差し出されたメニュー表を受け取ってわくわくしながら捲れば、ナポリタンやオムライスなどの定番メニューから、ハンバーグ、ドリア、ピラフ、カレーなどなど、いろんなジャンルが豊富に揃えられていた。勿論飲み物やデザートもだ。
すごい、これ全部おじいさんが作ってるんだよね。狩矢くんのお弁当の味を思い出して、ちゃんとお昼を食べたはずなのにお腹が鳴りそう。どれにしようかな、こんなにあると迷ってしまう。
「あの、オススメってありますか?」
「ん、そうだなぁ。人気なのはナポリタン、パンケーキ辺りだが、わしの自信作はこのハンバーグカレードリアってやつだ」
「わ、美味しそう……!」
というか絶対美味しいやつだよね。しかも、あの超絶品だったハンバーグ入り。これは頼むしかない。
「じゃあハンバーグカレードリアに、ドリップコーヒーをお願いします!」
「かしこまりました。知央はどうする?」
「俺はオムライスで、飲み物はカフェラテでお願い」
注文を聞き終えたおじいさんは狩矢くんとそっくりな微笑みを浮かべながら頷いて調理に取り掛かった。
料理が出てくる間に、俺はまた改めて店内をきょろきょろと見渡す。日当たりもいいし、低音量だけどジャズの音色も聞こえて本当に落ち着いた雰囲気のお店だ。こういうところでコーヒーを飲みながら読書をしたらすごく集中できそう。
「はい、先に飲み物」
「ありがとうございます」
目の前に白いシンプルなソーサーと同じくシンプルなコーヒーカップが置かれる。ふわふわと湯気を立たせるカップを鼻に近付ければ、深みのある香りが鼻腔を通り抜け全身に染み渡った。そしてそっと口を付けた瞬間、舌に乗る今まで味わったことがないくらい良質な苦味とほのかに感じる酸味に、俺は思わず天を仰いだ。
「おいしい……」
「ははっ、ありがとう。そういう反応されたらこちらも嬉しいよ」
おじいさんは俺の反応に肩を震わせ満足そうに頷くと、また調理の方に戻っていった。
今まで飲んだコーヒーの中で一番美味しい気がする。狩矢くんがコーヒー淹れるのも上手って言うのわかるな。
「お前ってコーヒー飲めるんだな」
俺が貰ったカップより幅が広めのコーヒーカップを片手に狩矢くんが感心したように言った。
「昔はコーヒー苦くて飲めなかったんだけど、兄ちゃんの真似して頑張って飲んでたらいつの間にか好きになってたんだ」
「へぇ」
「狩矢くんはコーヒーよく飲むの?」
「まぁ、それなりに。ただミルクが入ってるやつのほうが好きかな」
「狩矢くんが頼んでたの、カフェラテだったよね。カフェラテもすごく美味しそう」
「あぁ、美味い。じいちゃんが作るやつはなんでも」
実際に味わった今じゃ、その言葉は誇張表現でもなんでもないってわかる。本当に美味しいから。
それから他にどんなメニューがおすすめなのか聞いたり、お店の外観も内観も素敵で落ち着きがあると褒め称えたりと狩矢くんと会話に花を咲かせていたら、いつの間にやら料理を完成させていたおじいさんがにこにことご機嫌な笑顔で俺たちの前に料理の乗った皿を置いてくれた。
「さ、召し上がれ」
「うわぁ……!」
赤色で丸い形のグラタン皿の中には、底に敷き詰められているであろうお米の上にスパイシーな香りを放つカレーがかけられていて、更に大きめのハンバーグが真ん中にでんと鎮座していた。そして、それらを覆い隠すよう全面に乗せられた焦げ目のついたチーズが、店内の照明に反射してきらきら輝いている。
やばい、美味しそう!
「すごい……食べてもいいですか?」
「もちろん」
わくわくが止まらなかったけれど、しっかりと手を合わせいただきますをして、一緒に貰ったスプーンでハンバーグを切りお米などとまとめて掬う。ふわりと濃くなった湯気と伸びるチーズに目を輝かせながら息を吹きかけ程よく冷まし、ぱくりと一口含む。途端に鼻を通り抜けるカレースパイスの香りと口内を刺激するピリッとした辛味。でもチーズのおかげでそこまで辛さは感じずまろやかで非常に食べやすい。そしてなにより、この分厚いハンバーグ。狩矢くんのお弁当を分けてもらったから美味しいのは知っていたけど、焼き立てはまた違った味わいがある。何より溢れてくる肉汁と柔らかさが段違い。これは美味すぎる……幸せだ……。
「気に入ってくれたようでよかったよ」
まだ感想を言っていないのだが、おじいさんは俺の反応でいろいろ言いたいことを察してくれたらしい。そして狩矢くんも若干得意気な顔をしてから、彼の前に置かれたシンプルな巻きオムライスを味わっていた。
「佐崎くんも自分で料理をするんだってね。結構凝ったものも作ってると聞いたよ」
「はい、一応……って言っても、素人に毛が生えたくらいで、全然まだまだなんですけどね」
「まだ高校生だろう、そんなものだ。しかし、知央がきみの作る卵焼きはなかなかのものだったとべた褒めしていたぞ」
「ごほっ、ッ、ちょ、じいちゃん!」
「この子はこう見えてグルメだからな。自信を持って良い」
「じいちゃん余計なこと言うなよ!」
狩矢くんが頬を赤くしておじいさんの口を必死に塞ごうとした。しかしおじいさんはひょいと躱し俺にコーヒーのおかわりを勧めてくれる。俺はそれに頷きつつ、二人の垣間見えた関係性にひっそりと胸をあたたまらせていた。
狩矢くん、おじいさんに俺のお弁当の話してくれたんだ。しかも美味しいと褒めてくれていた。面と向かって褒められるのも嬉しかったけど、人づてに聞くと気持ち的に喜びが倍くらいになるから不思議だ。
おじいさんの口を塞ぐのを諦めたらしい狩矢くんが、俺をきっと睨みつけて「今の忘れろ」と凄んでくる。でも頬が赤みを帯びてるから全く怖くない。むしろ可愛らしさまで感じる。
「こらこらそんなに睨むんじゃない。お前さん目つきが悪いんだから、そんな顔してると佐崎くんにも怖がられてしまうぞ」
「こいつはそんなんで怯むタマじゃねーから」
「まさか前から怖がらせるような態度をとっていたのか? まったく……すまないな佐崎くん」
「い、いえ! びっくりすることはあったけど、狩矢くんが優しいっていうのは知ってるので大丈夫です!」
俺の言葉に、おじいさんが「ほう」と目を光らせる。
「知央が話題に出すくらいだからいい子だとは思っていたが……きみはなかなか見る目があるようだ。知央は、こんななりだから誤解されやすいが心根は優しい子なんだよ。佐崎くんが気付いてくれて嬉しい。な、知央」
「いや知らねー……てか人前でやめろよ、俺はそんなんじゃないから」
「ほら、こうやってすぐ照れるのもかわいいだろう」
「じいちゃん!」
「あとこのキーケース。少し前私の誕生日だったんだが、プレゼントと言って知央がくれたんだ。優しい子だろう」
「あ、それ……」
おじいさんが自慢するように見せてくれたのは革製のキーケースで、見覚えのあるそれに思わず反応する。
確か、俺にハンカチを買ってくれたときに一緒に選んでいたキーケース、だよね。あのときは誰にあげるのかはぐらかされたけど、おじいさんの誕生日プレゼントだったんだ。
「俺、以前狩矢くんにハンカチを買ってもらったんですが、そのとき一緒にキーケースを選んでいるのを見ました。結構悩んでたから大切な人に送るのかなと思ってたんですけど……おじいさんのプレゼントだったんですね」
「おい余計なこと言うな」
横から伸びてきた手がこれ以上喋らせないようにと俺の頬を抓る。結構痛い。
でもこれ聞いたらおじいさんすごく喜ぶと思うよ。さっきの会話からおじいさんも狩矢くんのことが大好きでとても大切に思っていることが伝わってきたから。
案の定、おじいさんが顔を輝かせカウンター越しに狩矢くんの頭をくしゃくしゃと撫でていた。狩矢くんは「やめろ!」なんて抵抗していたけど、頬が少し赤いから照れているだけで満更でもなさそうだった。
こういう新たな表情を見れるだけでもうたまらない気持ちになってしまう。
これ、確実に昼間より好き度が増してるよね、俺……。隠しきれなくなったらどうしよう。
そんな心配を胸に抱きながらも、おじいさんに存分に可愛がられている狩矢くんを見てまたも心をあたたまらせた。
その後は三人で楽しく会話しながら料理をたいらげサービスでプリンまでいただいてしまった。もちろんそのプリンも大変美味である。
昔ながらのかためのプリンを大事に大事に味わっていたところで、おじいさんが「そういえば」となにかを思い出したように顔を上げた。
「お前さんたち、もうすぐで定期テストが始まるんじゃなかったか?」
「んぐっ」
突然にぶっ込まれた直視したくない現実に動揺し、プリンが気管に入りかける。なんとか普通に飲み込んで、一応水で喉を潤した。
「そうだっけ」
「やっぱり覚えてなかったか……。ただでさえ素行が良くないんだ、テストくらいはしっかり受けなさい」
「えー……」
「えーじゃない。進級にも響くんだからな」
「んー」
「まったく……佐崎くんからもなんとか言ってやってくれ。あとケガ作ってくるのもやめろって。手当するこっちの身にもなってほしいもんだ」
あ、一応おじいさんもケガのことは気にしてるんだ。しかも手当てまでしてたなんて。
何度か見た、狩矢くんの手にきれいに巻かれた包帯や顔や腕にしっかり貼り付けてあったガーゼを思い出す。もしかしておじいさんは医療関係の仕事に就いてたりしたのかな。いくら大人だからって慣れてないと包帯巻くのは大変だし。
「……まぁ、テストくらいなら受けるよ。高一の範囲は大したことないし、どうにかなるだろ」
「えぇ⁉ 大したことない⁉」
飛び出した衝撃的な言葉に思わず驚愕の声を上げる。狩矢くんはそんな俺に怪訝な目を向け、また「大したことないだろ」と言った。
「た、大したことあるよ。俺、特に数学はもういっぱいいっぱいだよ」
「数学こそ簡単だろ、数字当てはめるだけだし」
な、なんという……さすが首席だ、次元が違う。俺がどんなに頑張ってもその境地に達することなど不可能だろう。
「ほう、佐崎くんは文系か」
「あ、はい。テストの平均点を下げてるのは専ら理数系の教科ですね」
「なら丁度いい。知央はどちらかというと理系だから、知央に勉強を教えてもらうといい」
「え⁉」
「は⁉」
二人同時に声を上げる。そりゃそうだ、突拍子もなさすぎる。
「じいちゃんなに言ってんだよ。やらないってそんな面倒なこと」
「でも知央、佐崎くんにいろいろ世話になってるんだろう?」
「そっ、それは……」
「い、いやいや、俺は狩矢くんのお世話とかは全然……」
「まぁまぁ細かいことは気にせず、知央の頭を利用するくらいの気持ちで教わってやってくれ。なんならここ、そのまま使っていいから。ついでに知央にテスト範囲教えてやってもらえるとありがたい」
コーヒーももう一杯サービスするぞ、なんてにこやかに笑うおじいさんを見た狩矢くんが、盛大なため息をついた。そして「こうなったら聞かないんだから……」なんてぼそっと呟く。
なるほど、狩矢くんがおじいさんの言うことを聞くのはこういう強引な部分もあるからなのかも。なんだか、以前の俺と狩矢くんのやり取りを見ているようだ。
「でも、いいんですか? お店で勉強なんて、他のお客さんが来たら迷惑になるんじゃ……」
「あぁその辺は大丈夫。来たとしても常連で知央とも顔見知りだから」
相変わらずにこにこしながら、おじいさんは俺と狩矢くんのぶんの飲み物を淹れている。
これは……お言葉に甘えるしかなさそうだ。
「えぇっと、じゃあ……お願いしてもいいかな、狩矢くん」
「……はぁ。わかったよ」
狩矢くんはまた大きなため息をついたあと、半ば諦めの表情で頷いた。
申し訳ない、とは思いつつも、首席で入学した人から勉強を教わるなんて機会はそうそうないから、おじいさんが言ったように利用させてもらう気持ちで思う存分教わろう。
そうして、急遽勉強会が開かれることになった。
と言っても、狩矢くん自身はそんなに長いこと教える気はないらしく、要点だけ伝えるから一回で覚えろなんて無茶を言ってくる。ゲームのコマンドや人の名前はすぐ覚えるけど、こと勉強に至っては記憶力が発揮されない。でもまぁ、大体の人はそういうもんだよね。うん。
心のなかで自分自身に言い聞かせたのち、俺は特に苦手とする数学の教科書を開いて範囲を教えた。すると狩矢くんは「あぁこの辺か」と言ってつらつら考え方と要点だけを説明してくれた。必死に耳を傾けながら慌てて取り出したノートにメモしていたのだが……本当に要点だけ伝えているからか先生並み、いやそれ以上にとてもわかりやすい。試しに問題集の問題も狩矢くんに教わった要領で解いてみたらあっさり答えがわかってしまった。
「か、革命すぎる……」
俺の驚愕と感心が滲んだ言葉に狩矢くんは呆れたような目を向けた。これまでこんなにスムーズに解けたことがないんだ、こういう反応になるのも許してほしい。
「それにしても、狩矢くんは頭も良ければ教えるのも上手いんだね……」
「んなことない、こんなの誰でもできる」
「いやいや俺にはできないから。狩矢くんの立派な才能だよ」
「俺に才能なんかねーよ、『出来損ない』なんだから」
「……え?」
今、なんて……。
普通に日々を過ごしていたら聞かないような単語に驚いて顔を上げる。狩矢くんはなんてことない顔をしながら水で喉を潤していて、そのギャップに俺の脳内ははてなマークで埋め尽くされた。
狩矢くん、さっき自分のことを『出来損ない』って言った、よね。冗談で言っている感じはしないから、たぶん本気で。
どういうことなのか、そもそも触れていい部分なのか判断つかないままうろうろと視線を彷徨わせていたら、グラスを拭いていたおじいさんと目が合った。そしてなにやら意味深に目を細めたあと、小さく首を横に振った。
触れないほうがいいらしい。
戸惑う俺に代わり、おじいさんが上手いこと話題転換してくれたため変な雰囲気にならずにすんだが、俺の中には若干もやもやが残ってしまった。
その後はもうそろそろいい時間になりそうだったので、しっかりお会計とまた必ず来ることをおじいさんに約束してお店をあとにした。
とはいえこれからテスト期間に突入してしまうため、少なくとも一週間は足を運べない現実を思い出し俺は盛大に肩を落とした。
しかし、テスト開始まであと三日、というところまで迫ったある日のこと。数日ぶりに登校してきた狩矢くんが、珍しく俺に声をかけてきた(もちろん人気のない所に連れて行かれて)。そして俺に一枚のチケットを差し出した。
「映画?」
「じいちゃんが常連のお客さんからチケットもらったみたいで、せっかくだからお前と行ってこいって」
なにがせっかくなのかわからないけど、と呟かれた言葉を聞き流しながら、差し出されたチケットを受け取る。その映画は丁度、俺も予告を見かけて気になっていたものだった。
「いいの? すごく嬉しい! いつ行く? そういえば今週祝日あるよね? その日にする?」
「祝日って……テストの中休みだろ。勉強したほうがいいんじゃないか?」
「うっ、そうでした……」
浮かれて一瞬でテストのことなんか頭から吹っ飛んで行ってしまっていた。中休みとは言えさすがに遊びに行くのはよくないよな。
「えっとじゃあ、テストが終わったら一緒に行こう!」
「……まぁ、いいけど」
「やった、テスト後のご褒美だ!」
「ご褒美って、大げさすぎ」
「大げさじゃない。本当に、飛び上がりそうなくらい嬉しいんだから!」
信じてほしくて狩矢くんに迫る勢いで言えば、彼は「あっそ」とそっぽを向いてしまった。相変わらずつれない。でもそこもいい……なんて思って、俺は咄嗟に頭を振った。
こうやって定期的に我に返らないと、どこまでも狩矢くんの沼に落ちていきそうだ。
それにしても、一緒に映画に行ってくれるのを了承してくれてよかった。おじいさんに言われたからかもしれないけど。これで憂鬱でしかなかったテストも気合で乗り越えられそうだ。
―――
狩矢くんに教えてもらった数学は絶好調、他の教科は手応えはあるようなないような、という微妙な感じではあったが、無事にテストを乗り越えてから数日。わりとすぐに答案が返却され、それと同時に学年の順位も発表された。一応、上位二十名までは名前と合計点数が廊下に張り出される。俺はそんなところに名を連ねるほど賢くはないが、狩矢くんの名前はあるのか気になり見に行ってみた。
そうしたらあった。しかも一位のところに。おまけに合計点数も満点だった。狩矢くんは授業などはあまり意欲的に参加していなかった記憶があるが……授業なんて聞かなくてもすっと満点を取るのは、彼にとって造作もないことだったみたいだ。
すごすぎてその場でしばらく呆けてしまった。
そこから更に数日後の現在。時刻は十一時五十分。
多くの人が行き交う普段は利用しない駅の構内にて。俺は今日のために新調した服を整えたり髪型が変じゃないかと手直ししたりと、そわそわと落ち着かない心持ちで待ち合わせ場所である銅像の横に立っていた。
今日は、待ちに待った狩矢くんとのお出かけの日である。
予め決めていた集合時間は十二時ちょうど。あと十分程で狩矢くんも銅像付近にやって来るだろう。
あぁどうしよう、またそわそわしてきた。
整えたばかりの服装をまた見直して、集合時間まであと何分かな、なんて思いながら確認した時間は、先程から一分程度しか進んでいない。というか、家を早く出すぎてもう三十分も前からここに立っている。
俺は結構神経が図太いので、滅多なことでは緊張でそわそわするなんてことはないんだが……。
約束を取り付けたときは、狩矢くんとお出かけできることの喜びでそこまで考えられていなかったけど、着ていく服を吟味していたらふと、これは捉えようによってはデートでは……? なんて思い至ってしまった。そしてその瞬間、楽しみを緊張が上回った。
昨夜からずっと落ち着かなくて、遠足前に眠れない子どもの気持ちを初めて味わった。睡眠時間もいつもより少ないはずなのに不思議と眠気も感じない。さすがに落ち着かなければ、狩矢くんにいつも以上に不審な目を向けられてしまう。
でもまぁ、好きな人と二人でお出かけができるんだから、こうなるのも仕方ないよね。うん……。
もう一度時間を確認すれば十二時まであと五分となっていた。落ち着け落ち着け、と心のなかで唱えながら最終確認として髪を整える。あとついでにもう一度服も整えて、と、自身の身体を見下ろしていたときだった。
「佐崎」
今はもうすっかり聞き慣れた声にはっと顔を上げる。
俺と同じように待ち合わせのために銅像の付近に立っている人はそこそこいる。そしてそれ以上の数の人が目的地に向かってあちこち歩いて行くのだから、環境音やら話し声やらで、隣り合っていてもいつもより大きな声を出さないとよく聞き取れないほど周辺は騒がしい。なのに、不思議と彼の声だけは鮮明に聞こえた。
一瞬で心が浮き立つのを感じながら、声のした方を振り向く。そこにはやはり狩矢くんが立っており、挨拶のために言葉を発しようとしたのだが、彼を目に留めた瞬間喉から出てきたのは、間抜けにも空気の抜ける音だけだった。
目の前にいるのは確かに狩矢くんだ。間違いはない。しかし、俺が普段会って会話をしている狩矢くんとはだいぶ印象が違う服装をしていて、俺は彼を凝視したまま固まってしまった。
トップスはゆったりとした無地のグレーのワイドシャツに、清潔感のある白いインナーを内側に着込んでいる。ボトムスも同じグレーのワイドパンツだから、所謂セットアップというやつだ。そして光に当たって輝く明るい髪の毛は襟足を一括りにしていて、晒された首筋がいつもよりすっきりとした印象を与えている。全体的にシンプルで、だからこそスタイルもよくおしゃれな人しか着こなせないファッションであるそれを、さすがは狩矢くんと言うべきか、完全にものにしていた。
着崩した制服姿と、ハンカチを買ってくれたときに着ていたラフな私服姿といった、良くも悪くも洋服に無頓着な思考が現れている様相しか知らなかったから、こういう、ちゃんと自身に合う格好をしている彼が新鮮だった。しかもものすごくかっこいい。通り過ぎていく人がみんな狩矢くんに目を奪われている。
「……なに、なんか言えよ」
不機嫌そうな声で、口を尖らせながら狩矢くんが言った。
大人っぽいのにそんな子どもみたいな表情されたら、ギャップで心臓がやられてしまうぞ。
「ご、ごめん。いつもと雰囲気が違うからびっくりして……」
「自分でもらしくないって思ってるよ。でも、じいちゃんがおしゃれして行けって言うから、仕方なく着てるだけ」
変わらず不機嫌そうだが頬が若干赤くなっているので、たぶん慣れない格好が照れくさいだけなのだろう。
それにしてもおじいさん、ナイスすぎる。今日の狩矢くんを目に焼き付けておこう、忘れないように。
「さっさと行くぞ。映画の上映時間に遅れる」
狩矢くんは俺から顔を背け、そのまま映画館のある方に足を向けた。俺も慌てて狩矢くんのあとを追い隣りに並ぶ。
狩矢くんは俺より頭一個分くらい身長が高く、腰の位置も幾分か高い。顔もスタイルもいい、まるでモデルのような彼の隣りに立つのは若干、男の自尊心的なものが傷つかないでもないが、そもそも生物としての格が違うので比べたとて仕方がない。
そんなことより、今日はせっかくの狩矢くんとのお出かけだ。直前まで緊張していたけど、ぽけーっと見惚れている場合ではない。こんな機会今後一生ないかもしれないんだから、とにかく楽しもう。
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