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第22話 彼の痕跡
予期せぬ大規模な自然発生型時空乱流に巻き込まれながらも、八人全員が生還を果たした。
その奇跡のようなニュースは一時、メディアを賑わせたが、クロノス機関が国家直属の機密組織であることから、真相が世に出ることはなかった。
エイドリアンは、時空環境保全部の観測員任務を解かれた。
職員の精神状態を自動解析するAIが、彼を「任務不適正」と判断したのだ。
それ以来、彼にはコントレイルに触れることも、時間の流れに干渉することも許されなかった。
研究室の片隅、白い無機質な壁の前で、エイドリアンは静かに過去の土壌や微生物を解析機にかけていた。
そこに流れるのは、未来特有の人工的な光と、かすかな機械の駆動音だけ。
だが――本当の“静寂”とは、音のないことではない。
心の中で、誰かの名を呼ぶことさえできなくなることだった。
25世紀へ戻ってからも、エイドリアンは何度も「ダンテ・ディ・サントロ」の名を検索した。
オンライン状態で、過去の記録も、個人の軌跡も、ありとあらゆるデータベースを探した。
けれど表示されたのは、同姓同名の他人ばかりで――彼のその後を示す痕跡は、どこにも見つからなかった。
それでも史実は、淡々と正しい軌道を描き続けていた。
1569年、フィレンツェ公国はトスカーナ大公国へと移行し、過去への干渉による歪みは確認されなかった。
世界は何ひとつ狂わず、ただ、彼だけが――そこにいなかった。
エイドリアンには、その空白が胸にぽっかりと穴を開けるように感じられた。
ダンテの政略結婚も、きっとその歴史の一端を担ったのだろう。
それでも、知りたかった。
彼がどんな顔で、どんな想いでその日々を生きたのかを。
触れた温度も、呼吸も、あの声の響きも、時間の向こうに消えていくのが恐ろしくて――
それでも、探すことしかできなかった。
データで見つからないなら、紙の中に答えがあるかもしれない。
そう思ってエイドリアンは国立図書館へ足を運び、フィレンツェの歴史書やルネサンス期の記録を片端から読み漁った。
黄ばんだ紙をめくるたびに、遠い過去の空気が微かに香る。
本を借りては返し、また借りる。
休日のほとんどを、彼は自宅か図書館で過ごしていた。
ページをめくる指先に、いつも過去の亡霊のような名前がまとわりつく。
けれど、どれだけ本を開いても――そこに“彼”の名はなかった。
そうして過ごしているうちに、一年が過ぎ去った。
その日もまた、失意のまま図書館を後にした。
夜の帳がゆっくりと街を包みはじめ、冬の冷気が肌を刺す。
吐く息が白く滲み、パラパラと降る細かな雪は、地面に触れるそばから静かに溶けていく。
足元ばかりを見つめながら駅へ向かう途中、ふと視界の端で光が瞬いた。
壁面の電子掲示板。
流れる広告の一枚が、エイドリアンの足を止めた。
――「ルネサンス美術展」
鮮やかな光の中に、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラが映し出されている。
その下には「当時の貴重な遺品をイタリアより特別出展」と小さく記されていた。
エイドリアンは無意識のうちに、画面の前まで歩み寄っていた。
冷たい風が頬を撫でる。
ただの宣伝でしかないはずなのに、胸の奥が強くざわめいた。
「エイドリアン!」
不意に名前を呼ばれ、振り向くと、そこにサトルが立っていた。
通勤帰りなのか、コートの肩に白い雪の粒がまだ溶けずに残っている。
「……サトル」
「奇遇だな」
「……休日出勤だったのか?」
「そ。一年前の時空乱流で、うちの部署だけでコントレイルを八台もロストしてるからさ。新しい機体のメンテに引っ張りだこだよ」
「大変だな」
「別に。好きでやってるから」
サトルは小さく肩を竦め、エイドリアンの視線の先――電子掲示板に映る広告へと目を向けた。
「……まだ、引きずってんのか?」
エイドリアンは苦笑しながら、目を伏せる。
吐息に混じるように小さく答えた。
「……分からない。たぶん、そうなんだと思う」
サトルはしばらく彼を見つめ、やがてポケットに手を突っ込んだまま、肩をすくめた。
「じゃあ――行ってみりゃいいじゃねぇか。これ」
掲示板に顎をしゃくって見せる。
その何気ない仕草が、妙にあたたかかった。
「せっかくだし、次の休みにでもさ。どうせ一人でウダウダしてんだろ? 俺も休みだし、付き合ってやるよ」
思わずエイドリアンは顔を上げ、サトルの横顔を見つめた。
彼の笑みはどこか少年のようで、けれど確かに現実へ引き戻す力があった。
「……そう、だな」
エイドリアンは小さく頷く。
胸の奥で、かすかな決意が音を立てた。
電子掲示板に映る大聖堂の映像が、冬の夜気に滲む。
遠い時代に置き去りにした想いが、再び静かに息を吹き返していた。
***
数日後。
雪の気配を孕んだ風が街を撫でていた。
エイドリアンは博物館の前で立ち止まり、吐いた息の白さを見つめた。
「……お待たせ!」
背後から声をかけてきたのは、待ち合わせをしていたサトルだった。
彼は紙袋から取り出したコーヒーの紙カップを差し出す。
「寒かったろ。ほら、これ」
「ありがとう」
受け取った指先が、かすかに震えていた。
自動扉が開くと、暖かな空気とともに静寂が満ちる。
展示室には、ルネサンス期の聖画や設計図、彫像の欠片が淡い照明に照らされていた。
サトルはパンフレットを手にしながら、気軽に話しかける。
「へぇ、すごいな。これなんて千年前のフレスコ画だってさ」
サトルの軽い調子の声が耳に届く。
エイドリアンは小さく頷きながら、足を止めた。
静かに並ぶのは、ダンテと同じ時代を生きた美術品たち。
色褪せた壁画や古びた額縁の中に、彼が愛した世界の残り香が、今も確かに息づいている気がした。
有名な絵画が並ぶ展示室の奥に、ひっそりと「作者不明」と記された一角があった。
人の流れから外れたその場所へ、エイドリアンは吸い寄せられるように歩みを進める。
古びた解説プレートには、ただ“作者不明”の文字だけが無機質に刻まれていた。
絵画は煤け、色も線も溶け合って、もはや何が描かれていたのかすら分からない。
――それでも。
その構図、その筆の運び、そのわずかに残る影の形に、心臓を掴まれたような感覚が走った。
ありえない、と思いながらも、脳裏に浮かぶのはひとりの男の名だった。
隣には、最新の復元技術によって再現された映像パネルが設置されていた。
色彩が少しずつ蘇っていく。
肌の輪郭、柔らかな光の筆致、左右で違う瞳の色――
そのすべてが形を結んだ瞬間、エイドリアンの呼吸が止まった。
胸の奥で、何かが砕ける音がした。
喉の奥が焼けつくように熱くなり、視界が滲む。
それは――間違いなく、ダンテが描いた“自分”の肖像だった。
そのさらに奥に、見覚えのない自分の肖像が三枚、並んでいた。
足元から血の気が引いていく。
解説板にはこう記されていた。
『イタリア共和国トスカーナ州シエナの歴史的建造物内から近年発見された、
無名のモデルを主題とする作者不明の絵画。
ルネサンス期の貴族が、私的に制作したものと推測されている。』
時間も距離も越えて――確かにここに、存在していた。
彼が、自分を見つめ続けた証として。
だが、それだけでは終わらなかった。
視線をさらに下へ滑らせたとき、別の説明文が目に飛び込んできた。
『最新のX線解析により、彼の描いた一連の肖像画の額縁の裏から、特殊なインクで記された手紙が発見された。
それは、愛する者へ宛てた――狂おしいほど切実な愛の告白と、永遠の別離の苦悩を綴った私信である。』
そのインクは、肉眼ではほとんど読み取れないほどに薄く、時を越えてもなお文字を守るように仕込まれていた。
――誰にも見つからぬように。それでも、いつか未来の誰かへ届くように。
そんな祈りのような意図が滲んでいるようだった。
――“いつか未来の君へ、この手紙が届くことを願う。
Il mio cuore è tuo.《イル ミオ クオーレ エ トゥオ》 D.S.”
『その手紙の内容などから、愛する者との離別に絶望し、作者は1538年頃、自ら命を絶ったとされている。』
その一文を読み終えた瞬間、エイドリアンの視界がぐにゃりと歪んだ。
胸の奥が、罪悪感と悲しみで引き裂かれるように震える。
――彼の未来を守りたくて選んだ道が、結果的に彼の命を奪ってしまったのだ。
ダンテは、エイドリアンが未来の人間であることを受け入れ、そして信じていた。
三年もの間、ただひとりで。
届くはずのない想いを、キャンバスの裏に刻み続けていたのだ。
「……Il mio cuore è tuo.《私の心は、君のものだ》」
その最後の言葉が、25世紀の静寂を破るように、
エイドリアンの耳元で――16世紀の熱を帯びて囁いた。
息を吸うことすらできなかった。
立っていられず、膝が床を打つ。
誰も知らない、千年の時を越えて届いた愛の重みが――
静かに、しかし容赦なく彼の胸を押し潰していく。
「……エイドリアン、大丈夫か?」
サトルの声が、遠くの世界から聞こえた。
その手が肩に触れた瞬間、現実に引き戻されたエイドリアンは震える唇を噛みしめた。
「……ごめん、サトル」
声にならない嗚咽の奥で、彼は決意する。
――もう二度と、失わない。
過去を、終わらせはしない。
「……僕は、行かなきゃいけない場所があるんだ」
掠れた声でそう言うと、彼はおもむろに立ち上がり踵を返した。
だが、その腕をサトルの手が強く掴む。
「待て、エイドリアン! 行くな!」
「……離してくれ! 僕は行かなきゃいけないんだ!!」
「ダメだ!」
サトルの声が、鋭く空気を裂いた。
展示室のざわめきが一瞬で消える。
光も音も、全てが止まったかのような緊張が張り詰める。
「お前は――過去へは行けない。俺は、“知ってる”んだ」
エイドリアンの瞳が見開かれる。
サトルの目には、恐れも迷いもなかった。
そこにあったのは――覚悟。
まるで、未来そのものを見てきた者のような、冷たく光る決意だった。
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