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第4話
そうして向かった映画館ではおじいさんからもらったチケットで映画を鑑賞し、観終わってからはファミレスでご飯を食べながら映画の感想を言い合った。流石に話題になっている映画なだけあってとてもおもしろかった。狩矢くんも満足したのか、あのシーンがよかった、あのセリフが印象的だったと饒舌に喋っている。こうやって感想を言い合えるのも友達って感じがして嬉しいな。
食事をしたあとは適当に服屋さんやゲームセンターに入ったりして、普通の高校生らしく遊んだ。狩矢くんはゲームセンターに入ったことがなかったらしく、物珍しげに辺りをきょろきょろ見渡していた。
昔から勉強第一で、同年代の子どもがするような遊びは軒並み経験したことがないと、クレーンゲームの筐体を眺めていた狩矢くんがぽつりとこぼした。
著名な両親を持つアルファのタレントがバラエティ番組で、アルファ家系の生まれは幼い頃から厳しい教育を受ける人が多い、なんて言っていたのを聞いたことがある。
狩矢くんのご両親もとても優秀な人たちだと専らの噂だ。もしかしたら、狩矢くんも幼い頃から厳しい教育を受けてきたのかもしれない。
もしそうだったとしたら、凡人から見たら狩矢くんの異次元とも言える勉強の出来具合にも、納得できてしまった。
今日は、いや、今日以降も、普通の高校生らしい遊びを狩矢くんとしよう。彼の過去は知らないし、勝手な哀れみや同情心なんて抱くことさえ烏滸がましいだろうが、普通の遊びを教えることなら俺にだってできる。
狩矢くんと楽しいことを、たくさんしたい。
ならば早速と、太鼓の音楽ゲームの筐体を興味深げに眺めていた狩矢くんを、一緒に遊んでみようと誘った。はじめは遠慮していたが好奇心には抗えなかったのか一緒にプレイしてくれた。
初めて遊ぶゲームに翻弄されながらも楽しそうに笑っている狩矢くんの横顔は年相応の少年のようで、その表情に胸の奥がふわりとあたたかくなるのを感じた。
それから一通り満足するまで遊んで、辺りが薄暗くなった頃に俺たちは最寄りの駅に帰ってきた。各々の家は反対方向なのでここで解散、という流れになった。
「狩矢くん、今日はありがとう。すごく楽しかった」
「あぁ。俺も……」
続けようとしてはっとした狩矢くんが一度言葉を飲み込み、少し逡巡したのち頭をかきながら「まぁ、悪くなかったよ」と呟いた。
これはたぶん、素直に楽しかったって言うのが恥ずかしくてはぐらかした言い方をしたんだよね。なんだか、だんだん狩矢くんのことがわかってきたような気がするぞ。
「また遊びに行こうね」
「……気が向いたらな」
ぶっきらぼうにそう言った狩矢くんの表情を見るに、たぶん六割くらいはまた遊んでもいいと思ってくれていそうだ。
素直じゃない狩矢くんが面白いのと嬉いのとで思わずにこにこ口元を緩めていれば、狩矢くんはじと、とした目で俺を見た。なに笑ってんだ、って言いたげだ。
ごめんごめんと謝ると、狩矢くんは呆れたようにため息を吐いて、手で俺を追い払うような仕草をする。
「もう行け」
見送ってくれるらしい。やっぱり優しいな。
「あははっ、うん。それじゃあ……また学校で」
離れがたい気持ちになったが、ここで引き止めたとて狩矢くんを困らせるだけだろう。名残惜しさを振り切って、ばいばいと手を振ってから狩矢くんに背を向けた。少し歩いて、気になってちらりと後ろを振り返ったらまだそこには狩矢くんが立っていて、自分を見ていると気付いたからかまた手で追い払うような仕草をした。
自然と口角が上がるのを感じながら、また手を振って今度こそ前を向き家の方に足を向ける。
今日は、狩矢くんとたくさん話ができて、新たな表情も知れて、本当に楽しかった。出かける機会をくれたおじいさんには本当に感謝だ。また今度お店に行こう。
それから、今日の狩矢くんはなんだかいつもより優しかった気がする。いや、性格とかそういうのは全く同じなんだけど、なんというか、俺に対して結構気を遣ってくれていたというか。
まず、ハンカチを買ってくれたときは彼の長い脚についていくのがやっとだった歩幅が、今日は同じだった。おそらく、狩矢くんが俺のペースに合わせて歩いてくれていたんだ。他にも、すれ違う人とぶつからないよう身体を入れてくれたり、商業施設の手動ドアを開けるときは狩矢くんが開けて先に俺を通してくれたり。あとはさっきの、俺を先に帰して見送ってくれたり。
狩矢くんの普段とは違う格好も相まって、なんだかエスコートをされている気分だった。勘違いしないよう必死に、今日は狩矢くんとお出かけと言い聞かせていたのに、まるでデートみたいだという考えがよぎったのは一度ではない。
狩矢くんの姿を思い出し、頬に熱が集まるのを感じながら冷ますようにパタパタ手で顔をあおぐ。
次学校で会ったとき、普通の顔して会えるかな。って、自分の気持ちに気付いたときも同じようなことを考えてたな。案外普通に接することができていた気がするので、今回もまぁ、大丈夫だろう。俺の神経が図太くてよかった。
なんて、ふわふわした気分のまま今日のことを頭の中で反芻していたときだった。
「おーい、そこのお前、ちょっと止まってよ」
後ろから肩を掴まれたため、強制的に足を止められる。
驚いて振り向いたら、そこには男が五人ほどこちらを見て立っていた。
知らない人たちだ。年齢は……若いけど俺より少し上に見える。そして、指にも耳にもアクセサリーを付けて髪も明るくしていて身体も大きめで、所謂不良と言っても差し支えない様相をしている人ばかりだった。
突然そんな人たちに声をかけられて面食らっていたら、俺の肩を掴んでいた一番身体の大きな男が今度は強引に肩を組んでくる。
「悪いんだけどさぁ、ちょーっと面貸してくんない?」
「え?」
身体の大きな男の後ろにいた何人かが行く手を阻むよう俺の前に回り込んだ。状況が上手く呑み込めなくて、大男と前に回り込んできた人たちを交互に見やる。みんな、にやにやと嫌な笑みを浮かべていた。
「あ、あの……」
「大事な話があるんだよ、な? いいだろ?」
「え、っと……――ッ!」
返事をする前に腕に力が込められた。その拍子に少し首がしまり、息がしにくくなる。
そこで初めて、「まずい」と思った。嫌な汗が背中を伝い、頭の中で警報が鳴る。
しかし時既に遅く、俺は抵抗する間もなく人気のない路地裏へと男たちによって引き摺り込まれた。
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狩矢視点
元々、誰とも仲良くなるつもりなんてなかった。というか高校すら、行くつもりなんてなかったんだ。
俺と血の繋がった家族は、みんな優秀なアルファだ。
父はとある会社を一代で大きくした経営者。母は評判のいい敏腕弁護士。そしてそのサラブレッドである、何をとっても一番の兄。兄は現在、父の会社を継ぐべく父のもとで仕事をしている社会人だ。
そんな、優秀で誰からも羨まれる家族を持つ俺は、その家族から疎まれている『出来損ないのアルファ』だ。
両親は大変優秀かつプライドもエベレスト級に高いため、劣っていることが許せない人たちであった。その考えは自分たちだけでなく子どもに対しても同じで、兄や俺にも特に勉強は常に一番であることを望み、それ故俺たちを厳しく教育をしてきた。
兄は覚えもセンスもよくて、何をやらせても器用にこなし、誰にも一番を譲らないまさに両親の期待通りの優秀なアルファだった。
幼い頃、俺はそんな兄を尊敬していて、いつかは俺も兄のようにと、両親の厳しい教育にもめげずに取り組んでいた。
でも俺は、兄ほど優秀じゃなかった。
年齢を重ねるごとに、兄はできていたのに俺にはできないということが増えていったのだ。
特に力を入れて教育されていた勉学では、学校のテストや全国模試の順位が一番でも、各教科の順位が一番じゃなかったら両親は俺をひどく叱責した。
なんで全教科が一番じゃないんだ、兄は全教科一番だったのに、こんな結果恥ずかしい、一体今まで何をやってきたんだ、と。そして最後には必ず、『出来損ない』と罵られた。
当然傷ついたし泣きながら鉛筆を握るのは日常茶飯事だったが、いつか両親に褒めてもらうんだ、っていうのを目標に努力を重ねた。
けれど、どうしても全てで一番を取るというのはできなかった。
両親の俺への当たりは日に日に強く、そして酷くなっていった。最終的には暴力も振るわれた。
家族の冷たい視線や自分を叩く手が怖くて、辛くて、苦しくて、毎日泣いた。それでもできない自分が悪いんだって言い聞かせて、必死に必死に机にかじりついて、寝る間も惜しんで勉強した。
そして中学の模試で、遂に全教科含めた一位を取ることができた。
俺は学校から帰るなり模試の結果を両親に見せた。これで褒めてもらえる。よくやったって、笑って頭を撫でてくれる。そう、期待して。
けれど両親は。
「こんなの取って当たり前だ。むしろなんで今まで取れなかったんだ。点数も低すぎる、なんの成果も出ていないじゃないか」
「お兄ちゃんはもっとできてたわよ。こんなことで時間を食ってないで、今すぐ部屋に行って勉強しなさい。じゃないと遅れをとっちゃうわよ。お前は出来損ないなんだから」
そう鼻で笑って、また俺を冷たい目で見下ろした。
そして運悪く帰ってきた兄が、大学の何かで最優秀賞を取ったと報告した。すると両親は先程と打って変わって満足そうに笑い、兄を囲んで兄の頭を撫でた。
どうして――。
兄のことは優しく撫でるのに、どうしてその手で俺を撫でてくれないの。辛くても、苦しくても、痛くても、両親の期待に応えようと必死に勉強して、ようやく一番をとったのに。
どうして褒めてくれないの。どうして、俺を見てくれないの?
……あれ?
俺って、今までなんのために頑張ってきたんだっけ。
誰も俺を見ない、誰も褒めないのに。なんでここまで、必死になってきたんだっけ。
もう、わからない。したくもないことを、必死に。なんのために、誰のために……。
いつの間にかうつむかせていた顔をゆっくりと上げる。
視線の先には、幸せそうに笑い合っている両親と兄の姿があった。
――あぁ、なんかもう……どうでもいいや。
その時、俺の中の何かが、パキン、と音を立てて折れた。
この日以降、俺は机に向かうことができなくなった。
勉強机の椅子に座るだけで、言いような無い恐怖と不安に心が支配され身体が震えて、視界もぼやけてテキストの文字すらまともに読めないのだ。
両親はそんなのお構いないしに俺を無理やり椅子に座らせ鉛筆を持たせたけど、手が震えて文字なんか書けないし何も頭に入ってこない。浴びせられた罵声も、耳鳴りがひどくて聞き取れない。遂には過呼吸のようになって倒れたが、両親は甘えだと怒鳴って意にも介さなかった。
そんな状態になってすぐ、食べ物も喉を通らなくなった。ベッドから起き上がることもできなくて、学校にも行けなくなった。
両親は俺に呆れて無理やり勉強させるなんてことはしなくなったけど、毎日部屋に訪れては、お前なんかうちの子じゃない、一家の恥だ、『出来損ない』と言い続けた。
……どうして俺は、『出来損ない』に生まれてきてしまったのだろう。どうして兄のようになれないんだろう。俺はどうして、『出来損ない』なのに兄や両親と同じアルファなんだろう。神様はどうして俺をベータにしてくれなかったんだろう。ベータだったらなんの期待もされず、なにも背負わずにもっと違った生き方ができたかもしれないのに。
――こんな辛く苦しい思いをするくらいなら、アルファなんかに……この世なんかに、生まれてきたくなんかなかった。
もう、限界だった。
自分が生きている意味もわからない。なにも考えたくない。この世から消えてなくなって、楽になってしまいたいとさえ思った。
けれどそんなある日。初めて自分の部屋に両親以外の人物が訪れた。
それは、数年ぶりに会うじいちゃんだった。
じいちゃんは部屋に入ってきて俺を見るなり、くしゃりと顔を歪め、俺を強く抱きしめた。
「辛かったよなぁ。これまでよく耐えて、頑張ってきたなぁ。そばに居てやれなくてごめんなぁ……っ」
声を震わせながらじいちゃんが言った。そしてじいちゃんの筋張った大きな手が俺の背中や頭を撫でた。
あたたかくて、優しい手だった。
ひたすらに俺を労って、褒めて、謝ってくるじいちゃんの言葉が――両親からほしかった言葉が、ばらばらになっていた心にじんわりと染み渡っていく。
この時俺は、初めて誰かに自分の存在を肯定してもらえた気がした。
止めようとしても涙がとめどなく溢れ、声を上げて泣いた。じいちゃんはそんな俺を、泣き疲れて眠ってしまうまでずっと抱きしめてくれた。
そして目が覚めたら、俺はじいちゃんの家に移り住むことが決まっていた。もちろん一方的ではなく、両親や兄と離れて暮らすことになるが問題ないか、と確認もとってくれた。更に、これまでのように勉強も強制しないし成績だって気にしなくていい、学生らしく自由に過ごしていいんだとも。
あぁ、そっか。今まで両親に言われるがまま自分を殺して勉強してきたけれど、本来はそんなことしなくてもいいんだ。よくよく考えたら、同級生は誰一人俺のような生活を送っていない。俺が異常だったのだ。
それに気付いて、俺はじいちゃんの家に移り住むことを了承した。これであの三人と離れられる。そう思ったらひどく安心して、憑き物が取れたかのように気持ちが軽くなった。
その後の行動は早く、あれよあれよと言う間に諸々の荷物を持ってじいちゃんの家に移った。じいちゃんの家も、実家に負けず劣らず大きかった。この大きな家に一人で住んでいたから俺が来てくれて嬉しいと笑ったじいちゃんを見て、俺も嬉しくなったけどなんだかむずがゆい気持ちになった。
ほどなくして学校にも通えるようになったけど、まだ心身ともに不安定な日は続いていた。理由はやっぱり両親だ。物理的に離れることはできたけど、両親はなぜかこちらに逐一干渉してくるのだ。大抵はじいちゃんが間に入ってくれていたけど、時々学校帰りや一人で留守番をしている俺を訪ねていろいろ言ってくる。勉強のこともそうだけど、特に口酸っぱく言ってきたのはアルファのフェロモン管理についてだった。
俺がアルファであると検査結果が出て以降、オメガのフェロモンに誘惑されて取り返しのつかない事態が起きないようにと、毎日抑制剤の服用を指示されてきた。まぁ自衛と、人を傷つけないために抑制剤を飲むのは当たり前だからそこに文句はなかったんだけど、その抑制剤がかなり強めで、副作用も体調に影響するものなのだ。
実家にいたときは日課として飲んでおり多少の体調不良も最早慣れて気にしていなかったが、じいちゃんの家に来てからは飲みたくないと思うようになっていた。しかし現状、飲まざるを得ない状況になってしまっている。
アルファやオメガといった特殊な性を持つ者が抑制剤を服用するのは日常を過ごしていく上で当たり前のことだ。実家を出てからは、じいちゃんから市場にも多く出回っている副作用もほぼない抑制剤を渡されてそれを飲んでみたんだけど、どうにも体に合わないのか吐き戻すなんてことをしてしまっていた。他の抑制剤も試したが同じように吐き戻してしまい、結局ちゃんと飲めるのが実家で飲んでいた抑制剤しかなかった。
飲みたくない。でもアルファとしては飲まなければならない。そして両親も、わざわざじいちゃんの家にその抑制剤を持ってきては直接俺に手渡してくる。
「役立たずの『出来損ない』が。これ以上家に迷惑をかけてくれるなよ」
なんて言って。
俺みたいな『出来損ない』を手放せてせいせいしているだろうと思っていたのに、なぜわざわざ俺のところまで来てそんな呪詛を吐いていくのか。わけがわからない。
同じ家に暮らしていた頃よりはだいぶましになっているが、両親の顔を見たときはやっぱり身体の震えが止まらなくて、じいちゃんが帰ってくるまで情けなくも蹲って泣いているというのが常だった。そして両親も頑なにじいちゃんに抑制剤を託さないから、それが改善される兆しは全く現れなかった。
離れて暮らしているものの未だ両親からの呪縛から逃れられていないのを自覚したまま、進学する高校へ願書を提出する時期に差し掛かったころ。
どこの高校に行こうと思っているのか聞いてきたじいちゃんに、進学する気はないと俺は宣言した。
両親の期待を裏切り手を差し伸べられるがまま逃げて、これでようやく解放されると安心していたけど実際は縛られたままで。もういい加減、嫌になっていた。早く自分など忘れて三人で上手いこと幸せにやってくれと思った。
どうやったら両親は自分を本格的に見捨ててくれるだろうかと毎日のように考えた。そしてようやく辿り着いたのが、高校に行かず働いてしまえばいいんだ、という結論だった。
そうしたらもう、両親も諦めて俺に何も言ってこなくなるだろう。働いて得たお金も俺を助けてくれたじいちゃんの為に使えるし。一石二鳥だ。
だから俺は高校に行く気なんかなかった。
でも、じいちゃん反対した。
中卒で働くのは思った以上に大変だし、世間もそこまで優しくない。高校を卒業したらある程度は幅も広がるから、なんとかやっていけるだろう。だからせめて高校は通って、子どもらしく青春を謳歌してほしい、その後は自由にしていいから、と。
じいちゃんは一見気難しそうに見えるけど、昔からとても優しい人で、俺をよく可愛がってくれた。でもただ甘やかすんじゃなくて、だめなものはだめだってちゃんと叱ってくれる、俺を正しく導いてくれる大人だった。そんなじいちゃんが、高校には行きなさいと真剣な顔で俺を諭した。
きっとじいちゃんは正しいことを言っているのだろう。将来のことを考えても、高校に行っておけば自分の助けになる部分は多少なりともあるはずだ。それは、十分にわかっている。
けれど俺の気持ちとしては、一刻も早く両親と決別して自分に手を差し伸べてくれたじいちゃんのことを支えたいというのが一番だった。
じいちゃんもそんな俺の気持ちを察しているからか申し訳無さそうにもしていたが、お互いに譲らなくて話し合いは一日じゃ終わらなかった。
翌朝。じいちゃんに言われたことや改めて自分の考えを反芻しながら学校への道を歩いていたときのことだった。俺は、スーツを着た男性が道の端にへたり込んでいるのを発見した。
俺は咄嗟に男性に駆け寄って声をかけた。男性は呼吸が荒く顔も真っ赤で、じっとりと汗もかいていた。そして俺を見るなり目を見開いてガシッと俺の肩を掴み、何かを懸命に堪えるよう唇を噛んでいた。それこそ、血が出てしまうくらい。
これは、ただ事ではない。
俺はじいちゃんに持っていなさいと渡されたスマホで救急に電話をかけた。男性の状態と場所を伝えれば、電話口の人はすぐに向かうと言ってくれた。
俺は男性に「救急車すぐに来ますからね、大丈夫ですからね」って元気付けるよう声をかけたら、男性は何度も「ごめんなさい」と繰り返しぼろぼろ涙を流していた。
途中、通りかかった女性が俺たちを見てぎょっとして、「離れていた方がいい」って俺と男性を引き剥がした。俺の代わりに女性が男性といろいろやり取りをして、なにやら薬や水を飲ませていた。俺はどうすることもできず、数分後に到着した救急車に乗って搬送された男性をただそわそわと見送るだけになってしまった。
女性に手助けしてくれたことのお礼を言えば、女性は難しい表情を浮かべ「あなた、襲っていたとか、襲われていたとかじゃないのよね?」と言った。
襲うって……なんのことだ?
言っている意味がわからず首を傾げた俺を見て、女性は困ったように眉を下げ「ほらあの人、突発的な発情期みたいだったから……」と声を潜めた。
発情期?
って、あの、オメガの人がなる?
え、あの人オメガで、発情期中だったの?
衝撃的な事実に、俺はしばらくその場から動けなかった。
あの手助けしてくれた女性が言うならばそうなのだろうが……それにしても全然気が付かなかった。
オメガの発情期はアルファの発情(ラット)誘発だけでなく、フェロモンを感じないベータまでも誘惑する可能性があると言われている。オメガの発情期はそれくらい強いもので、アルファである俺ももれなくフェロモンを感じるはずなのだが……。ラット誘発どころか、フェロモンなど一切感じなかった。
なんでだろう。抑制剤を飲んでいたからかな。
疑問に思いながらもつつがなく授業をこなし帰宅して、じいちゃんが帰ってきてから今朝の出来事を話してなぜフェロモンを感じなかったのかを聞いてみた。するとじいちゃんは目を見開いた後考える素振りを見せ、数分の沈黙ののち、病院へ検査しに行こうと提案してきた。
もしかして俺はアルファじゃないのだろうか、と浮かんだ考えはじいちゃんの「お前さんは生粋のアルファだ」という言葉によって否定された。残念。
じゃあなんの検査を?
なんて疑問に思っているうちに連れて行かれたのは、じいちゃんが定年を迎えるまで医師として勤めていた総合病院だった。
そこでいろいろ検査を受けたりいろいろ話を聞いたりしたりして、最終的にくだされた結果は、俺は正真正銘アルファであるが未成熟な頃から強い抑制剤を服用していたために、アルファの本能とも言えるフェロモンを感じ取れる機能が全く発達しておらず、それゆえ相手のフェロモンを感じられなかった、というものだった。それでも全く感じないというのはおかしいそうで、心因的なものも重なっていると担当の医師は言ってた。
つまり、幼い頃から飲んできた抑制剤と心にかかったストレスのせいで、アルファの大きな特徴のひとつがベータと同じくらい、いやベータよりも機能していない、ということらしい。
なるほど……? と納得しているようなしていないような心境の中でいろいろ説明と治療云々の話をされたが、正直俺はこのままでいいと思った。だって別にオメガと番いたいとか思ったことないし、オメガのフェロモンを感じ取れなくて不便なことなんか今までなかったし。むしろ、両親が気にしているアルファとオメガ間の事故も防げて都合のいい状況なんじゃないだろうか。
考えたことを医師と、一緒に診断結果を聞いていたじいちゃん伝えた。医師は本人に治療の意思がないのであれば日常生活に支障をきたすものでもないので強制はしないとのことだったが、じいちゃんはまたしても反対した。自分に合う抑制剤を探す意味でも治療は受けたほうがいいって。
たしかに、現在も飲んでいる抑制剤は他のものよりましというだけで俺に合っているわけではない。他の人よりも強く副作用が出ていると医師も言っていた。そもそも体質的に抑制剤の成分は合わないらしい。
俺にオメガのフェロモンがわからなくても、オメガは俺の、アルファのフェロモンは普通に感じる。あの時道に蹲っていたあの人も、きっと俺の匂いに惹かれたはずだ。そう考えたら、安易に近付いたことで余計に錯乱させてしまったかも。悪いことをしてしまったな。そういうオメガに間違い起こさせないためにも、俺は感じないとは言え抑制剤は必要だから……これからも飲み続けるとなると自分に合う抑制剤を探すのは大事かもしれない。見つかったら両親からの干渉材料も減るし。
俺はじいちゃんと医師に治療を受けると伝えた。じいちゃんはほっとしたように息を吐いてその大きな手で俺の頭を撫でてくれた。
ちなみに、いまだ俺に合った抑制剤は見つかっていないし治療も順調とは言えない。なので引き続きあの強い抑制剤を飲んでいるが、医師の指示で三日に一回の服用に頻度は下がった。そして担当の医師から薬を処方してくれることになり、結果的に薬関係で両親と関わることがなくなった。なので自動的に両親と顔を合わせることも少なくなり精神面もかなり安定した。
まぁ、目下ものすごく厄介な案件を両親が持ってきはしたが、そこはじいちゃんが間に入ってなにかと対応してくれている。
そういうわけで、両親と関わりたくないという俺の願いは思った形ではなかったが叶ったため、「じゃあ高校受験しようか」とにこやかに言ったじいちゃんに丸め込まれる形で高校に進学することになった。
アポなしでやって来た両親からあの高校に行け、と命令されたけれど、言うことを聞く気はさらさらなかったので家から一番近い高校を受験した。こうやって逆らうことができたのも精神面が安定したからだと思う。いろいろきっかけを作ってくれたじいちゃんには本当に感謝しかない。
試験は、数ヶ月勉強をほとんどしていなかったけれど特に躓くことなく合格し、しかも首席だったとのことで新入生代表の挨拶をしてほしいとも学校側から打診があった。面倒だし断ろうとしたが、じいちゃんにやってみなさいと背中を押されたのでやることにした。
ちなみに、俺の進学先を知った両親が家に怒鳴り込んできたけど、じいちゃんがさくっと追い払ってくれた。
以前は怒っている両親がひどく恐ろしくてひたすら言われることに従っていたが、反抗というのを覚えてしまったからか、どういう形でもいいからとにかくレールから外れてやりたくなった。なので、もうお前らの言うことは聞かないぞ、という俺の意思を込めて、高校の入学式を終えてすぐに髪の色を変え耳にもピアス穴を開けた。
これは、両親への反抗心だけじゃない。俺に擦り寄ろうとしてくる奴らへの牽制も込めている。
人間は自分より格上の相手には従順になり、あわよくばという邪心から他人の利益にあやかろうとする。中学でも、うちの恩恵にあずかりたい同級生たちがわかりやすいごますりをしてきて本当に鬱陶しかった。擦り寄ってきたのはアルファも少しいたが、ほとんどがベータだったように思う。アルファもアルファで、表では友達と言っていたのに裏では見下してたり陰口を言ってたり。そういうのが面倒なのと家のことで余裕がなかったから、俺は友達というものを作ってこなかった。
これから通う学校は、俺以外みんなベータなんだそうだ。明らかに面倒事がたくさん起きそうだし、実際入学式後は知らない生徒たちに囲まれてしまって非常に疲れた。こんなのが続くとか想像しただけでげんなりする。
だから、そういう人たちを近づけさせないためにも、俺は優等生然としていた自分の姿を変えた。
見た目が派手になったからか、やんちゃな奴らからケンカも売られるようになった。殴り合いなんかしたことないけど体を動かすのは得意だったからすぐに慣れた。殴っても殴られても痛いし正直全然いいことはないけど、心の奥に沈殿してた黒い何かが霧散していくような爽快感が気持ちよかった。しかもケガをして帰ったらじいちゃんに叱られながらも手当てしてもらえるのも嬉しくて、ケンカを売られたら全部買うようになった。
そういう行いが功を奏して、周りは誰一人俺に近付いてこない。学校にも行ったり行かなかったりだけど、他人に気を揉む必要がない生活は非常に快適だった。
もうずっと、このままでいい。
家族のことも、周りのことも。何も考えず一人で過ごしていきたい。
じいちゃんが天寿を全うするまではじいちゃんのそばにいて、そのあとは誰も俺のことを知らない場所に行って、ひっそり、静かに暮らしたい。誰も傍に置くことなく、誰にも、見つからないように。
――そう思っていた、はずなんだけどなぁ。
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