5 / 7
第5話
狩矢視点
また学校で、とにこやかに手を振った背中が人混みに紛れて見えなくなってから、俺はひとつ息を吐いた。
今日は初めて、学校の同級生と休日に出かけた。
先程別れた同級生――佐崎は、他校の奴らとのいざこざで下手を打った俺のケガを手当てしたのをきっかけに何かと絡んでくるようになった、一言でいえば変な奴だ。
突き放したり無視したりしたのに、めげずに絡んできては俺の横でのほほんと笑うあいつにいつの間にか絆されて、こうやって遊びに行く仲にまでなってしまった。
はじめはあいつも、今までの奴と同じように利益にあやかりたいだけのしょうもない人間なんだろうと思っていた。
でも、それは違った。そう思い至ったのは、佐崎の俺を見る目が、明らかに他の奴とは違うと気付いたときだった。
変な欲望とか邪なものは一切ない、純粋に俺を案じ、少しの慈愛の心を持ってあいつは俺に接している。じいちゃんと同じだ。
そして不思議なことに、佐崎は俺が抱えている心の内の闇を見抜いている……と思う。だからこそあいつはしきりに、俺を放っておけないと言ったのだろう。
正直過去のことは、俺自身どうケリをつけたらいいかもわからないし、誰にも触れてほしくない部分でもある。詳細は知らないとは言え、燻ってこびりついた、自分じゃどうすることもできない黒い部分を見透かされるのは、決して気持ちが良いものじゃない。
あと、俺の言うことは一ミリも聞かないし、立ち止まった俺の腕をぐいぐい引っ張って前へ前へ連れて行こうとするし、行動の予測ができないしで、こちらの調子が盛大に狂わされる。それくらい、あいつは変な奴だ。時たまムカつくし。
……それでも、佐崎が自分の傍にいることを許しているのは、あいつの隣りがひどく心地よいと感じてしまっているからだ。
楽しそうに話をしてころころ変化する表情も、俺を見つめる汚れのない瞳も、間近に感じるあいつの体温も。傍にいて、話をしているだけで不思議と、氷が溶けていくような、そんな心地になる。まぁ時々なぜか落ち着かない気持ちにはなるが、それもしばらくしたら治まっていく。
ただ少し前までは、なかなかあいつを信じ切ることができなかった。一人でいい、誰とも仲良くしないって決意していたにもかかわらず早々に曲げてしまうことへの抵抗と、わずかに残っていた佐崎に対する疑念のせいで。
しかし先日、佐崎があいつの友人らしき生徒と廊下で話している内容をたまたま聞いた際に考えが変わった。
佐崎たちの話を、盗み聞きはよくないと思いつつも話題は俺に関してだったからつい、気になって聞き耳を立てた。
佐崎は俺に会いに行かないほうがいいと説得する生徒に向かって、「狩矢くんは乱暴な人じゃない」「優しい人だよ」と言った。嘘もない、真っ直ぐで、でもどこか怒りを含んだ声色で。
自分自身が優しい人間だなんて思ったことも無いし、実際優しくなんかないと思う。友達なんかいなかったから人付き合いも苦手で他人には冷たいことばかり言ってきた。佐崎への態度も褒められたものじゃなかったと自覚している。それでも、俺のことを「優しい人」と言ってくれたことが、俺は純粋に嬉しかった。
一人でいいと思っていたのは本当だ。でも、心の奥底ではずっとずっと、誰かに認めてもらいたかった。誰かと肩を並べて笑い合いたかった。「優秀な家族を持つアルファの俺」じゃなく、なんの肩書もない「ただの俺」を、誰かに見つけてほしかった。
そしてあいつは……ひどい言葉を言っても、ひどい態度をとっても着いてきて。脆い心の内側に強引に踏み込んで、自身を守る為の鎧じゃなく、本当の俺を見ようとしてくれた。
こういうふうに接してくれた人はじいちゃん以外にはいなかったから、戸惑うことも多く未だ不安もあるけれど、佐崎のことだけは信じてみたいと思った。
まぁ、だからと言って素直に気持ちを言葉にすることはできないんだけども。佐崎に見つめられたらなんだか異様に気恥ずかしさが湧いてきて、思わずつっけんどんな態度をとってしまうのだ。俺ってこんな子どもっぽかっただろうか、なんて頭を抱えたのは記憶に新しい。
今回のお出かけも、慣れない私服で行ったらまず驚きに目を見開かれ、そして次にきらきらした表情で目に焼き付けるよう俺をじっと見つめる佐崎の熱い視線がいたたまれなくてそっぽ向いてしまった。合流してすぐ自分の態度を反省したが、その後はたぶん、普通に接することができたと思う。
一緒に観た映画も、すごく面白かった。一緒に観たからすぐに感想が言い合えるのも新鮮だった。あとは、ゲームセンターでいろんなゲームをしたり、買い食いもした。これら全て親からは禁止された娯楽だったから、初めての経験をいろいろさせてもらえて、柄にもなく子どもみたいにはしゃいでしまった。度々はっと我に返って気恥ずかしくなったけど、隣りで佐崎も同じようにあどけなく笑っていて、柄にもないことをと気にするのもバカらしくなった。
解散するときも、どことなくしゅんとして寂しそうにしている佐崎を見て、俺も少しだけ、このまま解散してしまうのが惜しくなった。
しかしもう日も暮れてる。これ以上引き止めてしまったら家族も心配するだろう。湧き上がった気持ちを悟られぬよう帰りを促せば、佐崎は名残惜しげに、でもいつものようににぱっと笑って手を振り帰っていった。
人混みに紛れる直前、佐崎が一度こちらを振り返ってまた小さく手を振ってくれたときは、なぜかちょっとだけ心臓が高鳴った。最近の俺の心臓の動き、ちょっと変かもしれない。続くようだったらじいちゃんに相談してみよう。
もう一度息を吐いて、俺も家に向かって歩き出す。
社交辞令かもしれないが、佐崎はまた遊びに行こうと言ってくれた。咄嗟に気が向いたらと返したが……次があったらまた、行ってみたいな。
自然と口元が緩むのを感じながら、人の間を縫って歩いて行く。
けれどその足を、突然目の前に現れた二人の女性が止めた。
「お兄さんすみません! ちょっといいですか?」
誰だろう、こんな人たち知り合いにはいないが。
思わず眉を寄せて行く手を阻んだ二人を見下ろす。すると二人は一歩距離を詰めてきて、上目遣いでこちらを見上げてきた。
「急にごめんなさい。お兄さんすごくかっこいいから、思わず声かけちゃいました」
「今って一人ですよね? よかったら、これから私たちと一緒にご飯とか食べに行きません?」
……あぁ、そういうやつか。
余韻でふわふわ浮かんでいた気持ちが、すっと冷えていく。
今日一日、この二人が俺に向けているような視線を散々浴びてきた。いや、今日だけじゃない。昔からこういう不愉快な目で見てくるやつらは一定数いた。そして声をかけてくるやつも。俺がそんなのに乗るとでも思っているのか。
「邪魔。どいてくんない?」
俺は深くため息を吐いて、先程よりも鋭い目つきで二人を睨みつける。意識して低く発した声は自分が想像していたよりも迫力があったようで、目の前の二人は体をびくっと震わせ顔を引きつらせた。こういう奴らは強めに対応すればびっくりしてすぐ引いていく。実際二人は固まって放心しており動く気配がない。
せっかく気分良く帰れるところだったのに、盛大に水をさされてしまった。二度と話しかけてくるなよ、と心のなかで舌打ちして、二人を避けて再び歩を進めようとした。しかし。
「ねぇさっきの、不良みたいな人らに絡まれてた男の子、大丈夫かな?」
「あ、それ思った。明らか変な絡み方してたから、たぶんカツアゲ? とかだよね?」
という、俺を追い抜かして行ったカップルの会話に思わず足を止める。
不良みたいな人らに絡まれてた、男の子。
胸に、じわりと焦燥が渦巻いた。
その男の子の特徴も知らないから、誰かとかの確信も全くない。もしかしたら本当にただの友達同士の絡みかもしれない。けれど、言いようのない胸騒ぎがするのだ。行かなかったらきっと俺は、後悔する。
――行かなきゃ。
そう思ったときには既に、来た道を駆け戻っていた。
解散した場所から更に佐崎が歩いていった道を進み、きょろきょろ辺りを見渡しながら佐崎の姿を探す。それから不良っぽい奴らも。しかしそれらしき姿もカツアゲなんていう異様な風景も見当らない。
解散してからそれほど時間は経っていないから、絡まれているとしたらこの辺りだと思うが……俺の思い違い、なのだろうか。そうだったら一安心だが、未だ嫌な予感は拭えない。むしろ、早く見つけなくてはという焦燥感で心拍数が上がっていく。
いやだめだ、冷静になれ。焦っても視野が狭くなるだけだ。
ひとつ深呼吸して、気持ちを落ち着かせてから改めて周りを見渡す。
先程より暗くなった駅前は、休日ということもありまばらな年代の人々が行き交っている。ここは繁華街じゃないし比較的交番も近いから、不良らしき奴らがこんな目立つところで堂々と他人に嫌な絡み方をする可能性は低いように思う。
じゃあもしかしたら……どこか人気のない場所に連れて行かれた、とか?
俺はさっそく駆け出して、十数メートル先くらいにある細い路地へと向かった。その細い路地は、俺が今いる大通りと違って店の裏だったりが面している道だから、ショートカットや用事がない限り誰も通らない。なのでそこはよく、決して素行がいいとは言えない奴らの溜まり場になってたりするのだ。俺は溜まり場にしたことなんかないが、このあたりをうろついているガラの悪いやつらに因縁をつけられたことがあって、丁度その路地でケンカもしたことがあった。あのすれ違ったカップルが言っていた不良みたいな奴らも、もしかしたら同一人物かもしれない。
俺は人混みを掻き分けて、件の路地へと足を踏み入れた。
「!」
そこにはやはり数人の派手な見た目をした男たちがいて、誰かを取り囲んで嫌な笑みを浮かべていた。
「早くあいつ呼び出せって」
「これ以上殴られたくないだろ?」
「う゛っ……」
一番体の大きな男が、取り囲んでいた人の胸倉を掴み上げる。
「ッ、佐崎!」
人の間からようやく姿がはっきり見えて、それが佐崎であると認めた瞬間、俺は一番手前にいた奴に飛び蹴りをくらわせた。
不意打ちだったため、飛び蹴りをくらった奴は佐崎の胸倉を掴んでいた大男の方にまで盛大に吹っ飛び、三人ほど巻き込んで倒れ伏した。
大男が倒れた拍子に尻もちをついた佐崎にすぐさま駆け寄り助け起こす。佐崎はぽかんとしていたけど、俺の「逃げるぞ!」という呼びかけにはっとして走り出そうとした。
「おい待て!」
「あっ!」
しかし、巻き込まれなかった奴が佐崎の腕を掴む。そいつの腕をひねり上げて顔を一発殴ったが、もう一人無事だった奴に今度は俺が殴られてしまった。
「狩矢くん……!」
佐崎の悲鳴に近い叫び声が耳に届く。
こいつをこのまま居させちゃだめだ。
追い打ちをかけようとしてきた、俺を殴った奴に蹴りを入れ吹っ飛ばし、少しよろけた体をなんとか立て直して佐崎の体を大通りの方に向かって押す。
「先に逃げろ!」
「えっ、でも、狩矢くんは……」
「いいから、行け!」
視界の端で、倒れていた奴らがよろよろ立ち上がるのが見えた。佐崎を守りながらこの人数を相手するのは流石に厳しい。それにきっと、こいつらの狙いは俺だ。俺さえ残れば佐崎は追われない。
佐崎を背中に隠すよう前に立って不良共に向き直る。けれど、ついさっきまで佐崎の方に意識を向けていたから、目の前にまで迫っていた拳に反応が遅れてしまった。
まずい――ッ。
「ぅらぁッ!」
そんな気合の入った声がしたかと思ったら、覚悟していた痛みは襲っては来ず、逆に俺に殴りかかってきた奴が顔をおさえてよろめいているのが見えた。そして俺の前には、自身の鞄の紐を両手で持ってスイングしたあとのような体勢になっている佐崎がいた。
もしかして今、佐崎が反撃したのか? 鞄で?
予想外のことに俺だけじゃなく相手もみんな驚いている。
そんな中、佐崎が必死の形相でこちらを振り返り、俺の腕をガシッと掴んだ。
「行こう!」
佐崎が俺の腕を引っ張って大通りの方まで走っていく。俺も数秒放心していたが、すぐに我に返って脚を動かした。
大通りに出て、人に紛れながら必死に走った。後ろからは「待てゴラァ!」なんて声が聞こえてくる。さっきの奴らが俺たちを追いかけてきているみたいだ。
初めは佐崎が俺の腕を掴んで走っていたが、俺の方が足が速かったみたいで追い抜いてしまってからは、俺が佐崎の手を掴んで走っている。
人を避けながら、時には道を曲がりながら、奴らの足音や声が聞こえなくなるまで走り続けた。自分より一回りくらい小さな手をしっかりと、握りながら。
どれくらい走っただろう。知らない道の、知らない住宅街にまで辿り着いたところで後ろから「かっ、かりや、くん、もうっ……」という苦しげな声がしたので、スピードを緩めて立ち止まる。すると佐崎もふらふら立ち止まって、膝にてをついて肩で息をしながらひぃひぃ言っていた。
念のため辺りを見渡す。
あいつらは……流石にもう追ってきてはいないみたいだ。よかった。
「も、なんで、っ、狩矢くんそんな、けろっとしてるの⁉」
佐崎が息も絶え絶えに言う。未だ呼吸が整わないらしい。まぁ、体感そこそこの距離を、佐崎にとってはいつもより速いスピードで走ってきたからそうなっても仕方ないか。
今日買ってまだ飲みきっていなかったペットボトルの水の存在を思い出し、それをポシェットから取り出して渡す。佐崎は「ありがとう」と受け取って本当にありがたそうに口を付けた。けれど、「痛ッ」と小さく唸って、すぐにペットボトルから口を離す。
「なんか痛い……」
佐崎がそう呟いて口の端をつんつんしながら困ったように眉を下げている。街灯に照らされ見えた佐崎の口の端は、僅かにだが切れて赤くなっていた。
さっと全身の血の気が引く。
傷には触らないよう、両手で佐崎の顔を挟むように掴んで上げさせた。
路地は暗かったし、ここに来るまで必死に走っていて確認する余裕なんかなかったから、佐崎にこんな傷ができてしまっているのに気付かなかった。
そういえばあいつら、佐崎に「これ以上殴られたくないだろ?」と言っていた。ということは、これは、あいつらに殴られてできた傷だ。
胸に生まれた怒りが、あっという間に全身に広がった。冷静を保っていたはずの脳もその感情に支配されていく。
殴ったことも、殴られたこともない、暴力から縁遠い場所にいるこいつに、こんなこと……。
あいつら、絶対に許さない。この借りは必ず返す、すぐ返す。この後探し出して、まともに立って歩くことができなくなるくらいまで痛めつけてやる。泣いて謝られても、二度と佐崎の前に姿を現せられないくらい、再起不能になるまで――。
「狩矢くん」
「っ!」
俺の名前を呼んだ静かな声で、頭を覆っていた靄のようなものが一気に晴れる。俺のより一回りくらい小さいけれど、あたたかい佐崎の手が彼の頬に触れている俺の手の甲に添えられた。視線を上げれば、こちらを真っ直ぐに見上げていた佐崎の瞳と目が合う。
全身に激しく渦巻いていた怒りの感情が、消えはしないけどみるみる小さくなっていくのがわかった。そして代わりに、巻き込んでしまった申し訳無さとケガをさせてしまった自分の不甲斐なさによる自己嫌悪がむくむくと大きくなっていく。
「……ごめん。こんな傷つけさせてしまって」
「そんな、全然大したことないよ。狩矢くんが助けてくれたもん。本当にありがとう」
佐崎はそう言って笑ったが、すぐに眉を下げて困った顔をする。
「俺よりも、狩矢くんの方が痛そう。俺が鈍臭いばっかりに……ごめんね」
「こんなの大したことない。それにお前が謝ることは何もないだろ。俺に巻き込まれただけなんだから」
「あの人たち、知り合いなの?」
「いや……。でも、前に揉めたときに、恨まれていたのかもしれない」
「そっか……だから狩矢くんを呼び出せって言ってたんだね」
「……ごめん」
きっと佐崎はあいつらの言うことを聞かずに抵抗したんだ。だから殴られて、脅された。
俺のことなんか気にせず、さっさと呼び出してくれたらよかったのに。なんて言っても、こいつは「そんなことできるわけないでしょ」って怒るんだろうな。頑固で強引で、でも真っ直ぐで、誰にでも優しくて、陽だまりのみたいにあったかくて。出会ってから今日まで、佐崎はそういう奴だよなっていうのをずっと実感してきた。
……こんな人が俺なんかと居たら、ただただ傷つけるだけだよなぁ。
「狩矢くん?」
俯いて押し黙ってしまった俺を不審に思ったのか、佐崎は俺の顔を心配げな表情で覗き込んできた。これ以上自分の顔を見られたら、勘のいいこいつに何かを悟られそうだ。
俺は佐崎から手を離して、一歩後ろに下がり少し距離を取る。
「念のため家まで送ってく。……って言っても、ここがどこだかわかんないんだけど」
「あ、それなら大丈夫。実は俺の家、すぐそこなんだ」
そう言って佐崎が指さしたのは、俺たちが前に立っている家のすぐ横に建つ家だった。なんという偶然。
「ぜひ上がっていってよ。傷の消毒も早めにした方がいいと思うし」
二人で佐崎の家の前に移動すると、佐崎はにこやかに言って俺の手を掴んだ。これは、断っても「いいからいいから」って強引に連れて行かれるパターンだ。
以前ならばわかったよってため息を吐きながら着いて行ったと思う。でも、もうさすがに……。
「いや、俺は――」
「優希?」
近くでそんな声がして、二人で声のした方を振り向く。そこにはスラっとしたスタイルの男性と、少しガタイの良い背の高い男性が立っていた。二人とも目を丸くしてこちらを見ている。
スラっとした男性の方、どこかで見たことある気が……。
「えっ、兄ちゃん⁉ と洋介さん⁉」
佐崎が驚きの声を上げる。
あぁ、そうか。スラっとした男性の方、佐崎に見せてもらった写真に写っていた人だ。ということはそっちの男性が佐崎のお兄さんで、隣りのガタイの良い洋介と呼ばれた人は、佐崎が名前を知っているということはお兄さんの仲良くしている友達か――いや、パートナーかも。だってあの人、たぶんアルファだ。そして、佐崎のお兄さんはおそらく……。
「どうしたの? 今日来るって言ってたっけ?」
「優希が今日、例の子と出かけるって言うからどうだったか聞こうと思って……って、どうしたんだその顔!」
お兄さんがさっと顔を青ざめさせ、佐崎のもとに駆け寄って先程俺がしたみたいに両手で頬を挟み込み上げさせる。佐崎はギクッと効果音がつきそうなほど顔を引きつらせ、「えぇっとー……」と視線を彷徨わせた。
「俺の不注意でちょっと、ぶつけちゃってぇ……」
「嘘をつくな、明らかにそんなんでできた傷じゃないだろ!」
「ほ、ほんとだって」
「優希、誤魔化さずに本当のことを言え」
「ご、誤魔化してなんか――」
「俺のせいなんです」
目の前で押し問答を繰り広げそうになった二人の会話を遮るように、俺は声を上げた。お兄さんは鋭い目つきを携えた厳しい顔つきで、佐崎はぎょっとした表情で俺を見る。
「俺のせいで、佐崎にケガをさせました。申し訳ありません」
二人に向かって頭を下げる。するとすぐに佐崎に肩を掴まれた。
「狩矢くんのせいじゃないから! 兄ちゃん本当に違うの、狩矢くんのせいじゃない。兄ちゃんも見たでしょ、狩矢くんもケガしてるんだよ」
「……洋介、優希と一緒に先に家に入っててくれ」
「だっ、だめ、俺もいる!」
「だめだ。洋介」
有無を言わさぬ言葉の圧のあと、いつの間にか傍に来ていたガタイの良い人が「わかったよ」とにこやかに言ってキーケースをお兄さんから受け取り、佐崎の腕を掴んだ。そして家の方に引きずって行く。 佐崎は抵抗していたけど力では敵わないようでみるみる玄関前まで連れて行かれ、あっという間に家の中に消えていった。
佐崎のあの強引さは兄譲りだったらしい。
「で、きみが狩矢くん?」
佐崎が家に入っていくのをぼんやりと眺めていたら、佐崎に語りかけていたものよりも幾分か低い声が耳に届いて我に返る。お兄さんを見れば、相変わらず鋭い目つきで俺を見ていた。
佐崎と対面していたときとは違う、自然と背筋が伸びるような空気を放っている。
姿形は佐崎とのツーショット写真で見たとおりの人物であるが、雰囲気はまるで別人だ。写真内では佐崎の体を抱き寄せ、佐崎によく似た柔らかい満面の笑みを浮かべていた。だからか、明るくて穏やかな人なのだろうと勝手な印象を持っていた。実際は本当にただの勝手な印象でしかなかったんだけども。
まぁでも、仕方ないか。大事な弟に傷をつけた相手に優しくしろって言う方が無理な話だ。
「……はじめまして、狩矢です」
「弟から話はよく聞いてる。仲良くしてくれてるみたいだな、そこはありがとう。で、弟のあの傷はどういうことだ? きみ、自分のせいって言ったよな」
早々に本題に入ったお兄さんの圧におされるがまま、俺は傷をつけてしまった経緯を説明した。お兄さんは腕を組みながら静かに一通り話を聞いたあと、深くため息を吐いた。
「状況はわかった。その上で言わせてもらう。傷を作ったのは柄の悪い男どもだが、その原因を作ったのは過去のきみの行いだ。弟がどれだけきみのせいじゃないと言おうとそれは変わらない」
「はい、わかっています」
「仲良しだろうと、特別な感情を持っていようと。そんな危険なことを繰り返しているきみを、大事な弟に近付けさせることはできない。今後、弟には近付かないでくれ」
「……はい……」
お兄さんの言っていることはもっともだし、俺自身も佐崎の平穏のためにもその方がいいというのは理解している。決意もしたつもりだ。でも不意に、胸が鋭い針で刺されたかのような痛みを感じた。
なんでこんなにも、離れがたいと思ってしまうんだろう。これ以上は傷つけてしまうってわかっているのに、この期に及んで、一緒にいられるような理由や方法を心の何処かで探している。
俯いて拳を握りしめる俺に、お兄さんは「タクシー呼ぶからそれで帰りな」と先程までの圧を消した声色で提案してくれた。
「タクシーが着くまで、ちょっと昔話に付き合ってよ」
「……え?」
スマホをいじりながらお兄さんが言った。
なんだ、突然?
予想外すぎる言葉に困惑してお兄さんを見る。彼はスマホから視線は離さず、「俺がまだ高校生の頃の話なんだけど」なんて軽い口調で語り出した。
待ってくれ、まだ状況についていけてない。
「俺、まだ中学生にもなっていないあの子に救われたんだ」
「!」
遮ろうと出しかけた言葉を咄嗟に止める。
あの子って、佐崎のことだよな。
未だ少し思考がとっちらかっている俺を他所に、お兄さんはスマホをいじっていた手を止め、当時を思い出しているのか少し目を伏せて穏やかな表情を浮かべた。
「当時、差別や偏見の目に晒されて、全てが嫌になって家族さえも信じられなくなった俺は、ろくに家にも帰らず、今のきみみたいにケンカに明け暮れた生活を送っていた。ケンカは好きじゃなかったけど、痛みを感じることで自分を保てているような気がしたから、誰に何を言われてもやめられなかった」
「…………」
「でも、家に帰らなくなって一ヶ月以上が経ったある日、どこからか俺の居場所を聞きつけたあの子が、当時仲間たちと溜まり場にしていた所に一人で乗り込んで来たんだ」
「えっ」
「びっくりだろ? そんで、小さい身体をぷるぷる震わせながら『一緒に家に帰ろう』って俺の手掴んで言ったんだよ。……俺より小さい子どもの手なんか簡単に振り払えた、帰るわけねぇだろって。でも、あの子の真っ直ぐな目とか、震えてたけど力強い声とか、小さいのに全部を包み込むくらいあったかい手とか。そんなのを目の当たりにしたら、振り払うことなんかできなかった」
ようやく冷静に回り始めた頭が、お兄さんの言った光景を脳内に映し出す。
なんでだろう、容易に想像できる。俺もそうやって引き上げられた側の人間だからだろうか。
「そっからはいろいろありつつも、自慢の兄貴でいたいって思った俺はちゃんと学校通って無事に高校、大学卒業して今じゃ社会人やってる。俺を真っ当な道に戻してくれたのはあの子なんだよ」
お兄さんの口元が僅かに持ち上がる。写真で見た時ほどではないが、それに近い雰囲気の微笑に、あの笑顔は佐崎のことを想っているときしか見せないものであることを察した。
佐崎の話しぶりからお兄さんのことをすごく慕っているのは伝わってきていたが、この人の弟好きも大概だな。まぁ、文字通り救われたんだから、そうなるのも仕方ないけども。
「とまぁ、そんなことがあったからこそ、俺はあの子にはこの先も穏やかで、平和な日々を送って欲しいと思ってる。そして残念ながらその俺の願いに、きみの存在はそぐわない」
「っ……」
「……きみ、アルファだろ。きみの抱える性別に対する鬱屈だったりは理解できる。同じ希少な性別の、オメガとして」
「あ……」
やはり、この人はオメガだったのか。オメガに対するセンサーは他のアルファに比べれば鈍感だが、この人に関してはそうなんじゃないかと感じた。オメガによくある特徴の華奢で可憐な見た目とは程遠いのに、不思議だ。
「それにきみはたぶん、良いところの坊っちゃんだろ。身なりでわかる。きみが昔の俺みたいなことになってるのには、性別以外の理由があるんだろうな」
「…………」
「いろんなしがらみを抱えたままのきみと、ただの一般家庭で育ったベータの弟とじゃ釣り合いは取れない。否応なく巻き込まれ、どちらかが必ず傷つく結果になる。そこも含めて俺は、きみたちはこれ以上近くに居ないほうがいいと思った」
その言葉のあと、辺りが光で照らされる。照らされた方を見れば、ヘッドライトをつけたタクシーがこちらに向かってくるのが見えた。お兄さんが呼んでくれていたらしい。
ほどなくしてタクシーが俺たちの横に停まったので、乗り込もうとしてから足を止め、ちらりと佐崎の家の方に目を向ける。当然ながら家の中の様子は伺えないから状況がどうなっているかわからないが……佐崎の傷の消毒とか、してもらえてるといいな。
俺はお兄さんの方を向き直り、改めて頭を下げる。
「……お話聞かせてくれてありがとございました。それから、ご迷惑かけてすみませんでした。佐崎――弟さんにも改めて、謝罪を伝えておいてもらえますか」
「あぁ、伝えとく」
あっさり頷いてくれたことにほっとして、今度こそタクシーに乗り込んだ。
ドアが閉まり、目的地を告げたのちゆっくりと発進する。名残惜しくなりそうだから外には目を向けないまま、俺はひとつ息を吐き出した。
駅前で別れる直前、佐崎はまた学校でと言ってくれた。それから、また遊びに行こうとも。佐崎とはこれからも、今日や昼休みみたいな感じで友達のように駄弁ったり遊んだりするんだろうと思っていた。むしろ、そうだといいなとさえ、思っていた。
同じ学校に通っているから、もう二度と顔を合わせないなんてのは難しいだろうが、意識的に避けていれば頻繁には会わないだろう。無理に接触しようとしてきても傷つけない程度に追い払ってしまえば、あいつの周りには俺をよく思っていない連中が固まっているからどうにか止めてくれるはずだ。そうすればあいつも諦めて、関わらなくなって、自然と俺を忘れていく。よっぽどのことがない限り、俺関連の危険に晒されることもない。これが最良だ。
俺は心の中でそう言い聞かせた。
しかしふと、佐崎が俺ではない他の誰かに柔らかい笑みを向けている姿を想像したとき、胸に心臓を直接握られているんじゃないかっていうくらいの痛みを感じた。
「ははっ……はぁ……ほんと、バカだなぁ、俺は」
鈍い痛みを発する胸に手を当て、俺はひとり苦笑を漏らた。
ともだちにシェアしよう!

